四十五話
「神……鳴、さん?」
弥代は驚きで目を見張った。
びっくりして、屋根の上に立つ彼に対しそれ以上の言葉は出て来なかったが、背後から小さな呻き声が聞こえて、すぐにそちらへと意識を向ける。
そこには、地べたに座り込んで小さく体を震わせる彼女がおり。体が勝手に動いた。
「詩良っ‼︎」
駆け寄る。駆け寄って、その肩に手を添える。
俯く表情を伺う為に、弥代が覗き込もうと膝を付くも、真っ赤に染まった袖口で肩を押し返されてしまう。ただ、その力は信じられないぐらい弱々しい。苦しそうに、短く息を吐くことしか出来ない彼女の体には今も震えが残っている。
「何しやがったんだアンタッ⁉︎」
彼女を支えたまま、弥代は声を張り上げた。その行動はあまりに短絡的で。落ち着かなくたって少し考えれば何故かの地で祀られる男が、遠く離れたこの地に姿を表しているのか、だとか、先程の彼の言葉の意味が分かることだってあったかもしれない。しかし弥代は敢えてそれを選ばなかった。
疑問を疑問のままに放置することにした弥代は、目の前で苦しんでいる、もうずっと長い間苦しい思いをし続けているだろう彼女を助ける為に行動に出た。
弥代は相手が、目的もなく動くような男でない事を、よくよく知っている。
そして案外、話せば多少の融通の効く相手であることも。
「降りてこいよ、神鳴さん。」
鬼ノ目 九十五話
重なった状態で雷を落とせば、最悪人の子にも当たりかねないことを危惧した神鳴は、大人しくその手を下ろした。少し経てば離れてくれぬものかと期待し様子を見ていたのだが、期待通りに転じることはなかった。
参道沿いの茂み目掛けて吹き飛ばされる人の子と、その腕に抱えられたままの鬼の子。
挙句、足止めの対象はこちらを煽るような表情を態々見せてから、自分が今しがた吹き飛ばした相手のいる茂みの中へと消えていったものだから呆気に取られてつつ、珍しい事だが、神鳴は眉間に皺を寄せた。
『じゃぁ、目でも瞑っていたらいいだろぉ?鬱陶しいヤツ。』
こちらがいつまで経っても目を瞑らぬものだから、痺れを切らした向こうが先に行動に出ただけ、と考えるべきか。
どちらにしても見えぬ場所へは、重なった状態同様に雷を落とすことは難しい。狙いが定まらない。
相手が逃げる素振りを一切見せない、そのつもりがないのは分かっているからこそ、無理に深追いをする考えは浮かばぬものの、目が届かぬからといって近しい場所で人の子に死なれるのも厄介に違いない。しかし、だからといって妹との約束を破る気も湧かない。
どうしたものかと、頭を悩ましていると、ふと参道から動けずに様子を見ていたもう一人の人の子が声を張り上げて、刀を抜くなり茂みの中に入って行くのを尻目に見た。
「……。」
直接、深い繋がりのある相手ではないが、少なくとも知った人間であることは確かだ。多少、その末路を勝手に想像して、それを憐れむ程度。それ以上心を寄せてはならぬと、一人神鳴は目を閉じ、恩師の訪れを待つことにした。
それから少しして、自分がこの社に降り立った時から鳴りを潜めていた花火が、またしても打ち上がる音が聞こえた。
一撃目を空から落としてしまった為に、招かれざる客の到来に、一時花火の打ち上げが止まってしまったようだ。あれから少し時間が経ち、以降はそれほど目立つ雷を落としているわけでもないから再開されることとなったのだろうか。榊扇の里に今宵、花火が打ち上がると分かっていれば初めから手加減をしていたと、誰に伝わるでもない愚痴を漏らしていると、先の茂みから二人程、飛び出してくる。
先程まで意識を失っていた様子の鬼の子と、神鳴の目標だ。
距離を一気に詰めようとする鬼の動きは、ずっとすばしっこい侭だ。その動きを捉え、予測を立て直接当たらぬように雷を飛ばすのは骨が折れる。が、これまでに比べその動きには若干の鈍さが感じられた。
神鳴の目の届かぬ、茂みの中で何かがあったのかもしれない。都合は良い。
これ以上勝手な事をされて、こちらの手を煩わす羽目になるのは遠慮願いたいものだと、彼はこれまでの牽制と妨害目的とは全く別の、雷を放った。
それは見事命中した。
全て聞き取る事は叶わなかったが、鬼の子と何やら話していた時だったようで。相手は迫る雷に直前まで気付くことはなく、避けることも出来ずに直撃していた。
少しでも触れた体の、一斉に全身へと駆け巡る雷は体の自由を奪い、立っていることすら難しくさせる。
あれ以降茂みの中から出てこない人の子の安否を考えれば、これ以上被害が出る前に動きを制してしまうのは正しい。
だと、いうのに……
「詩良っ‼︎」
その者の元へとかけより、片膝をつく。
直前まで自身が苦しめられていたであろう相手の肩に触れ、その体を支える鬼の子の行動を、神鳴は理解出来なかった。
「何しやがったんだアンタッ⁉︎」
疑問だ。同じ言葉をそのまま返してやりたくなる。
それとも何か?自分の見えぬところで、鬼の子は向こうの味方にでもなったというのか?だとしてもつい今さっき、鬼の子は攻撃を受けていた。神鳴には、それをする意味がまるで分からなかった。
妹との約束をした手前、直接降り立つ気はなかった神鳴だが、先の疑問の答えを求め、彼は屋根より静かに飛び降りた。
下駄の一本歯が境内の地に触れる。コツン、と小気味の良い音が響かせて、紫紺の衣を軽く翻らせて着地する。
そして、自分に降りてくるようにと言った相手を真っ直ぐ見据えて、口を開いた。
「何を考えている、弥代。」
「コイツを、これ以上虐めるのは止めてくれ、神鳴さん。」
「虐め?」
その腕の中、体を支えられたその者が、何か信じられないようなモノを見たかのような表情をして弥代を小さく見上げており、それに気付き弥代から少しだけ目を逸らした神鳴とも目が合うや否や、驚きを露わにしていた。
「…………難しい話だ。」
「何も難しい事、俺は話してねぇだろ。
ここはとりあえず、一旦手を引いてほしいって、それでどうにか済まねぇのかよ。」
「それで済まぬから難しい話だと、己は申している。」
「なんで出来ねぇんだよ?」
「何故、出来ると思っているのだ貴様は?」
折れない。全く引き下がるつもりのない鋭すぎる眼光を前に、神鳴は若干の呆れを感じ始める。
「その者が何をしでかしたかを、知らぬわけではなかろう。」
これを言って退かぬなら別の手を考えるべきだ。
「その者が何をしでかしたかを、知らぬわけではなかろう。」
決して穏やかではない。
そんなに直ぐに怒るような相手ではないのは分かっているが、こちらが返事をする度、徐々に苛立ちにも似た何かを、弥代は神鳴の言葉の節々に感じ出す。
彼の言う、その者というのが今自分の腕の中にいる、未だに自分一人じゃ立てそうにない詩良の事を指しているのは間違いなくて。ここに来るまでの道中、扇堂家の屋敷を出たその直ぐ先に広がっていた惨状を思い出し、小さく頭を振るう。
「知っちゃ、いるさ。」
「知っていて何故庇い立てるような真似を……否、何故そう庇い立てる?」
「別に庇っちゃいないだろ。」
「貴様のそれが庇っていないというのなら、それは何なのだ?」
真っ直ぐ伸びた指が、此方を向いている。それが確実に狙いを定めているように映り、弥代は詩良から手を離し、その前に立ち上がった。
「退け、当たるぞ。」
「やれるもんならやってみろよ。」
どこからか、花火の音が聞こえた。
(何を考えてるんだ、コイツ?)
頭のてっぺんからつま先まで余す所なく、繋がっている部分全てに痺れが残っていて、まだ暫くはまともに動けそうにない。
今まで直接当ててくるようなことがなかったものだから、他の事に気を捉われ油断していた。こんな状況でそもそも油断をした自分が悪い事を詩良は分かっていながらも、でもその全ての原因となった、自分の前に立つ存在を睨み付ける。
古峯の雷神と言葉を交わす、その内容はあまりにも頭が悪い。向こう方が理解に苦しんでいるような反応を示すのも納得出来てしまう。
結局のところ、相手が望んでいるまともな回答を弥代は一度たりとも返していないだろうし、その上で前へ出るというのは、あまりにも
(馬鹿……なのか?)
肩を持たれる理由が、そんな心当たりが詩良には微塵もない。
(だって、ボクは……っ、)
すれ違う、親子をどこか羨ましく目で追った。
これまでであれば素直に、羨ましいなんて感想を抱くこともなかっただろうから、そんな自分の心境の変化にちょっとだけ驚いて。でも直ぐに、それは自分も似たような存在を得ることが出来そうだと思ったからで。後少しで今、羨ましいと感じているそれが手に入りそうなのが嬉しかったからで。
そう考えたら体がとっても軽く感じて、ついつい目を、閉じちゃった。
どん、と衝撃を背中に感じたのはその直後。
何かな、って思って目を開いたら、背中にはどこかで会ったことのある、顔だけじゃなく首から鎖骨に掛けても大きな火傷痕がある男の人が立ってて。
何かな、って熱を感じる下に視線を落としたら、帯の所に深々と、多分小刀が刺さってて。
顔に、覚えはあったけど、こんな事をされる心当たりは全くなくて、不思議で不思議で仕方がなくって。
唾が顔に掛かるぐらいの距離で、何かを捲し立てるように喚いてるっぽいのに、その人が何を言っているのかがボクには、ボクには少しだけ、分からなくって。
とりあえず痛かったから、距離を取ろうと軽く蹴ってみた。
地面に転がる、蹴られた場所を両手で抑えてジタバタと藻掻いている姿が、とっても無様で。でも、先に痛いことをしてきたのはそっちなのに、ちょっとやり返したら笑っちゃうくらいに痛がって被害者ぶった反応をしちゃって。背中から刺されたまんまの小刀は、抜けば多分血が出ちゃうから今はそのままにしておいて。兎に角ボクは、ボクはその人に分かってもらいたかったから、何度かコロコロとその場に転がしてみせ、て。
そしたら、どこからともなく悲鳴が聞こえた。
さっきまで楽しそうに手を繋いでいた親子が、日暮れ刻でもはっきり分かっちゃうぐらい顔を真っ青にして、腰を抜かして、子どもを抱きしめて、震えている。
ボクは、ボクは何もそんな悪いことをしたわけじゃないのに、ボクがやった、みたいに見られている事がどうしても、どうしても気に食わなくって。一人、手に掛けちゃったら、それが二人に、三人になったって、そんな、そんな変わりはなくって。それを、辺りに誰もいなくなるまで続けてたら、随分と、随分と汚れてしまって。
ボクが、悪いんだろうなという気持ちは後になって湧いてきた。でも知らない人達だったから、そこまで罪悪感はなくって。これが身近な存在だったら暫く引き摺っちゃうんだろうけど、生憎とそこまで親しい相手なんて今のボクには思い当たる人がいなくって。
それが刺されたから赤く染まったのかも、返り血であったのかも分からなくなりながらボクは、ボクは
「その怪我は……、」
掲げられていた指先が落ちる。
「その怪我を貴様に負わせた張本人を、野放しにするというのか?」
指摘され、弥代は思わず顔を手の甲で軽く拭った。そんなに力を込めていないのに付着する、少し固まりかけていた血と、一度拭っただけとは思えない量に、怪訝そうな表情をするが、横に払い除けて、そうだよ、と返す。
「こんなの……何だ?アレだよ、ただの喧嘩だ、喧嘩!」
「喧……嘩、」
「そうそ、どこにでもあるような姉妹喧嘩だよ。」
「姉妹、喧嘩?」
神鳴は、自身の顔の半分を覆う布越しに、口元に当たるだろう部位を指で何度もなぞってみせた。
「……貴様とその者に血の繋がりはなかろう?」
「はぁ?無いけど、それがどうしたんだよ?」
「血の繋がりがない、家族ですらない者を、貴様は姉妹と呼ぶのか?」
「同じ屋根の下で過ごせばな、それでもう十分過ぎるぐらい家族なんだよ。」
その発言に、弥代には迷いはなかった。
何も発することが出来ないから、ずっと耳を傾けて座り込むことしかすることがない。それでも弥代の発言の節々に、常に詩良は口を挟みたくて仕方がなかった。未だに舌も顎も痺れが残っているからそれは無理そうだったが。
せめてその愚かしい姿を、その一部始終を見てやろうと思ったのも束の間、飛び出してくる言葉はやはり、どれも理解の範疇を超えたものであった。それに段々と頭の中は逼迫されていき、他の事を考えるのが次第に難しくなる。
「同じ屋根の下で過ごせば、それは家族……か?」
先程まで目の敵にしていた、鬱陶しいと感じていた相手である事に何一つ変わりはないのだが、自身が口が利けぬ今となってはその言葉に救われた気持ちになるのは気のせいか。。
そうだ、あまりにも馬鹿げてる。もっといっそ言ってやれ、と言わんばかりに、弱々しくも睨みつけることしか今の詩良には出来ない。
「そうだよ。あれから世話になってる瑠璃さんの事、他人なんて扱い出来るのかよ?」
「瑠璃は……、鶫がよく気に入っている。」
「家族って、呼べるんじゃねぇの?」
「…………己には、判断しかねる。」
萌葱が姿を隠す。
その姿が、煩わしさと埒の明かなさに逃げの姿勢を選んだように見えて、詩良は目を見張った。
自分の意志に反して声が、体が動かないというのがこれ程までに窮屈で苦痛に感じるなんて知らなかった。身じろぎ一つ、指の小さな関節一つも満足に動かせない。苛立ちが積もり積もって、その内堪えられず派手に爆ぜてしまいそうな、そんな、
(…………、)
でも、その一方で詩良は内心、とても落ち着いていた。
今まで、今日ここに至るまでに自分がしてきたことは到底許されないことだと、それは理解していた。だから今日で全部、全て終わらせてしまえばそれでどうとでもなると考えていた。
これまではそれがずっと上手くいかなくて、思い通りに何もならなくてむしゃくしゃして、焦って、八つ当たりみたいな事をしていたけど、そんなの本当はしたくなんかなかったんだ。
(痛いの、本当は好きじゃないもん。)
痛いのが好きな人なんてきっといない、と詩良は考える。いくら四肢が捥げても時間が経ったら元通りになっちゃうから、一々それに驚いたり、泣き言を漏らしたりするのが手間で。痛くても、痛くなんかないって目を逸らして。そうやってずっと我慢してきただけ。嫌い。痛いのなんて、大嫌い。
でも、けど、それよりもずっと嫌いなものが詩良にはある。それは、一人で過ごすことだ。
終わりが、もう直ぐそこまで近付いて来ている事を詩良は分かっているからこそ、それを一人で迎えることがずっと怖い。誰でもいい筈がない、誰かに手を握って傍にいてほしい。寝たらもう二度と目が覚めないかも、なんて不安な夜は、上手に寝付けるまで離れないでいてほしい。朝目が覚めたら、おはようって頭を優しく撫でてほしい。特別なことなんて何も、何も望まないから。それだけで、ちゃんと我慢する、我儘なんて言いやしないから。だから、だから、だから、だか、ら……
「俺が、一緒に謝ってやるから。」
何も出来ない。
それなのに、じわり浮かんだ涙が調子に乗ったように、ポタポタと落ち始めた頃、そんな言葉に閉じ掛けた瞼が持ち上がった。
「こいつがな、何かしら問題を為出かすのなんて今に始まったことじゃねぇんだよ。それでこっちまで迷惑被るのだって、これが初めてじゃねぇ。
でもな、面倒だって分かってても。それでも、一緒に居たくなっちまうもんなんだよ、家族だからな。」
似たような言葉を詩良は、最近になって聞いた事があるな、とそう思い出した。
五日、ぐらい前だったろうか。
夕暮れ刻の路地裏で、若い男連中に絡まれた時。
一人でどうにかするつもりであったというのに、わざわざ前に出て余計なお節介を焼かれた、あの時。
『あのな、この女が何かしら問題を為出かすのは今に始まったことじゃねぇ、言うて俺だってそんな長くいるわけじゃねぇけど、いつもの事だけどよ。』
『身内に手ぇ出されて、口挟まねぇ奴はいねぇだろうよ。』
胸の奥、ずっと何か痞えていたものがコロリと落ちたような気がした。
その言葉一つ一つが全部まるっきし同じ、なんてことはないのは分かっている。でも、そこに込められた意味はずっと、もうずっと前から同じ意味を持っていたんじゃないかと、そう、思いたくなる。そうであって欲しいと、願ってしまう。
都合がいいと、笑われてしまうかもしれない。誰ももしかしたら許してなんて、認めてなんてくれないかもしれない。けど、でも、キミが、キミだけが変わらずに、そうやって…そうやってボクの事を見ていてくれるのなら、それで、それだけできっと、ボクは
「ダメだよ。」
「同じだよ、神鳴さん。」
弥代は怯むことなく、言葉を続ける。
「俺がコイツの肩持とうとするのは、アンタが鶫さんの事を守ろうとするのと、同じなんだよ。」
分かってもらいたいわけではない。でも、知ってほしい。
彼が何故ここにいるのかを相変わらず弥代は分かっていないし、彼が詩良に何が目的でさっきのような事をしたのかも分かっちゃいない。でも、自分がここで退こうものなら、また彼女は痛い思いをする羽目になるのは間違いないだろうし。
出来るなら早々に事を片付けて、今も茂みの奥でくたばり掛けている討伐屋の二人の様子だって診てやりたい。自分の知識じゃ、軽く傷口を縛るぐらいしか手がないから、近所に医者がいないか駆けずり回ってそれで、手を借りたり。
ちょっと前までそこの灯籠に寄り掛かって意識を失っていた雪那が、近くに見当たらないのも気掛かりだ。会話を詰める。外堀は少しずつ埋めたつもりだ。これ以上回り諄く言葉を選ぶ必要はない。今までのは全て、この言葉に説得力を持たせるための下地に過ぎないのだから。
「兄妹守ろうとするのなんて、当たり前のことだろ。」
「……、」
軽い要点程度しか弥代は知らない。
それでもそれは直接当事者の口から聞かされたものなのだから何の疑いの余地もない。部外者の弥代には疑う資格すらない。
『私ばかりが弥代様の過去を知っているというのに、弥代様が私共の事を何も知らないというのは、釣り合いが取れませんから。』
いつの日か訪れるその時に向けて、対等である事を望むのだと、幼い見た目には不釣り合いな落ち着きを見せつつ言葉を選ぶのが、鶫という、神鳴の妹だ。
『兄様は一人、自分に全ての責任がある、と。それを当たり前のように背負い込んでしまう、神としては文句のつけようがない存在なのでしょうが、妹から見る兄としてはあまりにも不出来なのです。』
東においては相反する、厄災を齎すとまことしやかに囁かれる、忌むべき“白”を身に宿しこの世に生を受けてしまった自分は、幼い頃より外に出る事が許されず。長年一緒に暮らしていた母が亡くなったその時には、実の父親の手によって、一人暗い地下牢に閉じ込められたのだと、鶫は話した。
その口振りは、語られる過去の割にとても穏やかで。つい弥代は彼女の言葉を遮り、何故そうまで平然としてられるのか?と疑問を口にしてしまった。
『私には、兄様が居て下さりましたから。』
年を越えて一月が経とうとしていた頃、雪解けの訪れる春までの間、少し前と同じように古峯の地に世話になることになった時だ。
『兄様は、父様を始めたとした一族全員に、たった一人で私を守る為に喧嘩を売るような御人なのです。』
以前とは違って境内から外に出て、近くの町に何度か足を運ぶことがあった弥代は、この地で神鳴という土地神が民にどのように思われているのかを、それを耳にすることがあった。
『お前さん、ここらで偉大な神鳴様の話を知らねぇとはさてはモグリだな?良いかぁ?知らねぇってんなら聞かせてやるがな、神鳴様はたったお一人で百だか二百だかわんさか御山いっぱいにいた、テメェとおんなじ鴉天狗様をなぁ、修行僧も含めて、あっちゅう間に……』
『などと、どこから湧いてきたのかも分からない数で適当な事を法螺吹く民もいるにはいるのですが…。』
それでも間違ってはいないものだから、態々改める必要もないのだと、彼女は話していた。
『私の兄は、いざとなればこの世の全てを敵に回しても、私を守ろうとしてしまうことでしょう。私はそれを考える度に、少しだけ恐ろしくなってしまいます。』
『それでも、』
「だから、同じだよ神鳴さん。」
「アンタが鶫さんにしてやりたいって思う事と、俺がコイツにしてやりたいって思う事は一緒なんだ。」
「己は……、」
神鳴は、目を瞑った。
折れる気が端からない相手に、何を言っても無駄であると、これ以上話したところで意味はないと自らが折れた。何より、妹の名前を持ち出されるのはあまりにも分が悪い。
妹は、神鳴のその兄としての在り方を正しいとは言わない。故に弥代が述べるそれも、決して正しいものではないのだろう。そうに違いない。
「己はただ、その者の足止めを頼まれ此処に来たのみ。此処よりその者が離れぬのであれば、それ以上をするのも可笑しな話だ。」
指の腹を擦り合わせる。
それまで西の鬼の体に纏わりついたままでいた光が失せる。それを見届けて、神鳴はため息混じりに、また屋根の上へと戻ろうとしたのだが、背後で何かが倒れるような音がして、その歩みを小さく止めた。
そして、横腹を中心に広がる熱の熱さに、やはり妹の言葉はしっかり守るべきであったと自分へと言い聞かせる。
「この後に及び、この様な真似をする者の肩を、それでも貴様は持つと申すのか弥代?」
振り向くとそこには、ひどい顔をした鬼の子がいた。
声が、聞こえた。
自分の声なはずなのに、その聞こえ方がなんか変で違和感。
「ねぇ、ダメだってば。」
伸ばした覚えのない手に、指を一本一本丁寧に絡め取られて。首元に回された腕に優しく、優しく後ろを向くように誘われる。
目が、合った。
ボクの、ボクが本当は嫌いで嫌いで仕方のない、真っ赤な瞳が、そこにはあって。
血色感のない、薄い唇が笑っていて。
ボクを、ボクを見てくる。
ボクの、ボクの全部、隠してるものを見透かそうとするように、穴が空きそうなぐらいジーッと、見てくる。
それがちょっとだけ、気持ち悪くて感じて。
体の間に腕を捩じ込んで、必死に距離を取ろうとする。でも、でもその子は、ボクと同じ“色”を持ったその子は、全然離れてくれなくて。逸らした事を怒っているみたいに強引に顔を掴まれて、骨が軋んだ気がして、爪も立てられたみたいで痛い。
「また……また、なかった事にするんでしょ?全部要らないって捨てて。それで、自分だけ身軽になるの?」
そんな声が聞こえて、目の前が大きく揺れた。
いつの間にか、馬乗りになられていて。絡められた指は、首に全部掛けられていて。長い、その子の髪が垂れ幕の様に上からボクに被さっていて。
白に、溺れる。
首に掛かった指に力が込められたのかもしれない。少しずつ、息が苦しくなっていって。
「ねぇ、ダメだよ。そんな、そんな一人だけ幸せになろうなんて、絶対にダメだよ?」
藻掻く。どうにか踏ん張ろうと足に力を入れようとするのに、足元は何かが邪魔をしてそれさえ許してくれなくて。
振るった腕が、当たる。
横に傾いた体を、大きく蹴り上げて、勢い任せに逃げようとする。
でも、また捕まる。
足を掴まれて、引き摺り倒されて、おんなじ手順で上に乗られて、それで、それで、それで、それ、で。
それで、そしたら、そうしたら、何も持ってないその子は、全く堪え性のないその子はいつの間にか動かなくなっちゃって。それから、えっとぉ……?
「そうだそうだ、思い出したっ!だからね、えっと……あの子に変わってボクが頑張ってあげなきゃって、そう考えたりしてやったんだよ!うん!ボクって、ボクってば優しいなぁ本当に!」
ただ、それでもちょっとだけ、彼女には分からないことが一つだけあって、
「アレ?ボクはどっちだったっけ?」




