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筆録・鬼ノ目  作者: pixivにて~187話まで掲載中
五節・梅子黄、破られし縁
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三十九話

 屋敷の門を抜けて外へ出るや否や、その足取りが遅くなる。

(どこへ、逃げるってんだ?)

 既にいっぱいいっぱいの頭の隅、先ほど敷地内へと入る際、遠目に見たはずの門番の姿が見えないことに違和感を覚えるも、今はただ逃げる以外の選択肢はなく、気にする余裕などありはしないというのに、逃げる先さえもまるで浮かばぬまま蹈鞴(たたら)を踏んでしまう。

 それ程、大して走ってもいない上に、肩に担ぐのが重荷に感じているわけでもないのに、踏み出す一歩がやたらと重く感じるが、それでも前へ進む以外に道はない。

 同時に若干の息苦しさに襲われて胸を抑えたくなるも、生憎と両手は彼女を支えるのに塞がっている為に難しく、心の臓がいつぞやのように大きく跳ね上がり、その鼓動がまた五月蝿く、気を散らす。

 額に僅かに滲み出す汗は(あゆ)む振動に合わせ、顔の凹凸に沿って肌を伝い落ちていく、その感覚はただただ不快で。それ一つ満足に(ぬぐ)える余裕すら今の自分にはなく、込み上げてくるものを(こら)えて、そうして動きの鈍くなった頭を必死に働かすことしか出来なかった。

 少しでも考えるのを、歩むのを()めてしまえば、それで前に進めなくなってしまう自分の姿が容易に、脳裏に浮かぶ。視界に映る世界そのものが大きく、ぐにゃり、姿を変えて立っていられなくなりそうで。浮かんだそれから意識を逸らすように肩に担いだままでいる、友人の腰に回したままの腕に、ついつい無意識に力を込めてしまう。

 逃げ始めてそれほど時間は経っていないものの、それでも未だに弥代は先ほど自分が目撃した、その一部始終を信じれないでいた。


 足元が柔らかく照らされるのに気付き、思わず弥代が空を仰ぎ見れば、それまでの薄い雲間が晴れ、天上には煌めく月が姿を覗かせていた。

 新月から数えて十四の月を上弦(かげん)と呼び、満月を挟んだ(あと)、また十四日ほど掛けて欠けゆく月を下弦(かげん)と呼ぶのだと。駿河からの帰り道、日が暮れてから夜空にはっきりとその姿を表す月を見上げながら、相も変わらず聞いてもいないのに相良がそんな事を話していたのを思い出す。

 月の満ち欠けを見ればそれで今日が何日であるか分かるのだと、他所(よそ)へ行くことがあれば、なくとも覚えておいて損はない知識の一つだとか。

 生憎と、当分のあいだは何処かへ足を運ぶ機会はなさそうだし、悠長に月を見上げる趣味も持ち合わせていない、なんて適当に、軽くあしらい話題を流しはしたものだが、何の知識もなく、ただ夜が訪れれば見えるぐらいにしか思っていなかったものが、知った後に無意識に見るそれは心なしか、これまで見ていたものと違って見えるような気がして。

(俺よりか知ってる事は多いだろうけど、まぁ振ってみても別にいいよな?花火、屋敷(ここ)からじゃそんな見えるか分かんねぇけど、空、見上げるんだしよ。)

 やっぱり手土産の一つや二つ、ここに来るまでの間も出店がいくつかあったのだから見繕って来れば良かったと、そんな事を考えながら()を進める。

 既に目と鼻の先、視界は目的地である東の、彼女が暮らす離れの輪郭が薄ら見えていて。東へと流れる風が、緩やかに夜空の雲が流れ、月明かりが徐々に進む先を照らしてくれるようで。

 幸先(さいさき)の良さに、そんなことはない偶々だと分かっているのに足取りを軽く感じながら、気持ち大股で二、三歩を進めるその時、視界を何かが()ぎた。姿を捉えることが出来なかったが弥代の目が映ったのは、他に(るい)を見ない褪せた秋色と、それから、

 

 一瞬の出来事に、頭が真っ白になった。が、頭は動かなかったが、それでも体は動いた。 

 自分より後に東の離れを目指し走ってきたのだろう。弥代を追い越し、前へと出た男に迷いはなく、縁側で身を傾けていた彼女の腕を掴み、後ろへと突き飛ばされる。強く踏み出した弥代は、後ろに倒れ込む彼女の背中を支えながら数歩蹌踉(よろ)めくもどうにか踏み留まり、そうして飛び散る赤を目にした。

 息を飲むのと、背中を彼女を担ぎ上げたのはほぼほぼ同時で、迷いなく駆け出した。

 雲間が晴れる、月明かりが差し込んだ縁側で彼女へと何かが振り下ろされそうだった時、彼女を庇うように前へと踏み出た、一撃を受けた男の、体より噴き出た血の、それら全てをやったのはまごう事なき――詩良(彼女)だった。



「弥代、ちゃん…」

 呼ばれて振り返りそうになるも、弥代は慌てて口を(つぐ)む。返事を返さないでいると、弱々しい拳が、弥代のその背中を叩いた。薄手の夏羽織を挟んでいるから直接叩かれているわけではないし、全く力の籠っていない拳なはずなのに、叩かれる(たび)に耐え難い胸の痛みに襲われたが、何事もなかったかのように目を逸らす。

 耳を傾けるまでもなく彼女が、雪那が何を自分に訴えようとしているのかぐらい弥代は分かっていた。

 先程からずっと分かっている、逃げる以外に残された選択肢がないことを誰よりも弥代は分かっており、今来た道を戻るということは、彼女の命を再び危険に曝しかねない。

 相手は、詩良(彼女)は話せば必ず通じるような性格ではない。こちらがいくら話し掛けたって耳を傾けてくれない事の方が多く、数日前のやりとりを思い出しても難しいのは目に見えている。

 今はただ、詩良(彼女)の手の届かぬところまで、どういうわけかその命を狙われた雪那を連れて逃げねばならない。屋敷を訪れる客人の大半が屋敷の本堂、門を潜った正面に見える建物に用がある、大主との会談目当てが(ほと)んどであると、以前弥代は戸鞠から聞かされたことがあった。陽が暮れれば屋敷に訪れる客人はいなくなるというし、偶々何か特別な用事が扇堂家にあったとはどうにも考え難い。それなら初めから雪那に用事があったと考える方が妥当。今まで自分がどれだけ詩良の前で扇堂家と、雪那の名前を出しても気にする素振りをまるで見せなかった為に、突然こんなことになっているのがやはり俄かには信じられないが、今は兎に角逃げねばならない。考えるのが許されるのはそれからだ。

 しかし、その足はまたしても暫くして止まった。






 鬼ノ目 八十九話






(何が、起きてるんだ?)

 背中にしがみつかねば、爪を立てねば体勢を保てない、上半身が振り回れるだけに気付いたのだろう雪那が、羽織に皺を作る。微かな痛みが、これまでの叩かれる(たび)に感じていたのと比べれば十分(じゅうぶん)マシな。それでも痛いことに変わりはなくて。屋敷の前に広がる大通りを避けて、左手の路地へと身を潜めて、耐えきれず口元を抑えた。

 自分が屋敷を目指している道中は気付くことが出来なかった、どうして気付かなかったのかを疑う。水路を挟んだ左手を進んでいたから気付かなかっただけなんていうのは理由にならない。

 通りに広がる(おびただ)しい量の、思わず咽せ返りそうになる充満した独特な、嗅ぎ続ければ頭が痛くなりそうな匂い。一体どれほどの人間の血があればあのような光景が出来上がってしまうものかと、思い出して嘔吐(えず)くまで時間は掛からなかった。

地に伏せた、半開きの口と、見開かれたままの穏やかとは呼べない表情がの一つ一つが、一瞬目にしただけなのに焼き付いて、忘れたくても消えてくれない。

 雪那に見せないようにと、慌てて(きびす)を返して。急ぎその場を離れたが、どこからともなく子どもの、恐らくは親を亡くした泣き声が聞こえてきて、振り返りそうなる自分を弥代は(せい)した。

 時間が経てば誰かが、誰かがきっと異変に気づいて外に出て子どもに気付いてくれるはずからと、適当に自分に言い聞かせて、逃げることを弥代は選んだ。

 頭はもう、正常な判断が出来ない。平穏であるはずの、血生臭いことと無縁な、人と人が手を取り合い、静かに暮らしている榊扇の里においてあるまじき、考えられない光景が大通りにはただただ広がっていた。

 彼女以外に思い浮かぶ人物がいないのに、そんなことはないと、そんなわけがないと分かっていながら背を向ける。

(兎に角、今は……誰もいない、人気のない場所に)

 追いつかれないように逃げなくてはならないが、仮に人の多い、それこそ東門付近の太い道へ出ては人波に邪魔され行く手を阻まれる、最悪の場合はその場に居合わせた者を巻き込んでしまうことだってあるかもしれない。

 ぐちゃぐちゃになった頭の中、最後まで考えることだけは投げ出さず、それでも身勝手にそんなことはありはしないと望み、そうして弥代は駆け出す。

 顔の知らぬ子どもの泣き声は今も聞こえている。いい加減うんざりしていた。



 人気のいない場所を求めて東へ駆ける。

 里の西側には平坦な土地になっており、農村が広がっていると、討伐屋の館林より聞かされたことがあるが隠れたり、潜んだりということは出来そうにない印象だった。何よりも自分が訪れた、行ったことのない場所へ向かう気は沸かず、自然と知った道を選んだ。

 大通り沿いを左手の小路へと逃げ、その先をまた左へ、少し小高い屋敷の(へい)が途切れる、境目を尻目にそちらへと抜けていく。

 屋敷近郊の、人気のいない場所となれば弥代の知る場所はただ一つ、二月ほど前に雪那や和馬に連れられて足を運んだ、比々多(ひびた)神社しか浮かばなかった。

 しかしいざ辿り着き、階段を登ろうとすればその途中、上から話し声が降って聞こえてきて足が止まった。

 時間を無駄にした、と。どれだけの時間が残されているのかも、追ってきているのかも分からない中、出来るだけ遠くへ逃げたいというのに中々うまくいかない。

「くそ…ッ!」

 苛立ちと焦りは誤魔化せず、悪態が口を突いて(あふ)れてしまう。少しでも遠くへ、距離を取らねばいけないのは分かっているのに、他の場所がてんで浮かばず。一歩、弥代が後退(あとずさ)ると、裾が後ろへと引かれた。

「弥代…ちゃん、」

「静かにしてろ雪那ッ!今は構ってやれる余裕はねぇんだ!」

「静かに……出来ていない人がそんな事を言わないでください。」

 肩に抱えたままでいる為にその表情を窺うことは出来ないが普段時の、弥代のよく死る雪那(彼女)からは想像もつかないぐらいに落ち着いた声に鋭く諭されて、自分が冷静でないことを自覚する。

 そうしてやっと。

 やっと、後ろを振り向いた。

 長く伸ばされた前髪で顔の半分を、その下にある古い、治ることのなかった火傷痕を隠す彼女は、抱えていたのが左肩であった為に振り返ったところでどんな顔をしているのかが分からない。

「人の少ない場所をお探しですか?」

「そ……、そうだ。」

「でしたらそろそろ一度下ろして下さい。このままでは案内することも出来ませんので。」

「案内…?」

「宛があります。」


 彼女は、妙に落ち着いていた。

 言われた通り一度肩から下ろすも、弥代の見た落ち着き用はただの小芝居で、抵抗してでもこれまで通り、ずっと弥代の背中を叩きながら漏らしていた、離れへと置いてきてしまった彼の名前の通り、彼の元へ戻ろうとしてしまうのではないかと気が気でいられなかった。が、それは全てそうはなることはなく、淡々とこの近くにあるという、別の神社を弥代に教えてくれた。

 その場所を目指すにも距離が多少あるものだから、急がねばならないのなら違う抱え方でお願いしたいです、と漏らす彼女に、ただ弥代は肯くことしか出来ず、道案内をしてもらう為にも前が見えるように、と前に抱き上げることにする。

「……。」

「どうか、されましたか?」

「……いや、」

 そうして、その場を後にした。


「屋敷からではあまり花火も見れませんが、きっと少しでも小高い場所から見ようとしたのではないでしょうか。比々多(ひびた)神社は、広く見るならば山の上に建てられた場所ですので。」

「そ……そうなのか?」

 胸元を掠る息が、揺れる髪がこそばゆい。

 今はそんな呑気な会話をしていられる状況ではないと分かっているのに、雪那を前に抱えたことで弥代の頭は余計にこんがらがってしまった。

 先程までの取り乱しようがまるで嘘のように、緩く口角を持ち上げて和らぐ表情に違和感を抱いてしまう。

「――ほら、見えてきましたよ。」

 言われて(あゆ)みを(おそ)める。

 一瞬でも弥代は、これまで自分が何のために必死に逃げていたのかを、それを忘れ掛けていた。


 境内(けいだい)へと踏み入ると、そこは(ほと)んど平地に近かった。これまで弥代が訪れたことのある神社といえば、屋敷の近くにある、つい先程目指していた比々多(ひびた)神社や、下野国(しもつけのくに)にある烏天狗の兄妹が棲まう古峯神社だ。

 扇堂家の屋敷の裏手にある、神域として扇堂家の中でも限られた者しか踏み入ることが出来ないとされる阿夫利神社もまた高い場所に建てられている為に、周囲とそんなに変わりない高さに位置する境内を見渡して、少しばかり疑問を抱きかけたが、地に足をつけて数歩先へ進む、小さく自分を手招く彼女に全てを奪われる。

「一休み、されませんか?」

 ここまでお疲れでしょう、と気遣いの言葉に釣られて、腰を下ろした彼女に弥代は続いた。

「…いや、違うっ!や、休むのも必要だろうけど、今は逃げなきゃっ‼︎」

「分かっています。でも、今は少しだけ、落ち着きましょう。」

 そっと、掌が重ねられる。

 ほっそりとした細長い指が、弥代の強く握りしめた拳を(ほど)こうとするかのように優しく、優しく絡められる。

「ねぇ、弥代ちゃん」

 そして彼女は、

「私は、戻ろうと思います。」






「…………は、」

 言葉の意味が理解出来なかった。

 既に混乱しきった頭で、けれどもそれほど彼女は、雪那は難しいことを言っていないことだけは分かって、どうにかやっと自分に向けられた言葉を理解する頃には、どこか遠くで何かが破裂するような音が響いていて、空が、夜である事を忘れてしまいそうになるぐらい明るくなったようなそんな気がして、それで、

「ナニ……、言ってんだ?」

 手を払う。

 払って、その肩を掴む。

 腰を落ち着かせたといっても椅子があるわけではなく、石造りの灯籠の足場に浅く腰掛けていただけだ。立ち上がって、けど直ぐに目線を合わせるように小さく屈む。

「お前、自分が何を言ってるか分かってんのか?」

 彼女の、目元が小さく(ゆる)んだ。

「はい、分かっています。ちゃんと、分かっています。」

「お前が、狙われてるかもしれないんだぞ?」

 告げるつもりのなかった言葉が溢れ出す。一度(ひとたび)、口を突いて出てしまえば、後はもう止められない。

 要らぬことまで口走ってしまいそうで怖かったが、それでも今この時、彼女のその誤った考えを正すことが出来るのなら構いはしない。

「ですが、私が狙われる確証がどこにあるのでしょうか?」

「ンなもん仕掛けてきた奴にしか分かるワケないだろ?けど、お前が狙われたのは事実だ。一々屋敷の、お前がが過ごしてる離れに、こんな夜中に他が目的でやって来るような奴がいるなんてどっからどう見てもおかしいだろ?」

「そう…でしょうか?仮にもし、相手の方が私の命を初めから狙っていたとしたのなら、わざわざ言葉を交わす必要はないと思うのですが…私は(げん)に、彼女と何度か話をしました。向かい合って、それでどうにかなりませんでしょうか?」

「なるわけねぇだろっ‼︎ならなかったから俺はこうしてここまでお前の事を抱えて逃げて来たんだろうがっ‼︎」

「いえ、ですが――」

「ですが、じゃねぇんだよ!ガキみてぇに駄々こねてんじゃねぇぞ‼︎」

 融通が利かない。どうにもこれ以上進みそうのないやり取りを前に、弥代は直ぐに声を荒げた。胸ぐらに伸びそうになる手を後ろに振るい彼女に、雪那を真っ直ぐに見つめる。

 雪那は中々頑固で、自分の考えを早々簡単に折るようなことがない、変にそれを押し通そうとしてくる一面があることを弥代は分かっていたし、これまではそれほどそれを面倒だと感じることがなかったが今は話が違う。

「ガキの、考えなしの我儘に耳傾けてやる道理はこっちにはねぇんだよ!」

 しかし今の彼女には、それはまるで響くことはなかった。

 

 

「……御言葉を、返すようですが」

 向けられた言葉に一瞬、雪那は目を丸くさせたものの、落ち着きを纏ったまま小さく息を吸い込み、自身の考えを述べた。

「ここまで私を連れて逃げてくださった事は、本当に感謝をしています。ですが……ですが、それは本当に正しい選択だったのでしょうか?あの場で弥代ちゃんが私を抱えて逃げてしまった、それがなければあの場に留まり、それまでのやり取りの続きを、お話しを、私は続けられたのではないでしょうか?私と彼女の二人で、解決に至ることは、本当に叶わなかったのでしょうか?」

 感覚を開けて、二発目となる花火が打ち上がったのだろう。先に続き、空高くで大きく弾けたのだろう、音と、微かな光が離れたこの場所にまで届く。

「お前、は」

「それとも弥代ちゃんは、彼女の、自分のお姉さんの事が信じられないのですか?」

 

 分かりやすく弥代は言葉を詰まらせた。

 そもそも彼女が、雪那がこんな風にはっきりと自分に対して意見を述べてくるのはこれが初めて、で。こんなにも真っ直ぐに、彼女に物を言われたことがなくて、動揺が全身に現れる。

 いや、そうではない。

 そうではなく弥代が一番驚かされたのは、

「ちゃんと私の話、聞かれていましたか?私は、彼女と何度か話をしました、とそう言ったはずです。ほんの少し前の言葉さえ、覚えてらっしゃらないのですか?」

「そっ、……そんなわけ」

「ありますよね。頭ごなしに私の言葉を遮るように話して、声を荒げて。それで私が(うなず)けば説得出来たとか、思われるんですよね?

 ……いいんです。弥代ちゃんがそういう処があること、私は知ってますから。分かってなくて無意識にそういう処があること、分かってますから。

 でも、……でも今は違います。いつもみたいに今は、私はそれを受け入れることが出来ません。

 私は、」

 雪那の言っている事は正しい。

 実際に弥代はついさっきの、雪那が何を自分に伝えようとしていたのかの、告げた言葉の(ほと)んどが思い出せない。頭ごなしに話を聞かずに、餓鬼の我儘に耳を傾ける余裕はない、と自分の発した言葉ばかりがやけにはっきりと頭に残っている。

(違う、そうじゃない。それはコイツの言葉に引っ張られただけで、俺が、俺は……)

 目が、逸れる。

 紡ごうとした言葉が出てこず、見間違いを信じたくなりながら、一旦下を向いて、噴き出た汗が滑り落ちる、それを待って弥代は勢いよく顔を持ち上げた。

 そして、彼女を見た。

 目の前にいる、つい先程まで言葉を交わしていた、守りたいと願う、幸せになってほしいと心の底から願う、その笑顔を誰よりも望む雪那(彼女)ではない。

 彼女の後ろに立ち、静かに自分たちを見下ろしてくる、姉を(かた)る、鬼を見た。


 

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