現代社会ネクローシス 第二章 -出会い-
とある列島の、岬の端に、白くて大きな箱があった。いまや、列島の中でその箱だけとなっていた。豊かな緑が生い茂り、鯉の泳ぐ池のある立派な庭をもつ建物は……。だからであろう。その大きな庭を誇る箱は皆に、“箱”でもなく“研究所”でもなく、“屋敷”呼ばわりされていたのだ。そして、白くて高い壁に囲まれた屋敷(箱)の門兵として、男-谷島 直利はその日も働いていた。
この間とはうってかわって物ごいが来なくなったため、働いていた、というより、暇を持て余していた、という方が正しいだろう。確かに、物ごいの奴らを追い払う必要がなくなったため、しかも今日という日は、人生にまたとない特別な日であったため、いつになく楽しい思いをしていた。が、目前に広がる街からもうもうとやって来た訪問者―何かが燃やされて出た異臭や煙に、彼は気分をすっかり害されてしまっていたのだった。支給されたマスクをいくら手で押さえても、どこか息苦しい。目もかゆくなってきた。そりゃぁもう自分の寿命がかつてなく削られていくようで、早く白い壁―全ての有害化学物質を吸収、分解してくれているあの魔法の壁の内側へ行きたくてたまらなかったのだが、そのための言い訳がさっぱり思いつかない。デスクに置かれた呼び鈴は朝から黒い粉をまとったまま、一向に動く気配もみせないし。おかげで谷島は、朝からずっとイラついていたのだ。午後3時頃、自分の腕を置いている灰色のデスクの板に届くか届かないか程度の背の低い男子の訪れに、全く気づかないくらい。
「あの、すみません」
不意をくらった谷島はびっくりして、椅子から落ちそうになった。急いで体勢を戻すと、咳ばらいを一つしてデスクから身をのりだし、男子を見る。そのやせ細った容姿に、
はぁ、さては、物ごいだな。世の中、せっかく物が溢れ出したっていうのに、何て傲慢な。
と、決め付けて。谷島は、男子に冷ややかにこう告げた。
「諦めてさっさと帰りな。ここを何処だと思っている?仙人様がお住みなさる神聖な社だぞ。早く帰らなければ、祟りが襲うであろう。そこの汚れ者。」
それが、マニュアル通りの捨て台詞なのだった。たいていの物ごいはこの“祟り”を畏れて黙って帰るか、許しをこうか、それか少なくとも、執拗な態度が改まったりするものであったが、なぜかその男子はきりっと背筋をのばしたまま、つったっている。
「おい、小僧……」
谷島が話し掛けようとした時であった。何か考えついたのか、男子は急に敬礼すると、次のようにはきはきとした声で名乗り出すではないか。
「我こそは、かの、世界に豊かさを取り戻すため、過去に飛び立ち亡くなった、リカの弟、ジュンであります。この度は、豊かな資源と共に、過去から現代にきたと思われる、猛毒について、仙人様に伺おうと思い、姉の代わりに参りました」
「あ? 猛毒? この煙のことかぁ?」
「違います。あちこちの街角で、今にも住民が壊そうとしている、灰色の塊の中身のことです」
谷島は眉をひそめた。
「は? 猛毒が入った塊が、町中に転がっているだって? そんなこと言われてもな、だから何だっていうのだ」
「仙人様の、お力をお借りして……」
口をつぐんでしまう彼。元気が無くなっていくのを察した谷島は、今だと言わんばかりに、彼に背を向けると、
「ほら、帰った、帰った! 悪いこちゃ、言わない。そんな所に立っていても、煙にまかれるだけだぜ? ま、俺様は仙人様が作って下さった、おマスクがあるから、大丈夫なんだけどな」
などと言って、たたみかけた。これも、マニュアル通りだ。優しい言葉をかけ、仙人様の偉大さをちらつかせながら相手をひるませ、追い払う、という―
子供に忠告してあげるなんて、俺も優しい男だな。
口ヒゲを触りながら、そんなことを考えてみる谷島だった。しかし、男子はさっぱり帰る気配を見せない。今度は咳こんだ後に、ぱん、と机の上に何かをたたき付けてきたではないか。
「これを、仙人様にお届けして下さい。そして、この、地面に埋められている塊が、町中に散らばっていると、そして、危険にさらされていると、どうか、お伝え下さい。よろしくお願いします……」
男子が頭を下げて頼み続けるのを適当に聞き流しつつ、谷崎はどう彼を追い返そうか考えていた。
こいつに付き合えってか? ま、それで帰ってくれるなら、願ってもないことだが、その為に、ここをわざわざ立ち去るなんてしゃくに触るなぁ。
ふと、机に置かれた新聞の紙面を見る。
へぇ、2006年かー、かなり古い新聞だな。かなりくしゃくしゃで、土もついているけど、うむ、新聞収拾が好きな僕の友達にやったら、絶対喜ぶだろーな。
谷島がそう、思わずニヤリとした時だ。
「ホントの、本当に、大変なことが起こりつつあるのです。お願いなんです!」
急に背伸びまでして、新聞紙を眺める谷崎にさしせまった男の子にびっくりした彼は、またもや椅子から転げ落ちそうになってしまう。
「さ、触るな、コノヤロウ! わ、わかったよ、わかったさ。行って、言ってきてあげればいいんだろ。やってあげるから。ほら、帰った、帰った!」
呼び鈴が、音こそ鳴らぬもののようやく震え出したのに気づいた彼は、そそくさと新聞記事を手に開かれた門の内側へ入っていった。そこには、目をも疑うような天国―太陽の光を受け輝く芝生、きちんと列に並べられ今にも歌い出しそうな花々、金色の鯉が優雅に戯れる池、そして、大きな白い屋敷があった。谷島はマスクを外すと新鮮な空気を存分に深く吸い込み、吐き出した。“いつもの景色”に、自然と笑みがこぼれる。ふと誰かに呼ばれた気がして、振り返った。不思議な檻で出来た門の外では、渦巻く煙のなか、あの男子が突っ立って、まだじっとこちらを見つめているではないか。(もちろん、外から中の様子を覗くことは出来ない。)谷島は何も言わなかった。いくら中から怒鳴ろうと、門の外にいる彼の耳には届かないし、それに勝手に煙たがってどこかに行くであろう、と判断したからだ。谷島はその男子が血が滲むほど唇を噛み締めているのを見抜くだけの、視力を持ち合わせていなかった。
それにしてもたまげたな、文字を読める奴が屋敷の外にもまだ生きていただなんて。
『私達は、皆様の安全を守るため、○万メートル地下で、廃棄物を保管し、順次、その処理を行っています。』
手に持つ新聞紙(の広告)の見出しは、こんな感じだった。
「あの馬鹿やろう、仙人様がまだ気づかれておられないとでも思っていたのか」
谷島は、そう呟くと、よれた新聞紙を風にたくし、屋敷の中へ乗り込んでいったのだった。
※※
夏の夕暮れが差し迫った頃、ジュンは、例の白い壁にもたれ掛かっていた。壁を取り囲むように出来た透き通った層にて、呼吸をしつつ。あの門兵が、きちんと約束を果たして持ち場に帰って来るのを、この目で確認しようと思っていたのである。端からあきらめるつもりは、ジュンにはなかった。数日かかるのも覚悟の上、ここに座り込んで待っていてやろうと決意していたのだった。ただ、家で待つ祖父の様態だけが気がかりなのだが。
くそ、なかなか出てきてくれないな……中で討論でもしてくれていればまだマシだけど。
ジュンは首をかしげる。
どこかおかしい。妙に静か過ぎる。奴がいなくなってからというもの、誰も奴の変わりに門番に来ようともしないのは、どうして?門など守らなくても、平気なの?まぁいい。奴らの動向はさておき、おばさんにでも会いにいこっかなー。何てったって、あの汚い河に沿う形で一直線に下って、ここに着いたもんだから、おばさんに挨拶してないんだよな。おばさん、僕が来るのを待っているかもしれないし。
ジュンは立ち上がった。
おばさんなら、僕の忠告を聞いてくれるだろう。あの新聞紙を奴に手渡したのが惜しまれるけれど。どうせ屋敷はここにあるんだから。おばさんに会って忠告して、ついでに、奴らの動向を見守っていたいから、しばらく家に帰れないことを祖父に伝えてほしいって、お願いしようかな。それならまだ、安心して観察を……
ゴゴゴゴゴ
急に鳴り響いた低持続音と、その直後にやってきた大きな地揺れに思わず、ジュンはその場に座り込んでしまう。
「!!?」
地震か?!
その時だった。爆音と水しぶきをたてて、白い壁が急に下へ、海の中へ、沈んでいったではないか。
屋敷が崩壊するっ?!
そう思ったのも一瞬、次の瞬間にはジュンは、真実を目にすることになる。
それは、芝生を海のあぶくにし、生きた花々を海に投げ捨て、鯉の死体が漂う中、赤く染め上げられた海原にとび出していった、ひとつの白くて大きな箱の姿だった。
どうしようもないカラクリ―姉の命を奪ったあのプロジェクトの裏に潜んでいた真の目的を目の当たりにしたと思い込んだ彼は、ただ、絶叫した。丸く美しい夕日の中へ、緩やかに曲がる海と空の狭間へ、その屋敷がのまれる様を見つつ、揺れの収まった地面を拳でなぐっては大粒の涙を流す他なかったのだ。
逃げやがった。姉ちゃんを殺して、僕達を見捨てて……
太陽は、緩やかに、沈んでいった。
※※
夜が来た。あちこちで下界を照らし出す電灯に邪魔され、星はどこか悔しそうな瞬きを繰り返している。ジュンは、一人で壁づたいによたよたと、街角へ、近所に住むおばさんに会いに向かっていた。ようやく目的地である街角にたどり着くと、物影から頭を覗かせ、広場の様子を伺ってみる。そこでは何十人もの大人が、踊り、飲み、歌い、はしゃぎあっていたのであった。広場の真ん中でけたたましく燃える炎が、踊り狂う彼らと、そして例のカプセルの山の影を不安定に歪ませつつも壁に浮かび上がらせる。
あぁ、良かった。皆、あの猛毒が入った塊を壊すの諦めてたんだ。良かった、良かった。それにしても、皆知っているのかな? あいつら、逃げたってこと…教えてあげようかな?教えない方がいいのかな。
その時だ、ジュンははっとした。肩を組み輪になってはしゃぎだした大人達の中に、昼間に出会った赤毛のおばさんがいるのに気がついたのだ。
「おばさん!」
ジュンは叫ぶと、おばさんの元へ元気よく駆けだした。
「ふぇ? あら、あーりゃま、ジュンちゃんじゃないの!」
おばさんは輪から抜けると、ジュンの元へ駆けてつけようとして…こけた。
「おばさん! 大丈夫ですか?」
ジュンは急いで彼女を抱え起こす。
「ありゃ、ありゃまぁ、ジュンちゃん、ありがとう。」
彼女はでへでへ笑いながら、視野を邪魔する前髪を分けて、彼と向き合う。彼女の顔は真っ赤にほてっていた。
「どうしたの? おばちゃん」
「ジュンちゃん、ほら、おのど渇いてるんじゃない? おばちゃんいいもの持っているのよ〜」
おばちゃんの口から吐き出される異臭―嗅いだこともないアルコール臭に、ジュンがひるんだのも仕方ない。
「…おばちゃん? それよりあの塊、壊さないことになったの?」
「あぁ、アレ? 余りにも硬くてぇね、なぁかなか、壊れないもんだから、皆諦めちゃったぁ!」
おばさんはそう答えると今度はゲラゲラ笑い出すではないか。ひとしきり笑いが収まると、こう付け足した。
「でもねぇ、明日ぁ、仙人様が来てくれてぇ、あれ壊してくれるってさ。」
「え!」
ジュンは目を丸くして驚いた。
嘘だ、あの逃げた連中が再び帰ってくるだなんて……。奴らが一旦ここを離れたのは、あの塊を処分するために何かしら海で準備をする必要性があったから、ってことなのかな?
「そうか。それならあの門兵が帰って来なかったのも、うなずけるなぁ」
「ふぇ、何て?」
ジュンの呟きに反応し、おばさんがぐいと顔を近づける。
「い、いや、何でもないです。明日、仙人様が来て下さって、この猛毒を駆除してくれるなら、ありがたいなー、と」
「は? 猛毒? なに言っちゃっているの、ジュンちゃん! 前にも説明したでしょう、あの中には、お宝があるのよ! それより、さぁ、これを飲んで。幸せな気分になれるわよ!」
ジュンは顔をしかめてこう答えた。
「おばちゃんの、その状態は、幸せなんかじゃない……そんなの、幸せなんていえないですよ。だから、僕は、いりません。水で十分です」
ジュンの予想外の返答に、ぽかんとするおばさん。ビンを片手に握った大男が突如現れたのは、そんな気まずい時のことだった。男の身長からして、どうやらおばさんと同様、移住民であるようだ。それにしては流暢な日本語で、大男は話し掛けてきた。
「おいおい、どうしたんだ? こんな時にガキと喧嘩か?」
目をぎらつかせて二人の間にぐいと割り込んでくる。ジュンは身の危険を感じ、唾を飲み込んだ。
すかさずおばさんは、その大男に訴える。
「ねぇ、ねぇ。聞いてちょうだい、あなた。この子ね、私の近所の子なんだけど、日頃あんなに、私が世話を見てあげているっていうのにね……ぐすっ、これを飲まないって言うの。飲まないばかりか、飲んで、幸せちょーハッピー気分だった私を、みっともないなんて言って、侮辱してくるの!しかもよ、私達が壊そうとしているアレの中に、猛毒が入っているなんてデマを言い降らして、宝物を独り占めにしようとしてくる始末よ!!」
「デマ? 独り占め?そりゃ、お前さん、いくら幼いといえど、聞き捨てならねぇいたずらだな~」
次の瞬間には、きょとんとしていたジュンは大男に、ひょいと掴みあげられていた。
「は、離せ、離してー!」
ジュンが喚くのもなんのその、彼は無言で、あのカプセルの山にジュンを放り投げてくるではないか。
「痛い!」
悲鳴をあげ、カプセルの隙間にうずくまるジュン。大男はそんなジュンを尻目に、今度は大きな声で次のようなことをわめき出した。
「おいおい、皆、聞いたか? このヤセッチョ、俺達を騙してここから追い出し、宝物を独り占めしようとしやがった! 許しておけねぇよな、なぁ?!」
ざわめく広場。あんなに、愉快に響いていた歌声も笑い声も、その男の一声で全て、怒号の声に塗り潰されてしまう様をジュンは全身で感じた。
ようやく顔をあげたジュンが見たもの、それは自分に向かって一直線に飛んでくる瓶や缶だった。例の大男のタックルをかわし、瓶や缶が破裂して液体を撒き散らす中、ジュンは死に物狂いでカプセルの山をよじ上っていった。もうそこにしか、逃げ道を見出だせなかったのだ。
「おい、逃げるぞ!」
「追え、追え!」
「誰か回り込んで、待ち伏せしてやれ!」
ある程度の高さに達すると、今度は大人達の罵声が後ろから次々と降りかかる。彼らはまるで、正義を振りかざし人が傷つくのをものともしないような類のゲームで遊びはしゃぐ、大きな子供のようだった。
ジュンはやっとの思いで頂上のカプセルを乗り越え、カプセルの山を転げ落ちるような格好で下ると、傷ついた足を引きずりつつも闇の中へ一目散に走っていったのだ。
※※※
上半身が裸な、全身傷だらけの少年が息をきらせつつ、黒く鋭く天に突き出したビルに辿り着いたのは、満月に近い月が山からその全身を現した時であった。彼は呻きつつ、涙をポロポロこぼしつつ、ビルの扉を押し開ける。すぐそこに、最上階へ続く長い階段が彼を待ち受けていたわけだが、暗いし、何より傷が痛むので、最上階―姉を見送ったあの場所へ行くことは断念した。ビル内は静かで、まるであるべき夜のたまり場のよう。少年はほっとため息をこぼすと、その一階のロビーへと入り込んだ。数日前には無かった黒いソファーが、いくつも置いてある。よくわからない物どものかけらも散らばっている。その一つのソファーの下に、何か月光をうけて輝く物を見つけた彼は、急いで行って取り出してみた。それはなんとまぁ、紅茶の入ったペットボトルと、ビニール袋に入ったおにぎりだった。それらが口に入れられる物であるということを昼間見知ったばかりだった少年は、ためらわずにそれらの封をむりやり開けて、飲み、食べた。紅茶もおにぎりも、最高においしく感じた。
あぁ、良かった。これで僕は歩ける……明るくなったら、すぐに帰ろう。そうだ、河づたいに行ったら、早いし安全だったな。臭いけど。明日は、河原を歩いて帰ろう。
少年は、上半身の寒さに震えつつもソファーに寝転がろうとして、あっと息を飲んだ。すぐそこの床に置かれた、立派なコートの存在に気付いたのだ。
へぇ、しっかりしたコートだな。昼は暑く思うだろうけど、羽織って帰ろう。今年の冬はこれがあるから、まだ心強いな。いやー、今日は嫌なこともあったけど、いいものいっぱい、もらっちゃったや。
「ありがとう、姉ちゃん」
そう呟いて、ソファーに寝転がる。その寝心地は抜群で、数秒でぐっすり眠れそうなほどであった。コートをひきよせようとした時、彼は、ほんの少しだが、コートから死んだ姉の香りを感じ取った。
……あれ、おかしいな。気のせいかな?きっと気のせいだろうな。姉ちゃんに会いたいからって、勝手に思い込んじゃっただけなんだろうな……
少年はそうして、深く安らかな眠りに、おちていったのだった。