第二十八話
シーツを手すりに結ぶ時間などなかった。もちろん、ためらう時間も。
だが、この高さを飛ぶのはやはり無理があった。
前のめりに倒れたフランシスは、右足首に痛みを感じてしばらく立ち上がれなかった。その頭上で、少女の甲高い悲鳴が響き渡る。
(あの子は、僕だ)
母を殺され、叔父を殺され、憎しみを抱いて育った孤独な子供。
その自分と同じ道を、あの子も歩むのだろうか。
祖国のため、叔父のため、父のため、暗殺されそうになった恋人のため、標的にされた級友たちのため、生まれてくる子供のため、助けに来てくれた仲間と祖父のため、伯母のため、そしてこの国のため……あらゆることがこのミッションに向かわせたのに、成し遂げなければならないことだと信じたのに、やはり間違っていたのか。自分は思い上がっていたのか。一人の少女の人生を狂わせてしまったのなら。
(だとしても、そんなこと考えている場合じゃない)
不測の事態など、いくらでも想像できたのだ。あの男に子供がいることもはじめからわかっていた。
(立つんだ、フランシス!)
フランシスは自分を叱咤した。
いま捕まったら、失うのは自分の命だけじゃない。おなかに、マリオンと自分の子供がいるのだ。
(帰るんだ! マリオンのところへ)
命がけで助けに来てくれた恋人に、自分はまだありがとうも言っていない。
ひどい言葉で傷つけたというのに、ごめんなさいも言っていない。
(帰るんだ! この足が折れても)
よろよろと立ち上がり、右足を引きずりながら歩き出した。
「アイリーン様!」
「陛下!」
開けたままだった三階の窓から、複数の悲鳴が聞こえてきた。やがてそれが怒号に変わる。
「陛下が殺された!」
「王女が逃げた!」
激痛に耐えながら、フランシスは走った。
だが、エントランスから正面の門へ向かう喧騒が聞こえてきた。まずそこを固めようとするのは当然だろう。
正面から逃げるのを諦めて裏へ回ろうとしたフランシスの耳に、信じられない言葉が聞こえてきた。
「ここに怪しい奴がいるぞ!」
そして甲高い鳥の声。
(クリス?)
振り向いて立ちつくす。
クリストファーが鳥のままなら……。
(ショーン!)
「ファーガソン夫人と一緒に王女を連れてきた男だ」
歩み寄ってくる兵士たちの先頭にいる男がそう言った。
20人はいる。その後方からも、続々と兵士たちが駆け寄ってくる。
ショーンは、生まれて初めて直面した死の恐怖に足がすくみ、頭の中は真っ白になった。
「王女はどこへ行った。お前が逃がしたのか」
男が、どすのきいた声で言いながら近づいてきた。
(びびるな。どうせ死ぬなら、やれることをやるんだ)
「そ、そうだ。俺が逃がした。もう馬に乗って遠くへ逃げたはずだ」
震えそうになる手に握りしめた光の剣を彼らに向けて、ショーンは精一杯強がった声で言った。
「う、嘘だ! さっきまで門扉の鍵は閉まっていた! この男は大嘘つきだ! 騙されるな!」
門番の衛兵が早口でまくし立てた。
ショーンは一瞬だけきつく目を閉じた。殺さなかったことを心底後悔した。
「拷問して口を割らせろ」
最初に問いかけてきた男が振り向いて言った。
この男がリーダーなのだろう。
その男の後ろに控えていた兵士たちが近づいてきたとき、
「待て!」
よく通るソプラノが彼らの足を止めた。
「僕はここにいる」
ショーンは信じられない思いで声の方を見た。
死ぬ前にもう一度見たかったその顔、けれども決してここに現れてはいけなかった顔を、ショーンは瞬きも忘れてみつめた。
その顔とドレスに成し遂げたことを示す赤い血痕をつけたまま、フランシスはゆっくりと歩み寄ってきた。
(足……!)
平然を装っているようでも、右足を少しひきずっているのがショーンにもわかった。
「バ、バカ野郎! なんで来るんだ!」
ショーンは思わず怒鳴っていた。
「それはこっちの台詞だ。悪ふざけも大概にしろ」
落ち着いた口調でそう言うと、フランシスは兵士たちを見た。
「彼はただの従者だ。しかも見ての通り子供だ。大人をからかって面白がっているただのバカだ。あなたたちが関わる価値などない」
(な……!)
ショーンは頭に血が上った。
「僕はおとなしく投降するから、彼は解放してほしい」
もう一度バカ野郎と叫びたくなった。
(子供なのはあなただって同じだろう)
そして子供なりの精一杯のあがきも、この大勢の大人たちにはやはり通用しなかった。まして、この国の君主を暗殺するという、とんでもなく危険な子供のあがきなどは。
「王女は捕えろ。そしてバカな子供はさっさと殺せ」
「ピーッ!」
複数の兵士の剣がショーンに襲いかかったとき、どこかから飛んできた小鳥が甲高い鳴き声を上げながら彼らの眼前を横切った。
「うわっ!」
兵士たちの足が止まり、全員の視線がそちらへ向いた瞬間、フランシスは早口に呪文を唱えながら駆け出した。そして現れた光の剣で、ショーンの前にいた兵士たち全員をほんの数秒でなぎ倒した。
そしてショーンの前に立ちはだかる。
「逃げろ、ショーン! 振り向かないで走れ!」
「バ、バカ野郎!」
ショーンはまたその言葉を叫んだ。
叫びながらフランシスの隣に並んで剣を構える。
「惚れた女を残して逃げられるか!」
突然の光る剣の出現に、そしてフランシスの信じられない素早さに仰天していた兵士たちは、しかしすぐに我に返って向かってきた。
「わからないのか!? 君がいても……」
三方向から一気に向かってきた兵士たちを、フランシスはまたも瞬時に切り倒した。
もう足をかばっている余裕などなかった。
「邪魔だって言いたいんだろ!? 俺はいないものと思え! あなたを残して逃げるくらいなら、死んだ方がましだ!」
ショーンも必死に兵士たちを迎え撃つ。
ピンチになると、小鳥が相手の頭やら顔やらをつついて加勢してくれた。
けれども、どう考えても勝ち目などない。
「王女は殺すな! 生け捕りにするんだ!」
離れた場所から叫ぶ声が聞こえた。
それだけが救いだった。
自分はきっと殺されない。まだ利用価値があるから。
だからショーンを守ることに集中しなければとフランシスは思った。
けれどもどんなに離れまいと思っても、気がつくと二人の距離は広まっていた。そしてフランシスの右足は、もう鉛のように重くなっていた。
「ピーッ!」
もう何人目かわからない兵士を倒しながら、ひときわ甲高い小鳥の声に振り向いたフランシスは、足をもつれさせて倒れたショーンに大きな兵士が襲いかかるのを見た。
体当たりしてきた小鳥をうるさそうに払いのけ、剣を振り上げている。
走っても間に合わない。いや、もう走れない。
フランシスは、気がついたときにはその兵士に向かって光の剣を投げつけていた。
背中に剣が突き刺さった状態で倒れてきた巨体に覆いかぶさられながら、ショーンは絶望的な表情で三度目の「バカ野郎」を叫んだ。
「武器を手放したら……」
襲いかかってきた兵士をとっさにかわしたフランシスは、自分に向けていた腕をつかんでひねり倒した。
地面に倒れた兵士の手から離れた剣を奪おうと伸ばしたフランシスの手は、しかし黒いブーツに踏みつけられた。
「あっ!」
「そこまでだ。フランシス王女」
複数の手に押さえつけられ、後ろ手に縛られた。
「捕えたか、軍隊長!」
遠巻きに様子を窺っていた男たちの中から、代表格らしい人物が駆け寄ってきた。声で、さっき王女を殺すなと指示した人物だとわかった。
「すぐに地下牢に閉じ込めよう」
「いや、この場で処刑する」
「なんだって!? そんなことをしたら、アステラとバルトワが……」
「国王陛下を殺されたんです! 即刻処刑しなければ、我が国の威信に関わる!」
「しかし……、殺すには惜しい……。こんな美しい……」
「わからないんですか、ウォートン公爵。この女にファーガソン伯爵も国王陛下も骨抜きにされた。生かしておいたらあまりにも危険な女です」
そして軍隊長と呼ばれた男は、倒れている自分の部下たちを見回した。
「そしてあまりにも強すぎる」
軍隊長はしゃがんでフランシスの体を起こし、その顎をつかんで上を向かせた。
「確かに美しい。ただ美しいだけでいれば、幸せな人生だったろうに」
そして立ち上がって剣を振り上げた。
フランシスは、自分を殺す男を、そして剣をじっと見た。
目をそらすまいと思った。
「フランシス!」
初めてその名を呼び捨てにしたショーンの絶叫が聞こえた。
(ごめん、マリオン)
この子を、守れなかった。




