三十七話
雪に見舞われたあとの朝、その静けさと熱を取り戻すのに時間の掛かる、寒さを好んで外へと出てくる者の少ない瞬間が彼は何よりも好きだった。
自分以外誰もいなくなってしまった、なんてことは当然ありもしないのに、その静けさに身を委ねる。
肺さえも凍えてしまいそうな空気を胸いっぱいに吸い込んで、体の内側の熱と、取り入れたひんやり冷たい空気が徐々に綯い交ぜになるような、それまであった境界が溶けて一体となるような感覚が心地よく、大人になった今でもついつい忘れられず求めてしまう。
草履越しに感じる、掛けた体重の重みで沈む新雪の感覚をゆっくり味わいつつ、肺の中をなるべく空っぽにして、冬の空気を迎え入れようとする。
『氷室、』
名前を呼ばれた。
呼ばれるまで気付くことはなかったその存在を一瞥してから、大切な時間を邪魔された、味わいたかった感覚を取り上げられた、私だけの静かなひと時が終わってしまった、と残念そうに彼は、氷室は肩を小さく落とした。
半分以上溜め息混じりのものを吐き溢し、白い息が顔周りを漂い消えゆくのを見届けてから、ようやく声を掛けてきた相手へと視線を向けた。
『いつからそこに?』
『いつ出てくるかも分かりませんでしたので、かれこれ、……少なくとも半刻、といったところでしょうか。』
『寒かったでしょう。』
『彼女からの頼まれごとですので、多少は堪えられるものですよ。』
最後にその顔を見たのは十ヶ月程前になる。
大人にもなって家出同然に屋敷を飛び出した後、一度だけ少ない荷物を風呂敷に包み、持ってきてくれたことがあった。自分を気に掛けてというよりは、恐らくは彼女がそう根回しをした、男を差し向けたであろう事実からは目を逸らしながら荷を受け取ったのを思い出す。
他に入り込む者のいない時の男・佐脇は、その時ばかりは自分に対して普段の棘がないことを知っている。
誰かの目がある場所では常に虚勢を貫くというのに、他者から自分へと向けられる言葉には口を噤ぐ、臆病で矮小な男。
何も持っていないからこそよくその舌は回り、自分を守る壁を作ろうと必死な、長年の付き合い故に氷室に対しそれをするだけ意味がないことを分かっているから、二人向かい合う時ばかりはとても静かだ。
その静けさを、何も持たぬ様はこの季節同様に氷室の目には好ましく映るが、前回同様、そこに彼女の存在がチラつくと、目を、逸らしたくなる。
『屋敷へ、戻る気はありません。』
『彼女はお前に会いたいと、お望みだ。』
『私は会いたくない。』
『拾われた恩を忘れたのか?』
こんな時にばかりしか役に立たぬ、無いもの同然の恩を盾にされては顔を顰めるしかあるまい。
雪の降り積もった日の里は、人の出がやはり疎になるものの、旅籠を兼ねた料亭は多少なりとも人の出入りはある。暖簾が掲げられるまで時間はまだまだありそうだが、店先でいつまでも何もせず、無言を貫いた男が二人立ち尽くすというのも妙な光景だろう。居座らせてもらっている身で店へ迷惑を掛ける気にはどうにもなれない。
決して忘れたわけではない、薄れきった恩義よりも今は、世話になっている店へ、その一家に対する恩義の方が厚くというだけの話。薄情になったものだと、いつの間にやら移り変わっていた自身の心境を悟り、いっそこれを最後に彼女との関わりを全て絶ってしまうのもありなのではないかを考えた。
互いが互いに寄せる関係、その思いが毒であるという自覚はずっと昔からあったのだ。それを口に出せなかったのは彼女を悲しませてしまうのが嫌だからという、自分勝手な我儘でしかなく。
彼女の傍らを離れて過ごした十月は、長年凝り固まった彼女を中心としてきた考えから脱することが出来、今今脳裏を過った、彼女へと切り出す別れを、その決意を後押しする強固な架け橋となった。
あのまま共に過ごせば待ち受けていたのは共倒れだろうし、自分が彼女に求めていたのは決してあのようなものではなかった、とそこまで伝える言葉を選びながら、数歩先を行く、佐脇が作った轍を踏みながら背中を追う。
譲れなかった、耐え難かったというだけの、それだけの話でしかないのだから。
鬼ノ目 八十七話
『久しぶりね、氷室。』
暫く見ぬ間に、少し痩せたようにその姿が映る。
食べる量は人より少なく、慣れぬものが並べば手を付けられぬ。飯時に関しては特に人の手を借りることを拒む彼女の食事は満足がいかぬことが多かった。
傍らに控えた乳母が示す、方角に準えた向きへと箸を動かし、それを日に三度繰り返そうとも毎度同じ種類が並ぶわけではなく、直接手は借りずとも、一人だけでは食べれぬそれがたまらなく嫌で。機嫌を損ねれば半分にも満たない量で箸を置き、手を合わせてご馳走様でした、と口にしていたのを思い出しながら、あまり食べていないのだろう彼女の言葉に、氷室は返事をした。
『佐脇より、春奈様が私を御呼びと聞き入れ参りました。遅くなり申し訳ございません。』
『そんなに畏まらないでちょうだい?
……寒くない?こちらへ、上がってきたら?』
『滅相も、ございません。』
こちらの方自分には性に合っていると言わんばかりに、氷室は庭に膝をつき首を晒した。少々くぐもった声色に気付いたのだろう、相手が頭を上げてちょうだいな、と発するのに、言われた通り彼は伏せた上半身を、姿勢を元に戻す。
「貴方とはずっと一緒にいたものだから、こんなに離れた場所で話すなんて、とても変ね。」
『これが本来あるべきものであったと、今は考えております。』
『可笑しな人。』
口元を隠して笑う彼女は幼い頃より変わらず傍にいた彼女に違いないはずなのに、あの日の出来事がずっと脳裏にこびりついて、別人のように思える。
彼女を形作る全てが、その細やかな仕草の一つ一つ、どれをとってもまごう事ない彼女であるはずなのに、疑いの込もった目でしか彼女を見ることが出来ない。
『どのような用でしょうか。』
相手が目を盲いているからこそ、表情に出しても気付かれぬと分かっているのに、それでも氷室は決して己の感情を表には出さず、体で勝手に覚えている、彼女とのやりとりを思いだしながら再現した。
自分からは中々本題を切り出さない、相手が訊ねてくるのを待つのは彼女の常だ。それまでの他愛もない会話に特に意味はなく。目が見えぬ寂しさを紛らわすのにお喋り好きなどということはありえず。
『貴方を呼んだのは他でもない、貴方に見せたいものがあるのよ。』
無知な、物を知らない少女を装うのも、本心をただ悟られぬようにするだけの芝居でしかなく、長い間ずっと見ていてもどこまでが嘘で、どこまでが本心かが分からなくなる、光を知らぬが故に暗闇の中で己を守る術を一人身につけるしかなかった、誰よりも怖がりな女。それが氷室の知る、扇堂春奈という人間だった。
だからこそ疑いの目を向ける。
今の、今自分の目の前にいる彼女は、果たして本当自分のよく知る彼女なのか、と。
自分が彼女の傍を離れた十ヶ月の間に心境に変化があったのと同じ、彼女もその間に思いところがあり態度を改めただけなのかとも思うのだが、すんなりとそれを受け入れることが氷室には出来ず。
彼女の身に何かあったのかと、尋ねようとするも先刻屋敷まで自分を連れてきた男は今はこの場には居らず、常に近くに控えていたはずの乳母もいないことから、改めて今この時、ここには自分と彼女しかいないことを理解し、我慢ならず腰を持ち上げた。
『あら……、やっぱり寒かったのね?』
『いえ…………いいえ、』
距離を取るべきだと、二度とその傍にいたいと望んではならないと、これまで自分が大事にしてきた思いを踏み躙られたように感じた、それが耐えられず、我慢ならずに離れたというのに、雪の降り積もったその日は我慢強い自分ですら寒さを感じていた。一目見れば微かに震える体がそこにはあり。寝具の上でただ上半身を起こしているだけの彼女の、その手はひどく…ひどく、冷えきっていた。
『体を、壊されたのですか?』
今の今まで抱いて思いに、固まったはずの覚悟と大きく矛盾している。分かっている、そんなの自分が一番分かっていると頭を振るう。でも両手で包んだ、その指先が、細い節々が赤く色付いているのが分かった今、気付かなかったふりをして、薄情を演じることは、別れを告げることは出来ない。
それをなんと呼ぶかなど分かっているが、頑なにそれを否定する。そんな分かりやすい言葉で言い表していいはずのない積もり続けた情は、この想いは易々と舌に乗せていいものではなく、これまでと同じように胸の内に秘め続けなければならない、表に出していいものではないのだから。
『相変わらず、冷たいわね貴方の手は。』
『御自身の体を労わってください。こんなにも…こんなにも痩せ細られて…、』
『でも…頑張れたのよ、私。』
彼女の許可なく、勝手に触れたのはこの時が初めてだった。いつだって彼女が許してくれる時しか、彼女が求める時にしかその傍らに膝をつくことは許されず。けれども私は、私はそれでも全く構わない。気になどしたことは一度もなかった。
払い除けられた刀を、再び手に取り構える時間が与えられるわけがない。体重で押さえつけられた手はそのまま、もう片方の手で足首を掴む。力が幾らあろうとも見た目相応、もしくはそれ以下の重さしかない体の、その根本を狙う。後ろに引き、ずるり倒れた体を、その肩口に右足を乗せて見下ろして、呆気にとられた相手の、少女の顔をした化け物の顔面を反対の足で何度も、何度も踏みつけた。妙な柔らかさと芯のある堅さ、それを踏む感覚はただただ気持ち悪く、けれども手応えだけは感じられた。
ゴキッ――
一際大きな音が聞こえると、途端だらんと頭が落ちる。息を切らした肩を激しく上下させたまま、バネを失った玩具のように、それまであった跳ね返りを足裏に感じなくなったことを確認し、貴重な機会を見逃さなぬよう、少し離れた位置に転がっている刀を取りに移動をする。
首の骨が折れたぐらいでは、対峙する敵人は死にはしない。
しかし、
「いつまで死なずにいれると言うのか?」
岩に打ちつけたわけでもないのに、先程の足技によって下駄で弾かれた際に刃毀れたのだろう、荒々しい波のような刀身を目にした後、未だ地に横たわる小さな体に馬乗りになって、その喉元に鋒を突き立てた。
「これでは、この私でも倒せてしまえそうだ。」
そんなことはありえないと分かっているのに、無意識に言葉は口を突いて出ていた。安い挑発を、繰り返した。
「ねぇ、氷室。私ね、さっきも言ったけど、貴方に見せたいものが……いいえ、見てほしいものがあるのよ。」
頬に触れていた手を、優しく払い除けられる。
久方ぶりに感じるその温もりを、冷え切ってしまったその身を按じたいだけだというのに彼女にとっては、氷室の向けるそれらを差し置いても、余程見せたくて仕方がないものなのか。見せるそれが嘘であるか本当であるかなどどうとでもいい。疑いの目で見ていたことさえ忘れ、ここに在る、今この時この場所に居てくれる温もりにだけ心を向けてなってしまう。
徐々に、徐々に恐れていた形へと近付いてしまっている、後戻りが出来なところまで辿り着いてしまう。後一歩、その一歩を踏み出してしまえば二度と彼女から、扇堂春奈という女から逃れることは出来なくなり、彼女もまた自分を、自分が居なくては耐えられなくなるだろうと、そんな確信を抱きながら、俯き、唇を噛み締めた。
駄目だと、間違っていると分かっているのに、それなのに……、
『三一』
今朝を自分を迎えにきた彼の名前が呼ばれる。近く、視界にはその姿を捉えることはなかったが部屋の先、襖を隔てた廊下に控えていたのだろう。
襖を開けて、何やら白い布に包まれたものを大切そうに腕に抱えながらこちらへとやって来る。
『泣かずにいれたのね?こんなに小さいのにえらいわぁ。』
『終わりましたら貴女も直ぐにお休みください。精のつく食事をお持ちしますので。』
『今日は調子が良いのに…。』
言葉を交わしつつ、佐脇の腕からゆっくり自分の腕の中に移動させられる、包まれた重みを愛おしそうに抱き、彼女は微笑んだ。
『重たいのねぇ…、ねぇ、今どんな顔をしているの?』
『寝ております。明け方までそれはそれは泣き止まずに苦労したものですが、寝てしまえば静かなものです。』
『そうなの?任せきりになっちゃってありがとうね。』
『……大した事ではありません。』
会話が続く。
自分のいる場所からでは、今は彼女の腕の中に抱かれているソレが何なのかが見えないが、何となくを、二人の会話から察する。まだ一度もその正体を見ていないのに、嫌な汗が頬を伝った。
途端に、喉奥が張り付いてしまったような息苦しさを覚えて、乾いた唇が小さく震えた。切った覚えがないのに血の味が僅かに口内に広がっていき、そして――『ねぇ、氷室!』呼ばれる。腕の中にそれを、その塊を抱えたまま器用に小さく手招く、彼女から目を逸せなく、逸せなく、逸らせない、逸らさずにはいられなくなっていく。
『ねぇ、こっちよ、早く、早く…!』
どうして彼女が笑えているのかが、私には理解出来なかった。理解、出来ぬまま、手招く際にズレた布の、その奥から覗く生え揃っていない丸い頭部らしきものが、ギュッと握り締められた小さな掌が、それまで閉じられていたのに薄く、本当に薄く開かれた瞼のその奥に、覚えのある身近な、身近であるのにこの世で一番目にすることのない“色”が覗い、て。氷室は我慢ならずその場で嘔吐した。
それから先のことは、あまり覚えていない。
覚えている、忘れずにいるのは、口論になり、掴みかかってきた相手に馬乗りになり返して血が飛び散るまで相手を殴り続けたのと。畳の上に驚いて落としてしまったのだろう、生まれて間もない赤子を探す彼女を誤って叩いてしまったこと。最後に、
『それが私の子である証明がどこにあるというのですかっ‼︎認めない……私、私はっ、何があろうとそんなものを‼︎』
逃げ出した。
信じたく、なかった。
自分と彼女とのあった、長い時間を掛けて育まれてきたものは、私が知らない、私が持てずに育ってしまった大切な、大切なもので。きっと私はそれを持たずに、知らずに大人になってしまうのだと思っていたのに、彼女がそれを与えてくれた。彼女が、彼女だけが私にとっての全て…家族、で。
それは壊してはならないもの、壊れたら二度と元の形に戻れない、何よりも、何よりも大事に抱えてきたもの。なのに、それなのに
『貴方まで私を拒むの?』
たった一夜の出来事だ。あの人みたいにいつか私の周りからみんな居なくなってしまうのかしら、と口にする彼女が、今にでも壊れてしまいそうに映り、理由を失った。だってそうでなくてはならない。私はあくまでも彼女に、彼女に拾われただけの存在。彼女が、彼女が望むのあればそれに応えねばならない。それがどれだけふざけたことであっても、それがどれだけ危険な行為だとしても、たとえそれが、己の大切にしてきたものを踏み躙る結果となって、も。
彼女はそうじゃなかったと悟った。
自分だけがそれを大事に、幼子が宝物といってガラクタ同然の物を隠すようにしてきて、それで、それで…
『手、とっても冷たいんですね?』
か細く、弱々しい声で話しかけてくる。実際の歳を考えれば不釣り合いな言動が目立つ、十三、というよりはまだ十にも満たぬ幼子のようなそれは、しかし涙が出そうになるほど温かく、いつぞや彼女にしたように、たったの一度許されたあの時のように優しく、決して壊れてしまわぬようにそっと包み込む。
『温かい、ですか?』
『えぇ…、とても』
年甲斐もなく、ポロポロと溢れる涙が勿体なく感じた。掌越しに伝わる、私へと伝わったばかりの温もりが、内側に留まることを知らずに、外へと出ていってしまうようで。それが、それが余計に、余計に悲しくて。
『どうして泣いてるの?』
『私は、貴女に』
罪を、洗いざらい吐き出してしまおうという迷いは常にあった。彼女がいなくなったこの世で、私の罪を知る者は少なく、当事者であるにも関わらず幼すぎて何も覚えていない、理解出来なかった幼子にそれを告げて何になるのかとも考えて止めた。
私が、私が貴女の父であり、かつて私は貴女を自分の子と認めずに、我が身可愛さに逃げ出したのだと言って、それで何になるというのか。それでも、それでも彼女の、娘の傍に身を置こうと思ったのは、私が、私が
「いつまで惚けてるつもりだよ、目、覚ませよ。」
飛び散った血の量に、死を悟る。
いつの間に状況は転じたのだろうか思い出せない。一瞬の出来事、だったかもしれない。馬乗りになり、喉元に突き立てたはずの鋒は、皮膚を貫く寸でのところで払われた。刀が宙で回ったのを視界の端で捉えた後、腹部がやけに涼しく感じ、次の瞬間には焼けるような熱に身は冒された。
降り掛かった、滲んだ血を舌で舐め取り、歪なまでに口角を釣り上げ、まだ馬乗りになられたままで高らかに笑い出した時には、負わしたはずの怪我は一つも見当たらなかった。
「駄目だよ、駄目だってばぁ!なんでこんな時に余計なこと考えられるの?自分がどんな状況か分かってない?どっからどう見ても不利だろ?もぅどう足掻いたって勝てっこないだろ!ねぇ、ちゃんと見なよ?目の前の事、誰がお前をそうまで追い詰めたか、目離してんじゃないよっ‼︎」
吼える、相手の膝頭が眼前へと迫ってきていた。
腹に孔が空いた状態で避けようなどなく、それは吸い込まれるように彼の、氷室の顔半分、左側へとめりこんだ。
「ッハハハ!」
横へと払った足。庭へと半円を描くように散った血が、痛む箇所が、それでもまだ見えるもう半分を使って抵抗を、相手の望んだ通り足掻いてみせる。視界の半分を失い、立つことすらままならない中、それでも足を撲ち、無理やりでも体を起こし、刀を、構えた。
「いやいやっ、そうだよ…っ‼︎そうでなくっちゃおかしいよねぇ‼︎こんな、こんなさ、ボクに喧嘩を売っておいて、そう簡単に死ねるないもんなぁ!ボクが西の鬼だって分かった上で挑んでくるだもん?生きて帰れるなんて、思ってるわけないもんなぁ…っ‼︎」
「あたり…まえ、だッ‼︎」
(その赤い瞳を忘れた事はない。
忘れるわけがない。
忘れるものか。
あの日々に終わりを齎した、元凶たるその、存在を。)
到底、敵いはしないと分かっていただけに、それでも多少の時間を稼ぐことは出来ただろう、体感にすれば四半刻に満たぬ僅かなものだが、せめて意味のある足止めであって欲しいと、願わずにはいられなかった。
ボタボタと口から溢れる血は、流れる管を忘れ迷子になってしまったかのように、行き着く先がここしかなかったのだと言わんばかりに、詫びるように逃げていく。
掠れた、ボヤけた視界の中で、それが少しばかし羨ましく映った。自分の目に、映り込んだ。
そんなわけがないと分かっているのに、そう自分には見えてしまうというだけなのに、逃げる場所が、その退路が一つでもあることを羨ましい。
死を恐れぬ生き物などいはしない。死ぬこと以上に怖いことなどない。当たり前のことを思い浮かべて、助からぬ命と分かっていて、それでも刀を構えるのは何故かを問う。
『氷室、』
屋敷を出て直ぐ、違和感を覚えた。
門番らは気付いた素振りを全く見せなかったが、姿を捉えることは出来なかったが、血の匂いがしたのだ。
近く、誰かが門を潜らなかったかを尋ねたが、二刻程前に休みを貰っている屋敷の者が数人、まとまって出ていったきり誰も通していないという返事しか返ってくることはなかった。血生臭いことを知らぬ、生まれも育ちもこの榊扇である者は些か危機感が足らぬ。争いといっても起こることなどたかがしれた口喧嘩、軽い取っ組み合いといった程度。その中でも今の若者らは無縁のものが多く、嗅ぎ覚えのある匂いを辿るように追った。
驚き、見開かれたその瞳と目が合った気がした。
違う、そうではない。私はただ、ただ雪那のためと思い、
『許しませんよ、そないなことワイは。』
彼女の隣に並ぶ彼を見て、それをどう受け止めればいいのかがずっと分からなかった。悪い子ではないのは分かっているのに、誰よりも彼女が健やかに過ごせることを、彼女のためを考え常に動いている、気を遣っているのが分かっているのに、その身に流れる血を、その半分があの男のモノであることを知っているが為に、不安はそう簡単に拭いきれなかった。
けれど、向けられたその言葉に確信した。
自分を許さないと、全てを分かっていながらそれでも強く意志を曲げぬその姿に、彼になら任せられる、と。
『何故、貴方はそうして笑えるのですか?』
向けられる憎しみが、ただただ心地よかった。
私を罰してくれる者が他にいない中、彼だけがいつだってそうだった。当時の怪我は何一つ残っていないが、近くをすれ違うだけで舌を打つ、小さく震える拳を、そこに込められた想いを思い浮かべては一人安堵した。
知ってくれる者が一人でもいてくれる、なかったことにしてくれない、私の良き理解者。
態と、彼を煽った。
ただ単に、昔のような関係に一時でも戻りたかったというのは嘘ではない。でもそれよりは
悪いことをした。今ここに居もしない相手に、届かぬ謝罪を述べる。意味はないと分かっていながら。
『結局何を言っても出ていく気なんでしょう?止めるだけ無駄じゃない。』
加護を、返上した。
彼女の様子をあの日からずっと気に掛け続けている神仏に委ねていた目を同時に返された。
最後の最後にまたしても、春奈、とその名前を呼び間違えてしまい怒らせてしまった事は、本当に申し訳ないと思っているが、それでも私の目には年々、貴女の姿が彼女に似通っているように見えて、思い過ごしであることだけを願った。
『口ではどうとでも言える言うたやろ?なんぼ同じこと言わせんじゃお前は?ええか、儂が聞いとんのはお前の本音、言いたくても言えん言葉の方や!』
その傍を離れることを、固めたはずの決心をずっと疑い、揺すぶりを掛けてきたのはよりによってあの男だった。誰のせいでこんなことになったと思っているのか、何故あの時彼女を選んでくれなかったのか、と行き場のない憤りをぶつけ返すことしか出来なかった。
『ねぇ、氷室?』
「ねぇ、氷室。
私、私ね……あなたの事が、」
大きな皺に沿って指を這わす、くすぐったさと居心地の良さに声が漏れて、悪気なく彼女の言葉を遮ってしまった。
「も…もぅ、どうして静かに聞いてくれないの?真面目な話よ?」
「い……いえっ、すっ、すみません。気が緩…、堪えきれずつ、つい…ッ」
「信じられない!もぅ知らないんだからっ!」
すっかりお怒りの様子の彼女は勢いよく掴んでいた手を離してから立ち上がるも、すぐに体勢が整えられず、足袋が上手い具合に畳の目に擦れて、倒れ込んでしまった。
「どうして助けてくれなかったのよ!」
「い……言われてませんでしたので?」
「言わなくても助けてよ!」
「勝手に触れれば怒りますでしょう……?」
「それでも必要だなって思ったら助けてよっ‼︎」
「……肝に、銘じます。」
ありえないぐらいに子どもっぽい我儘で自分を振り回す、それを面倒に感じることも勿論あったが、でもそれ以上にどうしようもなく愛おしい。
家族に捨てられ、行き場のない見窄らしい自分に手を差し伸べてくれ、温かい食事に、清潔な服を与えてくれて。陽だまりの中でいくら大きく腕を伸ばしても誰にも邪魔をされない、頬を優しく撫でる芝生まであれば完璧だと思ったものが全部揃っているような満足感の中で、失ったはずの、もう二度と手に入らないと思っていたものが、ソレが手に入ってしまった。
これ以上を望むのは欲深すぎて、きっと怖い大人に怒られてしまうかもしれないからと大事に、大事にしまいこんで、そうして、私は、
「貴女は私を愛していなかったとしても、私は貴女を愛していたのですよ春奈。
ですから、私は…私は…、」
彼女を一人にせぬようにその傍らに並び続けた。
いつの日か貴女が、別の誰かを好きになり恋をし、その先々に紡がれる小さな命があろうとも、貴女への想いはその程度で崩れはしない自信があった。
その柔い肌へと触れることがどれだけ待とうとも許されなくとも、その唇から熱の籠った言葉をいくら望もうとも、手入れの行き届いた艶やかな髪に指を通すことが叶わなくとも、その全てが何一つ手に入らなくとも私……は、
「まぁ、所詮人間であることに変わりはないよね。」
屈んで、ほんの少しの交戦を経て随分と変わり果てた姿となった男の、その抜け殻同然の、虚な表情を指先でつつく。
「いやいや随分健闘してたと思うよ?うんうん、人間の割には上出来じゃなかったかな?でもゴメンね、ボクはお前らとは違う強者だからさ!勝たせてあげることは出来ないんだよ!頑張ったのにね!なーんにも届かなかったね!ざーんねん!」
血みどろの、皮膚を弾け飛んで奥の骨が露出し、その所々に走る大きな罅を、自分が食らわせた一撃で出来たであろう痕跡をまじまじと見つめ、感嘆の声を漏らす。
「でもアレだね。なるほど、あの程度じゃ仕留められない人間もいるってことが分かったから助かるよ。どれぐらい加減をすればいいのか分かってなかったけど、アレで死なないヤツがいるんだから、もう少し出しても大丈夫なんだね?」
立ち上がる。背を伸ばして、軽く服の埃を払う。
「あーーーー聞かれるよねぇ?聞かれないわけないよねぇ?なんて言い訳しよっかなぁ?別にボクは気にしないけど、弥代は絶対に何かしら言ってくるの想像がつくからぁ」
「どうしよう、かなぁ?」




