第十四話
横を向いたフランシスの閉じたまぶたから、涙が流れ落ちた。
(こいつは、涙まできれいだ)
そんなことを思ったあと、感動している場合じゃないとショーンは我に返った。
夢にまで見た瞬間が訪れようとしているのに、体が硬直して動かない。
抱きしめて、キスして、自分のものにしたいとあんなにいつも思っていたのに。
けれどもそれはこんな形じゃないと、頭の片隅の冷静なもう一人の自分が囁く。
泣かせたくなんかない。いつも笑っていてほしかった。
あの自信に満ち溢れたきれいな顔で、笑っていてほしかったのに。
「ちくしょおーっ!」
まぶたをきつく閉じて大声で叫び、ショーンはフランシスの顔の横を拳で強く叩いた。
驚いて目をあけたフランシスが、そのショーンを呆然と見た。
「こんな形じゃないんだ! 俺が、俺がいつも願っていたのは、こんな形じゃない! 俺はお前を幸せにしたいのに! いつも笑っていてほしいのに! こんなことしたら、お前はきっともっと苦しむ! 今よりもっと不幸になる!」
そしてショーンは何度も何度も拳でベッドを叩いた。
「なんでわからないんだ!? なんでそれがわからないんだよ、フランシス! お前、自分の子供を守るために顔を切り裂いたんだろ!? 神様に、女でいたいって言ったんだろ!? ディアスの国王を殺したのだって、何より生まれてくる子供のためって言ってたじゃないか!? それなのになんでこんなふうになっちゃったんだよ!? どうしちゃったんだよ!? あの強かったお前はどこいっちゃったんだよ!?」
ショーンは泣いていた。
「マリオン殿下の子供なんか産んでほしくないよ。結婚してほしくないよ。だけど……だけど……お前が不幸になるのはもっといやだ……」
「ショーン……」
フランシスはゆっくりと起き上がった。
「なんでだよ……。なんで……」
「僕にも……わからない……」
両の拳を目に当てて泣いているショーンから、フランシスは目を逸らした。
「僕の母上は……25歳までしか生きられなかった……。僕を産むために死んだから、僕が殺したようなものなんだ……。その亡くなった日に僕が身ごもったら、その子は母上の生まれ変わりかもしれないってマリオンに言われて……僕は馬鹿みたいにその言葉を信じて……信じて……。本当に、その日に妊娠したから、この子は絶対女の子だと思ってた……。母上の分まで……僕が母上を不幸にした分まで、絶対に幸せにするんだって……」
黙って話を聞いていたショーンは、フランシスの右手を強く握った。
「結局僕は、父上の言う通りまだ子供だったんだ。母親になる覚悟なんかできていない……。男の子だって聞いて……何かが……僕の中で崩れた……。グラディウスが……戦の神が僕を男にしなかったのは、このためなのかって……。この子を……戦場に立たせるためなのかって……。人殺しにするためなのかって……」
「戦場で戦うことは、人殺しとは違うだろう」
ショーンは、うつむいているフランシスの顔を覗き込んで言った。
「僕は、普通の戦士とは違う。何も考えなくても、体が勝手に動く。僕が男の子を産むということは、兵器を産むのと同じなんだ」
「そんなの、俺からしたらうらやましくてしょうがないけど」
そんな貴重な子供を自分は亡き者にしようとしたのかと、ショーンは今ごろになって冷や汗が出てきた。
心底、思いとどまってよかったと思った。
「だけど確かに、強い戦士はアステラには必要だろうな。もしかしたら……今度の敵は、あのバルトワかもしれないんだから」
「え?」
フランシスは驚いてショーンの顔を見た。
「あのバルトワの雑誌の記事は、マリオン殿下をさんざん叩いたアステラの報道への仕返しだ」
言葉をなくしているフランシスに、ショーンは言った。
「みんな、胎教に悪いって言ってお前に知らせないようにしてるらしいけど、バルトワが反撃を始めたのにお前に知らせないのは、ちょっと違うと思う」
本当は、ただマリオンに愛想をつかしてほしくてあの雑誌を持ってきただけだったが、ショーンはついもっともらしい理由を言ってしまった。だが言ったあとで、どうせいつまでも隠しておけるわけがないんだからと、自分を正当化してみる。
そのとき、ドアをノックする音がして、ショーンは驚いてフランシスの体を乗り越えた。
「ショーン、起きてる?」
ロビンの声だった。
「やば……」
ベッドから飛び降りて、シャツがはだけた状態のフランシスを押し倒して布団をかける。
「ショーン、逆……」
ショーンもそのことに気がついたが、ドアが開いて今さら替わるわけにもいかない。
ロビンとオリバーが入ってきた。
「あら、もう起きて大丈夫なの?」
「は、はい、あの……、もう大丈夫です。治してくださって、ありがとうございました。あの……その……フランシスの方が、具合が悪いらしく……」
だが、フランシスはゆっくりと起き上がった。
シャツのボタンは布団の中でしめたらしい。
「ショーン、おじい様にはばれてる」
「えっ!?」
ギョッとしてフランシスの方を向いたあと、ショーンは気まずそうにうつむいた。
だがオリバーは、いつものように穏やかな顔で歩み寄ってきた。
「こらこそありがとう、ショーンくん。フランシスを助けてくれて」
そしてショーンに微笑いかける。
「さすが若さだな。もう回復しているとは」
本当は今の激しい動きであちこちの痛みがぶり返したが、ショーンはやせ我慢した。
オリバーはベッドに腰かけ、うつむいているフランシスの肩に手を置いた。
「苦しかったな……」
フランシスは顔を上げて祖父を見た。
「お前が苦しんでいるのはわかっていた。自分の力で乗り越えてほしいと願っていた。何も言わなくても、私が見守っていることはちゃんとわかっているだろうから。だけど、一人で乗り越えるには、大きすぎる悩みだったようだな」
フランシスの目にまた涙があふれた。
「お前には、国王陛下の強い戦士の血だけじゃない。医者として、人の命を慈しむ私やエレナの血も流れているんだ。苦しんで当然だ。むしろ、そういう優しい子に育ってくれたことを、私は誇りにも思う。お前のお母さんも、私や陛下がどんなに止めても、戦場に行って怪我人の治療をすることをやめなかった」
「僕を……叱らないの?」
「お前がどんなに苦しかったか、私が一番よくわかっている。お前に罪はないと言ってしまうのは簡単だ。だけど、人の命を奪っても痛みを感じない人間に、私はなってほしくない。悩んで、苦しんで、そして少しずつ成長していけばいい。母親になるからといって、完璧な人間じゃなくていいんだ。間違ったりつまずいたりしても、お前にはちゃんと助けてくれる人がいる。だが、決して忘れてはいけない。お前のおなかの中で育っているのも、紛れもなくひとつの命だ。お前が守ることをやめてしまったら、誰も守ってあげられない。今回はショーンくんが助けてくれたが、それは運がよかっただけだ」
「フランシス」
ロビンも歩み寄ってきてベッドの横にしゃがみ、フランシスの手を握った。
「私もあなたのおじい様と同じ医者だから、本当はあなたのしたことを叱るべきなんだと思う。でも私は、足かせで拘束されていても、幸せそうに子守唄を歌っていたあなたを知っている。流産したかもしれないと言って、泣きながら私の部屋に来たあなたも知っている。それがこんなふうに変わってしまったということは、それだけあなたが普通の精神状態じゃなくなってしまっているんだと思うから、叱る前にその対策を講じなければと思う。まずは、しばらく公務から離れなさい。本当は、忙しいくらいの方が気持ちが紛れていいんじゃないかって思っていたけど、その限界を超えてしまったんだわ。気づいてあげられなかった私も悪かった。とにかく、今は何も考えないで休みなさい」
「それは、無理です。父上はまだ……」
「ほら、自分がどんなにちぐはぐなことをしているか気づいていない。今回、もしも怪我したり流産したりしたら、結局公務どころじゃなくなっていたのよ」
フランシスは黙り込んだ。
その肩をポンポンと叩いて、オリバーも言った。
「お前やパトリシア王女が頑張っているから大臣たちも頼っているだけで、そうでなければしっかり代役をやってくれるはずだ。私が見る限り、みんな立派な人たちだ。信頼していい」
オリバーの言葉のあと、ロビンはフランシスの手を握る手に力をこめてきた。
「そしてもうひとつ、あなたが気づいていないこと。あなたがしようとしたことは、デヴィッドがエレナにしたことと同じなのよ」
フランシスは愕然としてロビンを見た。
そして首を振る。
「違う……。僕は……僕は……この子を苦しめたくないから……。僕みたいに……人殺しにさせたくないから……」
「じゃああなたは、生まれてこない方がよかったと思っているの?」
フランシスは、しばらくじっとロビンをみたあと、何も言えずにうつむいた。
そのフランシスを、ロビンはオリバーから奪うようにしていきなり抱きしめた。
「ごめんなさい。そうね……あなたはきっと、何度も何度も自分の運命を呪ったわね。どんなにか憎かったでしょう? デヴィッドが……。そして私が……」
フランシスはまた首を振った。
「違う……。伯母様は……伯母様も……辛い人生だったから……」
「そう。あなたは私を許してくれた。そしてあなたは知らないでしょうけど、デヴィッドも、私以上にひどい幼少期を経験したの。もちろん、やったことは間違っている。私も、過ちをたくさん犯した。でもあなたはちゃんと、その過ちの裏にあるものを見ることができる人間でしょ。そのあなたが、どうして自分を許してあげないの。私やデヴィッドよりももっと正当な理由のために人を殺した自分を、どうして許さないの。夢の中であなたを追いかけるてくるのはアイリーン王女じゃない。あなた自身なのよ。あなたが向き合わなきゃならないのも、王女じゃなくてあなたのおなかの子なのよ」
そのとき、ノックもなしにいきなりドアが開いた。
血相を変えたパトリシアが駆け込んできて、オリバーとロビンを押しのけると、いきなりフランシスの頬を叩いた。




