第十一話
部屋の掃除に時間がかかって、フランシスは食堂には行かなかった。
それでなくても食欲がない。
学校へ向かって歩いていると、正門のところにギルバートが立っていた。
近づいて立ち止まる。
追い抜いていく生徒が、ちらちらとこちらを見た。
「僕は、誰にも言いません」
なんの前置きもなく、小声でギルバートは言った。
「あなたが間違ったことをする人だとは、どうしても思えないので」
その顔をしばらくじっと見たあと、フランシスは苦笑した。
「間違いだらけだよ」
そしてまた歩き出すと、ギルバートは横に並んだ。
「実際、昨日のこともよく覚えてない。りんごジュースがおいしかったことまでは覚えてるんだけど」
「あれはジュースじゃなくて酒です」
「え、そうなの」
「言ったじゃないですか」
「なんか眠くて、ボーっとしてた」
そして少し慌てる。
「ねえ、妊娠したら……」
「え?」
「あ、いや、なんでもない」
(妊娠中にお酒飲むのってやばいんじゃなかったっけ?)
まだ妊娠したと決まったわけでもないのに、心配になってきた。
(そうだ。僕には、学校へ行くことよりも大事なことがある)
そう自分に言い聞かせてみた。
(母親になるんだ)
「誰にも言わないから、学校やめないでください」
自分の思惑と正反対の言葉を聞いて、フランシスは隣に目をやった。
「ありがとう。でもさっきも言ったように、無理なんだ。薄着になったらみんなにばれる」
横顔がまた赤くなった。
ああ、いろいろ想像してるんだな、とフランシスは思った。
(しょうがないか。やりたい盛りなんだろうから)
「じゃあ、今月いっぱいで……」
「うん、今月いっぱい」
「あと四日」
「あと四日」
黙り込んでしまったギルバートに、フランシスは笑いかけた。
「お願いがあるんだ。あと四日、今まで通りに接してくれないか。敬語はなしで」
ギルバートもこちらに顔を向けた。まだ赤い。
「わかりました」
「だから、敬語はなしで」
しばらく黙ったあと、ギルバートは言った。
「わかった」
その答えを聞いて教室の扉を開けたフランシスに、生徒たちの嬌声が飛んできた。
「いよっ、ご両人!」
「新郎新婦の入場でーす!」
「ヒューヒュー」
「妬けるねえ! ふたり並んでご登校!」
誰かがウェディングソングを歌いだすと、大勢がそれに倣う。
黒板には相合傘のマークをはさんで、“ギルバート”、“ジュリア姫”と書かれていた。
しばらく呆然と立っていたギルバートは、やがてみんなにも聞こえるような声で言った。
「気にするな、ジュリアン。こんなバカげた騒ぎはすぐに収まるから」
フランシスはうなずいて、なに食わぬ顔で席へ向かった。
「どうだった? 優等生の味は。たっぷりかわいがってもらったか?」
ショーンがニヤニヤしながらこっちを見ていた。
「思った通り、誰にでもやらせるんだな」
「相変わらず低俗なやつだな」
顔も見ずにフランシスは言った。
「なんだとぉ!」
いきなり立ち上がったショーンが、胸倉をつかんできた。
フランシスは、とっさに両手で腹部をかばった。無防備になった顔にこぶしが飛んでくる。
体と一緒に倒れた机が大きな音を立てた。
「ジュリアン!」
駆け寄ってきたギルバートに助け起こされる。
「なんてことをするんだ!? この人は……」
ショーンを睨みつけたギルバートの腕をつかんで、フランシスはその先を言わせなかった。
「大丈夫だから……」
「大丈夫じゃないだろう!?」
教室は一転して静まり返っていた。
殴った当人も何も言えないでいる。
「よく聞け! 僕たちはなにも恥ずべきことはしていない! 憶測でこんなバカ騒ぎをする方がよっぽど恥知らずだ!」
大声で訴えたあと、ギルバートはまたフランシスを見た。
ポケットからハンカチを出して、血が流れている額に当てる。
「立てるか? 医務室へ行こう」
「大丈夫だって……」
「血が出てるぞ」
「医務室は行きたくない」
体を診られる。
「そんなこと言ってる場合か」
「あと四日、無事に過ごせれば……」
「そんなこと言って、もし顔に傷でも残ったら……」
そしてギルバートは声をひそめた。
「悲しむ人がいるだろう?」
フランシスは黙りこくる。
そのとき前方の扉が開き、一限目の教師が入ってきた。
「どうした。早く席に着きなさい」
「先生、ジュリアンが怪我をしたので、医務室に連れていきます」
ギルバートはそう言って、フランシスが立ち上がるのを助けた。
「怪我だって? どうしたんだ」
「殴られたんです。詳しいことは殴った当人に聞いてください」
「級長、これ……」
クリストファーが、落ちていたメガネを拾ってギルバートに渡した。
それを受け取って、ギルバートはフランシスと教室を出た。
「メガネ、壊れちゃったな」
「捨てていい。それ、伊達だから」
そう言ってフランシスはギルバートを見た。
「ついてこなくていいよ。また何か言われる」
「ついていくよ。ちゃんと医務室に行くかどうか怪しいから」
腫れている頬が痛々しくて、ギルバートはショーンへの怒りが収まらなかった。
「医務室の先生にもしばれたとしても、あとたった四日ならなんとかお願いして学校にいさせてもらえるんじゃないか? いやいっそ、正体を明かした方が特別に認めてもらえて、ずっといられるかも」
「ねえ、あれ誰?」
窓の外を見ていたフランシスがいきなり言った。
一生懸命うったえたギルバートの話など、まるで聞いていなかったように。
フランシスの視線の先に、中庭の焼却炉でごみを燃やしている体格のいい男の姿があった。
「ああ、用務員のおじさんだよ」
フランシスは突然窓をあけて大声を出した。
「おはようございます!」
男はこちらを見たが、ただ頭を下げただけだった。
「突然どうしたの?」
ギルバートは面食らっていた。
「声が聞きたくて」
「は?」
「あの人の声、聞いたことある?」
学校を続けられるかどうかの話よりそんなことの方が大事なのかと困惑しながら、ギルバートは答えた。
「さあ、話す機会などないから」
「火事騒ぎを起こした男の声、いまだに該当する人に会ってない」
「え?」
そんなことすっかり忘れていた。
「あれは大人の声だった。夜の寮に出入りする大人って誰だろうって、ずっと考えてた」
一か月以上も前のほんのひと言ふた言程度の声を今も覚えているのかと、ギルバートは驚いていた。耳の良さなら誰にも負けないつもりの自分でさえ忘れている。そもそもあのときの自分は別のことで頭がいっぱいで、そんな声など気にも留めなかった。
「でも、その声の主をみつけることに何か意味があるの? あれから何も変わったことはないじゃないか」
「変わったことはある」
そう言ってフランシスはギルバートを見た。
「アンダーソン先生」
ギルバートはまた困惑した。
「確かに様子が変だったけど、それと火事騒ぎと関係あるの?」
「わからないけど、いろいろおかしいじゃないか」
やはりこの人は、別の世界の人なのかもしれないとギルバートは思った。
自分も、たぶんほかの学生たちも、そんなことはすぐに忘れてしまうくらいほかのことで頭がいっぱいなのだ。
勉強とか。
(あなたのこととかで……)




