四十七話
多分だけど、ボクは雪が好き。
いっぱいいっぱい降り積もったお庭を見てみると、お天道様に照らされてキラキラ、キラキラと輝いている。
白って、真っ白って凄く、凄く不気味だって、気味悪がる人が沢山いるのボクは知ってるけどね、降り積もった雪だけは、皆んな気味悪がることはない、から。
だから、好き。
鬼ノ目 九十七話
たとえば、春は菜の花の上にちょこんと乗って、羽根を休めているポツポツ模様の背中をした、指先ぐらいの大きさしかないちっちゃな虫を見るのが好き。
それはきっと、飴みたいにキラキラしたあの子の目の色が、よくよく見れば菜の花の色にも似ていて。赤い背中をした小さな虫が、そこに留まって羽根休めをしているのが、ちょっとだけあの子の隣にいたがってる、ボクみたいな気がするから、かもで。実際のところがどうなのかは、自分自身の事なのにボクもよく分からなくなっちゃった。
たとえば、夏は皆んなは口を揃えてあんまり好きじゃないというけど、お天道様を追いかけるように首を動かしている、大きな、やっぱり菜の花に近い色をしたあの花がボクは好き。
大きくて、すっごく立派でかっこいいなってボクは思うんだけど、周りの人はそれを見て、なんて下品なんだろうって隠しもしないで、嫌そうな顔をしている。そんなことないのにね、お前はきっとお天道様が恋しくて仕方がないだけで、だから精一杯腕の変わりに葉っぱを伸ばして、早く見つけてと言わんばかりに、立派な姿を残してるだけなのにねって、ボクはそんな風に感じて。
帰ったらいっぱい、いっぱいあの子を良い子いい子って撫でてあげたくなった。
たとえば、秋はお揃いな事が多く、ボクも皆んなみたいに銀杏の葉が好き。どうして好きなのかって聞かれると、やっぱりそれはあの子の瞳の色によく似てるからで。でも、折角綺麗だなって思って手に取ったそれも、時間が経つと次第に、カラッカラに乾涸びちゃって、元がどんな色だったか思い出せなくなっちゃう。そう考えてみると、これまで春に好きだと思ったものも、夏に素敵だなって感じたものも、秋の銀杏さえも、なんだかボクは嫌いになってきちゃう。なんか、よく、分からないけど、勝手に置いてかれたような、そんな気持ちになっちゃう。
……そういえば、ボクが言う皆んなって誰だったかな?
思い、出せないや。
季節が、ぐるりぐるりと同じ順に回っている。
春の次は夏。
夏の次には秋がやってきて、秋の次は決まって冬。冬が終わるとやっぱり春が訪れて。
なのに、それなのにボクの前に姿を見せる、御母様の代わりにボクの前にやって来る人の顔はコロコロと変わってしまう。
近寄っちゃダメよって、深く関わっちゃダメよ、って皆んな……皆んなおんなじ様な事を言うのにね、偶に、ごく偶に優しくね、手を握ってくれる人がいてね。
でもね、でも、そういう優しい人はね、他の人よりもずっと早く、ボクの前から居なくなっちゃう事が多いのも、ボク、分かっててね。
ねぇ、ダメだよって、いくら言っても、多分すっごく優しいから。優しくていっぱい、いっぱい損をしちゃうような、そういう人達ばっかりだから。似てるなってボクが気付ける時にはもう遅いの。
なんも、なんにも悪いことなんかしていない人達なのにね、化け物に唆されたんだろうって、それは許してもらえることじゃないんだって。
巡る、ぐるぐると同じように巡ってくる季節とおんなじように、ずっと変わらない、変わらずにボクの隣に、ボクの傍にいてくれる存在が、ボクは欲しかった。初めは、多分それだけだったんだと思うの。そう、思いたいだけなのかもしれないけど。
仕方のないことなんだね、って受け入れた暫く経った頃、真っ白な布にぐるぐる巻きになって連れて来られた、キミと出会った。出会って、しまった。
ボクよりも全然生きてないのにボクよりもずっと大きい体を持った人達が、せっせと何かを運んでくるの。
その頃には、ボクの、ボクを産んでくれた御母様はもう亡くなっちゃったみたいで、見たこともない、会ったこともない男の人がやって来て、何かを、ボクに言っていたの。
でも、その意味がボクにはイマイチよく、分からなくって。ただ、何か言い残しながら帰っていく、その後ろ姿よりもボクは、ボクには気になる存在があって。そう、それがキミ。キミだったんだよ、結。
与えられる食事は少なくって。
ボク一人なら気にはならなかったけど、この子も満足が出来る、お腹がいっぱいになるぐらい食べさせてあげなきゃいけないって考えたら、それはとてもじゃないけど足りる気がしなくって。
だからその、食事を運んでくる人に声を掛けてみたの。それで、それでね、そしたらえっと、何だったけかな?これは誰にも言っちゃいけない事だよって言われて、それで、それからね、いっぱい、いっぱいよくその時はよく分からなかったけど体を触られてね。そういうの、本当に何なのかボク知らなかったから。でも、終わったらそれで、それでいつもよりも少し多いかなってぐらい、それぐらいだけど食べられるものを多く貰えてね。あぁ、きっとこの人も、昔ボクをいつも気に掛けてくれてた人達みたいに、ボクに優しくしてるってバレちゃったら、いつの間にか居なくなっちゃうのかなって思って。そしたら、そしたらあの子にお腹いっぱい食べさせてあげる事も出来なくなっちゃうのかなって気付いちゃった、分かっちゃったから。そっか、だからこれは誰にも言っちゃいけない事なんだなって思えて。
…………変なの。どうして祈々様がそんな顔してるの?ボク、ボクだってきっとそんな顔したことないのに。
いいなぁ、ちょっとだけ羨ましいや。
ボクね、ちょっとだけ苦手な事があるの。
ボクの手ね、あんまり見ていて気持ちのいいものじゃないんだ。
昔ね、また仕様人を誑かして、とか。勝手に物に触って壊して、とか。出ちゃいけないって言われた部屋から出たから、とか。他にも何か色々と理由を付けられてね、分かるまで叩き込んでやるって、いっぱい、いっぱい痛い事されたの。
言わないと分からないから、教えるのには躾が一番だからって。よく、分からなかったけど、それ等は全部必要な事、ボクの為を思ってしている事なんだって、言ってた。
可笑しいな話でしょ?ボクの事を疎ましいって、自分が腹を痛めて産んだ事さえ認めもしなかった御母様がそんな事を言っていたの。何も教わらなかったボクにだってそれぐらい分かっちゃったよ。全く、見縊られたものだよね。そんな事も分からないって、思われてたって事だろ?そう考えると、何となく虚しくもなっちゃうものだね。知らなかったよ。
「ねぇ、ボクの話ちゃんと聞いてたかい?」
皺の一本一本に指を這わす。苦労を何も知らない、全く硬くない丸っこい指先に撫で上げられるのはどうにも不快で。でも彼女のその手を、自分はどれだけ頑張っても振り払う事が難しい事を知っている██は、彼女の気が済んで、飽きてくれるのを待つことしか出来なかった。
それは、庇から覗く空の色が、段々と赤く、暗くなりつつ頃まで続き。その内、ずっと同じ格好でいたものだから折り畳んだままの足が痺れ出してしまう。
「そろそろ、止めない?」
そう、促してみる。
でも、重たい前髪の奥で、くっきりとした睫毛に縁取られた、飴色の瞳がふるふると小さく揺れているのが見えて。
あぁ、これは何かまた自分の感覚にぴったし当て嵌まる言葉を探しているんだろうな、と言うのが分かってしまって。口を噤んで答えを待つ。
「姉さん、は」
「うん。何だい、結?」
「…………姉さんは、祈々様に似てきた。」
「え」
そんな事があるのだろうか?と██は首を傾げた。
「似てる?このボクが、えっと……?よりによって祈々様に?」
「……そう。話し方、と。私、への全部。」
「ぜ、全部?」
「……うん、全部。」
「……そう、そうかい?」
久しぶりに向けられる、彼女の思いの籠った言葉は、その真意を探るのがとても難しい。あぁ、それでも、それを汲めぬ程度で、ボクはキミのお姉ちゃんを名乗る資格もなくなっちゃうから、だからと██は向かい合う。
師である男に髪を切ってもらったあの日から、██はこのままでいていい訳がないと自分に強く言い聞かせていた。
多分、何も考えずに与えられるものを享受する、それだけの日々はとても楽なものだ。師と仰ぐ男の元で過ごす時間は、緩やかに毒を浴びていく感覚に近い。毒が毒であると気付くことなく、いつの日か体がそれに勝手に馴染んでしまい、自然と欲してしまうようになる様な。師は、きっと無意識だ。
それを当たり前に正しい事だと、何も持たぬ、何かを求める者に対し、あまりに自然と手を差し伸べてしまう。自身の撒く毒に味を占めた者を傍らに置いて、自分はそれ以上何も望みはしない。
決してそれを悪い事とも、良い事とも██は断言は出来ないが彼女が、自分が唯一大切にしてきた妹が、それに冒されてしまうのは、それだけは許せなかった。
望む道を、求めている居場所を奪う事はしたくない。この生活を、得られた物を今になって手放すのはひどく惜しい。
このままじゃいけない、と。けど、それなら自分はどうすればいいのかを考えた時、██は意外にもあっさりと自分の中で答えを見つける事が出来た。
彼のようになればいいんだ。
いざという時、彼という指標を失ってしまい、あの子が道を踏み外しそうになってしまうことがあったその時、彼の代わりになる存在が、あの子が一人で歩めるようになるその時まで傍にいてあげれればそれで、それでどうにかなるかもしれないと考えた。
ただ身近に、今彼の身近に居るのは自分とあの子だけで。自分が彼と四六時中いても、彼がどう在るのかを学ぶ事は難しそうだと、そう考えてしまった。一時、この一時だけだと、自分に言い聞かせて、彼女を彼に暫く任せた。
だから、だから本当は少しだけ、
『……そう。話し方、と。私、への全部。』
あの子が、そう言ってくれた事が本心から、心の底から██は嬉しくて、嬉しくって堪らなかった。
ボクは、ボクはまだ、キミの隣にいてもいいんだ。
「何をしたんだい、██?」
何か自分は彼を不機嫌にさせるような事をしただろうか?思い当たる節がまるで浮かばなくって、伸び掛けの髪を態とらしく揺らして近付き、その足元にぺたんと座り込んで上目遣いをする。
「何が?」
「市井の者達からね、お前が何やらくだらない法螺を吹いていると聞かされたんだよ。」
何も嘘なんか言っちゃいないよ、とつい勢い任せに返してしまえば、それがもう答えで。
昔のように、もう膝に乗っけてもらえる大きさではなくなってしまったけど、ちゃんと言葉を伝えようとする時は、いつだって真っ直ぐに目を合わせてくれる。それが、その瞬間が、██は何よりも好きで。
「二度目はないでしょ?」
「四度目のくせして、何をふんぞり返ってるんだいこのお転婆娘は?」
脇の下に滑り込んできた指が、横腹付近を細かく撫でる。幼子のご機嫌取りのようなそれは、それに██は少しだけ癪に触られたような反応を示す。
「ねぇ、祈々様。」
少し、ほんの少しだけ。
「ボクね、もうこんな事されて喜ぶ子どもじゃないよ?」
不意を、つきたくなってしまう。
本当に少しだけ、熱を込めた目で、熱く、彼を見てやる。今もまだ触れる、ひんやりとした指先に、肌色の違う自分の指を絡めて、大きさの違う掌に、彼によく見えるように皺の一つ一つを丁寧に重ねるようにピッタリ、もう片方の手をくっつけて、それで、
「もう、結構大人になったと思うんだけどな?」
擦り寄ってそんな、そんな甘えたいのか甘えたくないのかどっち付かずの、どっちとも捉えられそうな声を漏らす。
「……。」
「んふふ、本気にした?」
「いつの間にそんな風に育ってしまったんだいお前という奴は?」
「いつまでも子ども扱いばっかりするから気付けなかっただけじゃないのかなぁ?どう?どうだった?ボクの方が一枚上手って、認めてくれる?」
「こんなのを認めてなんかやれるわけ無いだろう?度が過ぎている。二度とこんな事するんじゃないよ。」
「頭の中にだけは入れておいてあげる!」
普通の人と比べて、ハッキリとその違いが分かる、日に焼けたような肌をした彼は、照れたり顔を赤くしていてもよく分からない事があった。でも、見ただけじゃ全然分からなかったけど、いつもよりも言葉と言葉の間がちょっとだけ詰まっているように聞こえて、それで彼が焦っているのが分かってしまって、██はなんだかそれが凄く嬉しく感じた。
あっ、この人はちゃんとボクを、ボクの事を見てくれているんだな、と。そう、思えたから。
「本当に、行っちゃうの?」
その表情が分かりやすく、結局変わることは一度たりともなかったけれども、纏うその空気感が少しだけ、ほんの少しだけ、悲しそうなものになったのに気付いて、胸の前で弱々しく絡められている、傷一つない掌を包み込んでやる。
「おいおい、何だいその言い草は?ボクがいなくなって、それでキミはあの男と二人きりになれるんだから良いじゃないかい?願ったり叶ったりじゃないかい?何をそんな不満そうになる理由があるっていうんだよ?」
そうなのだ。
キミとまるで違う、元を辿れば同じ血筋であったとしても、ボクは何ならキミとじゃ生まれたその時代だって違う。
いつ、いつまでもキミの傍に居座り続けたくても、それは持って生まれてしまった“色”が決して許してはくれないし。だからそう、これは遅かれ早かれ訪れていた、正しい過ごし方であって。
結局いくらボクが、ボクが何を頑張ってみせても、キミの傍に最初から最後まで居てあげることは認められなくって。なんかそう考えると少しだけ、本当に少しだけ悲しい気持ちになっちゃうね?そしたらほら……、今になってやっとボクは、ボクはキミの、キミのそんな顔を初めて見る事が出来、て。
あぁ、どうして……どう、して、よりによって今になって、なのかなって考えが浮かんできちゃって。なんだか、折角出来ることを、なんだっけ……割と最近そんな言葉を耳にするようになった、そう、立つ鳥は、跡を濁さないように、とか何とか。
ボクがいなくなっても、ボクがいなくなったとしても何もそんな変わりないよって、それなりに色々と手を尽くしたりしたっていうのにな。それはその、やっぱり、少しだけズルいなって感じちゃった。ごめんね。
「もしかして、貴女が祈々様の文通相手?」
細い毛束をキュって絞ったような、長い髪を大きく揺らす。やたらと態度がデカそうな女の姿を見た。
でも、何となく彼女がそうなんだろうなって、多分それは女の勘ってヤツ。だから訊ねておいて██は、そうなんだろう?と言葉を継ぎ足した。
「“姉”の、方か?」
「ッハハ、ほぉらやっぱりぃ!絶対にそうだと思ったんだよ!
ねぇ、ボク実は貴女の名前がなんていうのかさえも知らないんだよ?貴女があの人と親しい間柄にあることしか知らないなんて、何だかとっても薄っぺらく感じてね、それってちょっとだけ淋しくないかな?」
「随分と、よく喋る口だな。」
「ンフフっ、話し相手がいなくって飽き飽きしてたんだ。だからさ、もし貴女が良かったらボクに付き合ってよ?」
“姉”の方、なんて目が合って言われた時、あのお喋り好きな師はやっぱり、文にも自分たちの事を書いていたのだろうな、という事がよく分かって。もう随分とその顔を見れていない気がしていたからか急に懐かしくなっちゃって。初めて会ったのに初めて会った気の全然しない、どう表現したらいいのか分からない彼女を誘っていた。
言葉通り、暇つぶし相手になってくれれば、お話し相手になってくれればそれで、それだけで良かったんだけど、何だか自分の師に似ているような物言いをする一方で、全く似ていないなって感じる部分もあって。それがどうしてだか気になった██は、その一度きりで終えてしまうのはどこか惜しく思えて、だから、
「ねぇ、また来てよ?」
下から覗き見た。
髪よりも鮮やかな、赤っていうよりは濃ゆい桃の花みたいな色をした目に、縋るように甘えた声を出した。
「そんなによく喋るというのに、お前はたったの一言を口にするのがそんなに嫌なのか?」
難儀な事だな、と言われたのが忘れられない。忘れられなくて、ずっとこびり付いている。でも、けどそれから時々、桃の花が鮮やかな色を見せる頃になると、彼女はそれに紛れるように██の前に姿を見せるようになっていた。それがどれだけ早い、早朝の出来事であっても、夜が更けり、朝方になって空が白み始めるまで、暇つぶしを続けられた。
一年の内にそれはたったの一日しか訪れる事はなかったが、昔のように接する者が限られ、少なくなった頃の事であった為、██はそれを有意義な時間とし、何よりも大切にするようになっていた。
東の座に空きが出てしまったのだと、耳に挟んだ。
だからなんだというのだろう、と背もたれに身を預けて、したくもない役割に時間を割いている最中、暫く時間が経ってからやっと、やっと██はその意味を理解した。
制止を退けて、外に出てはならないという決まりに逆らって、いくら抑え込まれてもお構いなしに、裸足のまま外へと飛び出した。
妙な胸騒ぎなんて、そんなものじゃなくって。だって、だって██の知る限り、もし東座に穴が空いてしまって、次を据えなければならないとなった時、その役目を与えられるのは、結しか思い付かなかった。
それは、それは絶対にダメなんだ。何が、何があってもそんなこと、そんな事は許されないんだよ。だって、だって引き剥がしちゃいけないんだ。そこに、そこに言葉はなくても、あの二人が引き剥がされるような事が、そんなことがあって、あっていい筈がないんだ。
██は、██は恐らくだが、師と仰ぐその男の事を好いていた。
それを素直に認めてしまうのはとても癪で、でも好きか嫌いかと分かりやすい二択を差し出されれば、どちらかといえば好きだよ、と白々しく答えてみせるぐらいには彼の事が好きで。
初めは、自分と彼女をあの日々から連れ出してくれた、助けてくれた事に対する恩義が可愛いらしく変化したもの。小さな花弁が花開いて見せる程度のものであった筈だ。
自分に対してよりも随分と優しく、柔らかく接してもらえる、あの子の姿を見て、本心では羨ましさを感じていた。いくらいい子に振る舞っても、ボクにはそこまで優しくしてもらった事はない。ちょっとだけ、目を逸らしたくなる感情に襲われた。
初めて、彼女に対して初めてそんな気持ちを味わったのは割と直ぐの頃で、彼の気をどうしたら引けるのかな?と考えて悪い事を覚え出した。
その頃はまだ、彼が自分を少しでも見てくれればそれだけで良かった。
時間が経つ。時間が経てば経つほどなんだか自分が本当は何をしたいと思っているのか、本心で何を望んでいるのかが██は分からなくなって。
その膝の上に乗せてもらえる。夜遅く起きてても自分だけは怒られずに許してもらえる。用事を頼まれるぐらい信頼されている。部屋に忍び込んだって抱きかかえて構ってもらえる。翠の瞳に自分の姿が映り込んでいる。触れた肌の、その奥にトクン、トクンと脈動を感じる事が出来る。
それだけで、本当はそれだけで満足できていれば良かったんだ。なのに、それなのにそれだけじゃ何も、何も満たされなくなっていく。それが、その事実がどうしようもなく怖い。今までは満たされていたものが、それだけじゃ満足出来なくなっちゃって、自分が嫌になってくる。
だから、そう。確かその頃だった。あの子が、あの子が██の中に生まれてしまったのは。
「――祈々、様っ!」
どれぐらい走ったのか、どれぐらい走り続けたのかもう分からなくって。すっごく、すごく見窄らしい恰好になっていただろうがお構いなしに、██はその敷地へと踏み込み彼の名前を呼んだ。
「ねぇ、返事してよ!出てきて……、何があったのか教えてよッ、祈々様ッ‼︎」
あれから随分と時間が過ぎたものだ。
短く切り揃えられた髪は、また昔のように床に触れそうなぐらい長くなっていて、少しだけあの頃みたいだねって、頭の隅っこで何十年か振りに目にする、よく知った造りをした屋敷の中を、記憶を頼りに我が物顔で駆けずり回って。懐かしむ余裕なんてないというのに、でも最後の最後に██が選んだのは無意識だろうが、彼が、あの男が最も長く籠る事が多かった、思い出の、一室で。
「……祈々、様」
その戸が引き戸であったかを疑った。昔からそうであった気がするし、でも何となくそうでなかった気もする。長く過ごし過ぎて記憶の所々が曖昧になっている部分もある事に気付いて。無性にそれが、それがとても悲しかった。
でも、そうじゃなくって。そうではなくって██は、██は部屋にその身を滑り込ませた。
案の定、彼はそこにいた。
「祈々……様?」
どうして、かな?
██にはどうして、どうして師であった彼が、その男がそんな、そんな生気を失ったような顔をしているのかが、その理由が分からなくって(嘘、分かりきっている)。
触れたら汚してしまうかもと躊躇っていた手をそっと伸ばして、その肩に触れてみた。
「ねぇ、結は?
結は、何処に行っちゃったの?」
一度、堰の切れてしまったそれは止まることはない。
「あのね、屋敷中ボクね、ボク全部見てきたよ?でも、でもね何処にも、何処にも居ないの。結、どこにも居なかったの。変なの、ボク小さい頃から結のこと、見つけられなかった事なんか一度もなかったのにね?だって最後の最後にはちゃんと見つけることが出来てたから、ここに潜り込んでお昼寝してる事もさ、あったよね?ね?あった、よね?結のこと、結を見つけてあげるのが、結の傍に居てあげるのがさボクの、ボクの役割であるはずなのにね?どうしてかな?どうして、どうしてボクはあの子の傍を離れちゃったんだろう?なんか、もうずっと見てない気がするの。どうして?どうしてそんな風に感じちゃうんだろうね?やっぱり変なの、スゴく、スッゴく変だ?どこから、どこからこうなっちゃったのかな?どうして、どうしてこんな事になっちゃったのかな?ボク、ボク頭が悪いからさ、分かんない……分からないよ。」
██がその男を“師”と仰ぐのは、彼が自分の知らない事をいつだって教えてくれる存在であったからだ。
分からないことがあり、それを分からないと素直に口にすれば、細々とした成り立ちや、それに纏わるどうでもいい蘊蓄を並べて。知りたいと思ったこと以上のことを、知らなくてよかったものまで教えてくれる。
だから、だから██が教えてほしいと、分からないと漏らせば彼は、彼はきっとそれに応えてくれる、筈なのだ。
それ、なのに
「どうして、何も応えてくれないの?」
彼は、うんともすんとも言わない。
開きっぱなしの口元の、その奥からはか細くてもしっかりと呼吸が続いていて、胸だってちゃんと上下しているのが見てわかる。██が少々声を荒げる度に、ピクリと指先だって動いているはずだから眠っているわけじゃない、はずなのにそれ、なのに……
「イヤだ、違う……違うでしょっ⁉︎何とか言ってよ!どうして、どうして何も言ってくれないの⁉︎ダメ、ダメだよッ‼︎絶対にそんなのダメなのッ‼︎こんな…………こんなところで、いつまでも座り込んでちゃダメだよ?ね、一緒に、一緒に結を迎えに行こうよ?結、一人で眠るのだって出来ないぐらい不器用な子なんだから、知ってる、でしょ?」
そうなんだ。ずっと一緒に寝るのが当たり前だったものだから気付くのに時間が掛かっちゃったんだけど、彼女は誰かが傍にいないと、一人だけじゃまともに寝る事が出来ない子なの。
一緒に寝付いても、それまで一緒にいた人がいなくなっちゃったら、それだけでパッチリ目を、覚ましちゃってね。でも横になったままジッと、大人しくしててね。
何度か、自分の方が眠れなくって寝床から抜け出して、██は師の居るこの部屋へと転がり込む事が多かった。
彼女は決して表情に出すのが得意ではなかったから、そうだった事に██が気付いたのはそんな生活が始まって十年ぐらいが経った頃で。だから、だからね?
「お前は……お前は本当に、なんて事をしてしまったんだい██?」「昔から、お前はそういう奴だったね。いつもこうやって面倒ごとを起こしては僕を、僕を困らせて。」「お前は到底許されない事をしたんだよ、その意味を本当に理解出来ているのかい?」「誰も望んじゃいない、こんな結末は誰も望んでいないんだよ。」
違う、違うんだよなぁ?
何でかな?何でボクの事、もうずっと見てくれなくなった、ボクの事をずっと見ていてくれなかった貴方に、貴方なんかにボクはそんな言葉を、そんな心の籠もってない言葉を浴びさせられなきゃいけないんだろう?腑に落ちない、納得、出来ないなぁ?
何か、何かが多分ね、多分根本的にその、違うんだよ?
それがね、それが何なのかがえっとぉ、今のボクにはちょっとだけ分からないんだけど。
でもね、やっぱり何かが、何かが絶対に違うって事だけは分かっていてね?
うん、だからその……、
「さようなら、祈々様。」




