四十四話
『東の、』
そんな風に自分の事を呼ぶ相手に、弥代は一人しか心当たりがいない。
投げ出した腕の、少しぼやけた指の輪郭の更に奥に、やけにくっきりと彼の、その足元が見えた気がして。無意識に手を伸ばした。裾を、掴まずにはいられなかった。
そしたら何故か、どうせ掴めないと思っていたのものが予想に反して、しっかりと掴めてしまい。その事実に驚きが隠せなくなる。一緒になって、今までどうにか必死に堪えていたはずの涙が、ほろほろと溢れてきて、頬を濡らした。
声は、出なかった。
鬼ノ目 九十四話
あった、と。小さく漏れ出たであろう彼の声に、弥代は重たくて仕方のない瞼を持ち上げた。
火箸で器用に灰山を崩して、小さな火種を見落とすことなく静かに持ち上げる。
脇に置いてあった小壺を蓋を開ければ、中から不揃いな炭を取り出し、軽く火箸で均しただけの灰の上に、火種を囲うようにそれを並べる。
そして、細長い筒のような物を手に取って、口元へ寄せ、ゆっくり、ゆっくりと息を吹き込み、空気を送る。
――ケホッ、ゴホゴホッ
顔周りを手でパタパタと払いながら、咳き込む姿はどうにも示しがつかないが、弥代にはそれが如何にも自分のよく知る、彼らしく映った。
目で追う、一つ一つの動作が落ち着いて見えるというのに、別にそれほど慣れているというものではなさそうで、ちょっとだけ詰めの甘さを感じる。最後の方に近づけば近づくほどボロが出そうな、何でも一人で出来るフリをしている。他に誰の目があるわけでもないのにむりに大人振ろうとしているその姿が、とても意地らしく映って。ほんの少しだけ余計な事を言ってふざけ合いたくなる。
子どもっぽく、くだらないことで直ぐに肩を振るわす、顔を覆うも口元だけ隠しきれていない間抜けな姿なあの姿をもっと、もっと見たいたくなる。
「……。」
違う、と。
そんなことをする為に自分は今ここにいるのではないと分かると、途端に居心地の悪さを感じる。
厚みのある贅沢な座布団の上で、行儀悪く崩していた足ごと体を小さく前後に揺すぶって、今までずっと見ていた彼から目を逸らして、それで、
「東の、」
伏せた顔を、持ち上げる。
「聞いてやることしか俺には出来んが、言いたい事があるなら話してみろ。
話すことで、楽になることもあるんじゃないか。」
それは紛れもない弥代が求めていた言葉に違いなくて。だから何となく、あぁ……これはきっと自分の都合のいい夢なんだろうな、と弥代は薄ら自覚をしてしまった。
だって彼は、そこまで自分に対し優しい言葉を、そこまで柔らかい態度で接してくれた事は、覚えはない。
相槌ばかりが多くて、中々自分の話をしようとしない。話すことで楽になるなんて言葉が彼の口から出てくるわけがないのだ。
端からそんな言葉が出てくるような性格をしていたのなら、あの雪山で意地を張り合い殴り合いになんてならないし、一緒に谷底へ落ちて怪我をしたり。ボロボロになって下山をするなんて事も、何一つ起こらなかった筈だ。
言わせている。
自分の夢の中に態々駆り出されて、自分の望む言葉を与える為に彼という記憶を使ってしまっている。
ちくり、胸の奥が痛む。
それはまだ、罪悪感と呼べるもの。
でもそれも夢の中だからか直ぐに消えてしまう。
跡形もなく、痛みそのものが、綺麗さっぱり、と
「俺、はさ」
距離が縮まる。
見覚えのある縁側から見える景色は、雪化粧にすっかり覆われた、白に覆い隠されて他の色が全く分からない、どことなく殺風景な庭。
かつて右手には小さな池があって、すぐ近くには松の木が植えられていて。春になると松の木は少し風変わりな姿を見せる、母はそれを見るのが好きだったと離していたのを思い出す。
痩せほそった枝は、積もった重みに耐えきれず、何時折れてしまっても可笑しくない程なのが何処となく寂しく映り、庭から視線を逸らす。
縁側の、間に並んだ二つの湯呑みからは白い湯気が立っていて。それを自然と持ち上げる、彼との近さには一々声を無理に張る必要はどこにもなさそうで。迷いなく、今の思いを言葉に落とし込んでみる。
「怒らせてばっかり、なんだ。」
「誰をだ?」
「一緒にいたい、って思ってる奴。」
怒って、いた。
『キミのそういうところ本当に鬱陶しくてボク苦手だなぁ。この後に及んでよくそんなこと考えられるね?』
『ボクはね、キミに心配されるほど落ちぶれちゃいないんだよ。』
『ねぇ、今なんて言った?お前、今ボクに自分が何言ったか分かってんのかよッ⁉︎』
これまで自分が見てきた彼女とまるで違った。
『ボクに対して、悪かったなんて思ってもないようなヤツが、お前みたいなボクの事なんか全然見ていないヤツがそんな言葉口にしてんじゃねぇよッ‼︎』
思い返しても酷い、聞き続けていれば気が滅入ってしまいそうな言葉を浴びさせられたものだと、少し気分が落ち込みを感じる。
膝の上で握りしめていた、拳に小さく力を込めて、どうすれば伝えることが出来たのかを弥代は考えてみる。
「お前は、その相手に何と言ったんだ?」
「一人にして、ごめんって」
バシャッと、水を頭から掛けられる。
「それはどう考えてもお前が悪いだろう。」
「聞いてきた側の態度には、どうにも俺は思えねぇんだけど?」
「言葉による。」
いつかのように、壁際にあったもう一脚を持ってきて、そこに腰を下ろす彼の視線は、囲炉裏越しに見た時のものとも、今さっきまでいた縁側の穏やかなものとも違う。
どこか呆れたような、眉間に皺をこさえて辛気臭そうな表情をして弥代を見てくる。
「お前はこれまでその相手の事をちゃんと見てやった事があるのか?」
痛い所を突かれて、ついでと言わんばかりに空っぽの柄杓で、頭を叩かれる。どちらにしても痛い。
「見ようと……努力はしてきたつもりだ。」
「本当か?」
「ほ……、」
「ほ?」
「……つもり。」
「そうだな、お前はそういう奴だ。」
気取らず、何も取り繕わずに接していたつもりの彼がそう言うのだから、その通りなのかもしれない。そんな気がして弥代は何も言い返せない。
そもそもの話これは夢である筈だというのに、頭に掛けられた水は冷たいったらありゃしないし、縛られたままの腕は、肘から下の感覚が麻痺したように痺れて、そんな細かいところまであの時と同じである必要はどこにもない気がして、少しだけ文句を言いたくなってくる。
「だから、顔に全部出てるぞ。
……そうだ、結局お前はそうやって、自分に非があっても心のどこかで自分だけが悪くないとか、要らん責任転嫁をするどうしようもない、救いようのない頭をした奴だ、諦めろ。」
「んだとゴラッ‼︎」
ぴちょん、ぴちょんと響く水滴の音が静かになった。
握った覚えのない拳を振るったまま、弥代の体は勢いよくすっ転んで、雪の中に埋もれた。
「冷たぁッ⁉︎」
ガバっと身を起こし、辺りを見渡す。
どこまでも続く銀世界の、中心に自分と彼の二人だけ。光源となるのは夜空に散りばめられた細々とした星々の灯りのみ。余分なモノを全て取っ払われた後のような、かつて紡がれたであろう営みの痕跡すら感じられない広々とした舞台上に弥代は今、座り込んでいる。
「お前はさっき、その相手に謝ったと言ったな?」
「言ったよ!だって、俺が傍にいてやりゃンな事しなかったんじゃないかって!そう…………思った、から。」
「出来もしなかった事を出来ていたならと語る事以上に馬鹿らしいことはないな。」
「あ?」
キラリ、何かが光った。
何だなんだ?と目を凝らすと、ソレは既に眼前に迫ってきていて。
「っぶねぇだろ⁉︎」
「何を悠長に構えている?ここで俺とお前が何をしたか忘れたのか?」
「なんでそうなんだよっ‼︎」
鉛が混じっている、普通のモノよりも長持ちで重たいそれは、喧嘩で相手を殴る、鈍器としても使える代物なのだと、治療を施された後の彼が話してくれたのを弥代は覚えている。
当時は無我夢中で掴み掛かっていたものだから、吸口を含め金属部がただ頑丈で、それで頭を割られるのは痛いとしか思っていなかったが、分かった上で受けに行こうという気持ちは微塵も湧かない。
情けないと分かっていながら、背を向けて逃げ出す。
第一、律儀に準えなければならない必要がどこにあるんだ!と声の限り叫ぶ。彼と自分以外誰もいないのを分かっているから、腹にありったけの力を込めて叫ぶ。
「逃げるなっ!この大馬鹿者っ‼︎」
「誰が好きで痛い目に遭いに行くかっつーんだよッ‼︎馬鹿はどっちだ馬ーー鹿ッ‼︎」
「あんな言葉一つで伝えられた気になってる奴が頭に乗るなっ‼︎」
しかし、後ろに尾を引く襟巻きを掴まれ雪の上に踏み倒される。
「首、絞ま……っ!」
「逃げても、なにも変わらんぞ。」
足場が、失われた。
「起きたか、東の?」
そんな風に自分の事を呼ぶ相手に、弥代は一人しか心当たりがいない。
(夢の中で起きたもクソもあるかよ。ずっと寝たまんまだろ、どうせ。)
投げ出した腕の、少しぼやけた指の輪郭の更に奥に、やけにくっきりと彼の、その足元が見えた気がして。無意識に手を伸ばした。裾を、掴まずにはいられなかった。
そしたら何故か、どうせ掴めないと思っていたのものが予想に反して、しっかりと掴めてしまい。その事実に驚きが隠せなくなる。一緒になって、今までどうにか必死に堪えていたはずの涙が、ほろほろと溢れてきて、頬を濡らした。
声は、出なか
「出るだろ。
じゃなきゃ俺は今まで誰と話していたことになるんだ?」
「……。」
血の匂いがする。
雪山以上に此処は、この場所は灯りがなくて。暗闇に慣れてきた目でも分かるのは、近くにあるぐらい。
立ったままこちらを見下ろしているだろう彼の顔が、弥代には見えない。
「色々とさ、早すぎると思うんだよ。」
「そんな呑気な事を言っている時間が今のお前にあるのか?」
「ねぇ、よ。」
「なら、」
「でもさ……少しぐらい、もう少しゆっくり話したいよ。」
「……馬鹿か、お前は?
何をしに此処に来たんだ?」
どれを取っても足早だ。
何も告げられずに、満たさないままどんどんと終わりに近づいているのが何となくだが分かってしまう。
下半身を布団で隠す彼を前にして、思えば自分はあの時、彼の怪我も自分同様にすっかり塞がったのだろうと、同じ“鬼”であるのだから大丈夫だろうと決めつけていたが、もしその考え通りなら山を下りた時点で大半の傷が無くなっていた。擦り傷も、湯に浸かった後にはほとんど見当たらなかったのと同じに、包帯を巻かれる理由はなかったはずだ。
谷底に落ちた時、自分の方が先に目を覚ましたのだってそうだ。暗闇の中で手探りで何度も名前を呼んで、やっとの思いで触れた体を掴んで、それからまたしつこいぐらいに名前を呼んで、それで彼は意識を取り戻したんだから、同じであるはずがなかった。
気付けていたら、と俯く。
「今更、何を悔いるんだ?」
「だって、」
「お前は、俺の意志を尊重しようとしてくれた。
そうじゃ、ないのか?」
そうだ。彼はきっとこの地から離れることを拒むだろうと思った。既に一度彼のしようとした事を邪魔した自分に、二度目はないとも考えたのだ。
その一線を、踏み越えてはいけない、と。
震える、今になって弱々しく震える指先に、重なる一回り大きな冷たい掌があって。
「ありがとう。」
背に回された手が、ポンポンと軽く叩いてくるのが何となく、ちょっと前にあった駿河での相良とのやり取りを思い出させた。それから、やっぱりそういう事はどうにも慣れてなくて、居心地悪そうに弥代は身じろいで、藻掻くようにその腕の中から逃げ出す。
「心外だ。二度としてやるものか。」
「次があるみてぇな言い方して期待させんの止めてくんないかな?」
「来ないだろうな、そんなものは。」
「うん、知ってる。」
二度と、ごめんだ。
これがたとえ夢であると分かっていても、弥代は二度とこんなものを見たくない、とそう望む。自分の知る彼の姿で、彼が口にしたこともないような言葉の数々で背中を押されるようなことはどんな事があろうとも金輪際望まない。一度きり。この、一度きりだけでいい。
彼はもういない。
弥代の知る以上の彼はいないし、弥代が知る以下の彼は存在しない。存在していい筈がない。
これらの、一時の夢を見て、それで何を得られたのか?と聞かれる事があれば、弥代は何もなかったと答える。
それは揺るぎない事実だ。これが夢であっても塗り替えられるものは何もない。何も、望んではならない。
「二度とその辛気臭い面を見せに来るんじゃないぞ!」
「そっくりそのままお返してやんぜ、この石頭がっ!」
腫れてもいない額を晒して、舌を出す。
次に会うことがあれば、いっぱい話せるようになんて、いつだったか思い浮かべていた事があるはずなのに、最後の方に口の悪い彼を知ってしまったからか、先ほどから始終そんな彼と接していた結果、ついつられて自分の口も悪くなってしまった。これは仕方のなかった事だと自分に言い聞かせて一人納得をする。
別れを、惜しむ言葉は要らない。
これは再会ですらない、ただの夢なのだから。
でも本当にそうなのだろうかを、今になって弥代は考えた。
これは本当に夢、なのだろうか?
ただの夢にしてはずっと、妙に感覚がしっかりとあった。
肌に触れるひんやりと冷たい空気も、湯気の立つ湯呑みに伸ばし掛けた指先が微かに触れた熱も、頭に浴びさせられた水も、埋もれた雪も、谷底の体の芯まで凍える寒さも、重ねられた掌の温もりも、交わした視線の奥に何度も感じた、彼の言葉全部が。
今になって、それが全て夢であったとは弥代は思えない。
思えなくて、その場に一歩踏みとどまり振り返った。
だが、
「ずっと、背負わせてしまっていた。
すまなかったな、弥代。」
『同じ鬼だからとかじゃない。そういうの抜きで、俺はお前と一緒にいたいんだ、詩良。』
そうだな、と弥代は頷く。
そうだ、俺は鬼とか、変に元から家族であるからとか、そういう理由があった上でなく、そういうのを全部取っ払った上で、真っ新な状態で彼女と、詩良と共にいたい。『ボクは、弥代のお姉ちゃんだからな?』
そんなものを弥代は求めていない。
背は、彼女の方が多少大きいし、自分とは違って大人のように感じる部位も多くあったが、だからといって姉という立ち位置に拘る必要はないじゃないかと、前々から感じていた。
第一、姉妹を名乗っても大抵の奴等が不思議そうに首を傾げるものを、一々説明をしないと納得してもらえないものを続ける事以上に面倒なことはないし、そんなもの面倒だ。
『自分が家族って思ってる人に家族って思ってもらえないのって、とってもきっと寂しいことだよ。』
分かってる。言われなきゃ気付きもしなかった、考えもしなかったことではあるが、言われた今となってはそんなの、そりゃそうだろう、と。手のひら返しだと指差し馬鹿にされたって弥代はお構いなしに頷いてやれる自信がある。駿河に置いてこなくてはならなかった、宿屋の主人との事を思い出させて、あんな顔をさせてしまったことを今になって少しだけ後悔する。
『言わずとも、貴女は自分が本当は何をするべきか分かる。貴女は聡い人だ。
いつまでも立ち止まって、前を向けずに蹲るだけの、何の力もない子どもではない。貴女は――――、』
そうだ、どうとでもなる。俺は出来る。一度や二度やられたぐらいじゃどうって事ない。俺はそんなんじゃ折れてやらない。これまで折れそうなことは何度もあったけど、でも結局最後の最後には折れて、それで本当にダメになってしまうことはなかったんだから大丈夫だと、自分に強く、強く言い聞かせる。
『俺は、』
弥代は、
何もない場所で、一人弥代は立ち上がる。
今しがたまで誰かとちょっとの間、ほんの少しだけだけど話をしていたような気がするのだが、どうしてかそれが誰であったのかは思い出せない。
ただ妙な事に、その誰かと何を話して、何と言われたのかはよく覚えていた。
『聞いてやることしか俺には出来んが、言いたい事があるなら話してみろ。』
そういう割に、結構ズケズケと踏み込んできた挙句、頭は叩くわ、水はぶっ掛けるわと散々な目に遭った。
『お前は、その相手に何と言ったんだ?』
『だから、顔に全部出てるぞ。
……そうだ、結局お前はそうやって、自分に非があっても心のどこかで自分だけが悪くないとか、要らん責任転嫁をするどうしようもない、救いようのない頭をした奴だ、諦めろ。』
『逃げても、なにも変わらんぞ。』
『そんな呑気な事を言っている時間が今のお前にはあるのか?』
『今更、何を悔いるんだ?』
向けられた、交わした言葉の一つ一つが、今の弥代の中には確実に残っている。
それが誰であったか思い出せないはずなのに、自分に対してそんな遠慮なく、口悪く罵るかのように話し掛けてくる相手を、弥代は一人しか知らなくて。
そう考えれば妙に、妙にしっくりと来てしまった。如何にも彼が言いそうな言葉で、本当にちょっとだけ想像してみたら笑いが込み上げてきて。それからどうしてか、今まで自分の中にずっとあった、消し方の分からなかった、いつまでも消えてくれない靄が無くなったような、そんな気がした。
心が軽く、こんな感覚は随分と久しぶりだ。
だからはっきりと、弥代は自分が今、何をするべきかが分かった。
「行っちゃうの?」
覚えのある声に、少しだけ振り返る。
重たげな前髪が作る、薄い影の奥で小さく瞳を揺らす、“色持ち”の少女。
胸の前に、何やら箱のようなモノを掲げている。
蓋が、少しだけ開いてしまった箱のようだ。
それは、とても弥代の興味を惹いた。後少し蓋をずらす事が出来れば、見えそうで中々見えない箱の中に何が入っているのかがよく見えてしまいそうで。手を伸ばそうかを考え倦ねていると、少女が微かにそれを弥代の方へと差し出してくる。
「なんかさ、前はダメって俺に言ってなかった?」
「今の、貴女なら。…………少しだけ、良いよ?」
「ふーん、全部じゃないんだ。」
数歩の距離を、弥代は早足で駆け寄る。
そしてやや強引に差し出してくる少女の、その箱に手を伸ばして、
「それなら、今は要らない。」
両手の塞がった少女に代わって、蓋をしっかりと閉めた。
「……、」
「……。」
「要らな」
「要らないよ、今は。」
伏目がちの瞳を大きく見開いて、キュッと縮まる瞳の中心がちょっと警戒をしている時の兎みたいで。
「ごめんな、今はちょっと急いでるんだ俺。」
踵を返す。
「また、時間のある時ゆっくりな!」
自然と、瞼が持ち上がった。
少しずつ、少しずつ視界が拓けていく感覚はするのに、世界はまだ暗い夜の侭らしく。気を失ってどれぐらい時間が経ったのかも分からない中、辺りを小さく見渡してみる。
ズキズキと頭が痛くって、しつこいぐらい何度も頭を蹴られた事を思い出してみる。それと夜目が徐々に馴染んでくるのは同時で。見下ろした自分の恰好の、胸元が変色しているような気がして。それからふと、腹に回された太い何かに手が触れる。
「……、」
ペタペタと指先で触れた後、背後に大きな壁のようなものを感じて弥代が振り返ってみると、何かと思えばそこには春原がいた。
「…………、」
首を逸らし続けるには今の体勢は窮屈だ。
でも彼の目が閉じられていることは分かって、おそらく意識がない様子が分かった。
(なんで、此処にコイツがいるんだ?)
腕の中から脱け出そうと、腕に体重を掛けてみると、意識がないはずの、腹に回る腕に力が込められた。
「目が……、覚めたか?」
「それはこっちのセリフでもあるんだけどな?」
それから薄く開いた瞼の、奥に覗く青い瞳が揺れている。
離してほしい旨を弥代が伝えれば、やけにあっさりと春原はその腕を解いてみせた。そして腕の中から脱した弥代はやっと、春原の現状を理解し、口を開く。
「どうしたんだ、これ?」
「…………、」
「アイツに、やられたのか?」
「……弥代、」
自分同様に、服の部分部分がひどく変色している。鼻はおかしくなったままなのか、全く匂いを嗅ぐことは出来ないが、自分と同じであるならそれは出血を、怪我をしている事を意味する。羽織自体は色が濃ゆいことから中々判断が難しいから断言は出来ないが、それでも腹回りが滲み方は顕著で、投げ出された足の、肌を掠めた袴が妙な湿っぽさを持っていたのも気掛かりだ。水に濡れただけの感触では絶対にない。
「アイツは、どこに」
「此処にいるよ?」
肩口に擦り寄るように姿を見せる相手を、横目に弥代は捉えた。
ズルリ、音がして落ちる頭部には覚えがあった。数日前、他愛もない会話をしたばかりの男だ。
「何、してんだお前は?」
「何って……ボクの邪魔ばっかりするから、ちょっとお灸を添えてあげただけだよぉ?」
「これのどこが添えただけだ?度が過ぎんだろうがどっからどう見ても?」
「アレェ?」
大きく目を見開いたまま、分かりやすく首を傾げる、彼女の様子を見つめた。
「……弥代、何かあった?」
「どこぞの馬鹿のお陰で、色々とな。」
「ふーん…………、」
面白くないねぇ――そう、彼女が漏らした次の瞬間、弥代の体は後ろへと飛んだ。
しかし相手が何かしら仕掛けてくることが分かっていた弥代の切り替えしは早く、僅かに地から足裏が離れた全体重を足に掛けるようにして、勢いを殺しつつ着地してみせる。
そうして、今まで自分がいたのが、先程と同じ境内の中の、茂みの中であっと事を弥代は理解した。
「いきなり蹴るこたぁねぇだろ、詩良!」
「目が覚めたんならさっきの続きをするに決まってるだろ?自分がボクに何されたか忘れちゃったわけじゃないだろ?緊張感のないヤツ、本当に鬱陶しい。」
「そんな鬱陶しい奴と一緒にいたくて仕方がねぇのはどこの誰だろうな?」
「は?」
瞬きをする間よりも早く、距離を詰めてくる彼女の、しかし直前になって動きが止まる、狙いを定めてから振るわれる足を、弥代は見逃すことなく掴んでみせた。
動揺が、掴んだ皮膚越しに伝わるような気がして。さっきまでは両足とも履いていたものが片方なくなってて、それ以上に随分と汚れた恰好を視界に映して、やっぱり気に掛けてしまう。
「――ッ‼︎」
大きく身を捩るのに、掴んだ足は離れていってしまう。
追うかを悩んで、でも弥代は今は必要以上に近付く事を避けた。
「まただよ!また!さっきとおんなじ目‼︎そんな風にどうして、どうしてお前がボクを見るんだよ‼︎弱いくせして、一人じゃ……っ、一人じゃ何も出来ない、弱っちいくせしてさぁ‼︎」
距離を取った彼女が全身を大きく揺さぶって、そう叫ぶ。その姿が、あまりにも苦しそうに弥代には見えて。今しがた必要以上に近付く事は、決めたはずのものをなかった事にしてしまいそうになったその瞬間、視界を光が駆けた。
「茂みの中にいられ困っていたが、やっと出てきたか。」
頭上から聞こえる声に、弥代が上を見上げると、背後に聳え立つ建造物の上に、覚えのある人物を見た。
神の字を名に持つ男・神鳴だ。




