第十一話
「いい加減諦めろよ、ショーン」
悔しそうな表情でドカッと椅子に座ったショーンに、ギルバートが言った。
「おなかに子供までいるんだぞ」
「いいよな、お前は。簡単に次の女に乗り換えられるんだから」
「の、乗り換えるなんて、そんな言い方……」
ギルバートはチラッとパトリシアの方を見た。
パトリシアはフランシスとマリオンの食器を片づけている。
「だって最初から、手が届かない人だったんだから」
「届かないって決まったわけじゃない。国王陛下が反対してるんだぞ」
「僕は、フランシス様に幸せになってもらいたい。だからマリオン殿下と破局することなんか望んでない」
「親に反対されて、国を捨てて、家族を捨てて、俺たちとも離れて遠い異国に行って、それで本当に幸せになれるかどうかなんてわからないじゃないか!?」
「幸せにしてくれるさ、マリオン殿下なら」
そしてギルバートは、黙々と食事をしている二人の従者の方に目をやった。
「そうですよね!?」
カールとジョゼフは手を止め、お互いに目を見合わせた。
「なんで黙ってるんですか?」
リチャードが責めるような口調で問いかけた。
「バルトワの国民は、みんな怒っています」
下を向いたまま、絞り出すような声でカールが言った。
今度は少年たちが戸惑って、お互いに顔を見合わせた。
パトリシアも動きを止めて彼らを見た。
「王女を助けたというのに、この仕打ちはあんまりだ」
ジョゼフも続いた。
「26歳の健康な男で、しかも富も権力も持っていたら、女性とのつき合いもそれなりにあって当然でしょう!? それをあんな、とんでもない遊び人みたいな書き方して……」
「バルトワにも……もう……広まってるんだ……」
ギルバートの声は、少し震えていた。
「国王陛下は、アステラを切り捨てると思いますよ」
「もう、次のお妃候補を探しています」
すっかり言葉をなくしてしまった少年たちの中で、ショーンだけが思わず拳を握っていた。
(ほら、ほら、一発逆転、あるじゃないか)
ロビンにはああ言ったものの、マリオンはどんどんふくらんでいく欲望を抑えるのに苦労した。
熱いシャワーの下で、温かいお湯の中で、二人は何度も抱き合い、唇を重ねた。会えなかった時間を埋めるように。すぐにまた訪れる寂しさに耐えられるように。
青ざめていた恋人の顔が徐々に生気を取り戻していったのは、決してお湯の温かさのせいだけではないと、マリオンは自信を持って思えた。自分の指が、腕が、胸が、唇が、彼女を美しく生き返らせたのだ。
「ねえ……」
浴槽の中でマリオンの長く伸ばした脚の上に座った状態で、フランシスは言った。
「抱いて……」
囁くような、小さな声だった。
「抱いてるじゃないか」
マリオンは、白いうなじに口づけた。
「そうじゃなくて……。しようよ……」
口づけた状態のまま、マリオンは動きを止めた。
「我慢するのは辛いでしょう?」
「お前に痛い思いをさせる方が辛い。今のお前にそんなことしたら、壊してしまいそうだ」
「壊して」
一瞬、聞き間違えたかとマリオンは思った。
「壊れるくらい、抱いて」
「どうした」
「だって、またすぐいなくなるんでしょう?」
「ファーガソン夫人に念を押されたじゃないか。まだ駄目だって」
「大丈夫だよ。伯母様は心配性なんだ」
振り向いて、真剣な顔で訴えてくる。
「ははあ、陛下の言葉を真に受けて、俺がほかの女で欲求を満たすと思ってるんだな」
そしてマリオンは、笑いながら濡れている髪をまたくしゃくしゃと撫でた。
「心配するな。お前以外の女なんて目に入らないから」
「そうじゃない。そういうことじゃなくて、ほんとに抱いてほしいから」
「会わないでいるのもいいもんだな。こんなふうに、お前から迫ってくれるんなら」
冗談まじりに言っても、フランシスは悲しそうな顔をするだけだった。
その目に涙が浮かび、彼女はしょんぼりうつむいた。
「今度は嘘泣きか?」
「嘘泣きなんかしない」
「ショーンが言ってたじゃないか。嘘泣きが得意だって」
本当はそんなことはどうでもよかったが、話題を逸らしたかった。
「ディアスの国王の前で弱い女のふりをしなきゃならなかったから、泣いて見せただけだよ。ジュリアン叔父様のことを思い出したら、簡単に涙が出た」
そしてフランシスは、体ごと振り向いてマリオンにしがみついてきた。
「でも今の僕は、何も思い出さなくたって泣ける」
細い指にこめられた力が、ひとつになりたいと訴えていた。
愛おしくて、本当に壊れるほどその体を抱きたい衝動に、マリオンはかられた。
「もう少し待っててくれ。俺が必ず、なんとかするから」
けれどもマリオンは、完全にはわかっていなかった。
このときのフランシスの涙の、本当の理由を。
メイドが案内してくれた部屋には、ベッドがふたつあった。
そのひとつに潜り込むと、フランシスは何も言わずに布団を頭まで被った。
おやすみのキスさえ拒んでいるその姿は、短時間で去っていく恋人を全身で非難していた。
もうすぐ母になるというのにその子供じみた拗ね方を、それでもマリオンは可愛いとしか思えなかった。強がって平気なふりをされるよりずっといい。
「おやすみ」
布団の上からそっと触れて、少しだけ出ている金髪に口づけした。
次の約束もできないまま、マリオンは静かに部屋を出た。
見送る少年たちとパトリシアは、それぞれ何か言いたげな顔をしていた。
「ファーガソン夫人」
マリオンはロビンに呼びかけた。
さっき、おなかの子供は男の子だと彼女に教えられた。それもまた、フランシスが落ち込む原因になっていると。
「フランシスの寝室に、ベッドがふたつあった。あなたが一緒に寝てあげてくれませんか」
「それはいいけど……」
「誰かが、寝ぼけたふりして忍び込んで来ないように」
ショーンが顔を赤らめてマリオンを睨んだ。
「あなたじゃあるまいし、そんなことしません!」
「俺は別にお前だとは言ってないぞ、ショーン」
マリオンは笑った。そして少年たちに軽く手を上げた。
「じゃあな。今日はありがとう」
「殿下」
立ち去ろうとするマリオンを、ギルバートが追ってきて隣に並んだ。
「次は、いつ……」
マリオンは、しばらくその顔を見ていた。
「近いうちに、必ず」
それしか言えなかった。
そしてギルバートの肩を叩いた。
「フランシスのこと、よろしく頼む。級長」
「はい」
そしてまだ何か言い足りなそうなギルバートに背を向けて、マリオンは馬車に向かった。
出発が大幅に遅れたことを非難したそうな顔で御者の席にいるジョゼフに「出してくれ」と言うと、マリオンは馬車に乗った。
馬車はゆっくりと動き出す。
三日後の昼までには必ず帰るようにという父の言いつけを守るためには、ほとんど休憩も取らずに馬車を走らせなければならないだろう。
父であるニコラス国王は、今回の騒動に激怒していた。
一国の王太子がまだ正式に婚約もしていない他国の女性のために一ヶ月も国を離れ、労力と多額の金を使ったというのに、それに対するアステラの答えは感謝どころかありえないほどひどいものだった。
両国の国境はあってないようなものなので、情報はすべて筒抜けになっている。
今すぐにもフランシスとの婚姻を成立させなければ同盟解消も辞さないと言い出した父を、マリオンはアステラの国王が健康を取り戻すまではと必死になだめた。
その父も、フランシスとの結婚だけは心待ちにしているようだったのに、連日いやでも耳に入ってくるアステラの報道のひどさに、とうとう初孫という切り札さえも役に立たなくなってしまった。
「アステラの女を正妃にするなど言語道断だ!」
国王は烈火のごとく怒り、フランシスを末端の側室にしろと言い出した。彼女がグラディウスに護られている戦士でさえなかったら、きっと縁も切れと言っていたのだろう。
「父上、悪いのはアステラの報道であって、彼女にはなんの罪もありません」
「お前はどこまでお人好しなんだ!? だからこんなふうに馬鹿にされるんだ! いいか、ここまで報道が過熱しているのはなぜだか考えろ! この記事が売れているからだ! つまり、アステラの国民たちはこの記事を喜んでいるんだ! アステラの国中から、お前は笑い者にされているんだぞ! それはバルトワの王家が笑われているのと同じだ! 悔しくないのか、お前は! あの国すべてが我々の敵だ! その国の王女を正妃にするなどもってのほかだ! お前は、あんな男みたいな王女なんかよりはるかに素晴らしい女性を妃にして、アステラの奴らを見返してやれ! だがそれはほんの序の口だ! あんなちっぽけな国の分際で、我々を怒らせたらどんな目に遭うか思い知らせてやる!」
そんな状態なので、今回ギルバートからクリストファーの別荘へ来てほしいという手紙をもらっても、出国するのは一苦労だった。
従者も連れずに何日も留守にしたらそれこそ怒りを拡大させるだけなので、嘘をつくわけにもいかなかった。つくづくカイルをアステラに置いてきたことを後悔した。カイルなら、適当な場所に視察に行ってくると嘘をついても、うまく口裏を合わせてくれただろう。
だが、渋い顔をしていた父の心を動かしたのは、そろそろおなかの子供の性別がわかるはずというマリオンの言葉だった。
憎いアステラの女の子供でも、ブラッドリー家の血を引く子供をテイラー家に迎えることは、父の長年の悲願だったのだ。ましてそれが男の子だったら……。
結局国王は、早くその性別を知りたい欲望に勝てなかった。
8月3日の正午までに必ず戻るようにという条件付きで、マリオンはアステラに行くことを許された。
フランシスの妊娠がなかったらこんなに困った事態にはならなかったのだろうが、皮肉なことにフランシスの妊娠が父の怒りにブレーキをかける要因になっているのも事実だった。
ジェイソン国王の怒りやロビンに指摘されたフランシスの危うい精神状態のことを考えると、早すぎた妊娠なのだと反省する気持ちもあるマリオンよりも、もしかしたらニコラス国王の方が赤ん坊の誕生を心待ちにしているのではないかと思えるほどだった。ましてマリオンは、フランシスのために女の子であってほしいとさえ思っていたのだから。
ともかく、今回おなかの子が男の子だというニュースを持って帰れば、そしてその子が無事に生まれてくれれば、きっと父の気持ちも和らぐのではないかとマリオンは期待していた。今の馬鹿馬鹿しい報道合戦など、一過性のものだと。
だからマリオンは、今回父に課せられた期限も、ただ早く帰って来いという意味しかないと軽く考えていた。
8月3日が何の日かなど、まったく知りもせずに。




