三十八話
今か今かと首を長くして、夜空に打ち上がる大輪を待ち望む群衆とは真逆に、賑わいを見せる喧騒に背を向けて、待ちぼうけを食う、無精髭を蓄えた男が一人。
時折暇を持て余すように顎を撫でるも、一向に待ち人は現れることを知らぬかのよう。このまま姿を見せずとも別に気にはしない。寧ろ、男にとっては都合が良かった。
大元を辿るならば、この話を持ち掛けてきたのは未だ来ない待ち人ではあるが、どうするべきか?と間の抜けた、頭足らずな問いに返したのは、他でもない男自身だった。
一万にも及ぶ里の民の、信仰が集うその神仏を、その座より引き摺り下ろし、純粋な人だけの里に作り変えてはどうだ?という提案を、まさかその御膝元に身を置く男が首を縦に振り、話に乗ってこようなどと、誰が考えただろうか。
元々、人ならざる存在が人と深い関わりを持つこと自体を好ましく思ってなかった男からすれば、出てきた答えは如何にも自分都合で選びそうな、かんがえつきそうなもので。これまで口にする機会がなかっただけで本心では里が祀る、扇堂家が崇める神仏をそういう風に見ていたのだろうと、その事実を認めつつ、相手の、氷室という男の思惑に暇潰しがてら付き合ってやることにしたのだ。
しかし、いざ蓋を開けてみればそれは、ただこの里の中で事を起こすだけではどうにもならない、時間を掛け、里の外にまで赴かねばならない、軽く見積もっても一年以上は掛かりそうなもので。神仏の起源に纏わる書物は、この里に遺されていると踏んでいたのだがそれだけでは役に立たず、欲するものがどこにあるのかも、手掛かりそのものを探すのに方々へ足を運ばねばならぬことも考えれば運が良くて一年、悪ければ二、三年は費やしてしまいそうなものであった。。そしてそれは、男が今この里において身を寄せる、今は亡き恩人の倅の元を離れねばならないことを意味していた。
自分が持ち出した話なのもそうだが、自分がいなくては成しえる事は到底叶わぬ話なだけに、相手に乗られてしまえば断る気は失せ、後になって倅を置いていかねばならないことを思い出し苦慮した。酔った勢いでしてしまった話というのは言い訳にならぬ。
今や恩人夫婦が遺した、故郷より続けてきた商売が自分がいなくてはまともに回らなくなってしまっている自覚はある。自分がいなくなった後も変わらず、彼が食いっぱぐれることなく過ごせるように、と近所では名の知れた、顔の広い問屋の主人に貸しを作ったり、態と買い占めをした大豆を求めてやって来る同業ら一人一人と腹を割って話しをつけ、自分がいなくなるような事があれば倅を見てやってほしいと身勝手なこちらの要求を呑ませ、話を運ぶことに成功させたが、所詮は口約束の類でしかなく効力は期待出来るものではない。
せめて彼が嫁を貰って家庭を築けるようになるまでは見届けてやりたい気持ちで、共に過ごした時間は短くはあるが見ていた為に、あまりに早過ぎる別れを前にやれる事、あの手この手を尽くしはしたのだが、やはり本心ではまだ離れてやりたくないと自分は考えていたのだろう。実の息子には未だ向き合えていない事実に背を向けながら。
「なーにが、覚悟は出来ている、や。」
そう言ったのは未だにこの場に姿を見せぬ待ち人ではあるが、そう言われるきっかけを作ったのが自分なのを思い出しながら嘲笑を浮かべる。
「親離れやない、出来てへんのは親の方言う話なだけやないか。」
阿呆くさ、と溢し、立ちっぱなしで棒になりそうな足を休ませようと、男はその場に腰を下ろした。
気乗りなど端からしていない。あくまで相手に付き合ってやっているだけの話なのだからそれが普通なのだが、やはり当の本人が来ないというのは少々話が違うのではないか、と憤りを感じそうになるも、自身が待ち人である彼に対し、その様なものを抱いていい理由が一つも見当たらずに渋るも、きっとこの先、いつまで経っても彼に対し消えぬ、悪いことをしたという申し訳なさからの償いの一種、罪滅ぼしでしかないのだから、渋るのさえ可笑しな話だ。
鬼ノ目 八十八話
「いつまで、そうしているつもりですか貴方は。」
薄れゆく、徐々に光が失われゆく意識の中、自分に向けられたのであろう声に、重たい頭を持ち上げた。
辺りに他に人の気配はなく、視界の端に映り込んだ爪先がこちらを向いているのだから、間違いなく自分に対し語りかけていることに違いはないのだろうが、持ち上がったその先、相手の顔に、まるで覚えがなかった。
見ず知らずの相手に、どうしていきなり話し掛けられなくてはならないのかが分からず、返事を返さなければいつしか、飽きてこの場を離れてくれるのではないか、と考えて、目線を落とした。これまで通り、光が弱々しくなっていく世界で大人しく、その内すぐに訪れるだろう暗闇を受け入れようとした。体の力を抜くのは造作もなく。伸びきった指先が僅かに曲がっているのを見て、そういえば昔、誰かが人の体というものはある程度曲がっているのが自然な形なのだとか話していたのを思い出し、やはりその誰かが誰なのか分からぬまま、ゆっくりと瞼を落とそうとした、その時、
「誰が寝ていいと言いましたか?」
頬を叩かれた。
咄嗟の事に、体も反応も追いつかず、じんわりと熱と薄い痛みが広がることで、初めて叩かれたことを自覚し、唖然とした。
「いつからそのような腑抜けになってしまったのですか?」
膝をつく相手が伸ばしてきた手は肩を掴み、小さく、揺すぶられた。寄った皺の深さと複雑さに眉を顰め、立ち去る素振りを未だに見せない、相手の顔を見遣るも、やはりその顔に覚えはなく。
せめて一言と、口を開くのだが音が出て来ず、喉元に手を遣る。ドロリとした、熱の塊のようなそれを掌に乗せて、掲げ。それから自分の体を見下ろした。
汚した覚えのない装いが、いつの間にやら真っ赤に染まっていて、あぁ、でもそれも、真っ暗闇に包まれてしまえば見えなくなるのだから良いではないかと、興味を失う。体に、ぽっかりと大きな穴が開いたな、風通しの良さは決して錯覚ではない、思い過ごしではなかったのだと安心する。
ふと、相手の手を見れば、それもまた、赤く染まっていた。
徐々に思い出す。よりによって左頬を打ったのか、と。まだ明るい、見れば分かるのにわざわざ左を打つのだから、何故そんなことをしたのかは分からないが少しだけ可笑しくて、自嘲気味に笑った。と言っても声は出ず、体を小さく揺らすのみ。どうとでも、良くなってしまった。
「諦めが悪いのが、貴方なのではないですか?」
首を振る。
「勝てないと分かっている相手に挑み、潔く負けを認めてしまうような方ではありませんでしょう?」
首を振る。
「見苦しく藻がこうとも這い上がる、最後の最後までしがみつく、そうではありませんでしたか?」
首を、振る。
そんな大層なものではない。負けるのが惜しくて喰らいつく。どれだけ醜態を晒そうとも、勝てないと分かっていても、力不足を実感しながらも馬鹿の一つ覚えのように立ち向かう。死なない内はいくらでも挑めて、少しずつ相手の手を覚えていき策を講じて、それで、それだけの話。
肩を揺すぶる、相手はまだ退く気配を見せない。
「貴方は、」
私は、なんでしょうか?
この手を取ってくれた彼女に、返せたものはなんだったのでしょう。
寂しがり屋で人一倍臆病な、幼い心を幾重にも囲い隠す、そんな彼女に与えられたものは一体なんだったのでしょう。
痛みを知らぬ、堪え性のない彼女が十ヶ月にも及ぶ間、身を削るように耐えて、耐えぬいてやっとの思いで生んだ、我が子を腕に後生大事に抱えて、そんな彼女に私が浴びせた言葉がどれほどのものだったのでしょうか。
それまで浮かべていた表情が、音を立てて抜け落ちるような、ひどく傷付けてしまった事実だけが、今もずっと残り続けている。謝っても到底許されないことをしたこの私に、何が出来るというのでしょうか。
罪を償いたい、それを忘れずに過ごしていたい、けれども決して許されることはなく、死ぬその時まで背負い続けようと胸に誓いました。
だから彼女の遺した、私と彼女の間に生まれてしまった幼いあの子の傍にいようと誓いました。あの子が幸せになれるように、彼女が得られなかった幸せを授けられるように。
「本当に、そうですか?」
私は、
わたし、は……
『葵が、亡くなったと聞きました。』
真っ赤に染まった目鼻を隠しもせず、しかし涙は見えず。もう出し尽くしてしまったと言いたげに、ぎこちない笑みを浮かべて、でも直ぐに喉を鳴らす姿はとても見ていられるものではなく。膝をつき、強く握られた掌に指を掛け、静かに、
『いかないで、ください』
空を見た。
他のどんな色よりも近い、ずっと身近にあるはずなのに自分では気軽に見ることの出来ない、空の色を目の当たりにする。歪む、薄い影に埋もれてしまう、それ一つさえも陰りに埋もれてしまうことがどうしても許せず、初めて自分の意志であの子を抱きしめました。
強請られることでやっと恐る恐るその背中に手を伸ばすことしか出来なかったというのに。
ほんの少し力を込めれば折れてしまいそうな体を、押し潰れてしまってもおかしくなぐらい非力なその体を、強く抱きしめて、
私は、
『いなくなりません。私は、貴女の――、』
彼女が亡くなったのは、私が屋敷を、里を離れてほんの少し経った後、同じ年の春先であったと聞かされました。生まれてたったの二月で、自分を抱きしめてくれる、その相手が自分を生んだ母親とも分かるよりも前に親を失い、乳母の手によって何事もなかったかのように愛情を受けて育ったあの子は、大人の気を引くのが癖らしく。頭で理解しているというよりは感覚として、自分に親がいない寂しさを、他の大人に構われることで埋めようとしているのではないか、と乳母が話していました。
あの子の身に降り掛かったという不幸、それ以降は関わる大人の数は減ったものの、身近な存在に対しそれ等の皺寄せが起きただけで何も変わらず、体が大きくなろうとも彼女の周りには、誰か一人でも心を寄せられる大人がいてやらなくてはならないのだと教えられ、その様に在れるようにと誓いました。
あの子がいつの日か、寄り添える大人がいなくなっても立って、前へと進めるように。そのまだ細い枝木が折れてしまわぬように、身を削り添え木となり、成長が途絶えてしまわぬよう、ずっと、ずっと…
あの子の為になると、私は信じて疑いませんでした。そうなのです。私は、私の意志で勝手に動くことは望まれませんでした。彼女は…彼女の望むが儘にただ私は在り、彼女がそれで満たされることが私の喜びであり、それ以上もそれ以下もありはしない。身に染みついたものはそんな簡単には変わってくれはしない。
けれど、私があの子の為にしてやれた事は、全てあの子を後になって苦しめただけで、
「本当にそうですか?」
問い掛ける。
声に出した覚えはないというのに、何故か口を挟んでくる相手を不思議に見遣った。
「本当に、そうでしたでしょうか?」
ポタリ、頬に落ちる小さな水滴を、指の腹で拭い、上を見る。
雨が、降っていた。
おかしな場所だと、今になってその場に疑問を抱く。思えばここが何処なのかも、いつの間に自分がここに行き着いたのかも、これまで色々な事を思い出してきた筈だというのに、その上で自分が何者であるかも、所々を紙魚に食われたようで、肝心な部分がどうしても思い出せない。なのに、
『 』
手を伸ばせば、届いてしまいそうな壁の向こう、その奥で緩く靡いた髪が、他の誰も持たぬであろう空のような瞳を持つあの子の姿だけが強烈に、色濃く自分の中に残っている。
掴んだその糸を、細い繋がりを必死になって掻き集めるように手繰り寄せる。
『約束してください、無理はしない、と。』
顰められた眉の、自分があの子にそんな表情をさせてしまっていることが、本当はずっと許せなかった。
『怪我を、されたのですか?』
自身の身を按じてほしかった。
貴女の生死が分からぬ間、私がどのような思いで過ごしたのかを、ほんの少しでも考えてほしかった。そうすれば出る言葉ではないと、自分の事だけを考えてほしいと願った。
『私は、』
「いいえ、違います。」
またしても、相手の言葉が思考を、辿り着けそうな答えを遮る。
「そうではありません、そうではありませんでしょう?本当にそうでしたか?本当にそうだったのですか?貴方の、貴方のこれまで築いてきたものは、守り続けてきたものはたった一つ、たった一つのそれで埋もれてしまえる程どうでもいいものだったのですか?」
「言い訳は、聞きたくありません。」
『言い訳を聞きたくて私は貴方に時間を費やしているのではありません。』
向かい合い、腕を取られた。
膝を屈めて、視線を合わせる。
相手の目が真っ直ぐにこちらへと向けられている。
一番身近にいる彼女は目を閉じていることが多いから、誰かとそんな風に目を合わせるのは得意じゃなくて、それがどうしようもなく怖くて、強く目を瞑った。
『目の前の事から目を逸らすんじゃありません。その様に育てた覚えは私にはありませんよ。』
ほら、目を開けなさいと、促されて、瞑ったばかりの目を言われた通りに恐る恐る開く。
『そうです。目の前の事だけに目を向けなさい。並べるのは言い訳ではなく、自分が何故それをしたのか、その理由一つだけでいいのです。』
あくまでも私が今聞きたいのは、貴方がどうしてそれをしようと思ったか。それだけなのですから、と続けるその声色はどこまでも優しく、一度耳にすれば忘れそうにないはずなのに、どうしてだかそれを自分はずっと忘れていた。
そして、覚えがないと思っていた相手の、目元を見てその姿が静かに重なる。
「貴方は何がしたいのですか?」
刀を握る最中、元より敵わぬ相手であることは分かっていたが、それでも自分が敗れた後、この里に自分よりも腕の立つ者がいない事を思い出していた。
自分がこの場で倒れ、この場から逃したあの子へと、雪那へ牙が再び向くであろう考えがなかったわけではなかった。太刀打ちする術のない相手にどのようにして勝てるというのか。
妖を、人ならざる存在を退いてきた実績を持つ討伐屋の人員だけで、あの脅威を倒すことが難しいだろう。剣の稽古をした上で、人を相手取るよりもそちらの方が得意なのだろうことは理解したが力不足もいいところだ。相討ちさえ望めない、敗れる自分の二の舞となり死体となるだけだ。
ここで何としても食い止めねばならないと思い至った時には腹に大穴が空けられた後だった。刀を、最も容易く足先で弾く。届かぬ刃を振るい、諦め悪く喰らい付こうとしたが意味はなく、吹き飛ばされた体が塀にめり込み、凭れ掛かるように身を預けて、遠のき始めた意識を自覚した時には全て遅く。
それでも、私は、
「では尚更、こんな場所に居ていい筈がありませんね。」
「おいきなさい。貴方はまだ、やるべき事がありますでしょう。」
妙な気配を感じて、彼女はその場で足を止め振り返った。軽く叩けば落ちてくれそうな汚れを、ポンポンと払いながらではあったが、振り返る寸前まではそれで十分だと思ったのだ。
だって直前まで自分が相手をしていた人間は事切れていた。虚な表情に、光の消えた瞳。聞こえなくなった息遣いに、動かなくなった体。刀を握れずに投げ出された腕と、腹に空いた大きな穴、それから抉れ、支えを失って落ちた左眼を見ていたのだから。
疑う余地はどこにもなかった。
相手は死んだ。過信ではなく事実として、そう思った。そうではなくては可笑しいのだ。人間は脆いから、腹に大きな穴が空いて、なんなら喉も裂いてやったはずだから、脆い以前に血を多く失えば、それだけで死んでしまうことだってあるはずだから、だから、
「……うん、あぁ、だから、か?」
ゆらり、立ち上がるそれを前に、知れず口角が釣り上がる。
「信じられないよな、お前がただの人間だなんてさ。」
四十年ほど前、当時はまだそれほど大きくなかった扇堂家の屋敷、その敷地内に、長く続いた雨により緩くなった土砂が多く雪崩れ込む事故があった。
幸い、屋敷に身を置く者に怪我人は出なかったが、屋敷の更に奥、大山の山頂付近に位置するとされる阿夫利の神域に住まう一人が、不運に見舞われ足を滑らせ、土砂に巻き込まれ亡くなったそうだ。
二度とそのような事が起きぬように、似たように山を切り拓き作られた場所が多い鎌倉に沢山咲くという紫陽花の株が植えられたと聞く。
扇堂家の屋敷に師と共に迎え入れられて間もない頃、庭の所々に咲く株を指差しては、屋敷の者に教えてもらた話と違いはない。
「えぇ、存じております。屋敷の裏手より伸びます階段にも、紫陽花が毎年よく咲いていますね。ですが、何故今その話をされるのでしょうか?」
静かに拳を作りながら、突然なんの脈略もなくそんな話を振ってきた大主を見て、佐脇は疑問を口にした。
分かりきったことを、と溢しながら煙管を吹かす相手の、その表情は今この時であっても焦りはない。
「お前さんが今にも駆け出しそうなもんだから、引き留めるための、ただの昔話だよ。」
細く伸びる煙が、普段以上に震えて見えた。
「今される、理由が何かお有りなのではないか、と私は訊ねているのです。」
「なんだい、なんなら納得してくれるっていうんだいおお前さんは?」
「行かせていただけるのでしたら、それ以上望むことはありません。」
コンコン、と音を鳴らす。
使い物にならなくなった刻みタバコを灰吹きに落とす。
いつもであれば御身体に悪いと叱言を漏らす佐脇だが、今はそのようなことを言っていれるような心の余裕はなく、然程響き始めてから長くはない振動を感じる度に、背を強張らせた。
「安心しな。こっちに来ることはないよ。」
「ですが……っ、」
「あの子はもう駄目だろうけどね。」
口を噤む。
側かに口内に広がる血の味に、自分の堪え性のなさを彼は痛感するも、しかし、だからこそ、やはり黙っていることは出来ず、深く頭を垂れた。
「安いんだよ、お前の頭は。」
「それでも、私は…っ!」
「行って何になるっていうんだい?何の為にお前に一々したくもない昔話を聞かせてと思ってるんだい?行ったところで、見たくもない死体が二つ並ぶだけ…いや並べるとも思えないけどね、西のバケモノ相手じゃあね。」
侵入者があったと報せを受けてから、まだそれほどの時間は経っていない。大主の口より直接、一時だが門番らは退避するよう指示が下り、報告に走ってきた者が立ち去ってからするならば、まだそのバタバタと忙しない足音が耳に残っているぐらいしか経っていないのだ。
徐々に大主の口から語られる、その少ない情報を重ね合わせて、そうしてやっと少しずつ、屋敷の敷地内で何が起きているのかを知ることが出来る佐脇は、けれどやはり我慢の限界だった。
ここ一年程、里の中でもその動向を監視していた西からの来訪者が、氷室と対峙していると分かった上で、そこに埋まらぬ力量さがあり、自分一人が駆けつけたところで戦況は変わらぬと分かっていても、それでも…っ、
「――――――佐脇っ‼︎」
突然の、それまでの静かな語り口からは想像もつかない声量と音圧に、自然と体が萎縮し、佐脇は思い出した。
それは自らが望んで手に入れた、新たな足枷であったことを。
その男は、人一倍諦めが悪く。
その男は、勝てないと分かっている相手であっても果敢に挑み、潔く負けを認めるようなことはなく、見苦しく藻がいて、這い上がるように最後の最後までしがみつく。
醜態を晒し、骨が折れようとも歯を食いしばり、刀をたとえ握り、振るえなくなろうとも牙を持ち、相手の喉元へと喰らい付く、獣のような男であった。
意識が薄れゆく間際、死の淵において男が自身について、自身が心の底から望む真意に辿り着いたそれは、すべてがまやかしでしかなかった。潜在的に元より巣食う、自身が持ち得るものを全て出し切ることが出来るのなら、今しがた自分を打ちのめした相手を、西の鬼を屠ることが叶う、その為の下準備にしか過ぎなかった。
奮い立たされた覚悟は最期のその瞬間まで二度と折れることはない。その全てが一つの刀となる。
淡い光を纏う、人の領域から逸脱した自身を見下ろし、迷いを今度こそ断ち切った。否、本当はそんなもの最初から持ち合わせていなかったのかもしれない。
「うん、信じ難いな。」
頬を掠める、伸ばされた腕に手を付き上を取る。くるりと体を捻り、今度こそ頭蓋を丸ごと砕いてしまおうと踵を振るい落とすも、反対の腕に足を掴まれ、離れの縁側の方へと投げ飛ばされた。
パラパラと小さな木片が散らばる中で、久方ぶりに受けた偽りようのない、目の逸らしようのない痛みに呻き声をあげて、こちらへと近付いてくるバケモノを目にする。
「でも、そうだよね。人間の範疇を越えていたもの。
つい先ほども思ったことだ。ただの人間は腹に大きな穴を空けられて立ってはいられないし、喉が裂けてしまえば血が多く失われ、それだけで死んでしまう、脆い存在。
腹に大穴が空いたまま、喉からは血が溢れることはもうないから出尽くしてしまったのだろうか、それなのに動く体は、人間には見えない。
「分からないけどさ、おかげさまで頭の血が引いたよ。ありがとう。」
起き上がり、残り数歩の距離まで近付いてきた相手を見据えて、本心を告げる。一回投げ飛ばされただけで装いの所々、細かい部分が敗れたが気にする余裕は今はなく、歩みを止める様子を見せない相手を、自分の間合いへと踏み込んだその瞬間を見逃さずに、彼女は自ら距離を詰めた。
狙うは頸。尾が切れても再生をする生き物がいるのは知っているが、頭部を失い生きてられる生き物を彼女は少なくとも知らない。加減を忘れ、狭い部位を狙い捉える。
が、振りかぶった足が頸に届く寸前、間にまたしても腕が入り込み掴まれ、防がれる。そして、
(ぁ、)
反射的に、目を瞑った。
目を離してはいけないと頭では分かっているはずなのに、今しがた受けた痛みとは比にならない、肉が絞られる、骨が音を立てて軋む、他に行き場を失った血が勢いよく噴き出す、膝より下、足そのものを折られる激痛には耐えられず。
声が漏れることはなかったが、痛みを痛みとして体が理解するよりも早く、体が大きく持ち上げられ、浮遊感に襲われ、直後には地面に強く体は叩きつけられた。
一瞬、心臓が止まってしまったかのような衝撃。
そして、
(あぁ、やっぱり……)
大きな罅が入った男を、彼女は見た。
神仏に片目を貸しているのだと彼が話したのは、彼が用意をしたであろう鶴見亭の席へと呼ばれた、その日その内のことであった。
直前に神仏を引き摺り下ろしてやろうなどと話をしていたものだから、冗談半分、からかうのを目的にそのような事を言っているのかと小突いたが、酒が入っていたとはいえ、直ぐに相手がそのような冗談の類を並べる性格をしていないことを思い出し佇まいを整えた。
しかし、片目を貸している、と言ってもそれは四六時中ではなく。あくまで大主の実孫・扇堂雪那が近くにいる時のみ、というものであった。
孫娘が妖の類に襲われたという一件依頼、それまで身近にいた神仏の存在さえも拒むようになり、扇の娘に嫌われる事が悲しい神仏様は孫娘から距離を取り過ごすようになったそうだが、彼女のその傍に居続けると誓いを立てた彼が自ら提案をすることで、神仏の加護を直接その身に受けているのだと、だから傷の治りが早く、一ヶ月と掛からずして昨年、馬に跨り彼女を探しに出ることが出来たのだと話していた。
彼のその身に受けているという加護は、ただ傷の治りが常人に比べれば早く、余程の大怪我を負わねば死にはしないというものであったが、聞かされただけの、直接目にしたことがあるわけでもないものを信じる気はどうにも沸かなかった。
だが禎一郎が気に掛けたのは加護の効果、その実体ではなく、彼が加護を直接その身に宿していた時間、年数。正しくは、神仏とどれだけの時間、直接的な繋がりを得ていたか、だ。
扇堂家の当主が、神仏・水虎との繋がりを得ることで人間が到底持ち得ない、“色持ち”であろうとも持つのことのない、人間の道理からかけ離れた力を有すという話を聞いた。
今代の、七代目当主である扇堂杷勿は正しくそうなのではないか、と里を越え、隣国にまで噂が広がる程。しかし七代目当主にそれらしき傾向はまるで見られなかった。隠しているだけ、にしてはあまりにその片鱗が見られず、結局は噂の類であり確証のない話だと長年頭の隅へと投げていたが、彼が神仏と繋がりを持つという話を聞き、それを思い出した。
扇の一族は代々、神仏が原因とされる男にのみ降りかかるという呪いに対抗すべく、大山に神域を構える阿夫利の神官を一族へと招き入れてきたとされる。あるいは強い“色”を持つ、生まれながらにして強い祝福を授かりし存在でなくてはならないが、神域の生まれでもなく、扇の血を持たぬ者が神仏と深い繋がりを得るというのは聞いたことのない話だ。
ただ“色”を持つからという理由だけで、神仏と直接的な繋がりを、体の一部を相手に貸してやるような事が出来てしまうなら、扇堂家が七代にまで続く理由も、その血が途絶えてしまわぬようにされてきた説明も、大山の神域が今も尚、限られた血筋の者しか踏み入ることが許されぬ場所とされている所以にもなりはしない。
仮にもし彼が、氷室という男が神域の血を偶然にも引いていたのなら多少納得はいくのだが、彼自身の口より、親によって山に捨てられただけの子どもであったと語られている。
「考えても埒あかんわこんなん。」
見上げた夜空の、背を向けているはずなのに視界の端が一瞬明るくなり、ほんの少ししてから大きな音が響き渡った。
「上がったで、花火。」
群衆のどよめきが直ぐ側から聞こえてきて、いつまでも来ない待ち人を思い、男は一人酒を呷った。
相手の攻撃を受ける度に、次第に腕の二本三本、足だろうと好きにくれてやった方が気負いしないと、彼女は静かに諦めの姿勢を見せていた。
といってもそれは単なる時間稼ぎだ。下手にこちらが体力を消耗するよりも、相手のその不安定な、所詮は人間の器に過ぎない容れ物が壊れるのを待つだけの暇つぶし。
こちらに衝撃を与える、攻撃を仕掛けてくる度に、一色に染まった体に、脆い陶器のように体に大きく罅が入る。
人ならざる、人間離れした力を示すもそれは力だけで、容れ物は人のままだ。その器が壊れゆくのを待てばいいと大人しく、身を捧げたていたが、以外にも終わりの時は早く訪れた。
襟元を掴もうとしたのだろう指先が、音を立てて落ちた。
落ちた箇所から灰のように、細かく風に攫われ消えていく様を目の当たりにし、彼女は口角を釣り上げた。
「まぁ、そうなるものだよね、やっぱり。」
あるいは生まれ落ちたその時からそうでなければ、長い年月を掛けて徐々に、個の在り方というものは歪むものだ。
先ほどまでその片鱗を見せなかった、死したはずの人間が息を吹き返したわけでもなく、理に反し、業を背負い生まれてしまった鬼を相手に優位に立つなんて事が長く、長く続くはずがない。
「よくもまぁこんなに削ってくれたものだね。」
終わりを迎える、灰のよう崩れ出す相手を見据えて彼女は、




