第十一話
満面の笑みと共にその名を呼ぼうとしたが、静かに開いた扉の向こうに立っていたのは、深刻な表情のパトリシアだった。
「パティ…」
寝苦しい季節とはいえ、王族の娘にはふさわしくないような、露出部分の多い薄い生地のネグリジェ姿だった。
「どうした」
問わなくても、彼女の真意はわかるような気がした。
「マリオン」
蚊の鳴くような震える声を出した後、パトリシアは駆け寄ってきた。
そしてベッドから半身を起こしていたマリオンにしがみついた。
「マリオン! マリオン!」
頬をマリオンの胸にすり寄せ、背中に回した手に力を込めて、パトリシアは泣きじゃくった。
「あなたが泊っていくと言ったとき、今夜は私の部屋へ来てくれるんだと思ったのよ。私…私…ずっと待っていたのに…。あなたが来てくれるのを、いつも待っていたのに…」
「パティ、すまない」
引き離そうとしたが、パトリシアはさらに強くしがみついてきた。
「もっと早く言えばよかった。君は俺じゃない男と一緒になった方が幸せになれる。言ったろう? いとこ同士の子供は…」
「私、子供なんかいらない! 後継ぎが欲しいならほかの女に産ませてもいいわ。あなたのお嫁さんになれれば、私はそれでいいの」
パトリシアは泣きはらした目でマリオンを見上げた。
「小さい頃からそう言われて、そうなるものと信じて、ずっとその日を夢見ていたのに、どうして…どうして…」
「許してくれ、パティ。俺は…」
「ねえ聞いて、マリオン。お母様が言っていたわ。お父様は、魔法使いに魔法をかけられて誘惑されたんだって。あなたもきっとそうよ。でなければどうして、子供の頃からの許嫁より、あんな…あんな男の子みたいな子を選ぶの。しかも、あなたたち会ったばかりじゃない。目を覚まして、マリオン!」
(魔法、か…)
パトリシアの必死な訴えも、マリオンに別のことを思い起こさせただけだった。
(確かにあれは、月の光の魔法だったのかもしれない)
そんな趣味などないはずなのに、十歳以上も年の離れた少女に、一瞬で恋をしてしまったのだから。
でも、自分を誘惑するためにフランシスが魔法をかけたのなら、それは望むところだ。
(だってそれは、お前も俺を求めているということだから)
だが現実はそうではない。
「パティ、さっき聞いたろ? フランシスは俺のことを、『こんなやつ』って言ったんだ。俺を誘惑したくて魔法をかけたなら、なぜ俺を拒む」
興奮状態だったパトリシアは、虚をつかれて黙った。
「残念ながら、俺の一方的な片想いだ」
「じゃあ、結婚はしないの?」
「すぐには難しいだろうな。だけど…」
これ以上この子を傷つけるのは酷だろうかと、マリオンはためらった。だが、期待を持たせるのはもっとよくない。
「だけど、諦めない」
パトリシアの瞳に、また涙が浮かんできた。
「許してくれ、パティ」
「どうして?」
その目には、怒りの色もあった。
「あの子のどこがいいの? 私いまでも、あの子が女の子には思えないわ。だって、だって戦場に行くのよ。平気で人を殺すのよ。騎士団の人たちが言ってたわ。戦場に行ったら何日もお風呂に入れないって。汚くて、臭くて、そんな男たちに混じって、あの子は人を殺す訓練をしてるのよ。そんな子がレディになれると思うの? あなたの奥さんが務まると思うの?」
こんな子だったろうかと思いながら、マリオンはパトリシアの言葉を聞いていた。だが、こんな言葉を言わせたのは自分だ。
(そうだよな。確かに、一刻も早く体を洗いたかったよな)
マリオンはまた、あの夜のフランシスを思い出した。
(なのに俺は、それを邪魔した)
「パティ、俺も汚くて臭いか」
パトリシアは驚いてマリオンを見た。そして慌てて首を振る。
「マリオンは違うわ!」
「違わないさ。俺も汗まみれになって人を何人も殺した。男なら許されて、女なら駄目か? 俺たちがそんなひどい所で戦うのは、祖国や、そこに住む君たちを守るためだ。フランシスもそうだろう。女だから、子供だから、王族だからと、戦わない理由の方が多いのに、彼女は戦ったんだ。その姿は、どんなレディよりも美しかった」
パトリシアは、目を潤ませてただマリオンを見ていた。
「俺のことをいくら恨んでもいい。なんなら今、いくらでも殴っていい。だが、フランシスのことは理解してやってくれ。ひととは違う運命を背負って、それでも必死に戦っているんだ」
パトリシアは何か言おうと唇を震わせたが言葉が出ず、首を振りながらうつむいた。そしてしゃくり上げながら、何度も何度もマリオンの胸を叩いた。
やがて叩くのをやめると、マリオンのパジャマをきつく握りしめて言った。
「じゃあせめて、今夜はここで寝させて」
そして自分のネグリジェのボタンをはずし始めた。
「私を抱いて、マリオン」
その手首をマリオンは掴んだ。
「部屋へ帰れ、パティ」
「初めての人はマリオンって、ずっと決めて待っていたんだから」
「帰れ、送っていく」
「いいえ、マリオン以外の誰にも抱かれたくない!」
「パティ、自分を大事にしろ。こんなひどいことをしたけど、俺は今でも君の幸せを願っている。ろくに話したこともない俺の腹違いの妹たちより、よっぽど君を大事な妹だと思っている」
パトリシアは愕然とした表情でマリオンを見上げた。
「妹?」
そしてすぐにまた声を荒げた。
「いいわ、それでもいいわ! 私を嫌いじゃないなら約束を守って! 私と結婚して! あんな、あなたを少しも好きじゃない子と結婚したって、あなたは幸せになれない。それどころか世界中の笑いものになるわよ!」
痛いところをつかれた。
だが傷つくどころか、その言葉がよけいマリオンを奮起させた。
「笑いたい奴は笑えばいい」
「マリオン…」
「俺はフランシスを愛している」
愛している。愛している。愛している!
心の中で何度もリフレインした。
(ああ、すまない、フランシス。真っ先にお前に言わなければならない言葉を、俺は他の人間に言ってしまった)
なぜ帰りたくないと切実に思ったのか。忘れ物をしているような落ち着かない気持ちだったのか。もちろん単純に離れたくないせいでもあるが、自分は一番大事なことをまだ伝えていなかった。
小さな両手が、それでもあらん限りの力を込めて自分を突き飛ばした。
走って部屋を出ていく従妹の背中を見送りながら、マリオンは心の中でもう一度わびた。
あんなに泣かれても、自分は他の女のことばかり考えていた。
(すまない、パティ)
見るともなしに窓外に目をやると、やがてコの字型の建物のここからちょうど右側に見える部屋のひとつに灯りが灯った。
しばらくしてその灯りが消える。
(あそこがパティの部屋か)
不意に思い出した昼間のパトリシアの言葉が、心の中で言おうとした「おやすみ」をかき消した。
「わたし部屋が隣だから」
わたし部屋が隣だからー。
考えるより先に部屋を飛び出していくマリオンの心の中で、また同じ言葉がリフレインしていた。
乱れていた息を深呼吸して整え、マリオンは静かに扉をノックした。
返事はない。
もう深夜を回っている。
かまうもんかと、ドアノブを握ってゆっくり回した。
カーテンから漏れる月光のせいで、部屋は暗闇ではなかった。だが、正面のベッドに主の姿はない。
「フランシス?」
小声で呼びかけながら一歩踏み出した時、不意に背後に殺気を感じた。
振り向くと同時にいきなり足元を払われ、マリオンは大きな音を立てて尻もちをついた。慌てて起き上がろうとした上半身は、強い力で床に押し付けられた。
「な…」
出しかけた声は、目の前に迫ったナイフのせいで喉の奥へ引っ込んだ。
そのナイフよりも鋭い眼光が、マリオンをさらに射すくめる。まるで、眼差しだけで人を殺せそうだった。
「次は殺されるかもしれませんよ」
そう言ったカイルの言葉が、マリオンの脳裏をよぎった。




