四十六話
くるくる、くるくる、くるくるるるる
コトン、と傾いて勢いを失い動きを止める、それを初めから終わりまでずっと見ているのが彼女は何となく好きで。
特にそれに意味はなくって。頭ではそんなの分かっているけど、分かっちゃいるけども、二度と使い道の無さそうな、随分と使い古されたガラクタだけが行き着く此処では、そんなものでしか今日も彼女は暇つぶしが出来やしなくって。そんな、そんなものじゃ、そんなものなんかじゃ彼女の空っぽの心は何も、何一つ満たされる事だけないのが紛れもない事実。
「だから、だからずっと待ってたの!ボクは、待ってたんだよこの時をっ‼︎」
たった一人、誰も知らない隅っこへとずっと押しやられ続けてきた掃き溜めで育ったその少女は、歓喜にその小さな体を打ち震えさせ、それでも余りある喜びを大きく、大きく腕を広げて体現して見せる。誰に見せるでもない、誰に理解してもらえなくともそんなの関係ない。ボクは、ボクの、ボクが、ボクの為だけにしたいからそう在ろうとする、そう在りたいと思うだけの、分かりやすく、ちっぽけな話。
そう、これは全部を押し付けられた、語るに及ばぬ少女の話だ。
腹に残る痛みを抱えたまま、弥代は寸でのところで肘を立てた。地面に体が吸い込まれるように倒れ掛けたその時、どうにか滑り込まれた肘を、そこを起点に体を支える。だが、持ち上げた視界に映り込む、その光景は信じ難いもので、思わず目を、見張った。
簡単に息が詰まるのに対し、砂を掻く指先の力の籠もりようは、それに対する激しい憤りが在り在りと現れていて。
ただ、それでもそれは、それは彼女に対する一方的な憤りではなく、どちらかといえば自身の不甲斐なさに対するものだった。
遅かったのか?と考えが過ぎる。自分がもう少し早く、彼女にこの手を差し伸べられていたのなら、それでどうにか救う事が出来たのではないか、を考えてしまう。考えてそれで、……でも、弥代はそれだけではどうにもならない事を嫌というぐらい分かっているから、一向に薄れる気配のない腹を抱えたまま立ち上がってみせた。
こんなところで簡単に諦められない。弥代は、諦められるわけがない。そんな生半可な気持ちで彼女を受け入れると、彼女の傍に並ぼうと決めたんじゃないと、自分に強く言い聞かせる。
到底許されぬ事をした、何の罪もない人達をその手に掛けてしまった事実に変わりない。謝って、それで済む話でないことなど分かっている。けど、それは自分だって同じだ。自分だって未だに許されない事を、過去に罪を冒している。
一時、彼女はその罪ごと弥代の事を包み込んでくれた。仕方がなかったね、なんて言って優しく接してくれた。でも、それは間違いだ。仕方がなかったね、と片付けていい話ではなかった。
今の弥代には、今まで長く至ることが出来なかった覚悟があった。そしてそれは恐らく押し付けに他ならない事も分かっている。だとしても、それでも諦められない、諦めることがやはり出来ない。
弥代には彼女と歩みたい道がある。その為なら、自分の持てうるもの全てを投げうったって構わない。
鬼ノ目 九十六話
「――詩良っ‼︎」
駆け出す。
彼女の方から距離を一方的に詰められるのは分が悪すぎる。だからといって距離が開きすぎていては何も出来ない。
ズルリ、神鳴の脇腹から抜かれた足が赤く染まっている。次の矛先が自分へ向けられている事が分かっていたが、それでも弥代は距離を詰める。
手を差し伸べた時、鳩尾付近に喰らった膝蹴りの、痛みは残り続けたままではあるが動けないという事はない。動けるならどうとでもなる。
軽く払う動きを見せる右足と、その奥で静かに膝を付く彼を、その視界にしっかりと収めたまま、弥代は姿勢を低くしたまま大きく一歩を詰める。目測、後半歩もすれば容易く彼女の襟元を掴めそうではあったが勢いを殺すことはせずにそのまま、そのまま詰めようとした。
しかし、自分よりも早く彼女の元へと辿り着いてしまう、影を見て意識がそちらへと逸れる。
フワリ、微かに浮いた黒髪が音もなく落ちる。それはこの場において無謀にも、人ならざる存在に怖気つくことなく刀を握り締め、挑んでは振るい続ける、自身がいくら傷付こうともそれを一切厭わない男、春原千方だ。
踏み込みの強さに比例して、後ろへと押される彼女の体。春原の握る刀、その刀身は躊躇なく彼女の首元に宛てがわれている。自分の身に降り掛かったものでないのに、その一瞬の光景を前にし、弥代の背中をゾッと何か冷たいものが伝う。
「春原っ‼︎」
二人揃って背後の建物の階段へとぶつかることで、やっとその動きが止まる。
段差に足を掛けて、体全てを使って刀を振り下ろそうと試みる男と、それを物ともしない。涼しい顔をして、自分の頸を切り落とそうとする男を下から見上げる女。だが弥代のめはしかと捉えた。女の足が微かに持ち上がる、その瞬間を。
「刀を振るうなっ‼︎」
飛び、自分よりも遥かに太い胴に腕を掛けて、勢い任せに後ろへと引き寄せる。聞き漏らしても何ら不思議ではないぐらいの小さな呻き声が鼓膜を揺らしたが、後ろへと倒れ込んだ男が直ぐに体勢を直し、再び刀を握り前へと駆け出そうとするのを、弥代は殺しきれぬ勢いに転がった状態のまま、声を荒げて制した。
大きく揺れる、その肩口からこちらを恐る恐る覗き見ている。長ったらしい前髪に相変わらず埋もれてしまいそうな青い瞳が揺れる。場違いにも、その相手の顔色を、その出方を伺おうとするような態度が、またしても幼子のそれに見えてしまい。不安気な彼を安心させるように、慌てて弥代も身を起こすと、彼女と春原の間に割り込む。
そして直接、刀を握るその指に、自分の手を重ねてみせた。
「止めろ、春原。」
「しかし、弥代……、」
「振るうな、春原。」
「……。」
押し黙る、その表情をなるべく見ないようにして、その上で弥代が正面から見据えるのは、今も階段に身を預けている、いっそ寛いでいるような様子を見せる彼女だ。
「変なのぉ?ついさっきまでボクのこと殴ろうと目ギラギラさせてたくせして、なんかすっごくそれって可笑しくないかなぁ?」
「何も可笑しくなんかねぇよ。俺とコイツじゃ全く目的が違う。だから止めただけだ。」
「目的ぃ?」
首を傾げる、上半身を大袈裟なまでにグルリと大きく、まるで別の生き物のように回して悠々と起き上がらせる。カツカツと、草履であったか下駄であったかまでは思い出せない、履物の底を音を奏でる姿はやはりどうにも余裕そうだ。
「それってぇ、さっきまでやったら長々と、ソコに座り込んだまんまの男と話してた事ぉ?」
彼女が指を向けるその先には、先ほどから一歩もその場から動けずにいる、風通しのよくなってしまった脇腹を、その疵口を抑えている神鳴がいた。
「……そうだ。」
「ンフフ、やっぱり変なの!家族じゃないって、姉妹なんかじゃないって元々喚いてたのはキミだっていうのに、コロコロ意見を変えちゃうなんてあんまりにも考えなし。意志が弱いのかなぁ?」
「何とでも、言ってくれて構わないさ。」
「救いようのないお馬鹿さんだね。」
先に動いたのは春原だった。
浅く、礼をするような所作。そこからそのまま腰を落として、縮ませたばねが一気に跳ね上がる時のような勢いの如く、瞬きをする間もなく距離を詰められるのを、既に何度もそれを目の当たりにしていたのだろう彼は察知し、行動に移した。
それまで大人しく控えていたのが嘘のように、荒々しく刀を握るのとは反対の手で弥代の腕を掴み、後方にある茂みへと再び転がり込む。状況を整理するのに、それは必要な判断だったと言える。
「くそっ!」
やっと焦りを漏らす。
座り込んだまま地面を拳を作り一度だけ叩いた弥代は、それですぐさま立ち上がる。
額から流れる、既にかたまり掛けている血を大袈裟に拭い、服の裾に擦り付ける。へばり付いていて、払って取れるものではない。
「弥代の目的はなんだ?」
そう、訊ねてくる春原を弥代は見た。
普段通りの彼だ。このような訳の分からない状況下にありながらも、見せる表面は落ち着くがある。それでも先の、自分が目を覚ました直後に見た、腹回りの滲みであったり、足の様子を思い返せば、決して大丈夫と呼べる状態ではない事に気付いてしまい、顔を顰める、それを隠す事も出来ず弥代は表に出してしまう。
「一旦はアイツを大人しくさせる、」
「刀は?」
「ダメに決まってんだろ!そんなのっ、怪我させたら……っ!」
「頸を切ろうとして、刃が入りさえしない相手だ。」
「だからって!」
しかし、納得していない口ぶり、言葉とは裏腹に、春原は大人しく刀を鞘の中へと収めていく。向かい合う、弥代の真意を汲み取ったような滑らかな動きに、状況がこんなでなければ舌を激しく打ちたい気分になるが目を瞑る。
「大人しくさせるとなると……、抑え込むか?」
「でも、そいつにはあの足が厄介だ……。」
「……やはり、斬るか?」
「時間がねぇってのに馬鹿言うんじゃねぇ!一々ツッコマねぇぞ俺は‼︎」
堂々巡りに時間を割ける余裕はどこにもない。それでも柄に指を引っ掛けたまま、いつでも抜けると言わんばかりの姿勢を崩さない春原に、いざとなれば刀を振るわないなどという甘えが通用しないだろう事を考える。頭の隅に初めからあったが、目を向けないようにしていただけだ。
これまでで一番早い彼とのやりとり、その返答の早さに彼もまた緊迫しているに違いないなんて、勝手に自分の中で弥代は当たりを付けて、茂みの向こう側、未だに階段前から動こうとしない彼女を視界に収め、動向を探る。
「……大人しくさせて、それでどうする?」
「んなもん答えなくたって分かれよ。あっちの気が済むまで付き合ってやるんだよ?」
「…………、……それは、それでどうなるんだ?」
「あぁ?憂さ晴らしに付き合ってやんだよ、そうすりゃ頭に昇ってた血だって下がんだろ。」
「……それは、」
吃る。モゴモゴと口元を動かす春原が、何か言いたげな反応を見せてはいるが、それが一向に出てきそうにないのが分かるなり、弥代は気に掛けるのを止めた。止めて、これまで通り彼女の方へと意識を集中させる。
「ねーぇ?かくれんぼぉ?ボク、そろそろ動いても良いかなぁ?」
ググっと体を伸ばす。その仕草にはまるで緊張感がない、余裕の、強者の現れの様に映る。
「ボクね、ボクね!昔っから何やかんやいって探したりとか、追っかけたりするのが得意でね?エヘヘ、負けた事ぉ、一回もないんだぁ!」
あぁ、でも――なんて彼女は続ける。
「遊び相手、いつもあの子だけだったなぁ?」
キラキラ、くるくる、キラキラ、くるくる
真新しさを感じれなくなるぐらい、すっかりと見飽きた筒の中を、片目を瞑って大人しく覗きこむ。
昔はあったはずの感動が、もうそこには何もなくって。そんなもの一つじゃビクともしなくって。それに気付いた時からどうしてか無性に全てが悲しく思えてしまい、同時にどうでもよくなってしまった。
「つまんない、」
色鮮やかな世界を羨んだ。到底今の自分じゃ手が届かない、遠い世界を欲し続けた。
「つまんない、つまんない、つまんない、つまんない、つまんない、つまらないっ‼︎」
飽き飽きした、変わり映えのまるでない世界で一人暇を持て余す。
本当にそう?と意味のない自問自答を繰り返して、訳もなく此処にはいないあの子を思い浮かべて、それで……それで、どうとなりはしない。結局何も変わらなくって、使い捨てられたガラクタの中に身を沈めて、終わりの見えない天井に向かって手を伸ばす。
「ねぇ、」
誰にも届かないと分かっていて、それでも彼女は溜まりに溜まった思いを、自分の知る言葉に収める事を試み続けた。
少し時間を置いた事で、自身の足がまだ使い物になる事を理解した直後の春原の判断は早かった。
腕を通していた羽織を脱ぎ、歯を立てて穴を開ける。穴に指を突き立てて上下に躊躇なく裂いて、ぐるぐるとそれを膝から下の脹脛を中心に強く巻いた。
骨が折れている。骨を支える筋も切れている。対峙した相手の言葉通りの状態ではあったが、それでもまだ、まだ動かす事は出来る。ただそれをする為には補強が欲しく、手頃な太く頑丈な棒が、そんな都合よく転がっているわけもなく、羽織を裂いて代用とした。
自身の体である事に違いはないが、内側がハッキリとどうなっているかなんて分かる人間はきっと存在しない。どうやって骨が折れているのか、筋が切れているのかなんて当然分からないが、強く縛り固定をした、一番酷い状況からすれば少なからず回復しつつある今ならそれでどうにかなる、そんな確信が春原にはあった。
ただ、夏物の薄手の羽織では、それを全部裂いて使って、それでどうにか間に合わせたに過ぎず。これは帰れば叱られることは逃れられないだろうと春原は小さく肩を落としてみせた。
刀を振るうな、と。そう、望んだ。
相手を斬るべきかを問う春原に対し、弥代の答えは驚くぐらいハッキリとしていた。
その言葉を受けて、弥代の意志を常に尊重する、彼女の言葉を優先することの多い春原が首を横に振る事はなく、すんなりと受け入れるのと同時に、キツく、これ以上奥に入らぬと分かっている刀を、鞘に押し込んだ。
一寸も動かぬのに、当たり前だと抱き自分に言い聞かせながら考えを巡らせる。
相手を大人しくさせたいと望む、相手との対話を恐らくは一番に望んでいるだろう弥代は自分のように得物を持ち合っていない。
先ほども自分が間に入らなければ、単身で突っ込んでいただろう。言葉通り、身一つで押さえ込もうと奮闘したに違いない。失敗を踏まえ、同じ轍を踏ませないようにするのが良かっただろうかを考えるも、しかし現時点で自身の振るった刀が、その刀身が相手の皮膚に傷一つ作れない事を知れて良かったものだ、とも考える。
可笑しな話だ。弥代が目を覚さないでいる間の交戦では、確実に春原の刃は届き、その肉と骨を断つ事さえ叶っていたと、いうのに。
「……。」
先の頸を狙った一刀は全力であった。
現状、足の負傷が完全に治っていない、完治するのを待つ余裕はない。それ以上の力を込めて振るうのを難しいのを思えば、通らぬと分かっている刀を無理に振るわずに済むのは正直な話、負担が減り都合はいい。
どうせ居る場所に目星は付けているのだろう相手からすれば、意味のない隠れ方をしている自覚がありながらも春原は弥代に合わせて身を低く屈ませた。距離だけは何があっても見誤ってはならない。
茂みの中に身を潜ませて、物音を一切立てないなんて事は無理だ。チクチクと肌に刺さる、キリのない小枝はポキり、音を立てて呆気なく折れてしまうのだから。闇雲に動き回り音を立てるのは、其処にいるのだと相手に居場所を教えるのと同じ。だからといって最初に転がり込んだ、そこから一歩も動けないまま相手がやって来るのを、近付かれるのを待つだけというのも何とも間抜けな話だ。
それ以外に距離を取る、相手の視界から一時でも姿を隠し、状況整理に努めることが出来なかったのだから仕方がないのは事実。
例えばここで自分ら二人だけではなく、先の駿河の様に相良という、少しばかり頭のキレる男がいたのなら、いくらか知恵を貸してくれ、策を講じる事が出来たかもしれないが、あくまでもかもの話でしかない。今は出来うる事をするのみ。自分の持てうる全てを賭して、彼女を抑え込んで大人しくさせる。弥代の目的はそれだけだ。
だからせめて息を潜める。ほんの少しであっても気配を紛らわす出来る限りの事をする。
彼女が、こちらへと近付いて来る。
カツカツ、独特な音を奏でながらこちらへと距離を詰めてくる。
唾を飲んで、弥代は合図を待つ。半歩後ろで同じように身を低く屈めた、彼から送られる合図を待つ。助走を込みにし、走らなければならない距離はもう頭に入っている。気を抜けば荒くなりそうな呼吸を必死に整えて、そうして時を待つ。それは後一歩かもしれないし、後二歩なのかもしれない。目を凝らして、後ろの相手から発せられるそれを待つ。
ゆっくり、ゆっくりと歩む彼女。春原が地を強く蹴った、それに続き弥代も動き出したのはそれから三歩目。彼女が地面をしっかりと踏みしめたであろう、その時だった。
茂みより飛び出した弥代は、右手へ進むも五歩目を踏み込んだ後、体の向きを左へと傾けて、それまでの五歩で溜め込んだ勢いを殺す事なく、彼女のいる方へと駆け出す。
同じように茂みより抜け出た春原も、弥代と似た動きを見せる。不揃いな部分も多いが鏡合わせのような行動を取る。そうして再び交差する、その地点に彼女を見据える。
「何がしたいのかイマイチ分かんないなぁ?」
肩を竦めてそんな言葉を零す彼女の、しかし声色は弾んだもの。この状況をどこか楽しんでいるようにさえ感じられる。弥代と春原の焦りなんてお構いなしだ。
徐々に縮まる距離の、後二歩もすればぶつかってしまいそうな近さになって、漸くその足が動きを見せた。弥代は、それを見逃さぬように瞬ぎもせずに見つめる。
そして、彼女の右脚が、その爪先が自分目掛けて繰り出されるのを、避けることなく正面から受け止めてみせた。
「は、」
信じられないものを目にしたと言わんばかりに、大きく見開かれるその赤い瞳は、そのまま弾みでコロンと落っこちてしまいそうな程、動揺がありありと見て取れる。だからこそ、弥代は狙い通りの展開に少しだけ口角が持ち上げて、ダメ押しをするように彼の名を叫ぶ。
「春原っ‼︎」
自分の腹を貫く、その足に十本指をしっかりと食い込ませたまま、力任せに、正常に襲い掛かってくる痛覚の波を掻き分けて叫んだ。
弥代に向かい合う体勢のまま、右脚を掴まれて動けぬ彼女の背後に迫る彼は、やはり体格が恵まれているように改めて映った。腕を巻き込むようにして後ろから拘束する、弥代の腹に埋まったままの足をジタバタと動かし藻掻く姿は、まるでこちらが一方的に彼女の事を虐めている様な気分を味わう羽目となる。
「何、すんだよ……ッ⁈離せ、よッ‼︎」
「ここまで来て逃すわけがねぇだろ!」
体の柔い、鍛えようがないという内側をズリズリと擦り上げられるような、ただ深々と貫かれているだけで普段決して味わうことがない、意識がいつ飛んでもおかしくない痛みに、既に正気を保っていられるのが弥代はやっとであった。それでも意志は折れることなく、しっかりとそれに掴まるようにして耐える。脂汗を額に滲ませて、歪む視界の、それでも真ん中に彼女を、詩良を置いてありったけの力を込めて叫んだ。
「離さねぇ……っ、お前と話をつけるまで、俺はこの手、何があっても離さねぇぞ詩良っ‼︎」
息を呑む、音が聞こえる。
両足が地面から離れて、どうやったって踏ん張る事が出来ない状況へと持ち込む事が出来た。端から狙い通り、彼女のその矛先が自分へと向かうだろう事を弥代は分かっていた。
これまでも数えられないぐらい、弥代は自分の怪我の異様すぎる治る早さに助けられた事があったが、たとえば腕や足が千切れようとも、どれだけ切り落とされようとも暫くすれば何事もなかったかのように生えてくる、それが鬼である彼女が持つものであるのなら、それは彼女と同じように鬼である自分も持っているものに違いないのだ。
それほど大きな怪我を負ったことがなかったものだから、半分以上それは賭けに近い行動ではあったが、読みは当たっていた。
飛びそうになる意識を繋ぎ止めるのに必死ではあるが、意識が続く限り土手っ腹に穴が開こうが、弥代は自分がくたばりそうな気が全くと言っていいほどしない。
寧ろここまで来て、やっと彼女がこれまで一人で味わってきたであろう、似た痛みを体感する事が叶い、不思議と嬉しかった。
彼女が、詩良が自分でなく春原を狙うという考えは何処にもなかった。
それは、自分が暫く意識を失っている間に起こっていた、自分を挟んで行われたやり取りも先の茂みに身を潜めている間に春原の口から聞かされていたからだ。
彼女は絶対に自分を狙うと、弥代にはそれが分かっていた。
ただそれでも、どうしても気掛かりな事が弥代には一つだけあった。
『アレ?ボクはどっちだったっけ?』
その言葉を皮切りに、彼女を形作る多くが変わったように感じた。それは何も目に見えるものではなくて、話し方だったり、見せる一つ一つの仕草がこれまで以上にどこか幼く、何よりも纏う空気がまるっきり、それこそ、人が変わってしまった、かの様。
つい最近、それにどちらかといえば近しい体験を弥代はした。
それが決して正しいのかも、間違っていないのかも弥代は分からない。でも、何が正しいかとか、何が間違っているかなんてそんなの、そんなもの弥代はやってみなくては分からないから、だから正面から向かい合う。
どちらであろうが弥代には関係ない。弥代はただ彼女を、救いたかった。




