第二十三話
マーサが大慌てで旅の準備に取りかかってしまったので、フランシスの分のホットケーキはパトリシアが焼いてくれた。
少しでも別れを引き延ばしたいマーサが苦しまぎれの嘘をついただけで、ホットケーキの生地は十分残っていた。
パトリシア王女とカイルもやってきて、全員がテーブルに座った。
どうか、吐かずに完食できますようにとフランシスは願った。
森に住んでいた頃から世話をしていた鶏たちが産んだ卵でマーサが生地を作り、パトリシアが焼いてくれたホットケーキなのだから。そしてこの人たちとここで一緒に食事をするのは、もしかしたらこれが最後かもしれないのだから。
もちろん帰ってくる機会は何度かあるだろうけれど、決して気軽に行き来できる距離ではない。
「おいしいわ、パティ。ねえ、あなたの分もあるんでしょう? 一緒に食べましょう」
王女の誘いに、パトリシアは一瞬ためらう表情をしただけで、今度は素直に「はい」と返事をした。
ギルバートの隣に座っていたクリストファーが何も言わずに席を移り、自分の分の皿を持ってキッチンから戻ってきたパトリシアに、「そこに座りなよ」と言った。
うなずきながらお礼を言うパトリシアもギルバートも、それぞれ頬を赤らめていた。
着席したパトリシアを見て、マリオンは微笑した。
「そう言えば、二人のパティが一緒にいるのを初めて見るな」
「ねえ、ところで聞きそびれていたけどデートはどうだったの?」
王女のパトリシアがメイドのパトリシアに問いかけると、マリオンは目を丸くした。
「デート?」
「だから、デートじゃありませんって」
「誰と」と聞く前にギルバートが声を上げたので、マリオンはさらに驚いた顔をした。
「ギルバートじゃなくてパティに聞いたのよ」
「あ……ドリア……とてもおいしかったです」
「えーっ、いつのまに!?」
パトリシアの恥ずかしそうな声は、クリストファーの大声にかき消された。
「へーっ、そんなことになってたのか」
「だから、どんなことにもなってませんって」
マリオンとギルバートのやり取りに、王女も割り込んだ。
「ギルバート、男ならぐいぐいいかないと! ぐずぐずしてたら誰かに取られちゃうわよ。こんないい子ほかにいないんだから! 顔もいいし性格もいいし名前もいいし……」
「あの……本当に……私はそんな……身分が違いすぎますので……」
「私とフランシスがあなたを推薦するのよ。身分なんかよりずっと効力があるわ。それでも気にするなら、いっそロビン伯母様の養子にしてもらえばいいじゃない。ダニーと一緒に」
「いいアイディアだな。パティにしては」
微笑して姉を見ているフランシスの代弁をするつもりで、マリオンは言った。
「ねえ、誉めてるの? けなしてるの?」
マリオンを睨んでいるパトリシアを見ながら、カイルが笑った。
「さすが従妹ですね。言い方が殿下そっくりだ」
言い返そうとしたマリオンは、しかし自分を見て笑ったフランシスの方に意識を持っていかれた。
「無理して食べなくてもいいんだぞ」
フランシスは首を振る。幸運なことに、今日は吐き気も襲ってこない。
全員の視線がフランシスに向いてしんみりしそうになった雰囲気を、すぐに振り払うように王女は言った。
「ロビン伯母様は、今日から正式にブラッドリー家の一員になったの。その養子になったら、途端にギルバートは身分を追い越されちゃうのよ。だからぐずぐずしてないで……。あ、そうだ!」
まるで沈黙を恐れているかのようにしゃべり続ける従妹を、マリオンは苦笑しながら見た。
「ねえ、いっそ三組合同で結婚式挙げちゃうってのどう?」
ギルバートとクリストファーがキョトンとする。
「三組って、あと一組は誰ですか?」
「見ればわかるじゃない、ギルバート。あと、残っているのは誰と誰?」
「えっ、僕!?」
「あ、ごめんなさい、あなたもいたわね、クリス」
「え、じゃダニー!?」
「おいおい、それじゃ犯罪だろう、ギルバート」
「そんなこと言ったら、殿下が一番の犯罪者じゃないですか」
知らん顔でそう言いながらホットケーキを食べているカイルを、ギルバートとクリストファーは唖然として見た。
「はは、それもそうだな」
「まさか、カイルさん!?」
「まさかって、どういう意味ですか、クリスくん」
カイルは手に持っているナイフとフォークを突き刺しそうな勢いで、クリストファーを見た。
「怒るな、カイル。こいつらから見たら俺たちはおじさんなんだよ。ロリコンよばわりされるし」
フランシスは、少し頬を赤らめてマリオンを見た。
「ロリコンじゃないけど、犯罪に近いものはありますよ。僕たちのマドンナを連れてっちゃうんだから。こんなに……早く……」
涙声になって、クリストファーは最後まで言えなかった。
「泣いちゃ駄目よ、クリス!」
そう言うパトリシア王女の目も、すでに赤かった。
メイドのパトリシアも涙ぐんでいる。
「フランシスの門出なんだから、みんなで明るく送り出さなくちゃ」
「そう言えば、一番うるさい奴は、今日はいないんだな」
マリオンの言葉にギルバートと顔を見合わせたあと、クリストファーは言った。
「毎日来てるって聞いたから、わざわざ誘いに行かなかったんだけど……」
大きいボストンバッグを四つも引きずってきたマーサに、マリオンは唖然とした。半分以上はフランシスのものだと言っているが。
「欲しいものは向こうで何でも買ってやるから、絶対置いていけないものひとつだけにしよう」
だが、フランシスが選んだひとつに、マリオンはさらに頭を抱えたくなった。
自室から戻ってきた彼女は、黒猫を抱きかかえていた。
マリオンは、苦笑しながらフランシスの頭に手を置いた。
「ネネは諦めよう。真夏に、何日も馬車に閉じ込めての旅はかわいそうだ」
本当は、言葉を必要としないペットの存在はどんなにかフランシスの慰めになるだろうと思うと、マリオンの心も痛んだ。
「ブランカなら連れて行ける」
フランシスはしばらく辛そうに猫に頬ずりしていたが、やがて振り向くと、後ろに立っていたダニエルのところへ歩み寄り、ネネを手渡した。
「僕にくれるんですか?」
目を丸くしているダニエルに、フランシスは微笑してうなずく。
「ありがとうございます。大事に育てます。それから……それから……」
ダニエルは涙があふれてきてうつむいた。
「僕がいま、生きていられるのは、フランシス様のおかげです。ここで……毎日……幸せでいられるのも……みんな……みんな……」
泣き出してその先を言えないでいるダニエルの頭を優しくなでると、フランシスはその隣でやはり涙を浮かべているメイドのパトリシアに微笑いかけた。
「泣いちゃ駄目って言ったでしょ。泣いちゃ……」
そう言ったパトリシア王女も、しかしフランシスと目が合った途端その体に抱きついて号泣した。
「体を大事にして。元気な赤ちゃんを産んで。帰りたくなったら……いつでも帰ってきて……」
「おいおい、そんなこと言うな、パティ」
マリオンは苦笑する。
痣が消えたロビン改めレイチェルの顔を見た人々は、みな驚きを隠せずにいた。
「フランシス様がおきれいなのは母親譲りって聞いてましたけど、父方の家系も美形ぞろいなんですね」
「ジュリアン公爵なんて、それはそれは美男子でしたものね」
今まで気を遣ってレイチェルの顔をまともに見ていなかった侍女たちは、口々に賞賛し合った。
照れくさそうにしているレイチェルの元へ歩み寄ったメイドのパトリシアは、深々と頭を下げた。
「奥様。今日まで、本当にありがとうございました」
彼女は、さっきからずっと泣き通しだった。
「いやね、パティ。永遠の別れじゃないのよ」
「ギルバートと一緒に、バルトワに遊びに来るといい。いつでも歓迎する」
マリオンが言うと、ギルバートは頬を赤らめながら「はい」と言い、パトリシアをみつめた。
いつも戸惑ってばかりだったパトリシアも、やっとその視線を受け止められるようになった。
そんな二人をみつめたあと、フランシスは手に持っていたノートにペンを走らせた。
それを見せられたパトリシアは、声に出して読んだ。
「赤ちゃんが生まれたら会いに来て。僕の代わりに子守唄を歌って」
パトリシアはさらに涙を流しながら首を振った。
「いいえ、一緒に歌いましょう。絶対……一緒に……」
ディアスで、いつもパトリシアがそばで寄り添ってくれていた日々を思い出しながら、フランシスも涙を流し、そして微笑しながらうなずいた。
全員に白い目で見られながら強引にフランシスを連れ去る想像をしていたマリオンだったが、アステラ城の人々はみな温かくフランシスを送り出そうとしてくれた。彼女がここで王女として過ごしたのはたった一年という短い期間だったが、どれだけ愛されていたのかわかった。ほぼ全員が涙を浮かべていた。屈強な騎士団の男たちでさえ。
別れ際には、側近に車椅子を押されてジェイソン国王も見送りに現れた。
その父に向って深々と頭を下げたあと、フランシスはオリバーの元へ歩み寄って抱きついた。
「みんなに、ありがとうと言っています。そして、心配かけたことを詫びています」
オリバーは振り向いて、孫の心の声を人々に伝えた。
ディアスから来た兵士のうちの五人が護衛として一緒についていくことになり、二人が御者台に乗り、三人がそれぞれ馬に乗った。その馬の一頭はフランシスの愛馬のブランカだった。
フランシス、マーサ、レイチェルが馬車に乗り、最後にマリオンは振り向いてジェイソン国王をみつめた。
(必ず、幸せにします)
馬車が動き出すと、誰からともなく人々は走り出し、庭園を抜け、門から出ていくその後を追った。そして道の向こうへと走っていく馬車が小さくなり、蹄の音が聞こえなくなるまで見送った。
「なんだか、僕の青春が終わったって感じ」
クリストファーが、らしくない言葉をつぶやいた。ショーンがいたら笑い飛ばしていたかもしれない。
けれども、ギルバートも似たような気分だった。夏の日差しはまだ強いのに、心には秋風が吹いているようだった。
(確かに、まぶしい青春だった)
フランシスと出会い、時に甘く、時に苦しく心を揺さぶられながら、泣き笑いした日々をギルバートは思った。
(さよなら、僕の初恋)




