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今にも割れそうな氷の上で 2

「……うぉっと!」

 校門の雪に突っ込む女子高生が一人。宙に舞うキャスケット帽。七冬(ななふゆ)椿(つばき)は飛び出してきた自転車に驚いて転んだのだ。肌にまとわりつく雪の不快感。体が硬直する。

 一瞬わざとかとも思ったが相手の微かな「すいません」の声が聞こえたのでそうではなかったらしい。ただの不運である。

 下駄箱でマフラーとキャスケット帽と手袋を脱いで雪を落とした。教室についてコートを脱ぐと、先程の衝撃で腕に青痣ができているのに気づく。

「全く……」

 窓際の席につき、イヤホンをつけ文庫本を開く。死体めいた無表情で。音楽を聞きたいわけではない。本の続きが気になるわけではない。できるだけ他人に迷惑をかけないように世界を拒絶しているのである。それは問題の根本的解決ではなく回避。真剣十代として、彼女は全く正しく間違っていた。

 椿はあまりにも自分にアンフェアなこの世界を呪っていた。寒い日に(というか殆ど毎日寒いが)おみくじを引けば大凶のみ。小さなものではレストランに行けば自分の注文した料理だけ来ないなどザラで、大きなものでは雪でスリップした車が自分めがけて突っ込んでくることも幾度となくあった。大抵の食べ物に当たり、大抵の乗り物に轢かれた。その全ての背景に「冷気」がある。

 冷気が絡むと途端に全てが悪い方向に向かう。

 RPGをプレイしていて、どんなにレベルを上げたところで敵が何の気なしに撃ってきた低確率即死呪文で百パーセント死ぬような。まるでこれから先の自分を見ているような。未来がない。「冷気」=「不幸」を避け続けること。ウカウカしていると世界に殺されてしまう。とはいえどうすればいいかもわからない。

 人生は薄氷の上を渡るように。

 一歩間違えば死ぬ。

 まるで積雪のように。

 緩やかな絶望が日常を覆っていた。

 そろそろホームルームの始まる時間である。イヤホンを外すと、クラスの雑音に混じって、一際不快なかすれた声が聞こえてくる。

「見たい? 見たい?」

 いつもの幻聴だった。椿は舌打ちしてコートを取り出し、カケラも残らないほど偏執狂的に雪を払った。冷気に混じって「あいつ」が現れるのだ。ここまで不運に襲われるようになった十年来の元凶。彼女と妹の人生にケチをつけた張本人。

 椿はハッキリ答える。

「見たくない。絶対に見ない」

 クラスの中心の女子グループがひとりごちる彼女を見てヒソヒソ話す。男子はまたかよ、と笑っているものもいる。その他の者は、まず椿の方を見ない。それは不幸を避けているのだ。椿だって、自分が彼らの立場なら同じくそうしただろうと思っている。

 ――あいつマジみんなに迷惑じゃね? さっさと入院しろよ。

 ――あの人、親に捨てられたらしいよー?

 ――そりゃ少しも笑わないで四六時中ブツブツ言ってるような奴は俺も捨てるわwww

 ――ちょっとはみんなに合わせるってこと考えてほしいよねー。

 どう言われようが、恨みがましく思う気持ちはない。

         ★

「今から十年前の二0一二年、十二月二十五日。当時を覚えている人も多いと思いますが、北半球各所に到来した原因不明の大暴風雪――通称『雪の女王』により日本国内の気温は下がり続け、暦の上では七月になったところでようやく小康状態を迎えました」

 痩せこけたヤギのような教員が、黒板に出来事と発生年を書き連ねていく。

「山間部や日本海側を中心に、以前の状態から十~二十度マイナスした程度の気温で安定はしたものの、続く吹雪と積雪により当時の政府の対応は遅れに遅れました」

 ツバキの瞳はどこにも焦点があっていないが、かすかに眉をひそめている。

「そして日本政府は難民の受け入れを開始しました。カナダやロシア、アラスカなど圧倒的に気温の低い場所に住む人々には、温暖な地域へ移動する者も出始め、中には日本へ移住する者も少なくありません」

 どこかでクシャミの音がした。

「一方、国内の一般人レベルでは未曾有の大災害には悪い意味で慣れてしまった国民のせいか――水道管凍結、鉄道ダイヤ混乱、冷害などなどに苦しみ多数の凍死者を悼みつつも、一年後にはなんとか精神的に立ち直りました。歴史的に見ても復活に定評のある日本です。とはいえ、気候の変化により夏が消え、九月には雪が降り始め、沖縄を除く各地の池沼湖が凍りつくことになってしまいました。まだまだ農作物への影響は大きく、文化的にも四季を失うのは日本人には辛いことであり、私達は手に手をとって協力していかなければ……」

 日本史と現代社会を兼ねた教員は思い入れたっぷりに語ったが、三分の一ほどの生徒は暖房によりウツラウツラしていた。

「はぁ。今日はこれまで」

 と言うが早いか、眠っていたはずの男子生徒たちは購買部へと駆け抜けていった。

 椿は授業中起きているが、それ以外の時間は眠っているのが好きだ。意識をパチンと切れば余計なことは耳に入らず、考えずに済むからである。それは或いは死に似ているのかもしれなかった。

 昼休みは睡眠時間だ。今日もセミロングの髪が海藻のように机に広がっていた。

「ドー……フユ……ヘッドです」

「ん、ああ。はい?」

 顔を上げると金髪の女が立っていた。悩みのなさそうな――しかしその分マヌケにも見える笑顔。小さな顔についた大きな瞳が覗き込んでいる。彼女の苦手な、真っ直ぐ他人の目を見る類の人間である。すぐさま目を逸らす。

「ドーモ、ナナフユ=サン。エミリ・スプリングヘッドです」

 礼儀正しい性格らしく、小柄な身体を曲げて深々とお辞儀した。

「あ、七冬椿です。えっと……誰」

「先月カナダから転校してきました。日系カナダ人です。母親が日本人で、父親がカナディアン。好きな食べ物はサーモンスシとメープルシロップをかけたパンケーキ」

 日本語が上手だった。しかし椿が聞きたいのはそういうことではなかった。

「誰」

「はい? エミリ・スプリングヘッドです。あ、漢字だと絵が美しい理由で絵美理です」

 二人とも怪訝な表情で見つめ合い、霧のような沈黙が流れていった。と、何か思いついたらしいエミリが突然動き出したが、机に膝をぶつけた。

「オゥ……ウカツ!」

 あんたは一体なんなんだという気持ちで、椿はため息を吐いた。

「何か用」

「まずは昨日助けてもらったお礼です。ツマラナイモノですが」

 そう言ってポケットから大量の五円形のチョコを取り出して机の上に撒いた。

 本当にツマラナイモノだった。

「これ、知ってる? ゴエンがありますようにーアッハハハー!」

 ギャグもツマラナかったので。

「ああ、昨日の氷の」

 スルーした。

「別にいいのに。あんなの私のせいなんだから」

「ナナフユ=サンのせい?」

 エミリから目を逸らして俯く。

「私がいると不幸が起きるの。昨日は私、何となくあなたのこと見てたんだ。そしたら氷が割れちゃって」

「でも、助けてくれました。あなたは実際奥ゆかしいですね。ツバキ=サンカワイイヤッター!」

 珍妙な言葉の理解に追われていると突如テンションマックスになるので椿の肩はビクッとする。

「人間万事サイオー・ホースですよ。ツバキ=サンに会えましたから幸福です」

 椿はエミリの顔を覗き込んだ。微塵のくすみもない。本心から言っているらしかった。このよくわからない言葉を話す日系カナダ人が、何故か言葉がちゃんと通じるはずのクラスメイトよりも好ましく思った。

「そう。じゃあもういい?」

 今日はここまでにしておこうと思った。長時間他人と話していると、疲れてくるのだ。

「いや、実はそのワザマエを見込んで頼みがあります」

 嫌な予感。

「いや、断る」

「カーリング部に」

「断る」

 カナダ人のすなるカーリングを我もしてみんとてするなり。一瞬、椿の脳裏にブラシでカサカサやっている滑稽な自分が過ぎった。笑えない。

「カーリングね。テレビで放送されてるの時々見るけど。いや、それより私が入ったらその部は……」

「大丈夫。案ずるよりイージー・デリバリー! 他の皆さん、いい人ですから」

 いい人がいい人と呼ぶ人はいい人でないことが多い。しかし椿がやりたがらない理由は別にあった。

 どう言えばわかってもらえるのだろうと頭を巡らせる。

「私、氷が嫌いなんだ。できるだけ氷に関わりたくない。カーリングってずっと氷の上にいるんでしょ? 氷が吐瀉物まみれになるよ」

 椿は微笑んで自嘲気味に言ったが、目は全く笑っていない。他人にこれ以上踏み込ませない無言のプレッシャーを放っていた。チャイムが昼休みの終わりを告げる。

「とにかく、やりたくなったら星先生に言うか部室棟に来てください。サヨナラ! ドロン!」

 両手を組んで忍者のようなポーズを取ると、残念そうに立ち去っていった。椿はそれを見送る。ふと机の端にヒビが入っているのに気づく。おそらく先ほどエミリが膝をぶつけた箇所である。

「いったいどんな力よ……」

 呆れて再び机を覆うように身を投げ出した。

 さて。

 先程から椿は窓を見ていない。外にはパーカーのフードを被った女の子が立っていた。ごく普通の小学生である。

 それこそ奇にして怪。

 外は桟にツララができているほどの冷気だが、コートすら着ていない。イナイイナイバアをするように顔を両手で覆っていた。

「見たい? 見たい?」

 言いながら窓辺に近寄ってくる。その手は赤黒く血塗れである。指の間から覗く両目や胸に氷の破片が幾つも刺さり、そこから夥しい量の血が絶え間なく流れ続けているのだ。スカートから覗く膝は腐って黒緑色をしていた。

 椿は昔読んだ北欧神話の死神に因んで「それ」をヘルと呼んでいる。それは英語圏で言う「地獄」の語源になるほどの――人智を超越した邪悪な女神。不幸の源泉。

「見ないから」

 椿は無視してイヤホンをつけた。妹から来ていた他愛もないメールに返信する。

「うん、今読んでるよ。敵のネズミが狡猾なのがいいよね。主人公に揺さぶりをかけてくるのが。そういえば、秋に入って寒くなってきたけど義足は大丈夫? そっちも雪酷いんでしょ?」

 妹からメールが返ってきたのは帰宅してからだった。夕食の最中である。

「でしょー。お姉ちゃんは好きだと思ったんだYO! 義足は気温低くても平気な奴に変えた。もう全然違和感ないYO!」

 椿は携帯を取り、すかさず返信する。乾いた入力音が妙に響く。向かいに座った叔母夫婦はチラリとそれを見たが、すぐにテレビへ視線を戻した。

「そういえば今日、エミリって女の子に会った。言葉がヘンだけど、良い人ってのは顔を見てたらわかった。カーリング用の氷が」

 椿はそこまで書いて消した。

 また考えているうちに夕食は終わり、食器を片付けている叔母に声をかける。

「あ、私がやります。そのままにしといて下さい」

「いいのよ、そんなことしなくても。椿ちゃん、お風呂が沸いてるから入ってらっしゃい」

 まるで映画に出てくるドワーフのように丸々とした叔母は優しく微笑んだ。同じく腹の出た叔父はソファにトドのように横になっていた。シュワルツェネッガーが剣を振り回す古い映画を観ながら、缶ビールをチビチビやっている。

 風呂に入りながら、椿はまだメールの文面に頭を悩ませていた。学校にいようが授業中だろうが、四六時中妹にどんなことを話そうか考えている。それはもはや楽しみというより義務だった。

 風呂から上がってドライヤーをかけ麦茶を飲んだが、まだ文章は浮かんでこない。二階の自室に行くとカーテンをかけた窓越しに、見たいか見たいかと声がする。

「――ああ、もう!」

 頭をガサガサと掻き毟る。無視して携帯に集中するがどうにもならず、結局投げやりにおやすみを送った。

 途端に気が抜ける。文庫本を読もうと、放り投げたままの鞄を開く。チョコレートの小袋がバラバラと落ちてきた。

「ゴエン……ね」

 ベッドに寝そべってその一つを食べる。そういえば歯磨きした後だったと気がついてすぐに後悔する。しかし、それが甘いのには変わりなかった。

 やがて文庫本を読んでいるウチに眠ってしまう。重なる不幸と生ぬるい絶望に腐っていく日常。平和に淀んだこの世界は誰も彼女に生き急げとは言わず、ゆっくり足元から凍えさせようとしていた。彼女は、まだ情熱を知らない。

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