第1話 りんご以下の男
夕暮れの空に星が瞬きだす頃。
家々には明かりが灯り、酒場にはお客が入り始めていた。
「ソフィア、明日また取りに来たらどうだい?」
「先月は荷物が届くタイミングに合わせてご常連さんが来たでしょう?
だから無理にでも持ち帰っちゃいます」そう言って裏口から荷物を預かる。
とある事情で人目につきたくない私は、商品を卸す代わりに酒場で多めに買った食料などを分けてもらっている。
今回はそれに加えて、懇意にしている商人に頼んでおいた荷物が一度に届いてしまったのだ。
ソフィアは行商人のような荷物を背負い、すだれのような前髪をかきあげると狭い通路を進みだした。
『この裏路地を抜ければ家のある森へは直通。日のあるうちに通過しなければ』
路地の上には、アーケードのような紫色の空が細長く伸びていた。
狭い所に入り込むネコのごとく、ゴミやバケツに引っかかりながら、
路地と言い難い隙間から無理やり這い出ると、建物の裏手に小川が見えた。
あとはこの橋を渡るだけ。
だが見慣れたはずの景色に明らかな違和感がある。
欄干すらない小さな橋に、男が逆さに引っかかっていた。
『酔っ払い?!こんな時間から?』
声をかけると顔も服も吐瀉物まみれ。
妙に薄着なところを見ると、強いお酒を飲まされて身ぐるみ剝がされたのだろうか?顔には殴られたような傷がある。
逆さまになっているのを良いことに、川の水をザブザブかけると、思っていたより若い顔が現れた。しかし…
「………血の気が引いて、ほぼ死相」とりあえず呼吸はしている。
死にそうだが死んではいない
とはいえこんな真冬の寒空に、上半身ずぶ濡れで放置されれば、たとえ酔っ払いだとしても死ぬ。
飲みに行く前の警備兵に預けても、着替えもさせずに牢屋に放り込んで凍死だろうな…
私は男を引き上げて橋に寝かせると、一度下した荷物を背負って家路を急いだ。
助けてやらない訳ではない。だが行き倒れより荷物が大事なのだ。
戻って荷物がなくなる事はあっても、たいてい面倒事は残っている。
戻ってきて、まだ生きていたら助けよう。
死んでたら縁がなかったと思ってくれ。
家に帰って荷物を解くとリンゴがひとつ足りなかった。
落とすとしたら橋のたもとだろう。
そして台車を引いて戻ると案の定リンゴはなく、面倒事が丸くなって震えていた…
「失礼しますね」
そう言って台車から、乱暴にゲロ男を引きずり下ろす。
川の水で流してはみたけど、家にあげるのを躊躇するほど酷い汚れっぷりだ。
でもこの寒空に上着なしって…やっぱり追い剥ぎにあって川に捨てられた?
商家のおぼっちゃんだろうか?
しかし温かい暖炉の前に寝かせて、シャツを脱がせたところで手が止まった。
体中に湿疹があり、搔きむしって傷になっている。酷いところは裂傷に近い。
そしてその中に、えぐれたような古傷を見つけた。
戦争ばかりしているこの国は、こうした傷を持つ者が少なくない。
治ってはいるが、致命傷になりかねない程の深さだ。
酒場には騎士がよく来るが、みな筋肉質で厚みがある。
この男は背は高いが、それには該当しない。だが…なにか嫌な感じがする。
薬を塗って引きずってベッドに放り込み、冷たい水でお洗濯。
ズボンが汚れていなくてよかったけど、我ながらお人好しだと思う。
でも明日冷たくなってたら、間違いなく寝覚めが悪いでしょう?
暖炉の前にシャツを干しベッドを見ると、男の顔色は随分良くなっていた。
これで証拠隠滅で川に落とす必要はなくなった。あとは目が覚めたら追い出すだけ。
でも慣れない事をしたから、思ったより疲れていたのかもしれない。
荷物を片付けたり暖炉の火でスープを煮ていたら、いつの間にか椅子で眠っていたらしい。
低い声で呼びかけられて目が覚めた。
長く下した前髪越しに見えた男の赤い目に驚いて、椅子から転げ落ちるように床に平伏する。
「スミマセン。昨日川に落ちているのを見つけて、勝手な事をしました!」
「…落ちていた…確かに川で吐いたのは覚えている。すまないがワインはあるか?」
「はぁっ?」
強盗の被害者ではなく、ただの酔っぱらい?
しかも自分で飲みすぎて川に落ちて死にかけて、それでもお酒に手を出しちゃうの?
……とはいえ身なりも悪くないし、少なくとも私のような貧乏人とは身分が違う。
貧乏人に人権がないこの国で、相手は機嫌を損ねてはいけない類の人間だ。
再び軽く頭を下げて、
「料理用はありますが、お口には合わないかと思います。水ではいけませんか?」
「………水が合わないようでな…」
「…もしかしてお腹が緩くなったり…とか」
無言で俯いているところを見ると当たりだろうか?
「知り合いにも同じ事を言う人がいまして、この水なら大丈夫らしいのですが…」
木のカップに水を注ぎ差し出すと、躊躇しながらも口に含み、そしてカップを投げ返してきた。
慌てて首をすくめたが、木のカップが頭に当たり硬い音を立てて跳ね返る。
「貴様、何を飲ませた!」
「ただの水です」
「味が違うではないか」
「魔法で出した、ただの水です」
男は一瞥すると干してあったシャツを掴んで出て行った。
嵐が去った…
でも嫌な予感がして、タオルをかぶって家を出ると案の定…
男はまだ暗い畑で迷子になっていた。
「この道を大きな通りに当たるまで真っ直ぐ進んで、石橋を右に曲がって更に行くと町の中心部に出ます。石の大きな橋を右ですよ!」
怖そうな人だし少し離れて叫ぶと、ポケットを探りながら戻って来た男が何かを出した。
咄嗟に手を広げると、手のひらに乗せられたのは金貨だった。
「いただけません!」
「手持ちがない。取っておけ」そう言って男は行ってしまった。
金持ち商人かと思ったけど、まさかお貴族様だった?
それなら怒らせてでも、早々に帰っていただいた方がいい。関わりたくない。
それに金貨なんてもらっても、私じゃ盗んだって疑われて換金も出来ないよ。
なんかドッと疲れた…
平民が抱くイジワル貴族のイメージまんまの人だった。
もう会う事もないんだし、
金貨は死ぬときに教会に寄付して、来世のために徳を積もう。
「お天気がいいし、今日はシーツを洗おうかな」
頭を拭うと、いつも通りの日常が始まった。




