四十三話
空が光る、一瞬の出来事。
直後、足裏は地面に縫い付けられたまま詩良は動くことが出来ず、空を見据える。
知った気配、嗅ぎ覚えのある存在の、その顔を思い出して隠しもせず顰めっ面を浮かべた。
今しがた相手をしてやっていた、端から言葉が通ずることを期待していない、諦めている男よりは幾分かマシであることに違いはないが、厄介な存在であることに代わりはない。
先の春まで直接相見えることはなかったものの、一目見て理解が及んでしまった。叶うのなら関わりを持ちたくなかった相手。
忌々しい人間の、祈りやら願いやら、と。傲慢な押し付けにより神へと仕立て上げられた、在り方を最早強要されていると言って過言ではない、人の括りに納まることを知らない同種。
それは下野国に棲まう、古峯の地に社を構える。
雷神、あるいは鵺の名を冠す神擬き。
信仰によって偶々その座に居座ることが許されただけの弱い、弱い存在。
「高みの見物かい?いい趣味をしてるなお前?」
「己はただ、貴様の足止めに此処に来ただけだ。」
「足止めぇ?何のだよ?」
「答える義理はない。」
「何も難しい事は聞いていないだろう。……あぁ、ごめんね?鳥頭には少し難しかったかな?」
「安い挑発だ。」
見据えたその先、背丈とほぼ変わらぬ巨大な二枚羽根を持つ、高貴なる色をその身に召した男の姿を見る。
春先にお目に掛かった際とは装いだけでなく、纏うその空気さえが違う。
すぐ傍には、東においては忌むべき“色”、“白”をその身に宿し生まれたのだろう者を妹と呼び置いていた。口を開くのは主に妹の方が多く、あまり男自身が喋っていた印象はなかったものだが、随分と流暢に喋るものだと感心する。
男の口にする“足止め”というのも気掛かりではあるが、先ずは何よりも宙に居座る男ではなく、地に足を付けた、眼前の相手。
その腕の中に抱えられた大切なあの子を取り戻さねばならない。
「ねぇ、返して?」
「断る。」
「貸してやるなんて、一言もボク言っちゃいないよ?」
「関係がない。」
「……。」
埒が明かない。
初めからそんなの分かりきっていたことだが、やはりまるで話が通じなさそうな相手に飽きれてため息を零す。
それから詩良は、少しだけ腰を低くして、
「じゃぁ、しょうがないよね?」
その場から、勢いよく飛び出した。
鬼ノ目 九十三話
迫り来る、動きは単調な蹴りだ。しかし刀を前に構えた瞬間、春原の予測した軌道とは別の角度にそれは変わった。
これまでに受けた足技の大半が、刀そのものを握る手元を狙うものが多く、それもまた同じであろうという考えが驕りを生んだ。
回避に移れるほどの余裕は、既に避けようがない。飛び退こうにも小脇には、未だ目を覚さない弥代を抱えたまま。
衝撃を覚悟した直後、その軌道が自身の頭部を狙っている事に気付けば、動きに迷いはなかった。
一見、ただ厚みのある草履のように見えるそれだが、頑丈さを考えるなら下駄であろうか。どちらにしてもそれから発せられるとは思えぬ衝撃に耐えきれず、慌てて頭部を庇うように上に構えた、刀の鍔が欠け落ちる。
春原をはじめとする春原討伐屋に属する者の刀は全て、刀鍛冶の技術を持つ相良によって打たれたものだ。
彼の祖先が生まれ育ったとされる地は、古くより武士が多く、幕府が存命の頃は百人を超える刀工を世に輩出したという。
そんな彼の打つ刀は、出回っているモノとは大きく異なり、鍔ひとつ取っても造りgた違う。
刀そのものを生み出す際に残った鉄を用いられて鍔は、薄く引き伸ばされ数えられないぐらい打たれ続けた刀身よりも遥かに頑丈な造りをしていた。
頭部への直撃を回避することに安堵するべきか、早々簡単に砕けるはずのない鍔に罅が入り破損したことに焦りを覚えるべきか。
だが、眼前の相手は今の一撃を防がせたことに驚きを隠せない様子を見せている。鍔を介し広がった衝撃は仕方なし。痺れが感じるも柄を落としてしまわぬように力を込めて、そうして春原はやっと左へと飛び退いた。
「いやいや、面白いなそれ?さっきの男も似た様な造形をしたのを持っていたけど、同じヤツが打ちでもしたのかい?
……でもまさか、刀身以外にもそんな小細工があるわけか?……面白くないね?」
先ほど同様に、間合いを一気に詰めてくるだろう動きを見せる相手に、春原は一度弥代をその場に下ろし、刀を反対の手に持ち替えた。これが痛みであったのなら堪え凌ぐことが出来たというのに、痺れの前には最悪。刀を落としてしまいかねない。
左へと握り直し、こちらの間合いに入り込んでくる一瞬を逃さぬように目を凝らし、刀を構えたその刹那、雷が落ちた。
「……邪魔、すんなよ。」
「己の目の前で殺させはしない。」
「じゃぁ、目でも瞑ってたらいいだろぉ?鬱陶しいヤツ。」
二つ並びの社の上に降り立つ男。その者が落としたであろう口振りと、どこか見覚えのある風貌に、以前相良より聞かされた、古峯の地に祀られる鴉天狗であることを春原は思い出していた。
焦げた匂いが微かに立ち込める、直接喰らっていればどうなっていたかを考え、目の前の相手が動きを止めた理由を察する。
が、男はその場から動くことはない。腕を組み、静かに屋根の上から眼下を見つめるだけだ。
「先も申したように、あくまで己の目的は西の鬼、貴様の足止めだ。」
「ふーん?じゃぁ今さっきの殺させないってのはついで?」
「ただの気まぐれだ。」
「面倒臭いヤツだな、お前?」
「また祈々様、手紙書いてるの?」
窓の向こうに、よく知った黄色い頭が見えて手摺りを掴んで攀じ登って、██は部屋の中を覗き込んだ。
「……行儀が悪いよ、██。」
「んふふっ、だって気になっちゃったんだもん!」
ぐるりと部屋の中を見渡すと、入り口のところで体を小さく丸めて、多分お昼寝をしている彼女を██は見つけた。
「結!」
広い屋敷の隅々まで庭掃除がてら探し回ったのに、どこにもいなかった彼女がまさかここにいたなんて、と。そんな事を思いながら草履だけはしっかり脱いで、手摺りを跨いで部屋の中に転がり込む。後ろで重たい溜め息が聞こえたが██はそんなの気にならなかった。薄い足裏で床を鳴らしながら駆け寄る。
ふわふわした長い髪に埋もれるようにして、蹲り寝息を立てている姿は、ただ見ているだけで心の内がぽかぽかとして。座り込むだけじゃ飽き足らず、その場にうつ伏せになって足をぱたぱたと揺らして、寝顔をジッと見つめる。
「もぅ!意地悪な祈々様!ボクずっと探してたんだからね!」
「懲りずに悪さをするものだから、罰として庭掃除をさせていた筈なのにね。
それで意地悪と言われるのかい僕は?相変わらず度し難い頭をしているじゃないか君は?
「あっ、結ってばヨダレ垂らしてる!」
頬をつんつんと、つつく。
薄く開いていた口が閉じて、真ん中にとんがって、ついでに眉間に薄い皺が寄る。
元々この部屋をどうして覗き込んだのかとか、そんな事は綺麗さっぱり忘れてしまって██は目の前の、彼女しかもう気にならない。
「……結、」
本当は、抱きしめてあげたい。
でも昔とは違って、同じぐらい大きくなってしまったキミを抱きしめるのは少しだけ難しい。もう腕の中だけじゃキミが収まりきらないことをボクは知っている。
だから、だからせめてその寝顔だけでも傍で見ていたい。今はそれだけでいい。今、今だけは本当にそれだけで、いい、から。
追い詰めたと思った矢先には直ぐに横槍を入れられる。無意味なやり取りを何度か繰り返すまでも含めて暫く同じのの繰り返し。
そんなに時間は経っていない分、短時間でこんなのをずっと繰り返されているからか詩良は次第に苛立ちを隠せなくなっていた。
ただ、時間がそれほど経っていないと言っても、詩良の感覚からしてあの子が目を覚ましてしまうまでそれほど時間はない。
最悪、回避に移ることなく振り切り、男の腕の中からあの子を無理やりにでも引き剥がそうものかを考えるが、雷の早さを思い出し止める。
(いや、それは賢くないな。)
先ほどからの、自分が追撃を行おうとする際に落とされる雷撃の、その威力は凄まじいものだ。未だに振り向き境内を見渡せば、二発目の痕跡からさえも小さく煙が上がっている。
あまりに上手く事が運ばなすぎて、それが表に滲み出てくる。切り捨てられた足からまたしても取ってきた草履で境内の石畳をカツカツと鳴らす。足袋は、もう使い物になりそうになかったのでいい加減諦めた。
「大人しくする気になったか?」
「馬鹿なのぉ?こんなんで大人しくなるぐらいなら、端からやるワケなくないかなぁ?」
「己には到底計り知れん。」
「だったら一々突っかかってくんじゃねぇよ鳥頭ッ‼︎」
足下の石畳が割れる。
そうだ、形振りなどもう構ってられる余裕はないのだ。
掠めれば切られ、受ければ内側を壊される。
先の一撃で既に何本か、内側の骨が折れたであろう感覚を分かっていながら、それでも春原は刀を振るった。
意識の戻らない弥代を小脇に抱えるのは次第に難しく、肩に担ぎ未だ痺れを残す片手で体を支える。
唯一の救いは、今もまだ社の上から動かずにいる古峯の男だ。
榊扇の里で扇堂家によって祀りあげられる神仏・水虎同様に、古峯の地で祀られる、人ならざる存在。
男が姿を見せてからというもの、こちらの体勢が崩れる都度、槍の様に鋭い雷が落とされる。直撃を恐れているのだろう、相手の動きは鈍っている。但し、やはり屋根の上より降りてくる気はないらしい。
『己の目の前で殺させはしない。』
その男はそれを、自身の気まぐれであると口にしていた。そう、気まぐれ。
気まぐれで人を凌駕した、人が到底持ち得ることのない力を有し、それで人の平穏を脅かすのが人ならざる存在である。
だが時折、その男のように人に崇められ、信仰により在り方そのものが更に昇華され、神と呼ばれるようになることがある。
つい先日、駿河の地において対峙した存在も、古くは神として人々に必要とされていたに違いないと相良は話していた。
いや、今はそのような事は関係がないと、春原は頭を振るう。息を整え。痛みから意識を逸らす。人間の身である以上、先の相手のように切り落とした腕や足が生えてくるようなことはないが、並大抵の傷であれば時間が経てばどうとでもなる。まだ、どうとでもなる。
「姉さん」
慌てて、パッと手を離した。
痛くしたつもりはなかったけど、もしかして痛かったかな?と恐る恐る彼女の顔を覗き見るも、相変わらず乏しい表情がそこにはあるだけ。妙にどきどきして、目線は行ったり来たり、指をもじもじさせ、たり。
やっとの思いで痛かった?と訊ねれば不思議そうな顔をする彼女。
「痛く、ないよ。」
「じゃぁ……なんだっていうのさ?」
ゆっくりと伏せられた、眶の淵を彩る青はとても深みのある色をしていて。髪に比べればそこまで量が多いわけじゃないから、その奥に潜められた飴色が若干透けて見える。
ふるふると揺れる、白との境界線がほんのりぼやける様を目にするのはただただ愛おしい。
「姉さんは…………、」
「うん、ボクは?」
言葉を頑張って選ぶ彼女をジッと待つ。
紡がれるその一つ一つが、意味のない言葉なんてことはないのをボクは知っていて、聞き逃すまいと躍起になる。
「………………どうして、」
いや、言葉だけじゃない。
言葉だけじゃなくて、彼女の全てにはちゃんと意味があって。それは彼女からの大切な合図で。積み重ねた先に絶対に答えがあることをボクが、ボクだけが知っているから。
だからボクは、彼女から目を逸らしちゃいけないんだ。
「本当に切っていいのかい?」
持ち上げられた髪を見て、やっと結構な長さがあることを知った。もうずっと切っていない気がして、最後に切ったのがいつだっか思い出せないから多分そういうことなんだと、██は思う。
「前みたいに整えるだけでもいいんじゃないのかな?」
「ううん、短い方がいいの。」
そうじゃないと、結が悲しんじゃう。その言葉は大人しく飲み干した。
揺れる、翠の瞳が何か言いたげだったが、彼女は気付かぬ振りをした。
特に意味もなく伸ばし続けた髪だ。手入れに時間ばかり掛かって本当は好きではなかった。変なところに引っ掛かることも多かったし、寝起きに踏んづけて痛い思いをしたのだって一度や二度じゃない。
自分一人でどうにか扱いきれるものでないのなら早いところ手入れがしやすい長さにしてしまうのもいいじゃないかと、本音を語らずに嘯く。でも、それは全ぶ薄々感じてきたことだから、やっぱり嘘じゃない。
全部が全部ボクにとっては大切なもので、抱えきれないって分かっててもそんな簡単に捨ててしまえるものじゃなくて。でも、それでも、それら全部を放り出してでも優先しなきゃいけないものが、ボクにはあって。
「じゃぁ、切るよ。」
小刀が、肩よりも下の髪をバッサリと切り落とす。それだけで随分と頭が軽くなった気がして、こんなに楽になれるのだったらもっと早く短くしてもらえば良かったとほんの少しだけ後悔をして。そしたら何でか、どうして分からないけどポロポロ、涙が出てきちゃって。
「今日からまた伸ばそうか。」
ぽんぽん、と頭を撫でてくれる。
その優しさが、離れていくのが嫌で。
ボク、ボクは
人間と鬼がそれぞれ二人ずつ。
境内の外に近しい位置にも誰かいるようだが、気を失っているのか動く気配は微塵も感じられない。
人間の内、片方は参道から先へ進めぬ様子。ただの力を持たぬ普通の人間であれば当然の反応を示し、その場で立ち往生をしている様子が伺える。
もう片方も、前者同様に何の力も持たぬのだが、怖いもの知らずなのか、死にそうになりながら傷を抱えて、意識のない鬼を肩に担ぎ、無茶を重ねている。
そして、そんな命知らずの人間を追い詰める鬼。
その場に居合わせた者の内、三人と面識があるというのはどういった巡り合わせかと、首を傾げたのも束の間、事態は悠長な事を言っていられるものではなかった。
(しかし……、)
自身がこの境内上空に辿りついた直後、それまで東の方で上がっていた花火は収まってしまったのに気付くなり、祭り事を邪魔してしまい悪いことをしたと思いはしたものの、同時に仕方のないことであると片を付けていた。
今はそのような悠長な事を言っていられる余裕はない。目を逸らしたその間に、眼下で人が死にかねない状況は続いている。気を休める暇さえない。
直接、地に降り立ち相手をした方が手早いのではないかと考えたのだが、こちらへ赴く前に妹に釘を刺されているため出来ない。
『よろしいですか、兄様?くれぐれも先生がやって来られるまでは降りないでくださいまし。』
(……、)
小さく、ため息を溢す。
どうにも儘ならない。
自分の目の届く範囲で人が死ぬのを見たくないというのは自分の気まぐれ、ただ単に我儘であることは分かっているのだが、ただ上から見下ろし、都度手を加えるだけというのはやはり疲れる。
昨年の秋の事もあり、この地において自身が扱う雷を落とすことさえ、正直気が重い、乗り気ではないのだ。春に対峙した、この里で祀られる、自身に近しい存在から心ない言葉を浴びさせられたことも未だに忘れられないでいる。
いくら恩師からの頼まれ事であろうとも、疲れるものは疲れる。
「さっきからずっと思ってたんだけどさぁ、」
目が合う。
赤い瞳がキュッと細まるのに、春原は息を詰まらせた。そしてゆっくり、相手の視線が下へと向くのに、急ぎそれを邪魔するように刀を振るった。
くるり、手を付いて一回転。相手はそのまま姿勢を低くした状態から足払いを繰り出してくるも避けきれず、春原は体勢を崩してしまった。倒れ込む。
寸でのところで弥代を腕の中に抱え、その体が地面に打ち付けられないようにした。直ぐさま体を起こそうとするが、どういうわけか足に力が入らない。
「ッハハ!何だよその顔?今見せた反応はじゃぁ何だったっていうのさ春原千方ぁ?」
剥き身の足が迫る。
「変なヤツ……、でもそうかそうか?お前は骨が折れたって、筋が切れたって限界までどうにかしようてしちゃうようなヤツなんだね?いやいや恐れ入ったよ?そうだよね、ただの人間があんな動きずっと続けられる理由がないもんね?」
未だに力の入らない足は相手によって踏みつけられた。
「……。」
痛みは、なかった。
痛いという感覚そのものが春原は幼いころから鈍かった。鈍い、演技をして。でも、繰り返し叩かれる、頬の熱だけはずっと、ずっと残り続けていて。欲していたものとは全くの別モノで。喉の奥が、ひくりと小さく揺れたのを覚えている。けど、取り繕わなきゃ、また叩かれることを分かっていたからずっと、ずっと……笑みを浮かべて、それで……、
「何、笑ってんだよ?」
痛みはない。
その分、目の前の相手を見て口角が緩んだ。痛みを痛みと感じないようにしているのは春原の意志のみで、体はずっと悲鳴を上げ続けていたのだろう。今この時を好機と言わんばかりに、全身の穴という穴から一気に汗が噴き出すような。現に肌を伝う汗の量は尋常なものではない。が、それがどうしてか、どうしてか彼の、春原の奥底にあった物に小さく擦れる。
顔を滑り落ちる汗は、まるであの日の雨の様。生暖かく感じたソレは雨などではなく涙であった。




