第36話 デススパイラル
「おかえりなさいませ。今夜は(魔法で)寝かせないでくださいね…ヴィル様?」
ヴィルヘルムは思わずしゃがみ込んだ。『誰だ!余計なことを教えているのは‼』
「お加減が優れませんか?」
「いや!大丈夫だ!」
だがソフィアは顔を覗き込みながら額に触れ、甘やかすように頬をなでた。
「………その役割は、俺がやりたいんだ…」ポツリとつぶやいた。
「お嫌でしたか?」
「……………」
決して嫌な訳ではない。だが年上の自分が甘やかされるのはどうなのだろう。
子供の頃から気品を求められ、そんな風に撫でられた記憶もないのに…
「家でくらい、楽にされてもよろしいのではないでしょうか?」
「…これでは、テオみたいだ…」
ソフィアは笑いながら「ではいつ気持ちを緩めるのですか?」と言った。
「張り詰めたままでは切れてしまいますよ」
その言葉が耳に届いた途端、耳の中でドクンと音がした。
理解はできるが、現実的ではない。
緊張を強いられる身分、立場。そして、ノイズが走るように不意に戦場の様子が
フラッシュバックした。
「……そうでもしなければ立っていられないんだ…」
たちまち暗い記憶に引きずり込まれた。
前しか見ず、無心に進み続ける群れ。
自分一人が歩みを止めるわけにはいかず、流れる汚泥のように進む。
理由など求めてはいけない。求められているのは、ただ進む事。
最初は目的があった、だから言われるままに町を焼き払い更地にした。
だがいくら見通しを良くしても、後から押されるように進むことを強いられ
そのうち怖さから、目の前の大地を平らにするようになった。
振り返ることは許されなかった、足元には敵味方関係なく死体が転がっていたから…
そうして考えるのを止めたんだ……
気が付くと膝立ちのまま、締め上げるようにソフィアを抱きしめていた。
慌てて腕を緩めた途端に大きく息を吸っていたが、顔色は失われていた。
そして声をかけるより先にソフィアの腕が伸びて、頭を抱えるように抱きしめられた。
「…ご自分を…許してあげてください」
危うく落としかけた事に茫然として、力が抜けた手が床に当たった。
苦しそうに息をしている。なのにどうして自分を殺そうとした相手を抱くのだろう…
「…………俺は…殺戮者…なんだ…」
幾度となく耳に入ったが、自分ではただの一度も口にしなかった独白は、情けないほど震えて己の耳に届いた。
「停戦後に戻ってきた酒場のお客さんは、みんな様変わりしていました。
どんな人も、一人残らずです。
戦地で人格を変えられてしまったのは、あなただけではないんです。
私は私の知っているヴィル様しか信じませんからね!」
仮にそうだとしても自分が犯した罪が消える事はない。
むしろ消えたかった。腹に傷を負った時、これで楽になれると安心したんだ。
だからこそ目を覚ました時、生きていることに愕然とした。
そして悪いことに、そこはまだ戦場の中だった。
温かい腕の中で心音を聞いていると不思議な微睡が訪れた。
とても優しい免罪符だ。
自分にはそれを受け取る資格がないのに、覚めない悪夢から逃れたくて、
そのぬくもりに手を伸ばした。傷つけると知りながら…
許されなくていい。
でももし乞うていいのなら…俺は君に許されたい。
そう思うと途端に、伝えられなかった言葉が涙と共にこぼれ始めた。
「…ソフィア…俺はもう君を離してあげられないよ…
俺といれば、間違いなくダールベルクの汚名を背負わせてしまうのに…
それが解っていてなお、君を逃がしてあげられないんだ…」
「それは公爵家の使用人としてお傍にいてもいいと言う…」
「公爵夫人として、君を迎え入れたい」
「………………ふさわしくないと連日言われているのですが…」
戸惑った声に体を起こすと、ソフィアは申し訳なさそうな表情をしていた。
「ご配慮いただいた公爵様やエミリア様には本当に申し訳ないのですが…
家事労働が板につきすぎて、貴族らしくないと言われてしまっているのです。
マルタン料理長はたぶん料理のレパートリーから、酒場の調理場で働いていた事にも気づいていると思います」
「それは…つまり…」
「市井育ちの私には公爵夫人は無理だと……」
殺戮者の悪評より、まさかの公爵家が妨げになってしまっていた。




