四十話
「雪那ちゃんはさ、結構頑固なところあるよね。」
褒められているわけではないというのは何となくだが分かった。けれども馬鹿にされているようにも、ましてや意地悪で言われているわけでもない事も雪那は分かっていて、最近よくある“アレ”なのだろうな、と納得しつつも、小さく首を傾げた。春を過ぎた頃から時折、和馬が突拍子もなく、雪那ちゃんは…と、話を振ってくることが増えつつあったからだ。
それが嫌だとか、止めてほしいと思うことはないのだが、都度、どうしてそんな事を言うのだろう?と、彼女の中には疑問だけが残っていた。
「がん…こ、……頑固、ですか?」
「うん、そうそう。自分の中でこうだ、って決めたら意見変えることあんまりないよね?
……さっきだって大門さん相手に怯みもせず、堂々と向かい合ってたやろ?」
「ぁ……、あれは」
くるくると宙に円を描く、立てられた和馬の指先をついつい目で追いそうになるも堪えて、そうして雪那は今しがた、潜ったばかりの門を振り返る。
そこには丁度、今さっき名前が出たばかりの、榊扇の里に他に同じ腕をした職人はいないとされる花火師の、ここいらの区画の長屋の主人としても知られる、杵田大門が立っていた。自分と和馬の姿が見えなくなるまで見届けようと言わんばかりに、大きく胸を逸らし腕を組んでいるのが、傍目にも見てとれる。
「……大門様は、それほど怖い方ではありませんでしたよ。とてもお話しが上手で、口は……多少悪いのかもしれませんが弥代ちゃんで慣れてるところもありますし、比べればそこまで気になるものでもありませんでした。」
「普通はああいう強面の爺さんは怖いもんなんよ。ほんと、肝が据わってる言うよりは、怖いもの知らず言うのかなぁ君は?」
言われて、確かに昨日ここに訪れた際の和馬は、彼が部屋にやって来るや否や、見るからに顔を強張らせていたような気がする。
が、不機嫌そうな顔を杵田大門がしていたのは、自分たちが通された客間に入ってきた直後だけで、以降は始終話すのが楽しくて仕方がない、といった様子だったものだから、和馬の言う、“怖い”という感覚がイマイチ雪那は理解出来ない。
「あぁ、違うよ?今は杵田さんの話やなくて雪那ちゃんは結構、頑固なとこあるよねって、話で。」
「……そっ、そうでした!」
和馬に釘を刺されて、逸れそうになった話題へと意識を戻していく。これがなくてはそのまま、まるっきり自分の考えていた事柄について雪那は勝手に話し始めてしまうことが多々あった。
無二の友人といっていい弥代にだって出会って間もない頃は、それに関して指摘をされることが数えられないぐらいあったのだが、最近は言うだけ無駄だとでも思われているのだろうか、あまり注意されることがなくなった。
その代わり、此処の所は一緒に過ごす時間の増えた和馬が、今のように優しく声を掛けてくれることが増えた。
始めの内は弥代に対してもすみません、と言葉を漏らしていた雪那だが、和馬も同じように、謝ってほしいから言うのではないと言われてしまえば、元の話題に戻す方へと努めることにしていた。
……と言っても今回に限った話、振ってきたのは和馬であるし、雪那自身そこまで興味の沸かない内容であったから、別に気になりはしていないのだが。
「ほら、顔に出てるよ。」
妻戸が開けられ、榻に足を置く。
先に踏板に足を掛けた和馬が手を差し出してくるのを、雪那は慣れたように素直に掴み、体を少し浮かせた。
一人で乗り降りをしようものなら、注意深く見ているはずなのにどこかしらをいつも見落とし、変な場所を踏ん付けてしまったり、予期せぬ引っ掛け方をしてしまったりと、いつ怪我をしても可笑しくないと言われてしまうのだから、大人しく貸された手を借りるのが賢い。身をもって経験済みだ。
「雪那ちゃん気付いてないだろうけどね、美琴様に頼んだ時も全く譲らんかったんよ。美琴様それですっごい顔しとったの、廊下側からじゃ見えんかったやろうけど、オモロい顔やったから巴月ちゃんと話してたんや。」
「そうだったんですかっ⁈」
簾が落とされ、屋形の中で向かい合う形となってから和馬がそんなことを口にするもので、思わず雪那は素っ頓狂な声を上げた。
分家の扇堂美琴の元に頼みに行った時というと、何か屋敷の事で手伝いをしたい、と頼み込んだその時だろう。
頼み込んで間も無く、渋々といった様子だが容認してくれるのにそれほど時間が掛かっていなかったものだから、自分の見えない方でそんな、和馬が面白いと思えるような表情を彼女が浮かべていたなんて知らなかった。弥代が前を見ずに石に躓いて素っ転び、悔し恥ずかしそうな顔を指差してオモロい顔と笑うような和馬なのだから、それに近い表情を彼女もしていた事になる。少しだけ、興味が沸いた。
「そん時も思ったんやけど、本当に君はこうって決めたら中々考えを曲げない、折れへんなぁ……って。」
氷室様にちょっとだけ似とる、と彼が零す。
「……」
無意識に、口元を隠す。
でも、直ぐに雪那はその手を下ろして、目の前に彼に向かい合った。
「氷室と過ごすのも長いですからね。」
「育ててくれた人に似る、言う言葉あるぐらいやしね?」
「では和馬さんはその……育ててくださった秋……みつ、様に?似られているのでしょうか?」
「えぇ?……叔父様にはあんまり直接お世話になったよりは、五鈴さんや嗣定さんの方が多いかなぁ?いっつもムスッて表情してばっかしとったし、顔は布で隠してること多かったからなぁ……?」
「まぁ!そうだったんですね!」
和馬の言葉はいつだって、雪那にその様子を勝手に想像させる。
今日と同じように昨日も杵田邸へ赴いた際は、屋敷を出る前から行きの牛車の中まで、打ち上がる夏の花火がどれほど良いモノであったかを、自分の言葉で教えてくれた。
幼少の頃、和馬を交えたもう一人の幼馴染と(それが誰であったかは今になっても中々思い出せないでいるままだが)三人、肩を並べて離れの縁側で打ち上がるという花火を見ようとしたのだが、屋敷からはとても距離があり、塀を越えて夜空に咲く大輪の花は見れず、遠く響く音に耳を傾けていた気がする。
記憶が正しければ、それが合ったのは自分が十、十一ぐらいの頃の事であるが、けれどもそれ以降、昨年に至るまで夏に花火が打ち上がるといった話も、あの年に聞いた音をもう一度聞けたことは一度もなかった。
それが今回、雪那が杵田大門の元を訪れることとなった理由だった。
十年程前、彼の息子が亡くなったそうだ。
二十に満たない者を除いた、榊扇の里に住まう者の記憶に今尚、深い爪痕を残している、凡そ二十年前に、雪那の生まれた年の春に巻き起こった大火災。
屋敷より伸びたという火の手によって、里の北側、三分の一ほどが見るも無惨に焼け落ちたという。
花火職人であった杵田邸には、花火に用いる火薬が保管された蔵があり、これに運悪く火が燃え移り、火の手の少ない東側、東門のその先の河辺へと逃げようとした家の者の大半が、敷地内で起きてしまった爆発に巻き込まれた。
身体に火が燃え移りはしたものの、ひどい火傷を背負いながらも一人生き残ることが出来たのが杵田大門の息子だったそうだ。
屋敷に近く、しかし全焼をギリギリ逃れることが出来た杵田邸ではあったが、金庫の役割を持つ石組みの地下蔵によって財が尽きることはなく、扇堂家からの分け与えられた財も合わさって、生活を取り戻すことが出来たのだが、息子の火傷だけは元どおりになることはなかった。
大火災が起きてからの数年は扇堂家からの計らいにより火の扱いに注意をし、暫くの間は花火を控えるものとなったそうだが、五年もすれば榊扇の里の、夏の夜空は大輪の花に彩られた。
薬屋から火傷薬を買い、膿の滲んだ布をどれだけ…どれだけ替え続けようとも、息子の火傷が完治することはなく。
親父の跡を継いで、里で名の知れた花火師になるのだと生意気にも息巻いていたの口が徐々に乾涸び、ついに言葉を紡げなくなったのが十年程前の事。
お前の憧れて止まない、榊扇の里の花火職人に恥じぬ立派な花火を、今年も打ち上げてやるからしっかり此処から見ておけ、と言い残し、息子の看病と花火職人としての仕事を行き来する日々は五年ほど続くも、終わりを迎えた。
火薬庫への引火により目の前で妻を亡くし、他にも多くいた筈の屋敷の顔触れが亡くなっていき、十年耐え続けた息子さえも失い、彼の心はポッキリと折れてしまったのだという。
榊扇の里において、毎年夏に打ち上げられる程の腕のある花火職人は決して多くはない。まだ未熟な若手を除けば、杵田大門の他に現役の者はいないと言って過言ではない。
今は亡き妻との間に授かった、たった一人の息子を失って心の折れてしまった老耄に何を求めるのかと彼はこの十年間、栄えある役目を断り続けてきたそうだ。
昨日は出来なかった本題、半ば屋敷も諦めている御役目の打診に自分は向かわされているのだと今日になって和馬から詳細を聞かされた。
杵田の身に降り掛かった不幸、これまでに何があったのかを掻い摘んだ内容ではあったが知った雪那は、初めの内はどうしたものかと、当然のように頭を悩ませた。
しかし当人と傍らに控える女中の口からより詳しい話をいくら聞かされても、意外にも雪那は元より感じていた考えを変えることはなかった。
どれだけズケズケと踏み込んで、彼の気持ちを荒らしてしまうことになろうとも、それでも言葉にしよう、したいと思えるものがあったのだ。期待はしていなかった。けれども隅の方ではもしかしたら願わくば、という思いもあったのだろうか。
『私は、隣に今こうしていてくれる和馬さんがあれほどまでに目を輝かせる、心を奪われる。思わず、多くの人が空を見上げる、そんな光景を。
里の幼い方々だけじゃない、私のようにまだ観たこともない方がいるのだと思えば。彼が童心に帰ったように話す程のものを。
この、一万にも及ぶとされる民の中で一番と謳われる、大門様の花火を是非とも、この目で観てみたいと、そう思ってしまったのです。』
それが偶々彼の心に響き、功を奏したというだけの話。
だが、
「中々、言えんよ。
あんな真っ直ぐ、自分の気持ち言葉にするのなんて。」
真っ直ぐに自分を見てくれる、言葉に耳を傾けてくれる相手がほしいと思い続けた気持ちの表れなのかは分からないが、それでもここまで話を進められれば、雪那は何となく、きっと自分は今、和馬に褒められている――否、羨ましく映っているのかもしれないと思えてくる。
「雪那ちゃん、」
名前を呼ばれる。
「君がね、きっとそうやってどうしてもってなりながらも伝えようと思う言葉は、君の本心なんじゃないかなって、ワイは思うんや。普段口にしてることが本心じゃないとかやなく、もっとこう、純粋な気持ち。
だから……大事にしたって、そういう言葉。」
手を、重ねられる。
「君がずっと言葉に出来なかったこと、少しずつでいいから。
どんなことでいいから飲み下さんで、言葉に、してあげて。」
「…………、」
恐らくこれは、雪那にしか分からないものだろうが、彼の言葉はごく稀に、普段は染まりきった独特な訛りが驚くぐらい抜け落ちて、真っ直ぐ、芯のある言葉になる時がある。
自分以外と言葉を交わしているのを見ても、そんな様子は全く見えないものだから、自分との時だけに垣間見えるもので。彼がそういう風に話す言葉は決まって、
「――はい。」
ストン、と。気持ちのいいぐらいに素直に、雪那の心に落ちてくる。
それはあの日、あの境内において彼の、長年押し殺してきたのだろう、伝える手立てのなかった言葉を正面から受け止めた時の感覚に、とてもよく似ている。
その心地がどうしても忘れられなくて、だから彼の言葉にはなるべく、やっぱり耳を傾けた方がいい、と。忘れてしまうこともよくありはするのだが味わう度に、そう思わされる。雪那は、この一時が何よりも掛け替えのない、大切なものだと分かっていたから何よりも好きだった。
鬼ノ目 九十話
肩に担ぎ上げられからはずっと、自分の思い通りにならないまま、走るその振動ばかりに雪那の体は揺すぶられた。
腰に腕を回されているはずなのに、体勢は非常に不安定な状態が続いた。本当であれば弥代の背中にしがみついて、それがきっと一番いいのだろうが、雪那はそうしなかった。
意味がない、通じないと分かっていながらも、自分よりもずっと小さくて狭い背に、握りしめた拳を叩き付けた。
下ろして、ほしかった。
ボヤけた視界を手の甲で強く擦り、自分が直接走っているわけでもないのに息がどんどん、どんどんと苦しくなっていく。声にならない声が喉から絞り出ると、その末尾に彼の名残りを感じて、また拳を振るう。
繰り返し、繰り返して。
けれども、いつになっても弥代は止まってくれそうにない事に気付き始めた頃、それでもまだ雪那は拳だけは握り締めていた。
屋敷を出て、少しずつ距離が開いていく門。 いつまでも後ろを向いたまま抱え走られるのは、気持ち悪くて仕方がなかったが、弥代が耳を傾けてくれるその時を待つのに、雪那は機会を伺い続った。
異臭と、誰のものかも分からない泣き声が聞こえて来た頃、弥代の動きが鈍くなった。
担がれた身体ごと、ぐらり、大きく揺れた。その時になり、やっと薄手の羽織に、一度だけ爪を立てて、機会を、伺い続けた。
自分だって混乱している。あの場において最初からいた、自分に暴力を振るってきた相手と言葉をまともに交わした雪那でさえ、どうしてこんな事が起きているのか、何でこんなことになっているのかが分からない。
恐らくは一番最後にあの場にやって来たであろう弥代が、分からぬままなりふり構って居られずに出来ることをせめてもしようと動くのは当たり前だろう。しかし、だからといって看過する事が出来ない事が雪那にはあった。
先程まで名残りを隠しきれずにいた、離れの庭にて交差するように置いてきてしまった氷室の存在だ。
これまで彼に抱いていた、彼へと向けていた信頼が自分の一方的なもので、押し付けであったことを、だたの勘違いであったことを自覚した。自分だけがそうであると思い込み続けていた。
『私はこの里を出ます。』
それが、最後だと思っていた。
「本当に行かんの雪那ちゃん?」
泣き腫らしすぎた目元は隠しようがない。いくら戸鞠が気を遣って氷嚢を持ってきて、それを当てがっても、時間が経てばまたポロポロと、思い出しては泣き出してしまうのだから全く意味を持たない。
その内、泣き過ぎて喉が渇いてしまいそうだ、なんて冗談混じりに向かい合う、彼の肩を小さく押しながら、雪那はやっと顔を持ち上げた。
「――はい。
こんな、……こんな状態の私が居ては、皆さん折角のお祭り、なんですから。美琴様が御用意してくださった席で立派な……、お料理だってきっと、屋敷に劣らず美味しいはずですから私の分も、是非……楽しんで、きて下さい。」
上手く笑えているだろうかは考えなかった。和馬は雪那がどれだけ下手な言葉を口にしようとも、しっかりとその意味を汲もうとしてくれる。
出掛ける支度をした戸鞠や、いくらか見たことのある顔触れがチラホラと庭の端で固まっているからこそ、どうにか取り繕い、そんな言葉を和馬へと向けるが、彼一人だけであったなら泣きながら訴えかけていた事だろう。
彼が一人で来なくて良かった、とそんなことを考えながら雪那は手を引いた。
『違わないだろっ!自分の母親殺した相手とお友達ごっこ続けたがってる、ただの気持ち悪い女っ!』
薄々、もしかしたらそうなのではないか?と思える機会がこれまでもきっと自分にはあったのだろう。本当にそれほど、聞かされた多分真実に雪那は驚くことはなかった。
自分がこの世に生を受けてからたった二ヶ月しか一緒に過ごすことのなかった、自分を産んでくれたという母親の存在を、白状な話だが雪那はそれほど興味を抱くことはなかった。抱いたとして、それはどうしてそんなに早く亡くなってしまったのかという小さな恨み言ぐらいで。思い入れのない、顔さえもろくに覚えていない母の死の原因はどうとでも良かった。
『まだ分かるまで時間は掛かっちまうと思う。でもさ、けどさ、そん時は、最後まで話を聞いてほしい。』
遅咲きの桜の木の下で交わした言葉は殆んど答えに近かったのだろう。けれども五年以上昔のことはどうしてだか思い出すことが出来ないと、昔の話を振られる度に苦い表情を浮かべる、嘘は言っているようにはどうにも見えない顔を、雪那はずっと知っていた気がしたから。
だから、弥代の望む通りに待つ事を選んだ。
でも、けれども今は全部全部ひっくるめてそんなことはどうでもいい。今の雪那が望んでいるのはそんなことではない。今まで大切に、どれだけ時間が掛かってもいいから待とうと思っていた筈の気持ちを蔑ろにして、そうしてたった一つの事を望む。
形振りなど構ってられない、言葉を選ぶ余裕すらない。どのように伝えることが出来れば私の覚悟が通じるだろうか、どうすれば彼の元へ私は戻ることが出来るだろうか。引き剥がさないでほしい、ずっと、傍にいさせてほしい。あの場に置いてきてしまった彼を、氷室の元へと帰りたい。怪我をしているのは間違いないのだからその手当だってしてあげねばならない。離れてほしくない。身勝手な我儘だと分かっている、けれども手放したくない。二度と、もう二度と……
(私を、置いていかないで――っ‼︎)
滲み出したそれは、はたして本当に自分だけの想いであろうか。確かめる術はどこにもなく、ただ雪那はその思いを疑うことなく言葉にした。
「雪那っ!」
弥代が声を張り上げた瞬間、雪那の体は後ろへと引っ張られた。遠慮のない力で髪を掴まれる。先程味わった熱を思い出し、思わず目を瞑る。
「ぁ」
また、小さく声が漏れて。
気が付いた時には、いつの間にやら背中に足を乗せられて、半身が地面に押し付けられていた。
「言い過ぎかなぁって思ったから気を遣って言葉を選んでやったっていうのにさぁ、何してんのお前?このボクを差し置いて、何で弥代と二人きりで話してんの?しんじられないんだけど?」
踵、だろうか。
重みが強くなり、息苦しさが雪那を襲う。
肩口から見上げた、その表情は暗くて見えなかったが、まだ記憶に新しい、覚えのある声に相手が、弥代の姉である詩良であることは間違いない。
どうして、という思いが一気に押し寄せてくる。屋敷で彼と、氷室といるはずの彼女が何故ここにいるというのか。一瞬、嫌な予感がして、でもそれを言葉にして確かめるのは怖くて、意識を逸らそうと努めるよりも先に、小さく歯が音を立てた。
喉奥がギュッと窄まる。途端、目元が燃えるように熱くなったように感じて。
こちらを見ずに、何かを話しているのだろう彼女の声は遠く、遠く反響するようで上手く聞き取れず。それで、
「……あぁ、ごめんごめん。
弥代と話すのに夢中になってお前のこと忘れ掛けてたよ!別に悪気はないんだよ?お前よりもボクにとっては弥代の方が大切って、至極当然の話なだけでね。
……おや、何やら不思議そうな顔をしてるね?何だろう、何となく分かるな?ねぇ、当ててあげよっか?」
背中に乗せられていた足が退かされた。息苦しさからは解放されたはずなのに、でもまだ喉の奥は窄まったまんま。浅くなる呼吸に、でも態々屈んで、目線を合わせてくる相手から目を逸らすことは出来なく、て。
「死んだよ」
深く、吸った。
吸ってすぐに、息が詰まる。急激に全身から熱が抜け落ちていく、そんな感覚を味わって、けれども相手から目を離せない。
「お前が気になってる、お前を庇ったあの男ね、中々健闘した方だとは思うよ?生きてたなら褒めてやってたのなぁ。ボクに褒めてもらえるなんて誇ってもいいものよ、勿体ないことをしたよねぇ?可哀想に、何も残さずにあんなあっさりと逝ってしまうものだから驚きを隠せなかったよ。普通ああいうのは何かしら残すものなんじゃないのかな?ボクにはよく分からないけども。でもおかげで良いモノが見れたわけだ。やっぱりああいうのは直接見ないと分からないものが多いね。百聞は一見にしかず、という言葉があるぐらいだ。いやほんと……愉快愉快」
パンッ、と乾いた音が響いた。
もう何発か目の花火が上がったのかと思う一方で、ジクジクと熱を持ち出す右手が、体が勝手に動いたのであろう事を示していて。
それから、
「調子に乗るなよ?」
雪那の意識はそこで途絶えた。
この後に及んで足が竦む。
大して離れていない、手を伸ばせばどうにか止めることが出来るだろう距離であるはずなのに、弥代にはそれを止めることが出来なかった。
雪那が詩良の頬を叩いた次の一瞬には、彼女の膝が雪那の腹にめり込んでいて、意識を手放したように弥代の目には映った。
「止めそうなのに、なんで見過ごしたの?」
「邪魔に……なるから、だ。」
「下手な嘘は止めなよ?
足、震えてるよ?」
指差され、弥代は奥歯を噛み締めた。
「俺の目の前で、やらないって思ったからだ。」
「おや、意外と賢いね?そうだね、流石にキミの目の前ではやらないよ。キミが来る前に終わらせたかったのに、運がないねボクは。」
伏せた体に腕を回し、近くにあった灯籠に凭れるように彼女は雪那を座らせた。
「いやいや、気に食わない女だなとは思ってたんだけどね、最後のアレ見た?全然痛くなんかなかったけどさ、いいね身の程知らずで気に入ったよ。殺すのは止めてあげる。」
「なら、」
「ねぇ、弥代」
瞬きをする間もなく、彼女は距離を詰めてきた。鼻先があと少しで触れ合ってしまいそうなほど近く、弥代のそれよりも一際鮮やかな“色”を見せつけてくるかのよう。
「ボクと一緒に来て?」
「ボクとこんな里出ようよ?」
「こんな場所にこだわる理由がどこにあるの?似たような場所、弥代が知らないだけでもっといっぱいあるかもよ?」
「弥代がボクと一緒に来てくれたらそれで全部おしまい!ボクこれ以上何も悪いことしないよ!ボクに悪いことさせたいなら話は別だけどさぁ?
「ねーぇ、ボクと来てよ?」
「ボクと一緒なの、嫌なの?」
「弥代が言ってくれたんだよ、ボクと一緒にいたいって?」
「ボクを見てよ。」
「鬼だとか関係ないんでしょ?お姉ちゃんであるボクじゃなくてもいいんでしょ?ねぇ、これがボク。ボクを選んで弥代?」
「弥代」「弥代」「弥代」「弥代」「 」
弥代は、それが堪らなく嫌だった。
嫌で、嫌で、嫌で仕方がない。
雪那が意識を失った今、最早気にするものなどない。二人きり。望んだ形ではないが彼女と一対一になり、今やっと、はっきり聞き間違いなどではなく確信した。
「誰と、間違えてるんだよ?」
初めて、口にする。
「俺は、弥代だ。」
弥代は、
「俺は、」
「ゆい、なんて名前じゃねぇぞ……詩良ッ‼︎」
心臓が、大きく揺れた。




