第三十一話
恐ろしいものでも見るような目でフランシスを凝視しているウォートン公爵に、マリオンは歩み寄って右手を差し出した。
「握手しましょう、公爵」
笑顔のマリオンとは真逆で、困惑を隠せない表情のまま、それでもウォートン公爵は渋々といった感じで右手を伸ばしてきた。
少し震えているその手を、マリオンはがっしりとつかんだ。
「我々は、フランシス王女を連れて撤退する。我々の軍隊があなたたちを叩きのめすのは簡単だが、それはしない。王女を返してくれた以上、我々も無用な殺生はしたくない。だからあなたも約束してください。我々が無事祖国に帰還するまで、一切手出しはしないと。それを守ってくれたら、さっき言った通り、あなた方の国家の再建に協力しますよ」
「それは……約束しますが……帰れるんですか?」
「心配は無用です。神に護られている王女が一緒なら」
わざわざダイナマイトの話をする必要もないので、マリオンはさらにフランシスを恐れさせて念を押そうとした。
だが、気がつくとそばにいたはずのフランシスがいつのまにかいない。
慌てて探すと、足を引きずりながら、フラフラとエントランスの方へ歩いていく小さな背中があった。
「王后陛下!」
「しっかりしてください、陛下!」
意識を失っているらしい女王を、数名の侍女や側近が取り囲んでいた。
「フランシス」
エントランスにたどり着く手前で名前を呼ばれ、フランシスは振り向いた。
オリバーが立っていた。
「おじい様」
女王を助けてくださいと言おうとした。あの王女が、一度に両親を亡くすような悲劇を阻止してほしいと。
けれども、オリバーとみつめあっただけで、フランシスはもう言えなくなってしまった。平気な顔をしていても、祖父がどんなに疲れているかわかってしまったから。
昨夜自分の大怪我を治し、負傷した兵士たちを治療しただけでなく、さらに今日、パトリシアの弟の命を救ったこともフランシスは瞬時に知った。
何も言えずに、フランシスはうつむいた。
立ち止まっている二人の横を、ウォートン公爵が足早に追い抜いて行った。フランシスの横顔を、まだ恐怖心が消えない表情でうかがいながら。
「医者を呼べ! 早く!」
公爵が叫び、数名の男たちが女王を抱きかかえ、彼らは宮殿の中へ入っていった。
残っているディアスの兵士たちも、ちらちらとフランシスの方を気にしながら、倒れている仲間をそれぞれ抱えて宮殿に戻ろうとしていた。
ディアスの人間が撤退し始めたのを見て、カイルが駆け寄ってきた。その後ろにギルバートとクリストファーもついてくる。
「さあ、足の怪我を治そう」
オリバーが、立ちつくしているフランシスに声をかけた。
「僕は大丈夫です。ほっといても自然に治る」
オリバーは微笑した。
「もしかしたら、怪我をしているくらいでちょうどいいとマリオン殿下は思うかもしれないな。いつかまたどこかへ飛んで行ってしまうんじゃないかと、ひやひやさせられるのはこりごりだろうから」
「いや、治してあげてくれ」
オリバーの後ろでマリオンが言った。
「大事な体なんだから」
「僕よりも……」
「ショーン!」
言おうとした名前を、先にクリストファーに呼ばれてしまった。
「そんなとこに隠れていたのか」
ひときわ大きな体の兵士の死体を二人の兵士が重そうに動かすと、その下から顔をしかめながら起き上がるショーンの姿が見えた。
「隠れていたわけじゃない! 重くてどかせなかったんだ!」
ショーンの姿を見て反射的に剣を構えた兵士を、もう一人の兵士が慌てて押さえた。
「やめろ! 今度はこっちに雷が落ちてくるかもしれない」
「とりあえず、これだけ返してもらわないと」
兵士たちがびくびくしているのを見て、ショーンは巨体の背にささったままだった光の剣を抜き取った。そしてすぐに消滅させる。
仰天した二人の兵士は、死体をそのままにして逃げ去ってしまった。
「ショーンを先に診てあげてください」
フランシスは言ったが、オリバーがそちらに向かう前に、ショーンの方から歩み寄ってきた。そしてその歩みをぎりぎりまで止めず、息がかかる距離までフランシスに近づいた。
「マリオン殿下」
視線はフランシスに向けたまま、ショーンは言った。
「駄目だ」
「まだ何も言ってません」
「どうせろくなことじゃないだろう」
「一秒でいい。ハグさせてください」
「だから駄目だって」
「俺の目の前で、この人が殺されそうになった。この人が死んだら、俺も生きてられないって……」
「ありがとう、ショーン」
「はあ!?」
興奮しながら言った言葉をフランシスに途中で止められて、ショーンは素っ頓狂な声を出した。
「なんで礼なんか言う!? 俺がよけいなことをしたためにお前が死ぬところだったんだ! 誰かを守らなきゃならない負担を抱えたくないってあれほど言われてたのに……」
呼び方が、「あなた」から「お前」に戻っていた。それでいいと、フランシスは思った。
「君がいなかったら、僕はきっとすぐに捕まっていた。君を守らなきゃって思ったから、僕は戦えた」
ショーンはあっけにとられた顔をしていたが、すぐに不貞腐れたように横を向いた。
「いいよ、そんな無理やりかばってくれなくても」
無理やりではなかった。
あの少女の顔が頭から離れず、自分はきっともう人を殺せないと思った。殺したくないと……。
そして、この足ではきっと追手から逃げられなかっただろう。
ショーンを守らなければと思ったから、体が勝手に動いた。
いや、それとも……。
(敵が迫ってくれば、やっぱり僕の体は勝手に動くのだろうか)
フランシスは、無意識のうちに自分の右手を見ていた。
ディアスの兵士に踏まれたその手の甲ににじんでいるのは自分の血なのに、今まで自分が殺した人々の血がしみこんでいるような気がした。意志よりも先に、人を殺すこの手。
あの拳銃から女王をかばおうとしたのは、そして彼女を救うことをオリバーに願おうとしたのは、あの少女を不幸にした罪の意識から少しでも逃げたかったからだ。
(偽善だ……)
知らないうちに涙がこぼれ落ちていた。
それに気づいてその手を取ったマリオンより先に、オリバーがフランシスの肩に手を置いて言った。
「ショーンくんは、どうやらかすり傷程度のようだ。座りなさい。足の怪我から治そう」
フランシスは素直にその場に座った。
心の声は、全部オリバーに聞こえている。それでも何も言わずに体の怪我を治すことで、その心の傷も癒そうとしてくれているのだろうか。
「あの雷は、あなたの仕業か?」
マリオンもしゃがんで、フランシスの右足に触れているオリバーに問いかけた。
「まさか……」
オリバーは笑った。
「ただ、光の剣を出す呪文で何度も名前を呼んだので、グラディウスがうるさいと怒ったのかもしれません」
マリオンは、信じるべきかどうか判断しかねるような顔で、眉間にしわを寄せた。
「さあ、もう痛むところはないな」
フランシスの手の傷も治し終えたオリバーは、そう言って立ち上がった。
マリオンは、フランシスの手を取って一緒に立ち上がり、自分の上着をその肩にかけた。
そして門の方を振り向いて叫ぶ。
「全員撤収!」
そのマリオンのすぐ後ろに、いつのまにか銀縁メガネの男が立っていた。
「アラン」
「俺なら、お姫様をハグする権利があるんじゃないですか。命の恩人なんだから」
マリオンは、口元にだけ笑みを浮かべた。
「悪いが、そんな高い褒美はあげられないな。お前の望みの大半をフランシスはかなえてやったんだ。それで貸し借りなしだろう。さらに、俺が約束の報酬をお前に払うんだから……。お前と、お前の仲間たちの分の報酬は、明日ファーガソン邸に取りに来い」
アランはマリオンをじっと見たあと、フランシスに視線を移す。
そして例の皮肉めいた微笑を浮かべた。
「冗談ですよ。本当はそのお姫様をぶん殴りたいくらいだ。俺がやりたかったことを横取りされたんだから。こんな……」
最後の部分だけ横を向いて小声で言ったので聞き取れなかったが、突然ギルバートが怒鳴った。
「失礼なことを言うな! この人が今までどんなに辛い思いをしてきたか知りもしないで!」
温厚なギルバートの剣幕に面食らっていたマリオンが問いかけた。
「なんだって?」
「フランシス様のことを、温室育ちって」
「おおこわ……。ここでは陰口は言えないんだった」
アランは苦笑した。
「おい、アラン」
「はいはい、謝りますよ。報酬がもらえなくなったら大変だ」
少しも反省していないようなおどけた口調でそう言うと、またフランシスを見る。
「だけど、こんなに大勢の人に愛されてるんだったら、一人ぐらい悪口を言うひねくれ者がいたっていいでしょ。何事もバランスは大事だ。いいことばかりだと、あとでとんでない目に遭うかもしれない」
「何がいいことばかりだ!? 大変な思いばかりしてるのに!」
殴りかかりそうな勢いのショーンの腕をつかみ、フランシスは彼を押しのけて前に出た。
そして深々と頭を下げる。
「助けてくれて、ありがとうございました」
顔を上げると、皮肉めいた微笑は消え、銀縁メガネの奥の目がじっと見ていた。
「アラン、さっきの言葉で報酬を減額したいところだが、そうしない代わりに、どうだ。拳銃をもうひとつ作ってこのフランシスにくれないか。こいつならきっと、お前よりうまく使いこな……」
「いらない」
マリオンの言葉が終わらないうちに、フランシスは言った。
考えるより先に出た声は思いのほか強く、言った当人も動揺したが、マリオンも戸惑った顔で覗きこんできた。
「僕は……」
もう戦いたくない――。
言いそうになった言葉をのみ込んだ。
自分は、それが許される立場ではない。
「もうすぐ、母親になるから」
アランが目を丸くした。
「そう……だったな」
マリオンが照れたように微笑しながら、フランシスを抱き寄せた。
「それにもう、当分どこかと争うこともないだろう」
そしてマリオンはアランを見た。
「そうなるように、お前たちが立て直してくれるんだろう、この国を」
それには答えずに、アランは驚いた表情のまま大げさに両手を広げた。
「驚いた。本当にぶっ飛んだお姫様なんだな」
マリオンに睨まれ、
「はいはい、殴られないうちに退散します。では明日」
そう言って、アランは片手を振りながら背を向け、去っていった。
「カイル、馬を一頭だけ置いて、先にみんなを連れて帰れ」
「わかりました」
「腹減ったよ、殿下」
ショーンが言った。
「昼間ファーガソン夫人に連れて行ってもらった、うまい飯が食える店があるんだ」
「じゃあ先にそこへ行ってろ。フランシスも場所は知ってるんだろ?」
フランシスは頷いた。
「なんで一緒に……」
言いかけたショーンの腕を引きながら、ギルバートが小声で言った。
「お預けになっていた感動の再会シーンをやりたいんだよ」
ショーンは不満そうな顔をしながらも、渋々ギルバートとクリストファーと一緒に歩いていく。
オリバーは、最後まで残ってじっとフランシスを見ていた。
その視線を受け止めて、フランシスは微笑いかけた。
それでもすぐには動かずにいたわるようなまなざしを向けていたが、やがて背を向けて歩いていく。
すっかり恐れをなしてしまったのか、ディアスの兵士たちも一人も残っていない。
さっきまでの嵐のような時間が嘘のように静まり返った夜の庭園で、二人きりになった。
「殴っていいよ、マリオン」
フランシスはうつむいて言った。
「謝っても許されないこと、たくさんした。そして、しりぬぐいばかりさせてる」
しばらく返事は返ってこなかったが、やがて冷たい声が聞こえた。
「わかった。目を閉じて、顔を上げろ」
言われたとおりにする。
冷たい夜風を頬に感じた。
そして、冷たい唇が唇をふさいだ。
唇が離れ、目をあけると、潤んだ瞳が見下ろしていた。
「俺がお前を殴れるわけないだろう」
そして涙を見せまいとするように、強く抱きしめられた。
その背中に回した両手が自分を殴ることは、確かにフランシスも想像できなかった。それでも、今は口づけよりも抱擁よりも、自分を痛めつける何かをフランシスは欲していた。痛めつけられて、責められて、そして許しを請わなければならないような、何か置き場のない重いものが胸の中にあった。
けれども同時に、懐かしい匂いに、ぬくもりに、力強さに、その重いものを忘れられそうな安心感も徐々に生まれてきた。
(もう、終わったんだ。大丈夫なんだ)
この人がついていてくれる。
(僕は、帰ってきたんだ)
このときはまだ、フランシスは気づいていなかった。
自分の心が、少しずつ壊れ始めていたことに。
ここまで読んでくださった皆様に、心から感謝いたします。
第三章のあとがきで大詰めと言ってしまったのに、なぜか終わりませんでした(汗)。
もう一章書きたくなった理由は、次章のネタバレになってしまうので、すべて書き終わったら聞いていただこうと思います。
ぜひもう一章おつきあいください(と言いつつ、また終わらなかったりして……)。




