今にも割れそうな氷の上で 3
「七不思議ちゃん」
通学途中のバス内を行き交うヒソヒソ会話からそんな単語がポロンと零れ、帽子を被った椿の後頭部に当たる。いつものことである。
――あいつ不思議ちゃん入ってるけどさァ、わかっててやってんじゃないのー?
――そうしてりゃ男が尻尾ふって寄ってくるって知ってんだろうね。
椿がバスに乗れば事故が起きるかもしれない。例えばタイヤがスリップして、凍ったダムの底に真っ逆さま。
口の端がニッと上がる。
――それもいいかもしれない。
彼女は慣れた様子で文庫のページをめくる。暖房の効いた車内は快適そのものだった。
「七不思議ちゃんってばよ」
ふとそばで人が呼んでいるのに気づき、顔を上げた。
「お、ちゃんと本人も知ってんだニャー」
椿は一目見て、そのへんのコンビニの前で屯している類の女だと思った。学校指定鞄がなければ学生とは思えなかった。寒さをものともしないサンダルにジャージ、茶髪、ピアス、およそ稲高の校則違反をかき集めて人型にしたような姿である。
無視して再び読書に戻る。早く読み終えて、妹と感想を話し合いたかった。
「やややや、今気づいたよね? アカラサマな迷惑顔じゃん。なに、ウチのアホを助けてくれたお礼を言おうと思っただけだって」
椿は再び顔を上げた。自信満々の不敵な笑みがそこにある。と思うと、芝居がかった様子で片手を前に出して腰を屈めた。
「うぃーっス。ワタクシ生まれも育ちもフィンランド(稲小稲中)。クレムリン宮殿(普通に病院)で産湯をつかい姓は遠藤、名は遥夏。誰も呼んじゃいないがカーリング界のシモ・ヘイへと発してお願い!」
啖呵を切った。乗客の視線が一斉に注がれようが全く動じない。むしろ水を得た魚であり、まるでアッパー系ドラッグでラリパッパである。
「また勧誘?」
「や、正直あたしは、今のところあんたがカーリング部に入るかどうかはどーでもよくてね」
勧誘行為でなければ、迷惑行為に相違なかった。
「それより七不思議の一つ、心を読むって本当かニャー?」
「…………」
椿は目深に被った帽子の下、じっと相手の瞳を覗き込む。遥夏はニヤニヤ笑いを続けていたが。
お互いに息を呑む。
心を読むことに興味を覚える時点で、椿は彼女が本心を隠すタイプなのは予想できた。そしてニヤニヤ笑いの中に一瞬だけ口を結ぶ表情が出る。それは不安の表れである。微妙な変化だったが、他人の表情に敏感な椿は見逃さない。何を不安に思っているのか。
ーー初対面の私と居ることに? それとも本当に本心を当てられることに?
「……ただの噂よ。そんなのできない」
だとしたら言うべきではない。
「あーあ。氷を読んで、心まで読むのかってチョト期待したんだけど」
口ぶりとは違い、ホッとした表情だった。
「『氷を読む』って?」
「あんたがエミーを助ける為にやったこと。刻一刻と変化する氷の状態を見極めること。カーリングで重要なセンス。これをあたしらカーラー達はアイス・リーディング――氷を読むって言うのさ」
椿はあの愉快なカナダ人を助けた時のことを思い出す。氷の調子を読むなどということはしなかった。ただエミリの背後に、不気味に嗤うヘルが見えたのだった。そいつの傍は不幸が起きる。氷が割れるのは予想できた。すぐ逃げるように指示を出した結果、エミリが氷点下で溺れるのを回避できたのだった。
「そこらのカーラーだって難しいのに、どうやってそんな風に氷を読めるようになるのさ。まさか小さい頃からひねもす氷と戯れてたとか? 一芸? 正直羨ましいニャー」
羨ましい?
椿の顔から表情が消え凍りついた。怒りで軽く意識が遠のき、瞳孔が開く。立ち上がって何か言おうと思うが唇がうまく動かない。右腕が震え、気づけば相手に向けて振り下ろしていた。
「ううううー!」
が、遥夏は簡単にそれを掴んで止めた。
椿は続けて左手で文庫本を投げつける。多くの者は反射的に目を閉じてしまう、顔に向けて。
遥夏の利き手は既に椿の腕で塞がっていたがーー「アハハ! 容赦ないね。でも嫌いじゃないニャ、そういうの!」ーーやはり、もう一方の手で器用にキャッチしてそのまま文庫本で椿の頭をパンと叩いた。猫のようにしなやかな動き。乗客達は不安そうにどよめいていた。
もう遅かったが、椿は極端に身を縮めて頭と腹を守る体勢になっていた。過剰に怯えた体勢。自分自身の無意識の行動に気づき、椿は急に死にたくなった。ずれた帽子を再び目深にかぶりなおす。
文庫本を見た遥夏が急に一段高い声を出した。
「これ、『レミーのおいしいアナトール』じゃないか。読みたかったけど、見つけらんなかったんだよね」
表紙には共食いしあうドブネズミが二匹、真っ赤な目をちらつかせている。B級ホラー小説である。
「センスいいじゃん。多分、あんたみたいなーークラスからはぐれたような奴の方が面白いものを見つけ出すのがうまいんだろうね」
椿はジッと遥香を見つめた。
「ちょ、そんな怖い顔しなさんなって。何があったか知らないけど、あたしは別にあんたを怒らせるつもりは」
バスが高校に着いた。排気音がしてドアが開く。ぞろぞろと学生達が降り始めた。
「まあとにかく、暇ならいつでも来な。顔を見ればわかるよ。あんただって教室と家の往復に嫌気がさしてるんでしょ? アイスリーディングなんてカーリング以外じゃクソの役にも立たないんだしニャー」
遥香は言い捨てて降りていき、部室棟の方へ向かっていった。椿は今まで会ったことのない人種をつい目で追っていた。どんな性格なのか掴みどころが無い――この寒さの中、サンダルにジャージで雪中行軍する強者だろうかと思っていると彼女は豪快にクシャミをしていた。
「……なんだ、ただのアホか」
★
「携帯の調子おかしいからショップに預けるYO。夜まで連絡できないんで4946(シクヨロ)」
妹のメールを眺めて、椿はため息を吐いていた。授業が終わり休憩時間になる。トイレに行く。ペンケースを出す。何かしら行動のたびに携帯を見るーー変化なし。
元々妹以外からは連絡が来ない携帯である。何も来るはずないが癖で見てしまう。
仕方なく読書を始める。と、携帯が振動した。鼻息荒くすぐに開く。出会い系サイトのスパムだった。
椿は自分が嫌になった。
携帯の電源を切り、本と一緒に鞄に突っ込んだ。机に顎だけ乗せて目を細める。クラスメイト達の、カラオケで絶対に押さえておかなければならない曲とか昨晩のバラエティに出ていた芸人のネタとかグループ内でお揃いにしておかなければならないファッションセンスとかDV男と別れられない女の愚痴とか過剰に言葉だけ共感するトリマキとか婚活用の口座をもう作っておこうとかツイッターのフォロー義務やブロック禁止とかSNSのグループ分けとか益体もない話が聞こえてくる。
今日、どこに行くか。いつも学校が終わればすぐに家へ帰って妹に今日がどうだったかメールを送り、返信を待つのが日課である。すべて妹基準の生活であった。
「今日は蓮華に話さなくてもいいのか……」
少しホッとした気持ちもある。とはいえ、悲しくなるほど何処へ行くか選択肢が思いつかなかった。窓ガラスに映った自分は薄ボンヤリとして雪景色に溶けていきそうである。その隣には相変わらず目を覆う化物がいる。
「……超ラクらしいよ。普段は部室でお菓子食べながら漫画読んでダベってるだけ。試合の時は公欠できるって」
ガヤガヤと賑わう教室内で、ふと委員長の会話が耳に残った。
椿はそんな活動内容に果たして意味があるのかわからなかったが、少なくとも部室があるということは――今の自分よりも行き先の選択肢があるということだった。こっそり聞き耳を立てた。
「え、何それ」
「だからカーリング部」
椿は反射的に身体を起こした。神経を耳に集中する。
「ああ、確かにあんまり体力いらなそう。あれスポーツなの?」
「さあね」
「よくわからん部活に入ってテキトーにサボって、スポーツに打ち込んでるって言い訳で勉強しなくていいんでしょ? 人間が駄目になるね。ダーメダメダメダメ人間でしょ」
椿はトイレに立った。手を洗いながら考える。普段から氷に触らず、部室で話すだけなら構わないのではないか。あの遠藤遥夏とかいう女はどうかと思うが、陰でコソコソ噂して近寄ってこない輩やクラスで平和に本を読んでいる自分を変人扱いしたがる連中に比べればマシだ。ダメ人間であろうと。
顔を上げると、手洗い場の鏡の横に張り紙があった。
カーリング部お茶会のお誘い。日付は今日の放課後だった。椿は頭を軽く振り、それをタメツスガメツしていた。