第二十一話
親愛なるマリオン殿下。
フランシス様が、ストレスが原因の失声症になってしまいました。
心の病気なので、オリバーさんでも簡単には治せないようです。
でもオリバーさんもロビンさんも、必ずいつか治ると言っています。
気を使いすぎず、なるべく自然に接してあげるようにと言われました。
でも僕は、心配でなりません。
声が出なくなるほどのストレスを受けていたなんて、どんなに苦しかったのだろうと。そして、声だけで済まなくなったらどうしようと。
お忙しい身だということも、移動に何日もかかることも十分わかっています。
でもお願いです。
お時間が取れたら、どうかフランシス様に会いにきてあげてください。
ギルバート・ライアン
クリストファーが足に結んでいた手紙を、マリオンは読んだ。
横からカイルも覗きこみ、人間に戻ったクリストファーは、彼らの前でポロポロと涙をこぼした。
「こんな遠くまで、ご苦労だったな、クリス」
一度だけ微笑した後、マリオンは真顔になってカイルを見た。
「カイル、着いたばかりのところ悪いんだが」
「わかっています」
産まれたての卵を両手でそっと持ち、ダニエルはその温かさに微笑しながら振り向いた。
後ろでしゃがんで待っているフランシスが差し出したかごに、そっと入れる。
最近よく一緒に鶏小屋の掃除をしていたショーンは、今日はまだ来ていない。でもきっと、この卵がホットケーキに変わる頃には来るのではないか。
「俺にはちゃんとわかっていたんだ。今日はマーサがホットケーキを焼く日だって」と、得意気に笑うんだろうと、ダニエルは想像した。
そのショーンが大好きなフランシスが、今日は自分と一緒に卵を集める役を買って出てくれた。
もちろんダニエルもフランシスが大好きだった。自分と姉の恩人でもある。
フランシスがいなかったらオリバー先生にも会えなくて、今ごろきっと自分は死んでいたのだ。いくら感謝しても足りないけれど、ダニエルはその気持ちを上手に伝えられていない。感謝しすぎているせいか、それともきれいすぎるせいか、ダニエルはフランシスがそばにいるといつも緊張した。
そのフランシスが、ある日突然しゃべれなくなった。
たくさん悩んだせいだと姉は涙を浮かべながら教えてくれたが、こんなにきれいでみんなに好かれている人が、いったい何を悩むのだろうとダニエルは不思議だった。それでも、神様はやっぱりひいきしないんだなと、少し安心した。安心したなんて言ったら姉に叱られるに決まっているから、絶対口にはできないけれど。
でもやはり安心は少しだけで、ダニエルはちゃんと会話ができるうちにどうして自分はもっと、感謝を伝えなかったのだろうと後悔する気持ちの方が大きかった。
もちろん今だって、耳は聞こえるのだから伝えることはできる。でも、しゃべれないとわかっている人に話しかけるのはなんだかかわいそうに思えて、ダニエルはやはりうまく言えずにいた。
そして、フランシスがしゃべれなくなって気づいたことがあった。自分は、顔だけじゃなくてあのきれいな声も大好きだったということ。
だからダニエルは、神様に祈った。
ひいきしていいから、早くこの人に声を返してあげてくださいと。
「フランシス!」
遠くでその名を呼ぶ声がして、フランシスは立ち上がった。
ダニエルも、一瞬ショーンが来たのかと思って振り向いたが、すぐに彼ではないことに気づいた。
「フランシス! どこだ!?」
「鶏小屋にいらっしゃいます!」
メイドの声もした。
立ちつくしているフランシスが、卵の入ったかごを落とすのではないかというダニエルの不安は的中した。彼女の手から離れたかごを、ダニエルは地面に落ちる直前に両手で受け止めた。ホットケーキがお預けになることを防いだのだから、自分にしては上出来だと満面の笑みでダニエルは顔を上げたが、ほめてくれるはずの人は鶏小屋の外へ飛び出して行ってしまった。
鶏たちの羽根の音と蝉しぐれを聞きながら、ダニエルはかごを持って立ちつくしていた。
接吻というものを、生まれて初めて目の当たりにした。
「俺が悪かった」
フランシスを強く抱きしめて、マリオンは言った。
「離れちゃ駄目だったんだ。絶対に、お前から離れちゃ駄目だったんだ」
危ないと、あんなにロビンに言われていたのに。
「すぐに、バルトワに行こう。お前の好きな、海を見に行こう。母上も待っている。これからは、ずっと一緒だ。誰になんと言われようと、もう絶対にお前を離さない」
そしてマリオンは、ただ黙って涙を浮かべている恋人の頬を両手ではさんだ。
「俺が治してやる。必ず治してやる」
マリオンも涙を浮かべ、それを見せまいと素早くくちづけをした。
「もらっていきます」
ジェイソン国王の部屋で、フランシスの肩を抱いてマリオンは言った。
二人の後ろにはカイルが、そして国王の隣にはたまたま診察に訪れていたオリバーがいた。
「バルトワには、結婚の年齢を制限する法律はありません。すぐに入籍します。王太子妃の肩書を持っていれば、あっちの人たちもよりフランシスを尊重してくれるでしょうから。ただ……」
一度フランシスを見たあと、またマリオンは国王に顔を向けた。
「結婚式は、出産が済んだあとにアステラで行いたいと思っています。あなたにも、ぜひ参列してもらいたいから。その頃には、フランシスが声を取り戻していることを、そしてあなたが許してくださっていることを願って」
国王は、ただ黙って二人を見ていた。
「今はまだ、許されなくてもしょうがないと思っています。あなたも、僕と同じくらいフランシスを愛しているでしょうから。心配する気持ちも、手放すことの辛さも、十分わかっているつもりです」
そしてマリオンは、またフランシスに目をやった。いたわるような、慈しむような瞳で。
「陛下とオリバーに、挨拶をしておいで」
「待って!」
歩き出そうとしたフランシスの足を、パトリシア王女の声が止めた。
部屋に入ってきた王女は、「お帰り、カイル」と一瞬だけ笑顔を浮かべると、すぐに厳しい表情になってマリオンの隣に立った。
「連れて行ってもいいけど、その前にこの写真の釈明をして。フランシスは今しゃべれないから、きっと何も言えずに我慢しちゃうと思うから」
面食らっているマリオンの顔前に、パトリシアは例のマリオンとクロディーヌが表紙の雑誌を突きつけた。
不安げな顔でフランシスはマリオンをみつめ、国王もオリバーもカイルも黙りこくっていた。
しばらくポカンとしていたマリオンは、やがてハッと声を出した。
それが笑いの合図だと知って唖然としているパトリシアを尻目に、マリオンは大声で笑い出した。そして立ちつくしているフランシスに歩み寄ると、笑いながらその体を抱きしめた。
「かわいい奴だな。しゃべれなくなるほどやきもち妬いたのか? だったら大丈夫だ。俺がいっぱい愛してやれば、すぐにしゃべれるようになる」
「笑いごとじゃないわよ、マリオン! 笑ってごまかすつもり!? なんなのよ、このデレーッとした嬉しそうな顔」
「しょうがないだろう、嬉しかったんだ。『赤ちゃんおめでとう』ってクロディーヌに言われて」
フランシスは顔を上げた。
「じゃあ、この写真は何よ!? いくら嬉しかったからって、なんでこんなに顔を近づけるの!?」
王女はページをめくり、マリオンがクロディーヌに顔を近づけ、クロディーヌが頬を染めている写真を指さした。
「ああ……。こんなものまで撮られていたのか。すごいな、今どきのカメラマンは」
「感心している場合じゃないでしょ!?」
「これはたぶん、あの時だな。クロディーヌが父上に正妃候補だって言われたって言うから、『売れ残っているのが君しかいないからだろう』って俺が言ったんだ。確かにそうなんだ。俺につりあうような家門の娘は、みんなとうに結婚している」
「レディに向かってそんな失礼なこと……」
パトリシアは呆れた顔で、どっちの味方だかわからないようなことを言った。
「そう。俺だって、さすがに失礼かなと思ったから、周りの人間に聞かれないように顔を近づけたのさ。父上に急いで帰ってこいって言われた理由がクロディーヌの誕生パーティーだったなんて、こんなことならもっとクリスの別荘にいたかったってイライラしてたし、あんまりクロディーヌがベタベタしてくるからちょっと意地悪な気持ちになってたんだ。だけどやっぱりひどいこと言ったかなと後で反省したよ。あいつはきっと、俺の側室になりたくて嫁に行かなかったんだろうから。だから、誰かいい人をみつけてやろうと……」
そこまで言ってチラッとカイルを見た。
「思ったんだが、まあ、俺もひとの世話を焼いてる場合じゃないからやめた。だけど、俺の妃はもう決まってるんだし、側室を持つ気もさらさらないんだから」
そう言ってマリオンは国王を見た。
「クロディーヌを突き放すのは間違ったことじゃないだろう」
そしてマリオンは、フランシスをみつめた。
「嫌な思いをさせて、ごめんな」
しかしフランシスは、悲しそうな顔でそのマリオンの体を押すと、オリバーの方を振り向いた。
しばらく孫とみつめ合っていたオリバーは、戸惑っているマリオンの方に顔を向けた。
「フランシスも、あなたに謝りたいと言っています」
マリオンも、オリバーの方を向く。
「先日、階段からわざと落ちたんです。おなかの子を流産させたくて」
マリオンと、そしてその話を初めて聞く国王が、同時に愕然とした表情をした。
「幸い、たまたま下にいたショーンくんに助けられました。でも、フランシスは今でも苦しみから立ち直れていません。男の子を産むことは、人殺しを産むことだと思っているから。まして、ディアスの前国王の子供たちが今行方知れずになり、それが自分のせいだと思っている。生まれてくる男の子が、いつか自分のように苦しむのではないかと恐れているんです。殿下のお気持ちに水を差すようですが、フランシスが一番苦しんでいるのはそのことです」
ロビンが言った通りだとマリオンは思った。
ずっと苦しみを抱えて生きてきた人間は、耐えられる許容量がわずかしか残っていない――。
マリオンは、再びフランシスの体を抱き寄せた。
「陛下、やっぱり僕たちは、離れちゃいけなかったんです。おなかの子は、僕たち二人の子です。どんなことも、二人で話し合って、分かち合って、乗り越えていかなきゃならない」
そしてマリオンは、国王をじっと見た。
「許すのは、今じゃなくていい。でも僕が、フランシスを守って、立ち直らせて、声を取り戻させることができたら、その時、僕たちを許してください。結婚式に参列してください」




