第十二話
三か月ぶりの孫の帰還を、オリバーは雨に濡れながら外で待っていた。
ブランカを馬小屋に入れ、フランシスは駆け寄ってきた。
「おじい様……」
オリバーは何も言わず、孫の背を押して家の中へ招き入れた。
話さなくても、顔を見ただけで互いの気持ちはわかっていた。
すでに用意していたタオルでずぶ濡れの孫の顔を拭くオリバーの手首を、フランシスはつかんだ。
「お願いです。急いでください」
どうせすぐにまた濡れるのだと、心の声が聞こえる。だからコートを脱ごうともしなかった。
「フランシス……」
オリバーは孫に背を向け、テーブルに歩み寄った。そしてポットを手に取り、熱い紅茶をカップに入れた。
「お前がアステラ城に移ることになったとき、一緒に来るようにと何度もおっしゃってくださった陛下の誘いを、私が固辞した理由はわかるか?」
意図的に遮断しなければ、自分の考えはそのまま孫の意識に流れ込むことをわかっていても、オリバーはあえて口にした。
興奮気味の孫を落ち着かせるために。
「もちろん、理由はいくつかあるが、一番は……王后陛下をこの手で殺さない自信が、私にはなかった」
温かいカップを、オリバーはテーブルの上に置いた。
「お前には耐えることを強いておきながら、私にはそれができそうになかった」
「でも、おじい様……」
「コートを脱いで、座りなさい」
フランシスは動かなかった。
「人はいつか死ぬんだ。遅いか早いかの違いだけで……。まして心臓なら厳しいだろう」
「でもおじい様は、ほかの医者が諦めた患者を何人も救ってきたじゃないですか」
「エレナは救えなかった」
語気が強くなった。
「その私に、あの女を救えと言うのか」
フランシスに罪はないのに、つい責めるような口調になる。
「おじい様……。僕は、何度も姉上に救われました。憎まれても、恨まれてもしょうがないのに、そのくらい辛い思いをしたはずなのに、僕を許してくれた。変な目で僕を見る人から守ってくれた」
(マリオンが選んだのがこの子で良かったって心から思ったのよ)
(フランシスは、女の子にも男の子にもなれるから)
(強くて、きれいで、大好きなフランシス)
フランシスが思い出すパトリシアの言葉が、そのままオリバーの意識にも流れ込んできた。
「姉上がいなかったら、僕はきっと女として暮らすことに耐えられなかった。そして、姉上が許してくれなかったら、僕はマリオンの気持ちを受け入れられなかった」
フランシスの瞳に涙が浮かんだ。
「僕がいま幸せでいられるのは、姉上のおかげなんです。姉上が悲しむ姿を見たくないんです。お願いです、おじい様」
フランシスはうつむいた。涙がいくつも床に落ちる。
孫の口から「幸せ」という言葉を、オリバーは初めて聞いた。
母親もいない。友達もいない。父親にもほとんど会えず、自我が芽生えてからは、自分が男なのか女なのかもわからない孤独で悩みばかりの子供時代を過ごした。かわいがってくれた大好きだった叔父は、若くして亡くなってしまった。そしてその叔父の命を奪い、父親を半身不随にした戦場へ、弱冠14歳にして身を投じた。重い責任を背負って。
その孫がいま、幸せだと言う。
そしてわがままどころか、自分に何ひとつ要求などしたことがない孫の初めての願いごとが、この世で一番憎いはずの女を救えということだなんて。
オリバーは、大きなため息をついた。
「薬を取ってくる」
部屋を出て調合室に向かい、自製の薬草の瓶をいくつか取って鞄に入れた。
そしてレインコートを着て戻ってくると、待っていたフランシスが駆け寄って抱きついてきた。
「ありがとう、おじい様」
オリバーはその肩を抱いた。
「外は嵐だ。お前はここにいなさい」
「いえ、一緒に行きます。途中、大木が道をふさいでいる。ブランカしか越えられないと思う」
馬小屋には、もう一頭オリバーの馬がいる。その馬で向かうつもりだった。
落雷が大木を切り裂く映像がフランシスの記憶からオリバーの意識に流れ込んできて、今度はオリバーがフランシスを抱きしめた。
「どうしてお前は……」
今さら責めてもしょうがないと気づいて、途中で言葉を止めた。
ブランカに乗ったことはないが、あの賢い馬なら自分を無事はこんでくれるはずだ。でも何を言っても、フランシスはここに一人残るつもりはないのだろう。この無鉄砲な孫を置いていく方が心配になってくる。
「急ごう」
二人は馬小屋に向かった。
「もう一度頼んだよ、ブランカ」
愛馬にそう声をかけると、先にフランシスがまたがった。そしてその後ろにオリバーが乗り、アステラ城へと向かった。
帰城したときには、すでに真夜中を過ぎていた。
憔悴しきった顔で出迎えたマーサが、二人のコートを受け取ってタオルを渡してくれた。
それで濡れた顔や髪を拭くのもそこそこに、二人はグレース王妃の寝室へ向かった。
扉をあけると、先にジェイソン国王が、そしてベッドのそばに座っていたパトリシアが振り向いた。
オリバーを驚きの表情で見た国王は、その表情のままフランシスに目をやった。
オリバーは国王に軽く頭を下げた後、何も言わずにベッドに歩み寄った。
ベッドサイドには初老の医者と二人の侍女がいたが、もう何もできずにいるようだった。
その医者も、オリバーが来たことに驚いていた。
「オリバー先生」
元々はこの城に医者として仕えていたオリバーのことは全員が知っていたが、当時幼かったパトリシアだけが、(誰?)という目でフランシスに問いかけてきた。
「僕のおじい様です」
その問いに、フランシスは声に出して答えた。
(きっと大丈夫ですよ、姉上)
精一杯のいたわりをこめた目でみつめながら。
医者と侍女たちから場所を譲られたオリバーは、血の気を失った顔で荒い息をしている患者を覗きこんだ。
「失礼」
ひとことそう言うと、心臓のあたりに手を置く。
気配を感じて、王妃が薄目を開けた。
その目がオリバーをとらえた途端、大きく見開かれる。
「あ、あなたは……」
「診させていただきますよ、王后陛下」
「ち、近寄らないで……。何しに来たの」
「治療をするだけです」
「出ていって! 私にさわらないで! 誰か、誰かこの男を追い出して!」
全員がその剣幕に唖然としていた。声を出すのもやっとのはずなのに。
「私を殺しに来たのよ! 誰か! ジェイソン!」
「グレース王妃!」
呼ばれた国王ではなく、フランシスが枕元へ駆け寄った。初めてその名を口にして。
「嵐の中かけつけたんです! 雷が何度も落ちました! あなたを殺したいなら、そんな危険を冒しますか!?」
王妃はさらに目を見開いてフランシスを見ていた。その顔は、さっきよりも恐怖に慄いている。
「信じてください!おじ……」
「エレナ……」
おじい様を、と言いかけたフランシスの言葉が遮られた。
「私を迎えにきたの……。エレナ……」
幻覚を見ている――。
フランシスが次の言葉を探しあぐねているうちに、王妃の目は涙に濡れ、色をなくした唇が震えだした。
「許して、エレナ。あなたを殺すつもりはなかったのよ。信じて……。赤ん坊さえ……赤ん坊さえ死んでくれれば、それでよかったのに……。だって……だってあなたが男の子を産んだら……私はここから追い出される。あの女のように……」
そこまで言って、王妃は苦しそうにうめいた。
オリバーが再び胸に手を当てる。
抵抗する力はもうないようだった。
「どういうこと?」
震える声がして、フランシスは振り向いた。
「どういうこと? フランシス。エレナって、あなたのお母さんよね」
顔色をなくして自分を見ている姉に言うべき答えを、フランシスはみつけることができなかった。




