時には才能が道を選ぶということ 1
一週間後。
放課後の職員室では教師達が雑談をしながら書類を片付けていた。星明里は珍しく自分の予想が外れたことを残念に思っていた。
「私も年かね……」
机には雑多な物に混じって、飲みかけのコーヒー、あの日椿が忘れていったクマ刺繍の手袋、そして入部届けが白紙のまま置かれていた。
七冬椿はあれからカーリング部に顔を出していない。担任の教師の話ではもう一週間も登校していない。家庭へ電話してみると、しばらく休学扱いにしようか考えているらしく、何があったのか尋ねても言葉を濁されるばかりで深く聞くことはできなかったらしい。
窓の外を見ると、灰を混ぜ込んだアスファルトのように陰鬱な雲がうねっている。今日は比較的気温が高く、一部の雪が溶け出して道路に川を作っていた。
星はカーリング専門誌「カーレスト」を見やる。その表紙には「冬戦争新規定発表目前! 女王オールド・ワンズ徹底取材!」と威勢のいいコピーが躍っている。
なかなか頭が痛い。
大会までの練習時間はいくらあっても足りない。秋日子の言ったように、椿が望み薄なら早く別の者を勧誘しなければならないし、本来はやる気のない新人を待っている暇などない。しかしドロー大会で見せたあのアイスリーディングは言ってみれば「異常」で――それ以外は初心者以下、今年の冬戦争での活躍は見込めないとしても――胸に引っかかる。
本人は論理的に説明するフリをしていたが、恐らく彼女は「なんとなく」としか言いようのないものを持っているのだろう。
アイスリーディングは説明されたからといって誰にでもできるような生易しいものではないし、そもそもあれはアイスリーディングではなかった。初心者があそこまで感じとってしまうのは、それを超えた不気味な何かだ。
ああ、いい――ゾクゾクする。
いかにも荒削りな原石。磨き上げれば「女王」によって閉塞している冬戦争に一陣の風を吹き込むことができるだろう。或いは味方もろとも全てを粉微塵にして吹き飛ばす竜巻だろうか?
星は自分に才能がないことを嫌という程知っている。だからこそ新しい地平を見せてくれそうな者に会った時、粘ついた寒気が背筋を駆け抜け、その血はどうしようもなく滾るのだった。
「星先生。あのですね。ちょっとすいませんが」
細い声に顔をあげると、ヤギに似た八木先生が申し訳なさそうな様子で立っていた。
「おたくの遠藤遥夏が煙草を吸っていたらしいんですが」
星は笑顔を作って穏やかに返す。
「知っています。あれは電子タバコですよ。ふざけた行動で大人が騒ぐのを見たい年頃なんですよ。無視が一番ですよ。勿論風紀への影響も考えて校内で吸うのはやめさせますが」
八木先生はチラチラと後ろの教頭を伺っていた。あのセクハラヅラ野郎からの指示なのだろう。星先生に注意しろと。
「バスで喧嘩していたという話も出ていますが」
内心、何やってんだ遥夏よ……と思いつつも表情は崩さない。
「ただじゃれあってただけでしょう」
上手い言い訳が思いつかなかった。
「相手は、あの『七不思議』らしいじゃないですか」
よりによってか。
「『七不思議』と関わった早速の不幸ですかね……カーリング部は新年度から廃部が決定したようですよ」
またしても星の予想は外れていた。注意どころではすまなかったのだ。八木先生が伝えにきたのはこれだった。
「そもそもカーリング部は問題を起こし過ぎなんですよ」
星は微動だにせずに聞いている。頷きも、瞬きすらしない。
「教頭先生が仰るには、これまではあなたの経歴に敬意を払って大目に見てきましたが、二年生達の事件、そして今の活動は三人だけという状況。その三人も煙草とピアスの不良、備品破壊常習の転校生、一見優等生だが教師に見下した態度をとる者と問題児ばかり」
少し笑った。そういう一面は否めない。
「『冬戦争』も最近は異常だと教育委員会から勧告を受けたでしょう。カーリングで怪我人が続出するなんて。公式では揉み消されているが、実際は死者が出ているとまで言われているではないですか」
星は机に広げた「カーレスト」をそっと閉じて微笑んだ。それはモナリザのように、笑顔の裏にどこか計り知れないものが渦巻いている。
「危ないから辞めさせろ、というのはいかにもその子たちを心配しているように聞こえますね。しかしそれはボクシングを必死で練習している者に『殴られるからやめなさい』と言うくらい野暮でしょう。本人達の覚悟とアイデンティティを侮辱する行為に他なりません」
「しかし、責任は誰が……」
星は立ち上がった。職員室にいる誰の視界にも入ってしまう大きさ。注目を集めたまま、穏やかな顔で八木先生を見下ろす。
「当然、私でしょう。それが顧問の仕事ですから」
椿の手袋を鞄に入れ、颯爽と歩き出す。職員達が驚いた様子で道を譲り、両脇に分かれる。
星は胸を張る。その姿はまるで海原を行く帆船のようだ。逆風を受けてなお速くなる巨大な船だ。
職員室のドアを開けて、思い出したように振り返った。
「そうそう。廃部が教頭先生の独断であるなら、それはいささか性急でしょうね。今年の稲高カーリング部一年は歴代でもかなり面白いのが揃いました。或いは優勝だって狙えるほどの逸材ですよ。最終兵器の四人目も含めてね」
★
……と、ハッタリをかますのはカーリングの王道中の王道である。逆風吹き荒れる戦場にただ一人立ち、それでも不敵に笑うのが真のカーラーである。
星は「七冬」と書かれた表札を確認すると、まだ新しい一軒家を見上げた。二階の窓はまだ明るいのにカーテンが閉じられており、軒先のツララは幾つか折れてなくなっている。雪で覆われた庭はやはり少し溶けている。
星は灰色の冷たい雨を傘で受けながら玄関先へ向かい、インターフォンを押した。
「はーい!」
妙に高い声がした。
「あの私、椿さんの」
一瞬考える。自分は椿さんの、どんな間柄だろうか。担任の教師でもなければ、まだ椿は入部していないので顧問というわけでもない。
「――手袋を拾った者で、届けにきたんですけど」
「まあそれは! ありがとうございます!」
雨が屋根を打つ音に混じって、ドアの向こうで足音がどすどす近づいてくるのがわかる。ドアを開けたのはまるでドワーフ、そして星はアマゾネスのようである。期せずしてファンタジックな二人であった。
「ああ、コレですか……」
母親らしきドワーフは届けた手袋を見ると複雑な表情を浮かべた。
「あの、私は稲高で教師をしています、星明里と申します。椿さんは……?」
困った顔で首を振る。
「部屋の中に引きこもってしまって。自分を責め続けてるみたいです」
何かあったな。
星の脳裏に、椿を撫でようとして逃げられた記憶がよぎる。
サッと手を上げると条件反射で頭と腹を押さえる。典型的な虐待を受けていた子供の反応だ。椿の性格もあるし、この家庭が複雑なことは見当がつく。
椿は、本当は誰かに言い出せないまま虐待され閉じ込められているのではないか? 恐怖で逃げ出せないのではないか?
そして栄養失調で亡くなってはじめて事件が明るみに出る……そんなケースも世間にはゴロゴロしている。
「あの、椿さんとお話があるんです」
「休学の件でしたら、私が」
「いえ、カーリング部への勧誘です」
ドワーフの目が非難がましくなったが、星はいっこうに気にする様子はなく微笑みさえ浮かべている。目は笑っていないが。
「カーリングって……氷の上でやる競技ですよね。あの子はやらないと思います」
「しかし、少し練習に参加したんですが楽しんでいましたよ。どうしてあなたにやらないなんてわかるんですか」
星は畳み掛けるように食ってかかる。
「それに、椿さんには才能があるように見えました。是非カーリング部に入部して……」
「あのですね、そういう問題じゃないんです」
呆れた様子のドワーフに、露骨に眉間にシワが寄るアマゾネス。
「どういう問題ですか? 私には、あなたが子どもの資質をむざむざ殺しているようにしか見えませんよ」
とうとう諦めた様子で白いため息を吐いた。
「上がってください、少し長い話になります。まずは一週間前、あの『事故』が起こった日のことです」
星は案内されて居間へ向かう途中、壁にうっすら染みがついているのを見た。それは大きく垂れた――血の跡だった。星は覚悟した。階段の前を通ると、二階から不気味なブツブツ言う声が漏れ聞こえてくる。
その主――椿はもう一週間も部屋に閉じこもり、ほとんど何も口にしていない。底の見えない穴のように暗い瞳。カーテンを閉めた真っ暗な部屋で、ベッドと家具の間に入り込んで頭から毛布をかぶりガタガタ震えながらヘルを呪い続けていた。