第一話
「海よ! 見て、フランシス!」
馬車の窓から身を乗り出して、パトリシアが歓声を上げた。
その横に並んで、フランシスも瞳を輝かせている。
バルトワ城に向かう道を遠回りして、海岸通りを進んでいた。
途中で馬車を停めると、二人は待ちきれなかったように一目散に外へ飛び出していった。
そのはしゃいでいる姿を見ながら、マリオンは苦笑する。
子守りは一人で十分だと、なんとかパトリシアの同行を阻止しようとしたが、結局は連れてきてよかったと思った。
パトリシアの前では、フランシスはよく笑う。それは、多少無理をしている部分もあるのだろうとは思う。彼女の身代わりになったことの負い目を感じさせないために。
それでも、きっとパトリシアの明るさは、フランシスの救いになっているはずだ。
足元が汚れるのも厭わず砂浜まで駆けて行って、寄せてくる波から手をつないで逃げる二人を見ながら、マリオンは微笑していた。
「まあ、本当に女の子みたいな男の子なのね」
カトリーヌ王妃の第一声がそれだった。
「逆です、母上」
マリオンが訂正する。
「あら、間違いじゃないのよ、伯母様。フランシスは、心は男の子なんだもの」
パトリシアが助け舟を出すと、王妃は微笑んだ。
「まあ、それじゃマリオンの恋は実りそうもないのね」
「母上!」
顔が赤らむのを感じながらフランシスを見ると、彼女も困惑した顔をしていた。
国王と王妃の前で礼儀正しく挨拶しながらも、さすがのフランシスでも緊張している様子だった。
それをほぐそうとしているのか、王妃は優しい目を彼女に向けていた。
フランシスは、あれだけ強いのになぜか女性の庇護欲をそそる稀有な存在だとマリオンは思う。
そして、男は逆に嗜虐性をかき立てられる。
初めてフランシスを見た時に一瞬浮かんだ国王の好色な目つきを、マリオンは見逃さなかった。
それがすぐにわかったのは、自分もそうだったからだとマリオンは理解している。権力を持っている者ほど、より美しいもの、より強いもの、より希少なものを求めるのだろう。
それでも、不快感は拭えなかったが。
「そなたは、アステラだけではなく我が国にとっても希望の光だ。両国の平和と発展のために私は力を惜しまぬゆえ、そなたにも協力してもらいたい」
「はい、ありがとうございます」
フランシスは深々と頭を下げた。
「堅苦しい話はそのくらいにしてあげましょう、ニコラス。こんなに可愛らしいお嬢さんなんだもの。それに、二人とも長旅で疲れているでしょう?」
そして王妃は、パトリシアに目を向けた。
「あなたが元気そうでよかったわ、パティ。私のわがままな息子がひどいことをしたというのに……。さぞかし辛かったでしょう。ごめんなさいね」
「大丈夫です、伯母様」
パトリシアは笑顔で答えた。
「私、たくさん仕返ししますから」
マリオンはギョッとして従妹を見た。
翌日、マリオンはカイルを伴い、約束通りフランシスとパトリシアをヨットに乗せてあげた。
楽しそうにくっついている二人を見るのは微笑ましかったのだが、その半面パトリシアの存在がそろそろ邪魔に思えてきたマリオンにとって、この船旅は思わぬ幸運をもたらしてくれた。
パトリシアの興味は釣りを始めたカイルの方に向き、フランシスはもっぱら操縦するマリオンの手元ばかりを見ていた。
こういうところはやはり男の子だなと思いながら、マリオンは舵の取り方や風の読み方を丁寧に教えてあげた。
小さな船なのでもちろん声が聞こえる距離に邪魔者はいたが、それでもマリオンは、思い描いていたハネムーン気分を少しだけ味わった。
けれども甘い気分に浸ってばかりもいられず、ずっと聞きたかったことをマリオンは口にした。
「危険な人物は、近づけばわかるって言ったよな?」
フランシスは顔を上げてマリオンを見た。
「ここへ来て、今まで会った奴の中に、そういう奴はいたか?」
「いや…」
フランシスは首を振ったが、マリオンの真意を探るようにじっと見ている。
「俺なりに、15年前の黒魔術師が脱走した事件を調べてみた。だが、昔すぎてどうにも進まない。どう考えても、あの叔母上が一人でできることではないと思う。絶対に共犯者がいる」
そして黙っているフランシスに、勇気を振り絞って次の質問をした。
「俺の父をどう思った?」
ニコラス国王は、利用価値があると思って一人だけ黒魔術師を生かした。
だがその利用方法とは、決してフランシスの母親に呪いをかけるようなことではないはずだ。アステラの王族の男児の誕生を阻止することは、バルトワにとってはむしろマイナスにしかならないのだから。
それでも、その男児を産むというアステラの王妃の最大の役目を、他の女に奪われた妹を不憫に思った可能性はないとは言えない。
しかし、そうだとしても、その黒魔術師を逃がすのは解せない。
ずっとそのことが、マリオンの心にひっかかっていた。
フランシスは、パトリシアのために叔母の罪を見逃している。だがそれが、自分の父も共犯だったら?
直接問いかけることも何度か考えたが、あの父が、自分が罪を犯したとしてそれを正直に答えるとは思えない。
けれども、問わなくてもわかる人間がここにいるのだ。
「正直に答えてくれ、フランシス」
「昔のことまではわからないけど、いま現在、僕を警戒しているような感じはないから……たぶん、違うと思う」
その答えに、マリオンは思わず大きく息を吐いていた。
相手が誰であっても、自分はフランシスの味方だ。その気持ちは変わらない。それでもやはり、その相手が実の父親ではあってほしくない。
「ただ……」
しかし、フランシスの言葉には続きがあった。
「ただ?」
言いにくそうにうつむいてしまったので、マリオンは先を促した。
「いや、なんでもない」
マリオンは、その横顔を覗き込んだ。
「ああ、お前が何を言いたいかわかる」
フランシスは顔を上げない。
「父上は、俺と同じ目でお前を見ていたんだな」
狩人が、獲物を見るような目。
手に入れたい、と。
「ジェイソン国王が負傷してしまった今、実質お前だけが戦の神に選ばれたアステラの王族だ。それだけでも父上には魅力的なのに、それに加えてお前の美貌は、どうしても男を惹きつける」
伏せたままの長いまつげが揺れた。
少し冷たい潮風が、その金髪を揺らしている。
「わかってくれとは言わないが、美しい女を自分のものにしたいと思うのは、男の性だ。これからも、お前をそういう目で見る男はいやと言うほど現れる。まあ、少しずつ慣れていくしかないだろうな。ただ、二度とこの前のような目には遭わせない。世界中に、お前が俺の想い人だという噂を流してやる。お前に手出しするということは、バルトワを敵に回すということだと知らしめてやる」
それでも顔を上げないフランシスに、マリオンは笑いかけた。
「たとえ、俺の一方的な片想いだって笑い者にされても、な」
(顔を上げろ、フランシス)
笑顔の裏で、マリオンは呼びかけた。
(俺を見ろ)
あの悪夢の夜以来、フランシスがあの獣のような目をマリオンに向けることはなくなった。尖ったナイフのように、反抗的な言動をすることも。
話しかければ素直に答える。静かに微笑を浮かべることさえある。
けれども、極力自分と目を合わせないようにしていることも、マリオンは気づいている。
(お前はきっと、自分の感情に戸惑っているんだろう?)
男になりたいフランシスが、男を好きになる自分を認めたくない気持ちはわかる。あれほど反発していたマリオンに対して、すぐには素直になれない気持ちもわかる。
パトリシアがフランシスにまとわりついているようでいて、実はフランシスの方がパトリシアをそばにいさせたいのかもしれない。マリオンと二人きりにならないように。
(だけどそれでいいのか? フランシス)
“恩人”という言葉に逃げて、自分の感情から逃げて、俺の視線から逃げ続けるーそれで本当にいいのか?
(自惚れじゃないよな。お前も本当は、俺のことを…)
「フランシス! 早く来て、フランシス!」
肩に触れようとした手を、パトリシアの大声が止めた。
「釣れたのよ! カイルが大物を釣ったの! 見て見て! 早く!」
自分の横をすり抜けていく細い体を目で追いながら、マリオンは髪をかきむしった。
(あー、くそっ!)




