現代社会アポトーシス
まず、
自然災害に見舞われ、命を落とされてしまった方々のご冥福を、切に願います。被災地のいち早い復興を、お祈り申し上げます。
内容が内容なので不謹慎に思われる方もいるかもしれませんが、
今のところ、掲載しつづけようと思います。
それはこの小説が、単に破滅していく世界を嘆くためだけに書かれたわけではないから、です。
終わるだけの世界はどこにもないと私は信じているのです。日本だって、そう。
今幸運にも生きている私達はどういうモットーで生きるべきなのでしょう?この物語を通じて、私なりの答を、皆様に順次提示していくつもりです。
第一巻ではなく、第ニ巻の方でより一層。どうかその点、ご理解願います。
いろいろ回りくどくなるとは思いますが、気長にお付き合い頂けたら幸いです。第一巻は暗い内容ですが、その中でも光を見いだす意欲のある方は、ぜひお読み下さいませ。
よろしくお願いします。
※(2011年4月14日)小説の題名を『終末論Ⅰ』から、『Second Hand!』に変更させていただきました。
作者「終末を夢みてたっていいでしょう? 今にも崩れそうなこの世界で、終末を語らずに生きろ、という方が無茶です。私はそんなに愚かではありません」
○「そうですね……小説の世界で、なら」
“Second Hand=秒針。時を刻む三本の針の一つ。”
物語は朽ちていく?
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現代社会には 実に二つの毒が ひそんでいるらしい
現代社会アポトーシス
と
現代社会ネクローシス
……危なっかしいよね。
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第一章:現代社会アポトーシス
アポトーシス:正常な生理的条件下で、自身がひき起こす細胞死。
(略) 旺文社 生物事典 四訂版より
とあるクリスマスの夜、やはり街全体が明るかった。整然とたち並ぶ街路樹までもが、光の球を何万個も身に纏い輝いている。枝元で渦まくコードの存在を覆い隠してしまうくらい、それは激しく。
行き交う人々は誰しも、街に流れる例年通りのクリスマスソングにどこか安心したような面持ちであった。理由は皆同じ、あと数日もたてば、世界壊滅がおこる年と遠い昔に予言されたこの一年が事もなげに過ぎ去ったこととなるからである。一旦年をまたげば、これだけ騒がれている破滅の予言も、人々の記憶からすっかり消しさられていくのだろう。
きっとこの年が終わりさえすれば、確実に約束された一年を再び手に入れることができる−−
誰もがそう、信じて疑わなかった。だからこそ、人々の行動には焦りと祈りとが伺えたのだが。東京のど真ん中、一際目立つ高層ビルの屋上においても、一人の男がひたすら祈っていたのだった。
※
これは、都会でも有名な高層ビル、その屋上でくり広げられたお話。
一人、若い男の警官が、買ったばかりの缶コーヒーで両手を温めつつ欄干にもたれ、わきたつ下界に白い息を打ちつけていた。先ほどからズボンのポケットから携帯を取り出してはしまう、を繰り返してばかりいる。
「あぁ、神様」
若い警官はうめくようにつぶやくと、いつまで待っても何の反応も示さない携帯を完全にしまい込み、頭を抱えこんだ。別にその警官は、何の宗教も神様も信じた覚えはなかった。しかし、愛する妻が病院で陣痛にもだえつつ娘を出産しようとしている今日この時だけは、別だった。
「娘が、リカが、無事生まれますように。妻が、元気でいられますように」
彼の切なる祈りは、下界に渦巻くどんな祈りよりも普遍的で単純な祈りのよう。冷たい風は、彼の存在の小ささを嘲るかのごとく、彼をつき抜けるばかりで一向に止まない。視界の端でちらちら映ろう街の灯に、なぜか、苛立ちを覚えずにはいられなかったその警官は、とうとう両手で顔を覆ってしまった。そうして何もかもから目をそむけてしまったのだ。
そもそもこの警官が担わされた、どうしても抜け出せない運命の元凶は、このどうしようもない情報社会自体にあった。
さかのぼること一ヶ月前。クリスマスの飾りがいたる店先に顔を覗かせはじめた頃、とあるチェーンメールが世界中にはびこり、全世界の国民を怯えさせたのだ。その内容は、実に次のようなものだった。
UFO comes to the earth at X'mas.
結局、そのメールの発信元はいくら調べても判明されなかったこともあり、同じメールを受け取った誰しもが、例の予言はあの聖なるクリスマスに実現するのかと、唖然としたのも仕方ない。いつしかそれは、軍までもが動き出す騒ぎにまで発展していった。不安がる国民をなだめるべく、いざという時に備えて戦隊及び監視体制を強化させるといった現象が、世界各地でおこったのだ。そして小さく長細い列島の、さらに小さくてこまごまとした首都にあるこのビルの屋上も、残念ながら部隊拠点の対象となってしまった。
妻の元へ駆け付けようとした警官が、結局ひきとめられてここで仕事をしているというこの一連の流れも、いわば、不運以外の何でもなかったのだ。
あぁ、警官なんかにならなければ良かった。
自分に突如ふりかかった不運を思い返し、思わずぎゅっと目をつぶった、その時のことだ。ふと背後に、誰かがいるような感覚を覚えたのだ。警官は目をぱっと開けると素早く振り返り、夜闇に懐中電灯の光をたたき付ける。
「?!」
警官は目を丸くした。しばらく、脳みそが空っぽになってしまったかのような未知の感覚に、全身がしびれてしまう。そこには見覚えのない少女が座り込んでいたのだ。少女の様子には、目に余るものがあった。今にも折れてしまいそうな細い腕と足。信じられないくらいに膨れ上がったお腹。そして何より、痩せこけた頬とやつれた髪―ノミまみれの髪には似合わないくらい、大きく見開いたあどけない瞳。少女は薄汚れた黄色いスカートをまとい、裸足を前に突き出して無気力に地べたに座り込んでいた。まるで昔からそこにいたかのような面持ちで。しばらくしてようやく、のろのろと動き出した警官の思考回路が真っ先に引きずり出したイメージ像は何を隠そう、いつかの教科書で見かけた、餓死寸前の子供達の姿だった。
警官は彼女に話し掛けようと口を開けた。しかし、肝心の言葉が出てこない。あわてふためく警官の様子が面白く思えたのだろうか。少女はふんにゃり笑うと、かすれた声でこう呼びかけた。
「わたしのひいひいひいおじいさん、こんばんは」
「……え?」
警官はさらに目を丸くすると、少女をじっと見つめる。少女は平然と話しつづける。
「今さっき、リカちゃんが、って言ったでしょ。それ、わたしのひいひいおばあさんなの。だって、ほら」
少女はよれたポケットからずいぶんと古びたキーホルダーを取り出した。男は近づいて覗き込み、思わずぎょっとした。何とそれは、生まれるリカの為にと妻と二人で選んで買った、『リカちゃん』と刻まれたキーホルダーにそっくりだったのだ。
「私もリカって名前なの。だから、ひいひいひいひいおばあさんのキーホルダーをつけることができるのよ。ま、つける場所なんか、どこにもないのが現状だけどね」
「君は、一体……?」
「あれ、わからない?あんた達の言う、『未来』からワープしてきたのよ」
「未来から来たのか。その体で?」
「うん。何しろ食べ物も、エネルギーも、物質も何もないのだもん。私達の時代には、全てなくなってしまっていたのよ」
警官が青ざめる一方で、少女は平然としゃべり続けた。
「何でおどろいているの? 『未来』がこうなってしまうことぐらい、予想できていたのじゃないの? あなた達の時代から」
「あぁ、そうだな。そういう予想もあった。だけど、本当にそうなるとは」
警官は、罰の悪そうな顔をして彼女から一歩退いた。初めは軽くやり過ごしてやろうと思っていた。しかしその口調、様子、台詞からして、相手はただ者ではないらしい。
こいつは気が狂っているんじゃないか? それとも……もしかして本当に……?
少女は、動揺する警官の全身を、見下すような目つきで眺めつくした後、こう吐き捨てた。
「バカね。何考えこんじゃってるの? あなただけをせめたって何もおこらないだろうから、私はあなたに何もしないわよ。ただ、お客様に何もしないのは、しつれいじゃなくて?」
「あー、そうだな。うん」
警官は、まだ温かいコーヒーを突発的に握ってみはしたものの、そこで困ってしまった。彼女がコーヒーを飲めるような年代にはどうしても思えなかったのである。
「あそこに何かあるのじゃないの?」
後ろから、少女の声が覆いかぶさる。
「そうか。そうだな。すまない」
警官は少女の横を過ぎると、彼女が指差した先―出口付近に設置された、自動販売機の前に立った。少女は、地べたに座り込んだまま、振り返ることすらなかった。
警官は280mlの温かい紅茶を彼女に買ってあげようと、販売機にコインを入れて、そこでようやく我に帰った。
何をやっているのだ、俺。正体の知れぬ人を相手に……
警官は後ろをちらりと振り返った。少女はただ、しげしげと夜空を眺めるばかりいる。しかし、彼女の体型と言動の“異常さ”から、警官は彼女を警戒せずにはいられなかったのだ。
困ったな。彼女をどうしろっていうんだ?
警官は、ポケットの中からそっと携帯電話を取り出す。何も光らない携帯は、ものすごく寂しそうだった。
くそう、まだ誰からも連絡がないってか。リカはまだ生まれてないってか。うーん、どうしよう。あの少女を通報するべきか、否か。どちらにしても、彼女を連行しなければならないのは確かだろう。だけどそのタイミングが、まるでわからない。持ち場を勝手に離れても怒られるだけなのだし。
警官は彼女の扱いに戸惑いつつも、販売機のボタンをしっかりと押した。
ゴロンガロン
鈍く響く音と共に出て来た紅茶のペットボトルを拾いあげると、警官はゆっくりと彼女の元へ帰っていく。
「ほら、紅茶だぞ。熱いから気をつけろ」
「こうちゃ……? 何それ」
警官は、首を傾げて彼を見上げる少女の顔をまじまじと見つめた。
この娘、本気だ。本気で、紅茶を知らないのだ。一体、どんな環境で育ったらこうなるというのだ? まぁいい。どうせペットボトルのキャップの開け方とかも知らなさそうだし。
警官は黙ってペットボトルのキャップを開けると、そっと、少女の手の平―−それも今にも崩れてしまいそうな、骨がくっきり浮かんだ手の平の中へそれを置いた。
「わぁ、あったかい」
「ゆっくり飲めよ。熱いから。」
こくりと頷く少女。
警官は欄干にもたれると、ふうふう言うつつ、そっと紅茶に口づけをする彼女を遠目に見守った。一口飲む度に少女は嬉しそうに微笑む。そんな様子を見つめていた警官の心に、いつしか、新しい感情が芽生えていたのは言うまでもない。
きっと、娘が、リカが産まれたら、俺は娘に対しても、こんなことをする日が来るのだろうな―。そしたらリカも、こいつのように、微笑んでくれるのかな。いや、いけない、いけない。何を考えているのだ、俺。そんな場合じゃ、ないだろう。
油断してはいけないというのに。
警官は俯くと、頭を左右に振ってみせる。
落ち着け、自分。第一、俺の娘のそのまたひ孫が、こんな無様な目にあうわけがないじゃないか。
勢いで、深呼吸をしてみる。そうしたら、新しい酸素を手に入れた彼の脳みそが、偶然にも新たなアイディアを編み出してきたではないか。
そうだ、いくつか質問をして彼女を試してみよう。ちょうど、気になることもあるし。
「なぁ、お嬢さん?」
少女は紅茶を飲み干すと、警官の方を見上げた。
「何かよう?」
「君、未来から来たのだろう。」
「ええ、そうよ」
「ならば、俺がどう生きたか、どう死んだか、いつまで生きたか、知っているんじゃないか?教えてくれよ」
警官は身をのりだして彼女に尋ねた。少女の方はというと、そんな警官をまるで忌ま忌ましい獣を見つめるような冷たい視線でなだめると、こう答えた。
「知っているわけがないでしょ。だいいち、あなた、自分のひいひいひいひいおじいさんが、どう生きて、死んだか、言えるの?」
警官はそこで、つまってしまった。少女のまなざしに潜むあまりの冷ややかさに、急に自分が恥ずかしくなってしまったのだ。
ダメだ。年代が離れすぎた。しかも、彼女に、不信感を抱かれてしまったぞ……いけない、いけない。
自分の情報を聞き出そうとしたのが逆効果だったか。こんな調子じゃぁ、いつまでたっても、彼女の正体がちっともつかめないじゃないか。
「すまない、君の言う通りだ。まったく……」
警官は数歩さがった。そして、しゃがみこむ。彼女と同じ視線で、一番不思議に思ったことを素直に問いただすことにしたのだ。
「それにしても、君、どうやってここに来たのかい?」
「くわしいことは言えないわ。タイムマシーンにのって、スリップした。それぐらいかしら。でも、たしかなのは、この時間軸は、ただの過去にすぎないってこと。あなた達の伝統が、文明がどうであろうが、私達には関係ないし、そもそも、何の参考にもなっていないのよ。あ、でも、エネルギー問題では直結してくるけどね」
「どうして……どうして、そんな、全く参考になっていないだとか、断言できるのかい?」
「だって、あなた達だって、そうなのでしょう。エネルギーも何もなかったころの世界が、参考にならないように、私達にとって、エネルギー資源にたよってばかりのこの世界の文明は、何のたしにもならないのよ。言いすぎたかしら?」
胸の奥に存在全てを否定されたかのような感覚を覚えた彼は、どこか語調を強めて少女に尋ねた。
「あぁ、半ば認めてあげるよ。でも、それが、どうしたって言うのだい?俺達がいなければ、君はいないのだろう。俺達の文化が役立たないからって、君は……君、何をするつもりだ? 何をしに来た?」
「あのね、あなた達の文明がそこなわれて、元の文明に逆もどりするのと、私達の時代が、このままとだえて、地球がリセットされるのと、どっちがイヤ?」
「どっちも……嫌だな」
「ちがう、ちがう。あなたは何にもりかいしていない。もしかして、あなた、『輪廻』のシステムを知らないの?人間は、おそかれ早かれ、人間に生まれかわるのよ。科学的にもしょうめいされているわ。私達の時代が、とだえるってことは、あなたの生まれかわる先の未来も、永遠に失うことになってしまうことになる」
少女が警官から目をそむけることはなかった。一通り言い終えると、ふらつきながらも棒のように細い足を踏ん張って、立ち上がったのだ。今度は、警官が彼女を見上げる番だった。たたまれた足がしびれていくのも忘れ、若い警官は、少女から語られる不可解な情報の数々にのまれ、いつしか動けなくなっていたのだ。
「ねぇ、警官さん? 私が思うに、来世の自分の人生にかけてみたらどうかしら? だって、今のこの星のじゅみょうって、せいぜい80年少しなのでしょう。未来の私達の世界は、160年は元気に生きる技術があるのよ。ただ技術に必要な物がなくなってしまって、できないけれど。もどかしいでしょ? そこを、あなた達の力で、かえたいと思って、私はここに来たのよ。いい? あなたは、救世主になれるの」
しばらくの沈黙。警官は彼女の言う事の大きさ、重さを、疑いつつも初めてその肌で感じとったのであった。やがてその衝撃は、彼の彼女に対する警戒心を和らげていくことになる。警官は唇をかみしめてしばらく考えた後、彼女にこう返した。
「そうか……そうなのか。うーむ。このまま、来世が保証されないのは、嫌だな。いやー、いいことを教えてもらったよ。寒いだろう? 君に、これをあげるよ」
警官はゆっくりと立ち上がり、温かいコートを脱ぐと、そっと彼女にかけてあげた。彼の肌を刺すような、それは冷たい冷気が一気に彼に襲い掛かってきたのだが、心の温もりが、それを打ち消した。コートを得た少女がほほ笑むことは無かった。
「それだけじゃぁ、物足りないわ」
少女は警官を見上げると、そう訴えかけてきた。
「そっか。それなら、」
警官は相変わらず冷たい返答に少し戸惑ったが、欄干のそばに置いてあった白いコンビニの袋から、おにぎり―彼の夕飯の一部を取り出すと、丁寧にその包装をはがして彼女に手渡した。彼女は目を輝かして、そのおにぎりにかぶりついた。ものすごいスピードで、おにぎりを一粒残さず平らげる彼女を眺めつつ、警官は自分の心が満たされていくのを感じた。
「……これで俺は、君の救世主になれたかな?」
「今日のところはね」
感謝を言う気配すら見せない、冷ややかな彼女の態度。しかし、警官は、自分の行為にすっかり満足していたので気にしなかった。
警官になって、よかった。そうだ、俺は、困っている人を何かしら助ける権利を得るために、警官になったんだ―−
「ありがとう。リカちゃん。いろいろと目が開けたよ。これからは、もっともっと、資源を大切に使うね。パトロールは、白バイを止めて、自転車にするし、紙や袋の無駄つかいに気をつけるよ。冷暖房も、なるたけ使用を控えよう。君の暮らす未来が、少しでも良くなるために」
真剣な面持ちでそう宣言する警官だったが、彼女の方はそんな彼をなんと、くすくすとあざけ笑ってくるではないか。思わず首を傾げた警官を前に、大きく息を吸い込むと突然、少女は、大声でこう叫んだ。
「それだけじゃ、物足りないんだってばーーーーーーー!!」
警官は、思ってもみない彼女の音量にひるみ、顔をしかめた。
「な、なら、一体何が、君に、必要だっていうのだい?」
警官は欄干まで後ずさりすると背後に手を回し、さっと袋の中にまだ食糧が入っているのを確認した。少女はじりじりと警官に近づくと、震え上がって目をぎゅっとつむっている彼の耳元で、こうささやいた。
「ねぇねぇ、警官さん、何をしに、私がここに来たと思う? 地球にわずかに残された、エネルギーをすべて使いつくしてまでして」
冷や汗が頬をつたうのを感じつつ、警官はかすれた声で少女に尋ねざるをえなかった。
「な、何をしに……来たっていうんだい?」
「あなた達が、ひどい世界大戦を起こした過去の人々を責めるようにね、私は、むだ使い―地球にあまえ、地球を傷つけることから、のがれられそうにもないような、かわいそうなあなた達を責めつつ、少しでも楽にしてあげるために、やってきたのよ」
「何が、どう楽になるっていうのだい?」
「そんなむずかしいこと、説明しきれないわ。ねぇ、警官さん。ホントに私の救世主なら、すなおにいいよって言ってちょーだいよ。現状を、未来を改善する許可を、私にちょうだい。ねぇ」
少女は、細い腕で必死に、警官の上半身を欄干に押し付けてくる。むろん警官には、そんな少女をつき飛ばして起き上がり、公務妨害の罪で彼女を逮捕する技術ぐらい持ち合わせていたのだ。しかし肝心のその勇気が、出てこない。どこか遠い所に置き忘れてきてしまったかのようだった。その少女のあどけなさ故、少女の体のもろさ故、少女の謎な発言故―言い訳は、後から後から途切れることなく浮かんでくる。そしてそれが、彼に、最大の判断をもたらすこととなる。
警官はじっと少女と向き合うと、息をきらせつつ尋ねた。
「本当に、現状を、未来を明るくしてくれるんだろうな」
「うん。ぜーったいできるから、まかしてっ」
「あぁ、いいよ。それなら、していいよ。さっさとして、俺の側から消えておくれ」
ようやく見れた少女の微笑みは、彼にとっていつのまにか、忌ま忌ましいもの以外の何物でもなくなってしまっていた。
「ありがとう、警官さん」
彼女は、立ち上がった。そして彼の服を羽織ったまま、突然、欄かんの上にひょいと飛び乗るではないか。
「ちょっと、君、何をするのだ!やめなさい!」
驚いた警官は起き上がり、少女の足を捕まえようとした。しかし少女の足はなぜか透き通っていて、何度手を動かしても触った感覚すら得ることはできなかった。
こ、こいつ、もしかして……幽霊だったのか?!
息をのんで呆然とする彼を見下しつつ、彼女はこう最後に、ゆっくり、言い残した。
「警官さんに、そうだね、いいことがあったら、いいねっ」
それだけを伝えると、彼女は天へふわりと浮かび上がり、ただの暗い闇の中へ、すーっと姿を消してしまったのだった。
「おいおい、マジかよ。何の都市伝説だよ、今の」
その時だ。目をしきりに擦る警官の視野を、すっかり冷めてしまったコーヒーがそっと過ぎて行くではないか。ただ、上へ、夜闇のほうへ……
「え、あれ?!」
それは、コーヒー缶に限ったことでは無かった。レジ袋やその中に入った弁当までもが、ぶるぶる震えた後、見えない力で上へもち上げられていく。
警官は次の瞬間、あっけにとられた。
眼下に広がる街中から、いろんなガラクタが、ある物は人々の悲鳴を振り払って、あるものは外されたガラス窓の後をつけるような感じで、次々と空中に溢れだしは、上へ上へと昇って行くではないか。
ビリビリッビリ
その音の大きさと、ズボンが引っ張られたかのような感覚に、はっと我に帰った警官は、自分の携帯がその先端部に緑の光を点滅させつつ、のぼって行くのに気がついた。
「ま、待てっ!」
警官はがむしゃらに携帯に飛びついた。もう、何が起ころうとしているかなど、考える暇はなかった。うっかり、メールの受信ブザーを聞き逃した自分を、メールを開くにあたり暗証番号を設置していた自分を、ただ急激に憎んだ。今にも分裂して天へのまれていきそうな携帯に、彼は必死にしがみついたのだ。そして、見えない力との死闘の末、昼間以上に明るく光り出した空の中、途切れかけた携帯の画面にわずかに映し出された真実を、警官はこの目で確かに受信したのであった。
ウィィィィィィィイイイイイイイイ
耳の奥をこがしてしまうかのような低持続音を全身に浴び、警官は、粉々に分解され、光の中へ消え行く携帯を、見送ったのである。手放した反動で全身を床に叩きつけても、なお。
そこに、天使はいなかった。
そこに、理屈は存在しなかった。
そこには、神も仏も、何もなかったのだった。
ただ、未来にも過去にも見捨てられた現在が、静かに横たわっているだけで。
それなのに、むしろ何もなくたっていいという境地に、彼は達していたのだった。
家族があれば、命さえあれば……
※
これは、廃墟でも指折りの馬鹿でかい粗大ごみの上でのお話。
警官の服を着たある父親が、倒れていた。白い息を断続的に空に打ち上げる彼は、生まれて初めて見るような美しい満天の星空に抱かれ、ひたすら泣いていた。誰にも聞こえないような低い声でひくひく笑いつつ、冷たい涙を滴らせていたのである。
あぁ、西の空でひときわ輝くあの星は、今を生きる人々に一体何を語ってくれるというのだろう?
…第二章につづく