第二十話
振り向くと、フランシスは両手で顔を覆っていた。その肩が小刻みに揺れている。
「あ…あ…」
嗚咽が指から漏れ、その声がだんだん大きくなる。
急いで駆け寄り、またその隣に座って揺れている肩にそっと触れた。
次の瞬間、すごい勢いでフランシスがしがみついてきた。
そして激しく泣きじゃくる。
その背に両手を回しながら、しかしマリオンは、この状況が信じられずにいた。
「姉上じゃ…」
泣きながら言うのでよく聞き取れない。
「姉上じゃなくて…よかった…」
「ああ、ああそうだな」
間抜けな返事しかできない。
「悔しくて…吐き気がして…死んでしまいたかった…」
心臓がドクンと鳴って、回した手に思わず力を込めていた。
「殺せって、何度も何度も言った。もしも死ななかったら、僕はもう二度と女になんかならない。もう二度と、男に体を触らせないって誓った」
また手を緩める。
(どっちなんだ。触れていいのか、駄目なのか)
だが、しがみついているのはフランシスの方だった。
「だけど…」
そう言ったきり、フランシスはしばらく沈黙した。
嗚咽も徐々に止まっていった。
「あなたに触れられた時、嫌じゃなかった」
夢かもしれないと思っていたマリオンは、だからその言葉もすぐには理解できなかった。
「え?」
だいぶ遅れて反応する。
「あいつに似ているなんて言って、ごめんなさい」
鼓動が早くなって、体中が震えだしそうだった。
「お前、お前、それって…」
しがみついていた体を引き離して、その顔をのぞき込まずにはいられなかった。
「俺のことが好きってことか?」
戸惑っている顔が少し赤らんだ。そしてその顔をすぐにそらす。
「ち、違う。そうじゃない」
マリオンは、ふくらんでいた風船が急にしぼんでしまったような気がした。
「ただ、あなたは、僕の恩人だから」
「恩人って…そりゃ、助けるのは当たり前だろう。まして、俺のミスでお前が拉致されたんだ」
「いや、そっちじゃなくて…あ、もちろんそれも、感謝してるけど…。それに、ミスしたのは僕の方だから。僕が、あいつから注意をそらしたから。今までは、一度もそんなことなかったのに…あなたが、危ない目に遭ってるって思ったら…」
途切れ途切れのその言葉が、マリオンの頭の中でパズルのようにひとつの形を成した。
(もしかして、こいつ、自分の恋心に気づいてないだけじゃ…)
スティーブと同じかという問いも、つまりは、俺の気持ちを確認したかっただけじゃないのかー。
だがマリオンは、すぐに心の中でかぶりを振った。
(いや、思いあがるな、俺)
まだやっと、野生の動物がなついただけかもしれない。
「恩人って言ったのは…あなたのおかげで、僕は、嘘だらけの人生を終わらせることができたから…」
その言葉は、しかし恋の告白と同じくらいマリオンの心を射抜いた。
「みんなと、たくさん話をして、たくさん楽しい思いをできたから…」
昼間の大広間での、フランシスのはじけるような笑顔が、マリオンの心を埋める。
「おじいさまでさえ、僕が女だと公表することには不安を感じていたのに…」
「ああ…」
今日のようなことが起こる心配も、オリバーは感じていたのかもしれない。
「今度会ったらありがとうって言おうって思ってたのに…顔を見たら、なんだか癪に触って、なかなか言えなかった」
最後の言葉だけフランシスらしくて、マリオンは微笑を浮かべながらその背にそっと触れた。
「そうか。それならよかった。俺は、俺のせいでお前が辛い思いをしてるんじゃないかと心配だったから」
そして、その両腕をつかんでこちらを向かせた。
「だがな、フランシス、俺はきっかけを与えただけで、お前が今ここで楽しく暮らせているのは、お前がいい子だからだぞ」
泣きはらした目が、じっと見上げていた。
「みんなお前が大好きなんだ。俺のせいでお前を敵視してもおかしくないパティでさえ、あんなにお前を慕っている。みんなお前のことを大事に思っているんだ。だから…だからフランシス」
声と両手に力を込める。
「もう絶対に死にたいなんて思うな。これから先、もっと辛いことがあるかもしれない。そんな時は泣いていい。弱音を吐いても、誰かを罵ってもいい。だけど絶対死ぬな。お前を傷つける奴の何倍も、何十倍も、お前を大切に思っている人間がいるんだから」
今までのように睨むことも、手を振りほどくことも、反論することもせず、ただ黙ってフランシスはマリオンを見ていた。
その素直さが、それゆえに彼女が受けたダメージをマリオンに思い知らせる。
「わかったか?」
うつむいてこくんと頷いた小さな頭が、マリオンの胸に当たった。あるいは自ら押しつけたのかもしれない。
抱きしめたかった。
キスしたかった。
あの男が触れた痕跡のすべてを、自分の唇で消したかった。
けれどもそんなことをしたら、やっと落ち着いた心をまた乱してしまう。
「わかったら、もう休め。俺がついていてあげるから。一晩中ここにいるから」
「じゃあ、隣で寝て」
横にさせようと押した手が、思わず止まった。
フランシスは、大きなベッドの真ん中に移動した。
乱れていた布団を直して、その肩までかけてあげる。
「お前が眠ったらな」
(でないと、俺の理性が持たない)
フランシスはしばらく黙っていたが、やがて目を閉じた。
その顔をみつめながら、マリオンは思った。
25年間生きてきて、今夜ほど辛く、悔しく、悲しい夜はなかった。けれども25年の人生で一番幸せだったのはいつかと聞かれたら、やはり今夜と答えるかもしれないと。
絶望の中で自分を呼んだフランシスの声を聞いた時、焦りや不安や悲しみさえも、大きな喜びが凌駕した。そして今…。
薄く目を開けて、フランシスが右手を伸ばしてきた。
縛られていた手首の赤い痕が、愛おしい気持ちをさらにかき立てる。
その手にそっと触れると、強く握り返してきた。そして安心したようにまた目を閉じる。まるで頑是ない幼子のように。




