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海辺のピアノ

作者: 諏訪 惠
掲載日:2026/03/01

海辺に住む少年は、ピアノの音と共に育ちました。大人になった少年が戦争から帰ってきたとき、残っていたのはピアノの音だけです。それは母の声でした。

1.

 ゆりかごに揺られて眠る赤ん坊の頬を、婦人の指がそっと撫でました。その頬はやわらかく、ほかほかと温もりを届けてくれます。少しだけつまむようにしてみると、赤ん坊は笑ったように見えました。婦人が微笑んで窓の外に目を向けると、穏やかな海はもうじき夜明けを迎えようとしています。


2.

 子どもが目を覚ますと、枕の隣に小さな箱がありました。白い包み紙に赤いリボンが結んであります。開いてみると、中にはミニチュアのピアノが入っていました。音は出ません。手のひらの上で、ピアノは泣いているようでした。子どもは首を傾げて、そっとピアノにキスをしました。もう起きる時間です。窓際にピアノを置いて、子どもはベッドを降りました。

 少年がランチの準備をしていると、どこからかピアノの音が聞こえてきました。何もない砂浜に響くその音は、波の音と戯れているようです。少年は振り向いて、部屋の窓を見上げました。遠くに見えるその部屋には、今は誰もいないはずです。隣に座っていた少年の父親が、目を細めて笑いました。砂浜でランチボックスを広げる親子の髪を、潮風がやさしくなびかせていきました。

 青年が家に帰ってくると、部屋にピアノがありました。これは誰のものでしょう。そっと鍵盤をたたいてみると、柔らかな音が鳴りました。けれどそのとき、青年の頭は学校のことでいっぱいだったのです。青年は裕福でなかったので、仕官学校に合格するには勉強するよりほかにありませんでした。窓からは、さんさんと午後の陽の光が降り注いでいます。弾き手のいないピアノは、それでもその光を受けて美しく歌っているようでした。

 大人が皺の刻まれた手を握ったとき、しわがれた声がピアノの音をねだりました。大人は戸惑いましたが、年老いて床に伏した父のため、ピアノの蓋をあけました。大人は明日、戦争へと出かけなければなりません。奏でた和音は悲しい音でした。年老いた父はもう一度大人の手を握り、いつまでも一緒にいると約束してくれました。一人ぼっちの大人とピアノだけが、うす暗い部屋に影を伸ばしていました。


3.

 太陽のない空は、果てのない闇のようでした。どこを目指して、何に向かって飛んでいるのでしょう。誰も教えてはくれません。飛行機のはるか下で燃え上がる町並みだけが、唯一の灯りでした。けれどその光の方へは、決して行ってはならないのです。長く暗い、恐ろしい時間が流れていきました。

 目的もわからずに飛んでいたので、どこに帰ればいいのかさえ、男にはわかりませんでした。昔、海辺に小さな家がありました。けれど、それはもはや影すら残していないでしょう。美しかった砂浜にはあらゆるものが流されてきて、昼でも見るのを憚られるでしょう。誰が悪いのかなど、男にはわかりませんでした。誰も悪くなどありませんでした。戦争には勝ちました。勝ったところで、何も残されてはいないのでした。

 彼は暗い海辺へと出かけていきました。そこしか行き場がなかったのです。穏やかなさざ波に胸まで浸しながら、彼は昔父が語ってくれた言葉を思い出していました。お前の母さんはこの海にいる。世界は海で繋がっているのだから、お前が一人になることはない。お前は母なし子だが、世界を恨んではいけないよ。どうかこの海を見るたびに、この言葉を思い出しておくれ。

 母の胸へ行きたくて真夜中の海に沈もうとする体は、ゆりかごに揺られる赤ん坊のようでした。いつか聞いた父の言葉は本当でしょうか。だから自分は、やさしい海の底へは行けないのでしょうか。そう思うと悲しくて、穏やかに頬を撫でる風にむせび泣きながら、砂浜にその足を着けるしかないのでした。するとその時、どこからかピアノの音が聞こえてきたのです。振り返っても、そこには何もありません。

「ああ、母さん!」

真っ暗な砂浜に響く泣き声に、海辺のピアノはいつまでも寄り添っていました。

 水平線の向こうから、白々とした光が射し始めます。夜明けです。その人は立ち上がりました。果てしなく世界を照らす夜明けのように、その人は愛されているのです。そしてこのとき初めて、その人も世界を愛したのです。

 あるところで、一つの新しい命が生まれました。ゆりかごに揺られるその頬をそっとつつくと、ほかほかと温もりを届けてくれます。それを見た誰かはほほえんで、ピアノの音を奏でたのでした。


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