第一話
「よく頑張ったな」
フランシスの肩を抱いて歩き出しながら、マリオンは言った。
「お前はすごい奴だよ。よく頑張った」
「そんなことないよ。結局、みんなに迷惑ばかりかけてる」
フランシスはマリオンを見上げた。
「あなたにも、助けられてばかりだ」
マリオンも、優しい眼差しで見下ろしてきた。
「ありがとう、マリオン。そして、ごめんなさい」
フランシスはうつむいた。
「いいんだ。俺もお前を疑った。だからあいこだ」
門を出ると、その柵につながれた馬が自分たちを待っていた。
「それに……」
マリオンが先にまたがり、フランシスの手を引いた。
ドレス姿なので、横座りに乗るしかなかった。
「あの月夜の湖で……」
手綱を握ったマリオンが、ゆっくりと馬を歩かせた。
「お前に惚れたら苦労が絶えないぞと神に言われても、俺はお前を好きにならずにはいられなかったんだから」
「神様と話したの?」
「たとえばの話だ。行き詰まったらそんなふうに考えることにした。カイルの受け売りだ」
「僕は話したよ。神様と」
「え?」
「男になりたいか、女でいたいかって聞かれた」
言いながら、フランシスはマリオンに体を預けた。
「僕は、おなかの子を守りたいから、女でいたいって言ったんだ」
「ふうん」
「夢でも見たんだろうって思ってるでしょ」
黙っているから図星なのだろう。
「僕も夢だと思ったよ。でも、デヴィッドが死んでも男にならなかった」
「確かに信じがたい話ではあるけど、さっきの雷を見てしまったらそうも言ってられないな。やっぱりお前は、グラディウスに護られているんだろうな。でも……」
そしてマリオンは、急に強い語調になった。
「だからって、いい気になってまた無茶なことをするなよ」
「いい気になんかなってないよ」
「そうだとしても、どんなに信念を持った行動でも、心配する身にもなってみろ」
「だからごめんって……」
マリオンは大きなため息をついた。
おそらくもっと言いたいことはあるのだろうが、そのため息ですべてを吐き出そうとするかのように。
「それで……じゃあもし子供を産んだあと、また聞かれたらどうするんだ? 男と女、どっちがいいかって」
フランシスはフッと笑った。
「そんなの決まってるじゃない。ママがいなかったら、この子がかわいそうだ」
「ふうん。俺のためじゃないのか」
「あなたは、僕が男になってもかまわなかったんでしょう?」
マリオンは言葉につまった。
「デヴィッドを殺すことに、少しもためらってなかったものね」
「ためらいが全然なかったと言えば嘘になる。でも、お前のおなかに子供がいるなんてあのときは知らなかったから、ただ、お前の夢をかなえる、それが俺にとっての最優先事項だった」
今度はフランシスが黙った。
「お前を二度と抱けなくなる。結婚できなくなる。子供をつくれなくなる。それでも、俺にとって一番大事なことはお前の幸せだ。だから迷わなかった」
そしてマリオンは笑った。
「まあ、そんなかっこいいこと言っても、お前の女のままの体を見たときは、涙が出るほど嬉しかったけどな」
「愛してる……」
自分の笑い声がフランシスの囁きを消したことに気づいて、マリオンはぴたりと黙った。
胸に当てている耳に響いてくる鼓動が、少し早くなったような気がした。
「だからなんでお前は、そういう大事なことをいつも俺がしゃべっているときにかぶせて言うんだ。俺はギルバートじゃないんだぞ。俺がしゃべるのをやめてから、大きな声ではっきり言えよ」
大きな声は出なかった。
涙がこぼれてきたから。
「愛してる、マリオン」
マリオンは馬を止めた。
「ちゃんと言ってなかったけど、この子のパパはあなただよ」
冷たい手が、濡れている頬に触れた。
寄りかかっていた胸が一度離れ、その代わり唇が下りてきた。
この人のためなら、夢なんか捨てられる。ずっと女でいられる――フランシスはそう思った。
「スワロー」に入っていくと、少年の声が迎えてくれた。
「お姉さん!」
フランシスが時計をあげた少年だった。
「帰るところがないって言うから、しばらく置いてあげることにしたんです」
ケイトが歩み寄ってきた。
「みなしごが集まっていた空き家が先日取り壊されて、行き場をなくしてしまったらしく……」
「皿洗いくらいならできるみたいだから。うちも人手が足りないし……」
主人も奥から顔を出してきた。
「皆さん、二階にいらっしゃいますよ」
外に「CLOSED」の看板がかかっていたので、閉店時間を過ぎていたのか、それとも団体がやってきたので早めに閉めたのか、一階に客は一人もいなかった。
フランシスはしゃがんで少年の頭をなでた。
「坊や、名前は?」
「トビー。坊やじゃないよ。もうすぐ九歳になる」
「偉いな。九歳で、もう大人の手伝いができるのか」
トビーは、りんごのような頬をさらに赤らめた。
「でも、もう寝る時間だぞ」
「おーい、こっちこっち! 早く来いよ!」
階段の上からショーンが顔を出して呼んだ。
「お食事の前にお顔を洗いますか? それに、私なんかのものでよかったら、何かお着替えを……」
「ああ……」
フランシスは頬を押さえた。
ここに入る前にマリオンがシャツで拭いてくれたが、それでもまだ血の痕が残っているのだろう。マリオンに借りた上着の下のドレスも、ひどい汚れようだった。
「じゃあ、お願いします」
「すぐ裏が住まいなんです。こちらへどうぞ」
ケイトが連れていこうとするフランシスの手を、トビーがぎゅっとつかんだ。
「お姉さん、僕、一生懸命働いて、お金持ちになる。だから、僕と結婚して」
階段の上で誰かがこけたのか、盛大な音がした。
「おい、小僧」
マリオンがひきつった笑顔で言った。
「その年でこのお姉さんに求婚するなんて、百万年早いぞ」
「でも、マリオンと僕ほどは年が離れていない」
そう言ってフランシスはまたしゃがんだ。
「トビー、ごめん。僕のおなかには赤ちゃんがいて、もうすぐそのパパと結婚するんだ。でもいつかアステラに訪ねておいで。そしたら、僕の娘のボーイフレンドにしてあげるよ」
オリバー、フィリップ、ビリーなどの年長組は先にファーガソン邸に帰ったようだったが、二階の大広間では若い男たちが酒を酌み交わしながら盛り上がっていた。
「おい、ここの代金は誰が払うんだ」
こんなに大勢いるとは思わなかったマリオンは、少し青ざめてカイルに囁いた。
「明日はアランたちに報酬を払わなきゃならないんだぞ」
「安心して」
耳ざとく聞きつけたロビンが顔を上げて言った。
だいぶ飲んでいるらしく、その顔はほんのり桜色だった。
「フランシスを王宮に連れて行った報酬をたんまりもらったので、それをそっくりそのままこの店に渡してあるの。まあ、あの子が稼いだお金だけどね」
マリオンは、そのままロビンの隣に座った。
ひとしきりファーガソン邸の男たちの酌を受けてもてはやされた後、この国への不満をさんざん聞かされた。
それがひと段落すると、マリオンは隣のロビンに酌をした。
「おなかの子のことだけど……」
あらたまった口調で問いかける。
「もう性別までわかるのか?」
ロビンは笑った。
「わかるもわからないもないわ。妊娠二か月くらいまでは、まだどちらでもないのよ。私は予知能力者ではないし」
「でも、あいつははっきり娘って言ったぞ」
ロビンは、しらふに戻ったように真顔になった。
「願望なんじゃない? おなかの子は母親の生まれ変わりだって信じてるみたいだから。でも……」
そしてマリオンから顔をそらし、独り言のように言った。
「あの子は、ちょっと危ないわね」
「危ないって……そりゃまあ、敵に回したらあんなおっかない奴はいないけど……」
「そういう意味じゃなくて、なんというか、たとえば……あの子がなんで自分の顔を切ったか知ってる?」
「あ……ああ、クリスに聞いたから」
「ああ、あの鳥に変身する子ね」
「あいつがその現場を見ている。すぐには理由まではわからなかったけど、つまり、デヴィッドを殺すわけにはいかなかったからだろ?」
「殺さなくても、自分の顔を切るくらいなら、死なない程度のダメージをデヴィッドに負わせればよかったじゃない。腕を切り落とすとか、局部を切り落とすとか」
「お、恐ろしいことを言うな。自分の夫だったのに」
「客観的な考えを言ってるのよ。結局、デヴィッドから逃げられたとしても国王が自分の元へ来させようとしていたんだから、あの子にとっては一番手っ取り早い方法だったのかもしれないけど、でもそれでも、15歳の女の子が自分で自分の顔を切る?」
マリオンは、ふと思い出した。
自分の顔を大嫌いだと言った、出会ったばかりのころのフランシスを。
そのとき、正面のショーンたちの席で歓声が起こった。
「遅いぞ、フランシス! こっちこっち!」
入口の方を見ると、化粧も落とし髪も整えて、ケイトに借りたらしいモスグリーンのスモッグドレスのようなものを着たフランシスが立っていた。
素朴な町娘のようだった。
「ショーンったら、呼び捨てにしてる!」
クリストファーが憤慨していた。
「いいんだよ、俺たちは死線をくぐり抜けた同士なんだから。なっ!」
自分の隣ではなく級友たちの方へフランシスが向かうのを、マリオンは止めないことにした。もう少しロビンの話が聞きたかった。
「ずるいな、お前! 自分だけさっぱりしやがって!」
(お前?)
「さすがに『お前』はまずいだろう、ショーン」
ギルバートがしきりにこちらを気にしている。
「いいんだよ。敬語を使うなってさんざんこいつに言われたんだから。なっ! ほら、食え! 腹減ったろ?」
(こいつ?)
ショーンの話を聞いていると怒鳴りそうだったので、マリオンはあえてそちらを見ないことにした。
だが、ロビンの言葉で、またそちらに目が向いてしまった。
「疲れてるわね。当たり前だけど……」
確かに、フランシスの微笑はどこか無理をしているように見えた。
「さっきの話に戻るけど、15年も、本当の性じゃない体で生きることを強いられてきたのよ。相当なストレスと戦ってきたと思う。だから、衝動的に自分を壊してしまいたくなったんじゃないかしら」
マリオンは、フランシスをみつめるロビンの横顔を見た。
「でもそれを、おなかの子を守る行動だったとあの子は信じている。もちろんそれはそうなんだろうけど、もうひとつの理由に、自分が抱えている心の闇に、あの子はたぶん気づいていない」
「だから危ないと?」
「精神科は私の専門じゃないから、間違っているかもしれないけど」
ロビンは苦笑しながらマリオンを見た。
「でも、産前産後の女性はそれでなくてもナーバスになりがちよ。たとえば、母親の生まれ変わりを産むんだって強く思い込んでいるのに、その子が男の子だったら、ものすごく落ち込むんじゃないかしら」
「まさか……」
「いま、それくらいのことでって思ったでしょ? だったらまた子供をつくればいいって。でもね、ずっと苦しみを抱えて生きてきた人間は、耐えられる許容量がわずかしか残っていないから、ちょっとしたことで崩れてしまったりするかもしれない」
この女性もそういうことを乗り越えてきたのだろうかと、ロビンの横顔を見ながらマリオンは思った。
「まして、さっきも言ったように妊娠中は特に精神的に弱くなりがちなの。それくらいのことって思わないで、あの子の悲しみや悩みをしっかり受け止めてあげて、支えてあげるのがあなたの役目よ。とても重要だわ」
マリオンは、またフランシスに目をやった。
だが、嬉しそうな顔でしゃべっているクリストファーを見ているフランシスではなく、ギルバートと目が合った。
きっとロビンの話を聞いていたのだろう。
「今日、『母親を殺すな』って言って女王をかばっていたでしょう? あの子にとっては、普通の子供の何倍も、母親というものは特別なんだと思う」
「一緒に来てくれないか?」
マリオンは、考えるより先に口にしていた。
無性に不安になって、すがるような気持ちだった。
「道をふさいでいる岩をもう一度ダイナマイトで破壊して通れるようにするつもりだが、それが成功したとしても決して短い旅ではない。医者がいてくれたら、こんな心強いことはない」
ロビンは困惑した顔をしている。
「あの子のおじいさんがいるじゃない」
「男じゃわからないこともある。あなたがいてくれたら、フランシスも安心だと思う」
「私がアステラに帰れるわけないでしょう。どのツラ下げてあの子の父親に会えと言うの。フランシスが私を許しても、あの子の父親は絶対私を許さないわ」
「その心配はないと思う。俺の叔母でさえ、いま植物人間状態だというのに離縁もせず面倒を見ているんだ」
「そりゃ、グレース王妃に対しては負い目があるでしょうから」
「魔術師養成学校の校長にあなたの特徴を聞いて、それが自分の姉らしいとわかったジェイソン国王は、ひどく落ち込んでいた。あなたのことを、アステラの王族の犠牲者だと言っていた」
ロビンは黙りこくった。
「あなたの母親も、叔母も、そしてフランシスの母親も、みんな出産ということに苦しんだ。俺は、フランシスにそんな思いをさせたくない。もちろん、楽な出産なんてないのかもしれないけど、それにしたってあいつは若いし、本当の女じゃないし、それに加えて女の子を産みたいという呪縛に囚われているのなら、支えてあげる人間は俺だけじゃなくて多ければ多いほど……」
「寝ちゃったわよ」
ロビンに言われて言葉を止め、正面に目をやると、フランシスはテーブルに顔を伏せていた。
隣のショーンがまた肩を抱こうとするのを、ギルバートが目をつり上げておさえている。
マリオンは立ち上がってそちらに歩み寄った。
「フランシス」
肩をつかんでそっと体を起こした。
「さあ、帰るぞ」
「……して」
「え?」
つぶやくような声を聞きとれなくて、マリオンはギルバートを見た。
「『許して』って言いました」
マリオンは思わず動きを止めた。
「殿下に説教されてる夢みてるんだよ、きっと」
軽口を言うショーンを睨んだあと、マリオンはまた自分の上着をフランシスの肩にかけて抱き上げようとした。
その拍子にフランシスは目を覚まし、驚いた顔でマリオンを見た。
「あの子は?」
「え?」
「僕を追ってきた、あの子」
「誰の夢を見たんだ」
マリオンは苦笑した。
フランシスは困惑した顔で辺りを見回し、やっと現実の世界に戻ったようだった。
「あのガキのことか? お前にプロポーズしてきた、あのクソ生意気な……」
「もてる女は大変だね。夢の中でまで追いかけられるなんて」
ショーンとクリストファーに両脇からそう言われ、フランシスは大きく息を吐きながら笑おうとしたようだったが、それはうまくいかなかった。
無意識にマリオンの腕をつかんでいる手が、少し震えていた。




