現代社会ネクローシス 第三章 −あの日、あの瞬間−
※注意※
ここからはしばしば残酷なシーン、というか残酷な展開が待ち受けています。それでも、最後まで見届けたいんじゃぁっていう頼もしいお方は、どうぞ
ある年の、8月中旬の朝、8時頃の話である。とあるビルの一階、埃ただようロビーのソファーで目を覚ましたジュンは、あくびをひとつもらすとぽつりとつぶやいた。
「いけないな〜。なんか寝心地が良すぎて、眠りこんじゃったや」
掛け布団がわりに用いていたトレンチコートをひきよせると、羽織ってみる。ジュンにとってコートはかなり大きなサイズ、しかも季節は夏場、暑苦しさ極まりなかったわけなのだが、それでも着込んだ。裸でいたくなかったのだ。そうしてソファーから下り立とうとして、
「痛っ」
傷の痛みに耐えかね、その場にしゃがみこんでしまう。思わず足をさすった手を見てぎょっとした。血だ。次の瞬間には、ガラスの破片で裂けたふくらはぎからしたたる赤い血液を彼は確認したのであった。
「あーぁ、かさぶためくっちゃった……どうしよう?」
明るい日差しが差し込む部屋を、キョロキョロと見渡してみる。そんなジュンは黒くて立派なトレンチコートにボロボロな半ズボンといった、きわめて不釣り合いな格好なのであった。
「何かないかな?」
傾いたまま、だらしなく開いたロッカーを覗き、ごそごそ探っていた時だ。ふとした拍子に、何かがポロリと手元から落ちた。ジュンはすかさずそれを拾いあげる。どこかで見覚えがあったのだ。それは小さな、古いキーホルダーだった。
「リサ……。間違いない、僕の姉ちゃんが『過去』に持っていったやつだ!」
ジュンは、目を丸くして驚いた。
「ど、どうして? 姉ちゃん、ここに来てたの?光になって消えたわけじゃないの? そんな、僕知らないよ。なーにも知らされてないもん。何で何で? 今、どこにいるの、それともただの、偶然……?」
ジュンはうつむいた。手の平の上に置いたキーホルダーを、みつめる。高鳴る鼓動。ふきだす冷汗。しばらくじっと黙りこむ。そしてどこからともなく聞こえてくる規則正しい音−時計の針の音を聞き、気を落ち着かせようとしたのだが、結局血が床にまでたどりつきそうなのに気づいて、我にかえったのだった。
「そうだ、おじいちゃんに聞いてみよう」
ジュンはロッカーの中からベルトつきのジーンズを見つけると、恐る恐るはいてみた。見事にずり落ちそうになるのを、慣れない手つきでベルトをしめることによって、なんとか食い止める。そして、傷口あたりのズボンの布を、紐でぎゅうとしばりつけ、なんとか止血に成功したのであった。
「これでよし、っと。さぁ、早くこんな気味悪い空間から逃げ出して、帰らないと」
ジュンはその場を後にすると、川辺に向かって歩きだした。裏口に回って、死体を確認するだけの勇気と元気はなかった。
ババババラバラバラ……
街路に出たとたん、大きな音が空から降ってくる。
「?」
ジュンは不思議に思って立ち止まると、背後を振り返った。振り返って上を見上げて、ビルの間を進み行く巨体をはじめて認識し、息をのんだ。
なんだあれ?!
その巨体は、頭部にある棒をぐるぐる回しては(いわゆるヘリコプターなのだが、ジュンには理解できなかった)、黒い塊をぶら下げて、飛んでいた。どうやら街の中央の広場の方へ向かうようだ。ビルの影に消えてしまったヘリコプターを、つっ立ったまま見届けたジュンは、こみあげてくる苦々しさに、顔を歪ませずにはいられなかった。
おばちゃんは昨日、仙人様が今日、カプセルの危機から僕らを救ってくれるのだと教えてくれた。僕もあの時はまだ心のどこかで信じていた。救ってくれるって。だけど、だけど…あれじゃぁまるで……
ジュンは前を向いた。唾をのみこんだ。絶望が、昨日の夕方感じたのと同じ、もしくはそれ以上の絶望がジュンの足をつき動かす。川原の方へと、まっすぐ、駆け出していったのだ。痛む傷口に構う暇など無かった。頭を巡る彼の願いは、たった一つ−
おじいちゃんっ!じいちゃん、僕恐いよう。何もかもみんな恐いよ。せめてもう一度会い
ピカッ
ドドドーン
猛烈な光と熱風とが一瞬で、小さなジュンの全身をつらぬき、吹き飛ばして、爆音と共に駆け抜けていったのだった。
※※※
朝日が空に踊りでる頃、一晩中海の上で揺れていた例の屋敷では、けたたましい警報音が鳴り響いていた。
兵士も召し使いも皆、その警報音の意味がわからず、鳴りだした当初は火災でも起こったのかとうろたえていた。しかし、5分も経つと耳慣れし、いつまでたっても止まない警報音を適当に聞き流すようになった。
なんてことはない。これは誤報だ。それに、いざという時には、仙人様がおられるから、大丈夫だ……
と、誰もが皆信じて疑わなかったのだ。谷島もその一人だった。護衛隊長に、呼び出されるまでは。
谷島含む、護衛隊60名は、朝の七時ごろ、甲板に集められた。そこには、どしりと構える、いつもの護衛隊長の姿があった。隊長は、ざっと全体を見渡し、全員集まったことを確認すると、めずらしくゆっくり語り出した。
「俺様は、今先ほど、仙人様に呼び出された。そこで、今からボートに乗るので、添乗してほしい、と頼まれた。私はついでに、皆が不思議に思っているであろう、この警報音の正体を尋ねたのだ。その答えは、何だと思う?貴様ら」
兵士達は互いに顔を見合わせるばかり。誰も答えようとはしない。隊長は深いため息をこぼすと、空を見上げ、大きく息を吸い込んで、こう言った。
「この船はな、この船は、今、沈もうとしているんだ」
どよめく兵士達。隊長は彼らを叱責することも、静めることもせず、話を続けた。
「原因はこうだ。エネルギー不足。それに尽きる。そしてな、仙人様は我々に命じたのだ。少しでも軽くすれば、少しでも遠くへいける。だからといって、この船に残っている研究素材を手放すなど、惜しいことはできない。残念ながら、ゴムボートは一隻しか掲載されていない。だから……だから……」
隊長がふと口をつぐむ。兵士らの顔がみるみるうちに青くなるのを見たからだ。それでも、頭を二、三回降ると、震えた声で兵士らに、次のように、いつもと同じ感じで、命令しようとした。
「お前達。これまで十分幸せに生きただろう。お国を思い、未来を思い、海に飛び込んで死」
隊長の命令は、一発の銃弾によって破壊され、瞬時に破棄されたのだった。谷島は見た。自分がこれまで尊敬し後を追いかけていた人が、甲板の向こう側へ、赤い花を白い床に遺し、消えていったのを。
それから、はげしい銃撃戦が始まった。嫌われていた奴から順々に倒され、海のもくずとなっていく。身の危険を感じた谷島は即座に、屋敷の中へと逃げ込んだ。そこでは、警報音鳴り響く中、外の銃声を聞き付けた家来やら召し使いやらが、ずらりと顔を揃えていたのであった。皆、甲板で突然始まった銃撃戦の意味がわからず、きょとんとしているようだ。谷島は、感じた。 あぁ、奴らも、ターゲットにされちまう。何か、言ってやろうか。例えば、逃げろ、とか……
しかし谷島の思考は、次の瞬間ホール中に鳴り響いた銃撃音によって削除されてしまったのだった。彼は有無を言わせず走った。開かれた扉から次々と入り込んでくる銃口を眺める余裕は無かった。銃撃を、ただぼんやり立ち尽くす召し使いやらの肉体を盾にして、巧みにかわす。死体という死体を踏み越え、踏み潰し、幾多のドアを無我夢中に押し開けては、呆然とする人々を押しのけ掻き分け、一人、奥の方へと駆けていったのである。そこに、彼がこれまでずっとしがみつき、離そうとしなかった理想郷の面影は、どこにも存在しなかった。
白くて、シンプルな扉を蹴り飛ばした時だった。谷島は、そこへ勢いよく飛び込んだのはいいものの、その部屋の暗さと波の音にはっとして、立ち止まった。
谷島は、暗闇の中、灯を手に立ち尽くす人を見た。それは、背中の曲がった、小さな老人だった。
谷島は、暗闇の中、波に揺らぐオレンジ色のボートで佇む人を見た。それは美しい黒髪の、肌の白い若い少女であった。
交わす言葉は、無かった。ただ、互いに、見つめ合っていた。銃声音が、鳴り響くまで。
バンッ、バンッ
老人はゆっくり、前に傾き、紅く染まった地面に転がった。少女の方は、あ、と小さな声を空気にもらした後、紅い花束を宙に放りあげて、海へ落ちていった。
バッシャーン
ゴムボートが、転覆し、全てを覆い隠したように思えた。
谷島は、振り返った。そこには共に働いた仲間が、銃を構えて立っていた。怒りに我を忘れているようだった。谷島が、声をかけることは無かった。彼もすぐに、視野から消え去ったからである。谷島は、再び走り出した。ドアの向こう、光り輝く空間から飛んでくる、銃弾の雨を果敢にかわし、物影にすべりこんで息をひそめ、事態が収まるのを待ったのである。
それから何時間経ったのかはわからない。握っていた冷たい水の入っていたペットボトルが、それとなく温まった頃のことである。
ぎぎぎぎぎ…
船(屋敷)は、鈍い悲鳴をあげた後、何の前触れも無く、ふいに横転し、幾多の爆音と絶叫とを死体とを携えて、深い海へ引きずりこまれていったのだ。
オレンジ色のゴムボートと、それにしがみついた谷島とを、水面に浮かべて。