第十三話
自分の体の下敷きになって気を失っているショーンを見て、フランシスは全身から血の気が引いた。
「ショーン!」
大きな音とフランシスの取り乱した声を聞いて、使用人たちが集まってきた。
「ショーン! ショーン!」
「動かさない方がいいです! フランシス様!」
真っ先に駆けつけたディーンが、ショーンの腕をつかんで叫んでいるフランシスの体を押さえた。
「オリバー先生を呼んできて! 早く!」
ディーンの指示で侍女が走っていった。
やがてオリバーが駆けつけ、ショーンの体の隅々に手を触れた。
フランシスは、青ざめた表情のまま無意識にその場から距離を置いた。
少しくらい離れたところで、オリバーに心を読まれることからは逃れられないだろう。いまは全神経をショーンに向けているだろうが、遅かれ早かれ祖父は自分のいまの気持ちを見抜く。いや、もうとっくに見抜かれているかもしれない。
それでも、フランシスは後ずさりせずにはいられなかった。その足に何かが触れて、フランシスは下を見た。
紙袋から雑誌の半分が飛び出していて、その表紙は優し気な微笑を浮かべている恋人の顔だった。
ベッドに運ばれたショーンの枕元で、フランシスはその雑誌を読んだ。
「新しい正妃候補」という見出しが、その表紙をセンセーショナルに飾っていた。
その正妃候補としてマリオンと共に表紙に載っていたのは、去年の秋にバルトワで会ったことのあるクロディーヌだった。
そのクロディーヌが才色兼備の素晴らしい女性であること。マリオンに政略という名の婚約者がいても、側室候補の筆頭としてじっと日陰の身に耐えながらマリオンへの愛をはぐくんでいたこと。そしてとうとう、国王陛下が彼女こそ正妃候補筆頭だと宣言したこと。そんな記事が長々と書かれ、二人の仲睦まじい2ショットの写真が何枚も掲載されていた。
その写真はクロディーヌの誕生パーティーのものらしく、それは長居できないと言ってクリストファーの別荘からマリオンが帰っていった三日後のことだった。
フランシスは、二人の写真に想像した会話を当てはめてみた。
「誕生日おめでとう」
微笑するマリオン。
「ありがとう」
幸せそうなクロディーヌの笑顔。
「今夜、空いてる?」
顔を近づけて問いかけるマリオン。
頬を染めるクロディーヌ。
フランシスは音を立ててその雑誌を閉じた。
お前以外の女なんて目に入らないから――。そう言ったあの夜のマリオンの笑顔と、なんら変わらない写真の笑顔。
「嘘つき」
思わず、声に出してつぶやいていた。
ふと、視線に気づいて顔を上げた。
眠っていると思っていたショーンが、目を開けてじっとこちらを見ていた。
フランシスは慌てて立ち上がった。膝にのせていた雑誌が床に落ちる。
「気がついた? どこか痛まない?」
身を乗り出してそう問いかけた。
「いや……」
ショーンはゆっくりと起き上がった。
「少し痛いところはあるけど、たいしたことない。なんでだろうって不思議だったけど、お前のおじいさんが治してくれたんだな」
フランシスは大きく息を吐いた。
「よかった……」
そう言いながら再び椅子に座ろうとしたが、いきなり腕をつかまれ、強い力で引かれた。
「なんであんなことをした」
探るような、咎めるような視線と口調だった。
「ごめん……」
フランシスはその視線から逃げるようにうつむいた。
「ごめんなさい」
「謝れって言ってるんじゃない。なんであんなことをしたのか聞いてるんだ」
「足をすべらせた……。気分が悪くて……」
「そんなふうには見えなかった」
フランシスは顔を上げた。
「俺、下から見てたんだ。お前、周りに人がいないことを確認して、それから目を閉じて前に倒れた」
言葉を探しあぐねて、またフランシスはうつむいた。
「だいたい、二階から楽々飛び降りられるお前が、なんで足を滑らせたりするんだ」
「だから、気分が悪くて……」
「おい、正直に言えよ! 打ちどころが悪かったら、俺は死んでたかもしれないんだぞ!」
確かにそのとおりだと思った。
面目なくて、顔を上げられない。
「ごめん……」
「だから、謝れって言ってるんじゃないって!」
両腕をつかまれてもう一度強く引かれ、ベッドの上に乗り上げる形になった。
「あのまままともに落ちたら、怪我どころじゃすまなかった。流産してたかもしれないんじゃないか」
ショーンが顔を覗き込んでくる。
「なあ、どうしたんだ、フランシス」
口を開いた途端、涙がこぼれ落ちた。
「流産……すればいいなって……」
「え?」
「産みたくないんだ……。子供……」
「つわりが辛いからか?」
フランシスは首を振った。
「陛下に、あんなこと言われたから?」
またフランシスは首を振った。
「男の子を……産みたくない……」
「どうして……」
「人殺しに……なるから……」
両腕をつかまれて拭うことができない涙が後から後からあふれてきて、フランシスは顔を上げられなかった。
「僕と同じ……人殺しになるから……」
嗚咽が漏れた。
「何度も……何度も……夢を見るんだ……。僕が父親を殺した女の子が……僕を追いかけてくる……。逃げても……謝っても……追いかけてくる……。その子だけじゃない……。僕が殺した男たちには……それぞれみんな……家族がいて……」
「それは、だって、お前が人を殺したのは、戦場でのことだろう? ディアスの国王を殺したのだって、その戦争を食い止めるためじゃないか。その後ディアスの兵士を殺したのだって、そうしなければ俺たちが殺されていたんだぞ」
フランシスはショーンを見上げて激しく首を振った。
「どんな理由があったって、罪のない女の子から親を奪った事実は消えない。僕にできることは……僕にできる罪滅ぼしは……せめて……これ以上人殺しを産まないことしか……」
「お前にだって罪なんかないよ!」
「僕はこんな苦しい思いを、自分の子供にさせたくない」
「だからって……だからってわざと階段から落ちるなんて……。下手したら、お前も死んでたかもしれないんだぞ!」
「だって……だってほかに……どうしていいかわからない……」
「前に……ほら、言ってたじゃないか。イチャイチャしてブレーキが利かなくなったらやばい。流産するかもしれないからって」
フランシスは、しゃくり上げながら下を向いた。
「この前、殿下と一緒に風呂に入ったろ?」
また首を振る。
「マリオンは……してくれない……。何度も言ったのに……抱いてほしいって……何度も……何度も言ったのに……。僕の気持ちなんか……」
いきなり強く抱き寄せられた。
え!?と思ったときにはベッドに組み敷かれ、唇をふさがれていた。
「な……」
慌てて顔をそらし、その体を押しのけようとする。
「なにするんだ!? ショーン!」
「じゃあ俺がしてやるよ」
「やめろ! 離せ!」
「してほしいんだろ!」
「君に言ったんじゃない!」
「誘ってるのと同じだよ! 俺がお前を好きなの知ってて、俺の前で泣いて、俺の前で弱いところを見せて」
「ごめん。そんなつもりじゃない」
腕をひねったり急所を蹴ったりすれば、きっと逃げられる。
でも、命がけで助けてくれた恩人にそれをする決心をつけられずにいるうちにまたキスされそうになり、フランシスは顔をそらした。
「ショーン。頼むから……」
「嫌なら目をつぶってろ。俺が救ってやる。お前を苦しみから解放してやる」
シャツのボタンをはずされる。
「だけど、お前が人殺しだからじゃない。お前に罪なんかない。お前に、あいつの子供を産んでほしくないからだ。バルトワに行かせたくないからだ」
シャツを脱がそうとする手首をつかもうとすると、逆にその手をベッドに押しつけられた。
「あの本、読んだんだろう? あの、クリスの別荘からあいつが急いで帰った三日後だぞ。つわりで苦しんでいるお前を置いて、あいつはほかの女の誕生パーティーに駆けつけたんだぞ。あいつだって、今ごろきっとその女を抱いてるよ。風呂で、裸のお前にせがまれたって抱こうとしなかったんなら」
強い口調で言うショーンの声が、なぜだかどんどん遠くなっていった。
なんだか、何もかもがどうでもいいような気持ちになった。
慣れない公務に追われて、神経をすり減らして、食事も喉を通らない毎日が続いて、疲れ果てているはずなのに夜は眠れない。やっと眠りに入ると、嫌な夢ばかり見る。
重く苦しいものが、いつも心にあった。いや、それは心じゃなくて、おなかにあるのか――。まだ存在すら感じない小さな命なのに、とてつもなく重かった。
その重さを共有してくれるはずの人は、遠い場所でほかの女性と幸せそうに笑っている。
優しい人はほかにもいるのに、自分を大事にしてくれる人はたくさんいるのに、誰にも言えない。子供を産みたくないなんて――。
姉は、自分のために急いで結婚しようとしている。長いつき合いのカイルと、いきなり恋に落ちるなんてどうしても信じられなかった。もうこれ以上、周りに心配かけたくない。
幸せになってもらいたくて一緒に来てもらったロビンやパトリシアにまで、心配ばかりかけている。
涙を拭えないまま、フランシスはじっとショーンを見た。
こんなわがままな自分を無条件で受け入れてくれる人は、確かに彼しかいないかもしれない。命も惜しまず身を挺して助けてくれた彼なら、自分をこの苦しみから救ってくれるのかもしれない。
「わかった」
そして目を閉じる。
「目を閉じてるから、早く終わらせて」




