四十二話
今しも、その男は我慢ならずその場から駆け出した。
滅多に駆けぬものである為、早々に息が上がり横腹に痛みを覚えるも、それは足取りを止める理由にはなり得なかった。
屋敷の端から端までの移動を挟み、私室に転がり込めば迷いなく、壁に飾られていた一本の刀を手に取る。今日に至るまで一度たりとも抜いたことのない、部屋の掃除に訪れる女中らにはただの飾りものだろうと揶揄され続けてきた刀だ。
いつまでも持っていたところで宝の持ち腐れと、いっそ質にでも入れてしまった方が求める者の手に渡るのではないか等と、一々言われるまでもなく、それは再三男自身が自分へと言い聞かせてきた言葉であった。
『氷室の代わりに、今は貴方が持っておいてね、三一。』
そう言われて預かった代物だったはずであるのに、本来持つべき者の手にすら渡ることの叶わない、手放すことさえ出来なかったもの。
彼の方が自分よりも優れていることなどわかっている。彼女の傍に在るべきは自分ではなく彼が正しく、それが何よりも彼女の為になる事など、そんなの誰よりも男が理解していた。
男は、佐脇三一は周囲が自身に向ける評価を、他者の目に自身がどのように映るかを常に考えてしまう。
心残りがある、亡き相手にすら今の姿を見られればきっと呆れられ、見捨てられる姿がはっきりと目に浮かぶ程度には酷く、幼い頃から身に染みついた悪癖によって日々苦しめられてきた。
どれだけ長く生きようとも幼少期に形成さえてしまったものはそう簡単に変わることはない。五十年近く生きてきてそうなのだから半ば諦め掛けている。
けれども。
それを差し置いても、どれほど周囲から心ない言葉を向けられようとも、今この時行方の分からぬ、あの男同様に譲れぬものがあった。
門を目指し走っていると、怪我人が出てしまわぬようにと、早々に退避させた門番らが男を呼び止めた。しかし既につい先程、本堂の奥にて大主の制止すら振り払って駆け出した佐脇が耳を傾けることはなく。
目が良く、遠くまで見渡すことの得意な門番の一人が佐脇の腰に差された刀に気付き不思議そうな声を上げた。
恐らくは、屋敷に身を置く大半の者は、佐脇に剣の才覚があることを知らない。先月、気に掛けているまだ年若い女中の一人が体調を崩し、彼女の代わりに剣術稽古の怪我人の治療に赴いた際、対人なら二十数年ぶりに模擬刀を握った程度。人目のつかぬ場所と時間を選び振るう事しかなかったのだから当たり前の話だ。
佐脇はそれにすら構う暇はないのだと、脅威と、それ以外に呼びようのない存在の、どこへ行ったのかも分からない足取りを求めて屋敷の敷地から勢いよく飛び出した。
あまりにも愚かではあるが佐脇は未だ、その相手の正体が何者であるかさえも分からない。だがそれは、その程度は足を止める理由にはならない。
振り翳すのは今も昔も変わらぬ、幼稚な我儘。
佐脇は自分の目でしかと見るまでは信じられない、確かめずにはいられなかった。
ただ、それだけなのだ。
鬼ノ目 九十二話
先程からいくらかの間を挟み、夜空で何か大きなものが勢いよく爆ぜたような音がする。その度に館林の数歩先を歩む、春原が小さく空を仰いでいた。
榊扇の里の東門を出た先には、昨年の冬口に甲州街道を目指すのに北上するのに使った、太い川が存在する。その河辺から里の花火師によって打ち上げられる花火に他ならないだろうが、空は分厚い雲に覆われているようで暗く、どれだけ立派な花火が打ちあがろうとも雲間が晴れぬ内は、生憎とその光が届くこともなさそうだ。
折角の花火を見れぬことを惜しんでいる、なんて当然わけもなく。ただ大きな音に反応を示しているだけのように見て取れるが、仰ぎ見る都度微かに口元が動くのが見えたものだから、数を数えているように館林の目には映ったが、あくまでそれだけの話。
彼の真意はまるで伺えない。
知ったところで、果たして自分程度の理解が及ぶとも端から思えていない館林は、黙りこくったまま、これまで通りに彼の数歩後ろを着いて回るのみ。
「……近い。」
五発目だったか、六発目だったか。
花火の打ち上がる音の後、春原の動きが速さを増した。
報告のあった屋敷へ向かうのではなく、屋敷の遣いを払い除けてまで勝手な行動を始めた際は、それはそれはどうしたものかと頭を抱えたくなったものだが、その背中を追う内にアテもなくただ彷徨い歩いているわけではない事が分かった。
あまりの迷いのない足取りに、これまでにも幾度となく思い出してきた、昨年の冬口に見た彼の様子が重なって見えるも、またしても、何故そのようなことを知っているのか?と疑問が沸きはしたが訊ねる気は館林にはなかった。
程なくして、春原が足を止めたのは、扇堂家の屋敷に続く大通りから大きく東側へとそれた、今は扇堂家の血筋の者以外が踏み入ることは許されなくなったという、阿夫利神社の門前町として宿坊や旅籠は多く並んでいたという区画。かつては伊勢原村と呼ばれていたこともあったとされる地。
そこに鎮座する、伊勢原大神宮の鳥居の前であった。
「……。」
続く。
その背を、黙って追う。
木々が多く植え込まれた境内には影が多く、全体的に薄暗い。分厚い雲の晩など灯りがなくては進むことさえ躊躇してしまいそうな程。
夜目に馴染もうとも、一寸先すらも見えない、何があるのかまるで分からない闇を前に、普段目を向けないようにしている恐怖が煽られる。これ程までに暗く、不気味に感じるのはただの勘違いか、或いはこの先に待ち受けるであろう、人ならざる存在による影響か。
迷いなく歩みを止めない春原に訊ねたところで望んだ答えが返ってくることはないことは分かっているのに、それでも訊くだけ訊いてみようものかと考えが過ぎるのは、やはり
「誰か、いるの?」
女の、声が聞こえた。
「……まぁ、何となくこうなるだろうとは分かっていたから特段、怒る気も湧かないというか。単に飽きれすぎて物も言えなくなってしまっただけ、とでも言うか。
言い訳があるのなら聞こうじゃないかお二人さん。城下町でm一体何をやらかしてきたんだい?」
キュッ、と。男の目が細まるのに合わせて、後ろに隠れた相手が自分の裾をギュッと強く握る。
██はそれをやや面倒に感じつつも、態とらしく溜め息を溢し、それから男に真っ正面で堂々と口を開いた。
「ボクがやりました!」
「白々しい、分かり易い嘘は止めなと教えただろう。じゃぁ何かい?結、君は後ろでずっとそうやって指を咥えて見てただけだっていうのかい?」
「だから、そうだってボク今言ったじゃん!」
「今はお前に聞いているんじゃないんだよ。静かにしてなさい、██。」
「……ちぇッ、」
意味はないと分かっていたが、それでも口を挟まずにはいられなかった。泥んこ塗れになった恰好のまま、後ろに回した手を強く心細そうに握り締めてくる、弱い存在は満足に言葉を並べることも難しくって。その熱が、離れていく。
屈んで、その子に目を合わせる。母親が子どもに優しく問い掛けるような姿は、きっとそんな感じだろう。自分がされたことはないから知らないけど、近くで見ていてそんな風に感じるのだからきっとそうに違いない、と██はそう思う。
自分が得られなかったものが目の前にあって。手を伸ばせば自分のモノに出来てしまえそうで。でもそれをしないでいるのはその子が自分よりも何も持たずに育ってしまった子だからで。生まれた時から知ってるから、誰よりも分かっているから██は大人しく、聞き分けのいい子どものように身を引く。一歩後ろに下がって、二人の様子を見守る。
それは大切な時間。
掛け替えのない、失われちゃいけない大切な時間。
交わる視線があって、翠を緩く映す鼈甲飴よりも薄い瞳がとっても綺麗で。髪も緑であったのなら、お互いに瞳と髪が交差してるようでとっても綺麗だったろうに。でも青も緑もそこまで変わりないと教えてもらったことがあるから、だから綺麗だと感じた、それは嘘じゃなくって、だから、だから……
ずっと、ずーっと昔から聴き慣れた心音は、何だか耳を当ててるだけでとっても懐かしくって、温かくって。
それだけでどうしてだか心が満たされてしまって、そしたらもう別に、これだけでも良いんじゃないかなぁって思えてしまった。
少しずつ、少しずつ。
ボコボコに凹んじゃった頭が治り始めていて、これで満たされてしまうのならもう目を覚ましてくれなくても良いんじゃないかなぁって考え始めてしまって。
でも、そうじゃなくって。
ボクは、ボクはこの子の、この子の口からどうしても直接……直接、ボクと一緒にいたいって、ボクと一緒にいてくれるって、その言葉を、多分……求めていたはずなんだけど。だから本当にそれでいいのかな?って頭を悩まして。
ぐるぐる、ぐるぐる、と。さっきからそんなのをずっと行ったり来たりを繰り返してて、なのに答えはずーっと見当たらなくって。
少し休もうかな?と首を大きく逸らして、体を伸ばしかけたその時――嫌な、匂いがした。
近くまで、来ている。
ここまで迷いなくこの子を追って来れたのだってボクは鼻が昔から良いからで。嗅ぎ慣れた薫物を手放さなかったのも、それがなくちゃ安心できない、からで。香りが薄くなると、怖くて、怖くなって眠れないから、で。
そして、少し離れた場所から今度は音が聞こえてくる。それは草履が、境内の石畳を擦る、音。
一人、にしては少しズレてるから、多分もう一人いて、もう片方の匂いは覚えていない。
「誰か、いるの?」
分かりきってて、分かってて態とそんな言葉を投げかける。
「だぁれ?」
声を掛ける。
出来るなら邪魔してほしくなくて。それ以上こっちに来てほしくなくって。
何も用がないのなら来ないで、と続けるのに足音は止まってくれない、止まってくれない。徐々に、徐々に近付いてくる。
横たわるこの子を抱えたまま起き上がることは難しくって、止まってくれないのならどうしようと考えだした矢先に、雲間から微かに月明かりが差し込んだ。
「空気の読めないヤツのお出ましだ。」
「弥代を、離せ。」
「ッハハ……、離せ……離せ、だってさぁ。相変わらず変な事しか言わないんだね、お前って男はさぁ、春原千方?」
笑いすぎて腹が捩れ曲がってしまいそうだ、と続ける相手を、何を言わずに春原は見ていた。焦りはない。ただどう動くべきかを考える。木々が多く植えられた境内はそれほどの広さもなければ、建てられた御堂に灯籠にと、遮蔽物となるものが多い。無闇矢鱈に動くのは得策とは言えない。
「館林、」
討伐屋を出てから自分の後ろにぴったりとくっ付いたままである、男の名前を口にする。
「扇堂は退がさせるべきだ。」
「せ、んどう?」
視線を送れば、小さく息を呑む音がする。そして館林が前へと出た。
春原の言った通りに、境内の灯籠に凭れかかるようにして気を失っている、扇堂家の娘の元へと駆け寄り、前に担ぎ上げ足早に戻ってくる。
「どちらへ?」
分からない。
分からず、春原は答えなかった。
これ以上は余計な事に考えを割くのは惜しい。相手の関心が扇堂に向くことなく、腕の中の彼女に注がれているから出来た事。館林の名前を呼んだのは、自分が一歩でも動けば相手がどう動くかが分からなかったからだ。
こちらの一挙手一投足を逃すまいと目を凝らしている様子。皮膚を刺すかのような鋭い視線を前に、しかし彼は引き下がることはない。もし彼が引き下がるような事があるのなら、それは半歩を後ろへと下がらせる、刀を抜く為の所作で。そしてそれは、館林が扇堂を抱えて春原の傍らから離れた、心の内で刻んでいた数が二十を迎えた、その時だった。
踏み出す。
大きな一歩を、前へと突き出す。
既に抜き切った刀を頭の上に掲げ、後ろの足が追いつく、その反動と一緒に振り下ろす。
「おっと!」
抱えたままで体を起こすのが難しいのかと思っていたが、春原の太刀を立ち上がり避ける。腕の中に彼女を抱えたまま、余裕そうな表情を浮かべ、歪な笑みを口元にこさえたその相手は、春原にとって迷いなく刀を振るえる敵。人ならざる存在に他ならない。
たとえ眼前の、敵として見定めた相手が彼女の、弥代に親しい存在であろうとそれは関係のない話。
後ろへと飛び引く、着地のあまりの軽やかさは猫のように柔軟だ。いくら高いところから飛び降りようとも体勢を崩すことを知らぬ動きを前に、振るい下ろしたばかりの刀の柄を握り直す。
開いたばかりの距離を一気に詰め、袈裟斬りの逆、左下から右上へと振るいあげようとした。が、鋒が相手ではなく、相手の抱える彼女を掠めそうであることに気付き、春原は刀を止めた。
「分かり易いヤツだなぁ、お前?」
くるり、その場で小さく回った相手の、軸とは反対の脚が春原の腹目掛けて繰り出される。寸でのところ、彼はそれを避けるも、僅かに掠った着物は横一色線にぱっくりと切れ目が出来ていた。
近付かねば相手の腕の中から彼女を引き剥がすことは出来ないが、その時々で間合いを変えてくる、飛び出てくる時にならないと分からない手段に挑むのに距離を詰め続けるのは非常に厄介だ。ただの足技であればいいのだが、掠っただけの場所さえもを裂かれる恐れがあのなら話は別だ。
どれほどの物を裂けるのかさえも分からなくては、その威力がどのぐらいなのかも分からなければ対処のしようがない。
けれども、たかがそれだけで易々と引き下がる気が起きることもなく。
諦め悪そうに、春原は刀を構える。
「いやいや、実力差は歴然だろうよ?」
「まだ、分からない。」
「分からない……ボクにはキミがどうしてあんなことをしたのかまるで分からないよ?ねぇ、何で勝手なことをしたの?」
師である男が立ち去ってから、さっきまで師が握っていた細っこい手首を真似るように握りしめて。身を寄せ合って、抱きしめてあげた方が言葉にするのが一等苦手なこの子の気持ちを汲んであげられるのはそうなんだけど、泥んこ塗れのまんまだからそれは我慢。代わりにおでこをくっ付けて、ふるふると揺れている、飴色の瞳を覗き込む。
「わた、し…………は、」
「うん。」
毎日毎日、移ろう季節に身を委ねて、聞き逃してしまいそうな、見逃してしまいそうなぐらい小さな、力を持たない存在によって紡がれる日々を壁越しに感じ続けて。。
月に一度、必要だと予め書き記したものは揃うものだから別段外に出る必要はなくって。それだけだったのに、どうしても極稀に、必要なものが足りなくなってしまうことがあっって。その日は、事付けられた品を買い揃えに町へと降りた。
言われた通りの品を包んでもらって、店を出ると、そこには市井の人らに髪を掴まれて、蹲っている、キミがいて。
「分からないな。キミが何かしなきゃあんなことをされる理由がないじゃないか?ねぇ、何をしたの?あの人は諦めてどっか行っちゃったけどボクは…………、ボクにぐらい教えておくれよ、結。」
ぱくぱく、と。池に暮らす鯉が餌を求めるように、でもそれよりはずっとゆっくりと口は開くのに、聞きたいと望む言葉はいつまでも出てこなくって。言葉を探している。当て嵌まる言葉を彼女は知らない。でも思うところがあったから彼女はきっと動いたんだ。違いない、そうに違いないと決めつける。
「ボクは、キミが……、」
キミが、何の意味もなく気持ちを言葉にするとは思っていない、誰よりも優しい子。
虫一匹殺せない、踏みそうになれば躊躇して自分が転んでしまっても気にしない、そんな子。
ねぇ、結。
教えて、ほしいな。
キミは……キミはどうして虐められていたの?
「おやおやぁ……?」
次第に、迫る太刀筋が早まっている。
動きの一つをとっても、その切り替えがあまりにも素早いもので、避けるのに少々躍起になる。
後ろへいくら飛んでも、振り下ろしたばかりの刀を握りしめて、何度か似た動きを見せてくる。それが回数を重ねる度に少しずつ早くなっている。
「もしかして薄情なヤツ?お前が大好きな弥代に当たるとか、ちょっとは考えないわけ?」
「当たりそうになれば刀を逸らせばいい、それだけだ。」
「いやいや無駄口。余裕そうな面浮かべやがってよ、腹立たしいったらありゃしないよお前は?」
「……そうか、」
直後、腹部に刀の柄が食い込む。
「俺も同じだ。」
一撃。
それを貰い、その体が大きく傾いた。
刀が履き物によって弾かれる光景を既に何度か見ていたが、胴に食らわせて弾かれるかまでは分からなかった。が、硬い帯の感触に阻害されつつも腹へと食い込んだ事実を前に、春原は安堵を覚える。奥の体までが硬いということはないのだろう。
「お、前ッ‼︎」
声色が強張り、それまでの涼しげな、余裕そうな表情はどこかへと消えてしまう。
大きく開かれた赤い瞳を、控えめに縁取る薄い瞼。緩やかであった眉が大きく歪み、顔の端に伸びるほど吊り上がっている。
無理やり触ようとした際に全身の毛を逆立てて威嚇をする猫に、その姿がどうしてか重なって見えて、しかしそれ以上触れぬように正面に向き直る。
「離す気になったか?」
「たかが一発喰らわしたぐらいで、調子に乗るなよ青二才がッ‼︎」
「……そうか。」
構える。
「腕ごと斬り落とせれば、それでどうにかなりそうだ。」
またしても春原は駆けた。
「おやおや、どうしたんだい?一人で来るなんて珍しいじゃないかい██?もう一人で寝れるからと、啖呵を切っていたのは一体いつの晩の君だったかな?」
「いつまでも子ども扱いするの止めてってボク言ってるじゃないかっ‼︎違うよ!一人で本当に寝れるようになったもん‼︎ただちょっと…………、ちょっと昼間の事が気になっただけで。」
ズルズルと、ここに来るまで引き摺ってきた布団ごと、優しく腕の中に招き入れられる。
「ッフフ、使い物にならなくなったらどうするんだい?」
「綿が出たって縫えばずっと使えるもん!」
「そんな粗末な物を君たちに使わせていると、僕の良心が痛むんだよ。出てしまうことがあったら言いなさい。新しいものを用意させるからね。」
「……わ、分かったよぉ。」
何も分かっちゃいないのに、大人しく腕の中で体を傾けていると、読み途中だったか書き途中だったのかまでは分からない、紙の束が広げられた机の前に腰を下ろす、その膝に座らせられる。
「何、してたの?」
「古い知人にね、手紙を送ろうと筆を取っていたのさ。」
「祈々様の、古い、知人?」
「僕や君らと同じ、“鬼”のね。」
「ふーーーーん?」
聞いておいてあまり興味の沸かない話題に、ゆらゆら揺れる行灯の方へと目をやれば、ジーッと暫く見ていたらそれだけで眠ってしまいそうで。元々昼間の事が気になって態々来たっていうのに、何もそれを聞けずに寝てしまうのはなんか違くって。
でも、でも……、
「ねぇ、祈々様。」
「なんだい、██?」
聞き分けのいい芝居をしている。
ボクは要らないから、その分もあの子の事を見てあげてって、全部全部譲ってあげてる。だってあの子は本当に、ボクと違って何も与えられずに育っちゃったから。淋しくないようにってずっと、ずっと側にいてあげたけど、ボクじゃあの子の何にもなれない事を分かってて。ボクが、ボクがお姉ちゃんだって言ってるけど、多分同じ血筋なだけで、ボクが生まれたのはもうずっと、ずーっと前の事で。だから……だから、その、ね?
「ありがとう」
あれれ?違うんだけどな?そんなのを言いにきたわけじゃないのに、でも、口をついて出てきた言葉に安心する。
そうだ、そうだ。
ボク、ボクはね祈々様、貴方に結と一緒に救ってもらえてね、それでね、それだけでね、すごく、すっごく満足……満たされてるはずなんだ。でもね、けどね、時折どうしても苦しくなっちゃう時があるの。幸せであるはずなのに、どうしても胸の奥が痛くなる時があるんだ。ねぇ、それはどうしてかな?どうして、どうして痛いのかな?分からない、分からないや?分からないから、でも、けど、目を逸らせなくって。多分これは時間が経ったたらもっと酷くなっちゃうもので。何となく、分かっちゃうんだ。
ボクは、ボクはどうしたらいいんだろう?
「腕ごと斬り落とせれば、それでどうにかなりそうだ。」
そう口走った、男の動きは早かった。
でも二本腕で抱えているこの子を巻き込まずに切り落とすなんて芸当が出来るはずがないから、ちょっとだけ面白くって笑ってたら、次の瞬間には右腕が落ちてた。
「……ぇ、」
痛みを覚えるよりも早く、落ちた腕を呆然と見下ろして、それで
「やはり、斬れた。」
男の言葉を理解するのに時間を有した。
「ッハハ、ハハハッ‼︎お前!お前!お前!お前は本当に何をしてくれちゃってるのかなぁ‼︎邪魔しかしない、ボクの邪魔ばっかりしてくる‼︎」
袖ごと、肘と手首の半分にも満たない部分の感覚がなくなっていて、漸く本当に腕を斬り落とされたことを知るも、けれども大したことじゃないから気に留めない。こんなのはほんの少し経てばどうにか元通り、この子の頭の怪我が治ってきたのと同じでどうとでもなってしまうから、だから、だから。
「あぁ、でもこれじゃぁ……」
この子を、満足に抱きしめてやれない。
春原の言葉を受け、気を失ったままでいる扇堂雪那を抱えて、出来るだけ遠く……それでも境内の隅、自分たちがつい先ほど潜った鳥居の脇へと避難させたは良いものの。背を向けてから聞こえ出していた、刀が何か硬いものに触れた際に響く、あの独特な音に焦りを感じていた。逸る気持ちを抑えて、それでも彼女を鳥居の側へ、異変に気付いた誰かの手によって助けられることを願い、踵を返した。
それほど距離はない。辿り着いた時の歩幅よりも大きく駆けたのだ。直ぐに拓けた境内の中心部へと至るも、思わず顔を背けてしまいそうになる、酷い光景を目の当たりにし館林はその場に立ち尽くしてしまった。
(倒し……たのか?)
そんな簡単に退ける、退治が出来る相手だとは思っていない。
それでも、社の階段の上に残った四肢を預けるように、首を落としている血塗れの、先ほどの相手はいくら遠目であっても死んでいる、息絶えたようにしか見えない。
「返せ。」
顔に飛び散った血を拭ったような動きを見せた彼が、相手との距離を詰めていく。血振りを挟んでからの動作であったことから、やはり石畳に転がる二本の手脚の、それを斬り落としたのが春原であることが伺えた。
春原は階段に横たわる相手のその残された片腕の中から目的の弥代を引き剥がそうとするが、その時、
「――坊ッ‼︎」
館林は声を上げた。
館林の声に振り返ることはないまま、春原は自身の腹を見下ろした。またしても寸でのところで避けようと体を動かすことには成功したが、完全に避けることは叶わなかった。
腹の表面、皮膚周りが熱を持つ。服に穴が空いている様子はないが、それでもひどい痛みに体勢が崩れた。片膝をついて、刀で体を支えて、そうして階段の上で伸びていた筈の相手を見据える。
「いたい……痛いじゃないか?こんな、こんな一方的なことってあるかい?優しくないねぇ……?ボクに、ボクに酷い事をするヤツは要らないんだよ?」
じわり、血が広がる。
見据えた相手の、しかしソレには自分が斬り落とした、確かな手応えを感じたはずの右腕と、左脚が生えていた。
「ねぇ、分からない?頭の弱そうなお前には到底分からないかい?ボクを殺すことなんて出来ないの?死なないよあんな程度じゃボクは?ボクはね、ボクは虫ケラみたいなお前らとは全く違うの。格が違うんだよ。ねぇ、分かって?それでさ、」
「死んでよ。」
花火の、打ち上がる音を耳にする。
十回目のそれを聞いた春原は、一瞬痛みを忘れたような動きを見せた。普通の人間であれば致命傷になりかねない、内側へ響かせたはずの攻撃を前に予想外の動きをする春原に、相手は驚きを隠せず。だが彼の手は迷いなく詩良の腕の中にいた弥代を掴んだ。
不意を突いた動きに、致命傷を与えたことに気が緩みでもしたのだろうか、それまで幾度掴もうとも引き寄せられなかった体が傾き、そしてそのまま春原は後ろへと飛び退いた。
次の瞬間、空が光った。




