第九話
横に倒れている男の背には、剣で斜めに切り裂かれた傷。そして黒髪の男の右手には、血のついた剣。目の前で涼しげな顔で、自分に手を差し伸べている男が殺したのは明らかだった。
フランシスはその手には触れず、上体だけ起こして男を凝視した。
「あなたは誰?」
「ただの通りすがりの者です」
答えながら、男は鞘に剣を納めた。
ずっと微笑している。
人を殺した直後の人間が、こんな表情をするだろうか。フランシスが襲われていたと勘違いして暴漢を殺したのだとしたら、もっと興奮して心配したり安堵したりするのが普通だろう。
「祭りの最中に、そんな物騒なものを持ち歩いているのか」
「祭りのときこそ、危ない人間が出没するものですよ。この男のように」
死んでいる男をちらりと見た後、またフランシスに笑いかけた。
「とにかく、あなたのきれいなお顔に傷がつかなくてよかった」
フランシスの違和感はさらに増した。
本当に助けたと思っているなら、怖がりもせずお礼も言わない自分をなぜ不思議に思わない?
女だと思っているなら、こんな格好をして男言葉を話す自分をなぜ奇異な目で見ない?
そして本当にきれいだと思うなら、なぜ最初に驚かなかった?
フランシスはよくわかっていた。自分を初めて見たほとんどの人間が、目を見張る、息を呑む――そんな反応をすることを。
だがこの冷静さは……。
(初対面じゃない?)
その時、駆け寄ってくる複数の足音が聞こえてきた。
そちらに目を向け、男は言った。
「またいつか会いましょう」
そして立ち去ろうとする。
男の行く手に、一頭の黒い馬がいた。
「待て!」
フランシスは立ち上がった。
「なぜ僕の邪魔をした」
「邪魔?」
男は振り向いた。
「口を封じたくてこの男を殺したんだろう?」
男はまた微笑する。
「何を言っているのかわかりません。私はただ、あなたが……」
その表情に、一瞬影がさした。
「あなたが私の大切な人に、よく似ていたので……」
「フランシス様!」
近衛兵たちの声が近づいてきた。
「フランシス……。きれいな名だ」
男がまた笑いかける。
「もっと話したかったが、時間がない」
「待っ…」
「殿下! いました! こっちです!」
もう一度呼び止めようとしたフランシスの声を、カイルの声がかき消した。
「フランシス!」
マリオンに呼ばれて、フランシスは振り向いた。
背後で、去ってゆく馬の蹄の音がした。
先に到着した近衛兵たちが、倒れている男を見て仰天した。
その近衛兵たちをかき分けて、マリオンが駆け寄ってきた。そしてやはり、死体を見て足を止める。
「お前、武器を持っていたのか?」
走ってきたせいで息が乱れていた。
「殺したのは僕じゃない」
「え?」
「通りすがりの人」
「おい、ふざけるのはやめろ」
一度止まって両膝をおさえながら、マリオンは息を整えた。
それからフランシスに歩み寄ると、その両肩を強くつかんだ。
「どれだけ心配したと思ってるんだ!? もう二度とこんな勝手な真似はするなよ! ゆうべ言ったろう!? お前の体は俺のものだって!」
その剣幕と最後の言葉に、全員が目を丸くして王子を見た。
しかしフランシスも負けてはいなかった。
「それを言うなら、あなたの体は僕のものだろう!? 自分のものを守って何が悪い!?」
「なんだと!? ひとにこれだけ心配させておいて…」
「で、殿下」
殴りかかりそうな勢いのマリオンを、カイルが慌てておさえた。
「聞いてるこっちが恥ずかしくなるから、痴話げんかは後にしてくださいよ」
緊急に調査団がつくられ、王太子殿下暗殺未遂事件の捜査が始まった。
マリオンは無事な姿を国民たちに見せて祭りを継続することを主張したが、危険が完全に去ったという確信が持てない以上、国民たちの安全のため収穫祭の中止が決まった。
街のいたるところで調査団や近衛兵たちが不審者の捜索に乗り出し、華やかな賑わいは一転して重苦しい雰囲気に変わった。
最大の祭りの楽しみを奪われて落胆する人々も少なくはなかったが、それよりも恐怖心の方が国民たちの心を占めていただろう。
マリオンは重臣たちと今後の対策を練る会議に時間をとられ、フランシスは調査団の事情聴取に拘束された。
そしてもうひとつ、バカンスの終わりを告げる出来事が二人を待っていた。
迎えの馬車を向かわせたので、そろそろ帰ってくるようにという手紙がアステラから届いたのだ。
小さなノックの音の後、ドアが開き近づいてくる気配を感じたが、フランシスはあえて目を開けなかった。
ベッドがきしみ、優しい手が髪に触れた。そしてその髪に、そっとくちづけされる。
やっと目をあけた。
「起こしたか?」
「ううん、起きてた」
ベッドの端に腰かけて、マリオンが見下ろしていた。
「わかったの? 木こり男の正体」
「木こり男…」
マリオンは苦笑した。
「やはり、金で雇われたフリーの傭兵らしい。弓の名手でその界隈では名も通っていたようだ」
フランシスは起き上がった。
「ふうん」
「お前が言っていた、顔に痣がある女というのは、今のところなんの情報もない」
「たぶん、僕の話は信用されてない」
「え?」
「何度も聞かれた。どうやって矢を払ったのかって。だからこうやってって……」
フランシスは手で払う仕草をした。
「何度も言ったんだけど、みんな疑いの目で見てた。僕の方こそ聞きたい。じゃあほかにどういう方法があるのか……」
話の途中でいきなり抱きしめられた。
「だからなんで、そんな危ない真似をするんだ」
泣いているような声だった。
「わかってる。お前がいなかったら、きっと俺は死んでた。これで二度目だよな。助けられたのは……。犯人を追っていったのだって、俺のためだってわかってる。だけど……だけど頼むから、もっと命を大事にしてくれ」
フランシスの中では、そんなに危ないことをしたという感覚はなかった。でもそう言ってもたぶん納得してもらえないだろう。最後まで自分の話をまともに取り合ってくれなかった、あの調査団の男たちのように。
「わかった」
言っても無駄なことを言うのは、もうやめようと思った。
素直に返事すると、マリオンは一度からだを離し、軽くキスしてきた。
「さ、もう寝よう。お前も疲れたろう」
そう言ってベッドにもぐりこんでくる。
「またここで寝るの?」
「だめか? 明日には迎えが来るんだろう?」
「だめじゃないけど……」
「本当は送っていきたいけど、しばらくは、俺がどこへ行くにも相当数の警備がついてまわるらしい」
「もちろん、そんなことしなくていいよ」
「俺がついていく方が危ないかもしれないしな」
笑いながら言うと、隣に横になったフランシスの肩を抱き寄せた。
「昼間も言ったけど、俺を殺したい人間はおそらくたくさんいるんだ。いちいち怖がってたらきりがない」
「だけど…」
フランシスは、その先を言うことに少し躊躇した。
「今回は、あなたが想像しているような理由ではないような気がする」
マリオンは、腕の中のフランシスに目を向けた。
「あの男……、暗殺者を殺した男……、あの男はたぶん、僕のことを知っている」
「え?」
「僕を、なんのためらいもなく“お嬢さん”って呼んだ。そして、大切な人に僕が似てるって……。思い当たる人は、一人しかいない」
顔を上げて、じっとみつめているマリオンと視線を合わせた。
「僕の、母上」




