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プロローグ

美柵町の風景と暮らし

朝もやが山の向こうからゆっくりと消え、空は穏やかな淡い青色へと変わる。


美柵町(みさくまち)の春の朝は、鳥たちのさえずりとともに始まる。風に乗って漂うのは、土の香りと微かに甘い花の匂い。畦道を歩くと、あちらこちらで聞こえてくる水車の音や、田んぼに水を引くための軽やかな水音が、心地よいリズムを刻んでいた。


なんてことはないが、鶏の鳴き声と、朝早くから野良作業をはじめる人たちの支度の音が早朝にも関わらず賑やかに響いている。


町は山と川に囲まれ、なだらかな丘陵地が広がっている。その中でも、田畑が一面に広がる棚田の景色は都会の人たちからすれば綺麗に映るらしい。


桜の季節も終わると、地域の人は水路やあぜ道の掃除を行い、田植えに備える。今日も田んぼに水を引き入れる準備をするため、早朝から動き回るおじさんたちの姿が見える。


田んぼの他には、果樹園が広がっている。梨やブドウの木々が整然と植えられている。梨の花が満開になる頃、果樹園はまるで白色の絨毯のように変わり目を楽しませてくれる。農業は後継者不足で、老夫婦がいまだ現役で作業をしているが、ここ最近は、新規就農者でときどき若い人たちもみかけるようになってきた。町も産業が衰退しないように努力しているのだろう。


町の一角には「ふるさと農園」が広がっている。

畑には野菜が植えられ、収穫を待っている。この農園は町の農家さんたちが協力して運営しており、地元の子どもたちや併設している市場には観光客が集まり、収穫体験も楽しめる場所として、地元民だけでなく、観光客にも親しまれている。


農家の人々は、「今年も良い作物が育つといいな」と口々に話しながら、早朝から忙しく働いている。


この地域では、初夏には果樹が実をつけ始める。

特に美咲町の梨とブドウは、人気らしい。農園では収穫体験イベントや観光農園もある。家族連れやカメラを持った観光客が見られる。


秋の収穫の季節には、果物が一層甘く熟し、町中に漂う香りは、果実が持つ自然の甘さそのものだ。農園では採れたての果物を使ったジャムやジュースが販売され、観光客のみならず地元住民も集まる。また、棚田の稲刈りにあわただしくなり、終わるころには、農園で収穫された作物が祭壇に供えられ、豊作を祝う行事が行われる。


冬が来ると、町は一変して静寂に包まれる。

雪は、近頃は滅多に降らなくなってきたが、冷え込む朝には霜が降り、果樹園や畑が白く輝く。農作業が落ち着くこの時期、町の人々は家の中でゆっくりと時間を過ごすことが多く、温かいお茶を片手に古い話を語り合う。美柵町の冬は、自然と共に一息つく時間だ。


私、久保田雪もまた、この町に少しでも馴染めるよう、地域住民と親しく交流している。住まいと事務所は、ここから少し離れた桜丘町(さくらおかまち)だが、私は社会福祉士としての仕事で、この地域の高齢者の自宅を定期的に訪問し、日々の暮らしについて話を聞いている。


いま、訪問先の一つ、佐藤家の庭先では、90歳を超えた佐藤さんが、彼の飼っている鶏について語っている。これがここの恒例になっている。


「昔はこの辺り、鶏を飼っている家がもっと多かったんだよ」と、佐藤さんはにこやかに語る。「今じゃ、うちくらいのもんだがね。でも、卵はまだまだ元気に産んでくれる。これがまた、美味いんだ」


最近は、家で鶏を飼うことは減ってきたらしいが、養鶏業も盛んな地域で、有名な鶏肉販売所があったり物産店の近くにある、たまごかけご飯の店が人気のようだ。今度、食べに寄りたいなと思いつつ、食べられてないという・・・


そんな佐藤さんの顔には、懐かしい時代を思い出しているのか、笑みが浮かぶ。私はその話に耳を傾けながら、彼が抱える日常の悩みや、体調の変化についても自然に話を引き出していく。福祉の支援という仕事の枠を超えて、私はこうした日常の会話を大切にしていた。


別の日、私が訪れたのは、町の中心部から少し離れたところにある田中家だった。


70代の田中さん夫婦は、ふるさと農園の立ち上げに深く関わってきた人物だ。家のリビングには、農園が始まった頃の写真が額に飾られている。写真には、若かりし日の田中さん夫婦と、地域の人々が笑顔で写っている。


「この農園がなかったら、今頃この町はもっと寂しくなっていただろうね」と、田中さんが懐かしそうに語る。「観光客も来るようになったし、町の若い人たちも協力してくれるようになった。だけど、あの頃の活気が少しずつ失われている気がしてね……」


私は、その言葉の背後にある複雑な感情を感じ取りながら、過ごされた時を思い返す。ふるさと農園には、地域住民の思い出が詰まっているだけでなく、それぞれの家族の歴史も刻まれている。私は、田中さん夫婦の話を聞きながら、農園にまつわる記憶の大きさを改めて実感した。


次の訪問先は、斎藤誠さんのお宅。斉藤さんもふるさと農園の立ち上げにかかわっていた一人。農園にまつわる昔話をよく語ってくれる人だ。ここ最近、認知症の症状が進んだ印象があるものの、時折、昔のことを思い出すときには瞳が輝き、いま目の前に起きているように鮮明に話だされる。


「ふるさと農園ができる前、あの土地には古い道があったんだ。今じゃ誰も覚えちゃいないが、あの道を知ってるのはわしくらいかもしれん」と、斉藤さんはある日、ぽつりと呟く。私は心の中で静かに響き、その言葉が何か不思議な予感めいたものに感じた。

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