三十五話
音が聞こえてほんの少し経ってから、堰を切ったように泣きだしたそれを慌てて手探りで探した。
そう遠くまで離れていたわけではない、二人の声がする方へと手を伸ばす。でも、指先が掠めるのは畳の目ばかり。嫌になるぐらい慣れたはずの暗闇の中で、泣き声に応えるようと、必死になって我が子の名前を口にする。
耳で聞こえるものと、指先で触れられるもの。
それだけが私にとっての世界。
それだけが頼り。
それが、光を知らずに生まれてしまった、私にとっての全てだった。
鬼ノ目 八十五話
『混ざりっけのない、純度の高い蜂蜜と梅酢、それから米と米麹に水だけで作られた酒を用意して、最後に細かくなった炭粉が必要となってくるね。本当は煤のほうが、熱を伝える役割としては優秀だからそちらの方がいいけれども、煤を集めるのは少々手間が掛かるからね。水気を含まれては駄目だよ。梅雨の時期は作るのには不向きなんだ。
作り方はいつだって教えてあげられるけども、作るのはまた今度。秋口の、空気の乾く頃がいいかもね。それまでにどの香りが欲しいのか考えておきなよ。
でも先に言っておくと、そんなに直ぐに使えるものじゃないからね。空気に触れないようにして少なくとも……一年、ぐらいは待たないといけないからね。それで、初めて完成と呼べるかな。』
折り重なる季節を、その変わり目を誰よりも重んじていた師は、あまりに鮮やかに彼女の視界に映り込む。節目を迎える度に、また巡り来ると分かっていながらも一つ一つを小さな命のように喩えて慈しむ。
寝付きと夢見が悪いだけで、話を強請るのはあくまでついででしかないと分かっていただろうに話を乞えば、こちらが寝付けるまで飽きもせず話してくれて、悪い夢を見てしまわないようにと手を握り、朝まで傍にいてくれた。
頭を撫でられる。陽光を背に、陽射しが肌を透かした時にだけ薄ら見える脈打つ、細い細い管が。それを見ることでやっと、師もまた自分らと同じ、元は同じ人の子で、在り方を歪められてしまった、“色”という目に見える業を背負って生み落とされてしまった、人の理から外れてしまった可哀想な存在であると思わされた。
同情と憐れみから始まった歪な関係ではあったはずなのに、それが始めの頃は嫌で嫌で嫌で仕方がなかったはずなのに。それなのに時折見せる仕草が、接する優しさと、紡ぐ言葉のその奥にずっと変わらずにある温度に気付いてしまった時から、彼女の中にあった師への気持ちが変わり始めた。
『 ?』
彼女は、名を捨てた。
「あれぇ?」
蓋を開けてないのだから結果は分かりきっているのに、それでも詩良は丸い小箱を逆さまにして二度ほどそれを振った。
腕のいい職人にその昔つくらせた、漆塗りの施された木箱の上蓋部分にはなだらかな曲線で蓮の花が彫られている。その花弁一枚一枚に嵌め込まれた光沢を帯びて、光の当たる具合や見る角度により、その見せる色がコロコロと変わる、螺鈿細工が嵌め込まれた薄い、掌ほどの大きさしかない丸い木箱は彼女が長年持ち続けていたものだ。
自分に声を掛けてくる男達から貢がれるものの多くに愛着は湧かず、その殆んどを質屋に入れ金に変えてと、それを求める相手の元にいつか辿り着けるといいね、なんてことを繰り返してきた。
方々へ宛もなく、留まることも出来ずに逃げるだけを繰り返してきたあの子を追うのには身軽である事に越したことはなかった。思い入れは薄く、肩入れは知らぬもの。そうして長く過ごしてきた詩良だが、どうしてもずっと、その小箱だけは手放すことが出来なかった。
大して邪魔にならないし厚みもないからという理由で、腰に巻く帯の間に、落としてしまわぬようにと谷折りにして挟むようにして身に付けていた、薫物を入れている小さな木箱。
中に入れていた薫物を切らしてしまえば、いくら細工の細やかな、丁寧な一品だとしても持っているだけでは意味がない。これ迄の貢物同様に質屋に入れてしまうのが賢い。思い入れがあるからこそ大切に持ち続けていたのだろうが、空っぽになったそれを肌身離さずに持ち続ける理由が自分にはないことを、詩良は誰よりも分かっていた。自分のことを自分が一番分かっているなんて当たり前なのに、それをこの時になって自覚するのはどうにもおかしな話だ。
「………、」
いくら無いと分かっていても、諦め悪く最後にもう一回だけ木箱を振る。何も、落っこちてこない。
ほんの少し、胸の奥がキュッとなった気がして、畳の上にそれを降ろして、
「潮時かなぁ?」
店を出る。
気持ち多めに渡した金子に振り返ることはせず、陽の沈み始めた夕暮れの榊扇の里を一人で征く。
昨晩の内から祭りが続いている里はどこを見渡しても賑やかで、暮れ六つの鐘が鳴ればそれを合図に家へ帰る、習慣付いた日々が一転してしまったように、里中に鐘の音
昨晩の内から祭りが続いている里はどこを見渡しても賑やかで。暮れ六つの鐘が鳴ればそれを合図に家へ帰る、習慣付いた日々が一転してしまったように、里中に鐘の音が響き渡るのに耳を澄ませていれば、仲睦まじく手を繋ぐ親子だったり、今しがた仕事を早めに切り上げて帰ってきたのだろう旦那を人目も気にせず抱き締めたりと、大通りの方へと歩み出す姿を目にする。
人波に逆らうように一人、この里を統治する扇の一族が棲まう屋敷の方角へと歩を進める自分の異質さを自覚しながら、すれ違うことになる町民の一人一人の表情に目を向ける。
(うん、心底羨ましいな。)
願わくば自分も誰かとそうやって過ごしたいものだと考えながら、でもそれがもう少し、もう少しどうにか頑張ることが出来れば叶うかもしれないことを分かっているからこそ口元を緩める。
今晩、この里の近くにある太い川から花火が打ち上がるという話は自体は、かれこれ半月程前から耳に入っていた。
一昨日の別れ際、明後日の…、と意地らしく言葉を区切った相手が、その後に何を言おうとしていたのかも何となく察しがついた。直前まで何を話していたのかイマイチ覚えてはいないが、わざわざ以前贈った羽織りを、お前の方が似合うと思ったからなんて言って贈ってくるような相手だ。今と同じぐらい赤い夕暮れ刻であったからそう見えただけかもしれないが、贈りもの一つを相手に渡すだけで恥ずかしそうにする奴だ、こちらが言葉を汲んでやらなくちゃいけない。詩良は、そう考えた。
(花火は、いつぐらいまで打ち上がるんだろう?)
手っ取り早く話が片付いてくれればいいのだが、これから会いに行く相手と自分が話すのは、なんなら顔を合わせるのも初めてだ。
どう話そうか、どう自分の考えを伝えようかを詩良は昨日一日掛けて考えた。考えた上で、自分が気付かれることはきっとないだろうが、この里が総出で祀りあげる神仏と呼ばれる存在が屋敷を留守にしているという話を耳にし、これは好機と捉えた。東に生まれた証である青、もしくは緑の“色”を持つ“色持ち”の青年が泊まっていた店の下の階で話しているのを聞いたのだ。
それは彼が、毎年南湖の海面に半身を沈める、神仏様を見ているというものだった。相模国の方々より神輿が集まり、古くから続く風習に、榊扇の里で祀りあげられる水神として知られる神仏様が直々に神輿を清められる。
里を、屋敷を離れている可能性が少なからずあるのならばそれはやはり好機に他ならない。ただそんな話を聞いて直ぐに何の準備もせずに赴くのは、お願いをする立場なら失礼にあたる。この地において高貴とされる敷地に足を踏み入れる立場なら、隅々まで身を清める必要があるじゃないか、と詩良は準備を整えた。話を聞いてから丸一日が経ってしまったが問題はない。どうせならあの子が一緒に見たがっていたものを、それまでに終わらせて見ることが出来ればそれで万々歳だ。他は望まない。
「いや、それは違うね。」
誰に言うでもなく、自分の考えを正すように口にする。
「それは今日に限った話だろう。今日だけじゃない、明日も明後日も明明後日だってその先もずっとずっとずっとずっと、ずーっと一緒さ。」
あまりの嬉しさに腕を大きく伸ばして喜びを体現しそうになるのを我慢する。その変わりに肩を持ち上げたまま、口元を袖で覆い緩む口角を隠す。
今までどれだけ望んでも手に入らなかったものがやっと手に入りそうな高揚感はきっと誰にも抑えられない。たとえ自分に向けられたあの子の言葉の、その節々が途切れ途切れで前後がどうにも噛み合わないことがあったとしても彼女は、そんなことに気付ける余裕はこれっぽっちもなかった。
だから、
「お邪魔するよ?」
ぶつかられでもしない限り、争うだけ無駄だ。ついさっきの一悶着の際に汚れてしまったのだろう袖口に付着してしまった血を拭おうとする。でも白い布地は一度染まってしまえば早々簡単に汚れは落ちない。結果滲んだ部分が広がるだけに終わってしまったが、まぁ良しとする。
自分を見ることが出来ない二人の門番の間をすり抜けて、敷地に踏み入る。
「こっち、だね。」
右を向く。その足取りに迷いはなく、大振りな袂を態とらしくはためかせて先へと進めて、距離があることを思い出して少しだけ歩みを早める。
「ふっ、ふはは、ははっ!扇堂、まーた扇堂だってさ!吃驚たまげちゃうなぁ!
扇堂、またあの家か。母親と娘、揃いも揃ってそうやってキミを惑わすんだ。やっぱり生かしておけないよ。キミがそれを望まなくても、ボクは許せないー、なんてことを昔のボクならきっと考えたんだろうよ?分かるよ、分かっちゃうなぁ、その気持ち!でもね、でも、ボク、ボクは、ボクは変わったんだよ。
だからボクは、ボクは考えた。ボクなりに考えた。頭が足りないっていつも叱られてばかりだったけど、頑張った、頑張ったんだ。ボクは頑張って、がんばって、頑張って、頑張ってそれで…っ‼︎」
一枚だけ開いたままの戸を見て足を止める。
「まぁ、全部が全部結果次第だよねぇ?」
カタン、と音がして、一瞬、本当に一瞬誰かが来たのかと思い、雪那は顔を持ち上げた。
昔みたいに掛け布団を頭から被って、なんてことはしないものの(昔といっても先の春に拗ねた際にしたこともあるが)、戸鞠が出掛ける前に敷いてくれた寝床の横で、ただボーッと過ごすことしか出来ずにいた。一昨日に彼の口から聞かされた、七月二十日の晩に里を出るという言葉がずっと頭から離れなくて、何をする気力も沸かない。
彼が、氷室という、長年自分の傍にいてくれた、自分の理解者であると思っていたあの人が、今の今まで何も言わずに、相談の一つもなく里を、屋敷を出ていくと聞かされた時には感じなかったものが、時間が経つに連れて徐々に沸き上がってきた。
どうしてもっと早く話してくれなかったんですか?何で勝手に決めてしまったんですかなんで?どうして?の繰り返し。悲しくて、話し終えたその晩は自分を気遣って来てくれたのだろう、和馬に甘えて泣いた。泣き疲れて寝てしまうぐらいまで泣いた。翌朝は目元が腫れ上がってて、氷嚢を戸鞠が用意してきて優しく接してくれた。
でもそれよりもずっと、ずっと胸に閊えているのは当然、
(本当に私は、変われているのかしら。)
それは雪那にとっては同じなのだ。
昨年あった縁談話の際、彼は自分が泣きついて頼めばここから逃がしてくれるのではないか、という甘えと、今回のそもそもの花火の誘いを断られた件。追い討ちを掛けられるように彼の口から出てきた、里を出るという言葉に、自分が返した態度。そして、会話を終えて昨日今日とずっとぐるぐると胸の中に居座り続けている。
目を向けようものならそれしか考えられなくなるから、なるべく目を逸らそうと試みるのに、それでもどうしても見てしまう、少しずつでも向き合わねばならないと自分で決めた、扇堂あざみとのやりとりで芽生えた気持ちをなかったことに出来ない。
器用に割り切れるわけもなく、雪那はそんな渦中で一人苦しめられていた。
『雪那、私は…』
(違うと、分かっているのに)
彼が里を出ていく、その晩に皆と過ごせる自信がない。今の自分がひどく不安定な状態で、またいつ突然泣き出してしまうかを思えば、店へ向かう気は起こらず、だからといって身近な誰かを傍において過ごせるとも思っていなかった。花火が打ち上がった後、帰ってきたら顔を見せると言ってくれた優しい二人にはキチンと謝らなくてはならない、と。それまでせめて起きていようと布団には入らずにいるが、やはり起きている内はずっと彼のことを考えてしまう。
「……、」
髪を下ろしたままでいるからいつまでもこんな心持ちのままなのではないかと適当な理由を浮かべて、橙色の髪留めを手に取り、慣れた手付きで横髪を掬い、毛先を丸めれてまとめる。
(そういえば、髪を伸ばすようになったのも氷室が褒めてくれたからだった気がするわ。)
分からない。何においても今は彼がそう言ってくれたから、彼がそうしてくれたからとなかったかもしれない事を、さもあったかのように考えてしまう自分が怖い。今しがたまとめたばかりの髪と髪留め間に指を差し込んで解いてしまおうとしたその時、カタンと物音がした。
「こんばんは、扇堂雪那。」
音のした方を向けば、開いた戸から誰かが室内へと、雪那の暮らす離れへと踏み入ってきた。離れに灯りがない為に誰が入ってきたのかは分からないが、その声は最近聞いた覚えがあった。
雪那の大切な友人の、弥代の家族の、
「詩良、さん?」
「あれぇ?ボクのこと知ってるの?おっかしいなぁ、初めましてだと思ったんだけどな、どこかで、会ったことあるっけ?」
「え?」
一昨日に会ったばかりだというのに、全く覚えがなさそうな相手の口振りに自分の記憶を疑ってしまう。
「ん、まぁ別にいいや。別にお前と仲良くなりたいわけじゃないし!」
相手の調子に引っ張られ気圧される。こんな夜に屋敷に縁もゆかりもない者が訪れることを、ましてや自分の暮らす東の離れへと足を運ぶ者を雪那は知らない。疑い、警戒をするべきなのだろうが、しかし相手はあの、弥代の家族、彼女の双子の姉だ。そんな相手が自分に対し一体何をするというのだろうと、疑いそうになった自分の考えを寧ろ疑う。心なしか心臓の脈が早くなった気がする。いつの間にかまとめた髪から指は離れていて、徐々に距離を詰めてくるように、土足のまま畳の上を歩く相手との間に壁を作るように胸の前で手を組む。意味はないと分かっている。
「ねぇねぇ、お前随分と弥代と仲がいいんだよな?」
「弥代ちゃんと、ですか?」
「うん、そう。ちゃんと調べてくるボクってイイ子だろ?お友達って、ここいらじゃすっかり知れ渡ってて、よく一緒にいるんだってな?」
「え……えぇ、はい?」
「良かった、ちゃんと本人がそう言うんだから間違いはないね!」
笑っている。すらりと長い足の先が、無意識の内に後退をしようとした雪那の、その夜着の裾を強く踏み締める。
「今日はねボク、お前にお願いがあってここまで来たんだよ。」
「お願い……です、か?」
「うん、そ。お願い。」
やっと間近になってその顔が分かる。
一昨日に見た時はすっかり不貞腐れたような、不機嫌そうな表情をしていたがそんな気は微塵もしない、心の底から嬉しそうな、こんな場でなければその愛くるしい表情に釣られて、見てるこっちまで嬉しくなってしまいそうな、そんな
「弥代との、縁を切って!」
言葉が、途切れる。
「………え、縁を?き……え?」
「言葉通りだよぉ?何も難しいことは言ってなくないかなぁボク?あのね、お前は邪魔なんだよ。ボクと弥代の仲に割って入ってくる、泥棒猫は言い過ぎかもだけど、まぁ似たようなものであることに変わりはないよね!
ボクと弥代は二人ぼっち、お互いしかもういない大切な家族なんだよ?二人で過ごす時間を、その機会を奪われたくないの。誰であっても許せない。ここ最近のはね、多分ずっとお前、お前なんだよ扇堂雪那。本当に揃いも揃って母親とおんなじ。ボクから弥代を奪っちゃうんだ。何でそんなヒドい事が出来ちゃうのかな?ボクは泣きたく泣きたくて仕方がないんだ。何も、弥代一人にお前が拘る理由があるの?ないでしょ?だって、ただの友達なんだから?ボクと弥代は違うの。弥代にはボクしか家族がいなくって、ボクにも弥代しか家族は、血の繋がりがある相手がいない。掛け替えの存在、一緒にいるべき存在、それを、奪わないで?」
長ったらしい前髪に埋もれた、その傷痕に指を這わす。すっかり怯えた様子の、大きく揺らぐ“色”ばかりは綺麗に映る。春先に見る、雲一つない空のように澄んだ色をしている。巣篭もりを終えて大きく開け放った窓辺から見た、いつかの晴天を思い出しそうになる。
「いや、違うよ。」
捨てる。
「うん、違う。」
それは、要らないものだ。
「あぁ、ごめんね?今はお前と話していたっていうのに、ちょっと余計な事を考えちゃった、悪いことをしたよ。
まぁ、何はともあれボクは、最初に伝えた通り、お前には弥代との縁を切ってもらいたい、金輪際あの子とボクに関わらないでほしいんだ。
それとも、弥代がいなくちゃ生きてけないぐらい弥代の事が大切だったりする?」
「そ、そういう…わけでは、?」
本当に難しいことを言っているわけではないのに、一々詰まる言葉に少しずつ苛立ちを感じ始めた。言葉と態度はこれでもしっかりと考えて選んだつもりだ。伝わっていない、というわけではないのだろうが、イマイチはっきりとしない返答ばかり返されては自信を失いそうになる。違う手を打とうかを彼女は考え出した。
「ねぇ、死にたいって思ったこと、ない?」
耳を疑う。必死に目を合わせないように、至近距離だというのに顔を背けていたのに、向けられた言葉が聞き間違えであったことを願うように相手の顔を見遣れば、目が合う時を待っていたかのように彼女は無邪気な笑みを浮かべる。
「あぁ、うーん?違うかも?そうじゃないなぁ、よくこっちは考えてなかったから違和感が強いなぁ?でも、そうなんだけどぉ…縁を切ってくれなくても、お前が弥代の事を嫌いになってくれたりとか、お前が死んだ方が楽って思えるぐらいの目に遭わすことが出来れば、それは結果だけ見れば何も問題がない、全部丸く収まるんじゃないかなぁ?」
「何の、話……何を、仰っているのです、か?」
「ごめんね、やっぱり詰めが甘かった、考えが足りなかったのかもボク!えっとね、だからね!たとえばねぇ…、」
「お前の母親を、扇堂春奈を手に掛けたのは弥代だって分かったら、お前は弥代のこと嫌いになる、かなぁ?」
目の前の光景を疑わずにはいられない。
弥代は目の前で起きているその出来事、ただ一つがどうしても理解できなかった。頭がそれを理解することをただ拒む。それなのに、意志とは裏腹に体は勝手に動き始めた。その足取りだけに迷いは微塵も現れない。そして、後ろへと突き飛ばされた彼女を抱き止めてみせる。
数歩よろめくも体勢を整える暇などない。いつぞやの森のように肩に勢いよく担ぎ上げ、駆け出す。
頭が働かないのが嘘のよう。鼓動ばかりが煩くて仕方がない。本能がここにいてはいけないと告げてくるように、雑念に足元を掬われてしまわないように走る。
担ぎ上げた彼女がなにかを叫んでいるが、一々それに返してやる余裕すら今の自分にはない。
弥代はただ彼女を、扇堂雪那を抱えて逃げ出すことしか出来なかった。
『弥代、お願いよ。』
「アレ?今、弥代がいたなぁ?」
想像していたよりも随分と硬い肉を断つ感触を前にして、指先の汚れを振り払いながらも、自身が一瞬捉えた相手をキョロキョロと彼女は探してみせた。
おかしいなぁ?なんて少し間の抜けた声を出しながら、一方でたったの一撃をその身に受けただけで、膝をついて呻き声を漏らす人間を、遠目で見るようにして見下ろす。
一本たりとも、まだ失ってしまってはいないというのに、四肢を捥がれ踠き苦しむ、始めの内はジタバタと暴れていたものの、次第に絶命を受け入れるしかない、日向で息絶えていく、何よりも毛嫌うそれにどことなく姿が重なって見えて、
(詩を詠むのが好きだったなぁ、あの人は。)
元は海を渡ったその先の地に古くから根付いた暦であった。長くそれはこの島国に浸透してきたが、より島国の風土に沿ったものになったと教えてもらったことがある。誰よりも折り重なる四季を、その変わり目を重んじていた師は、節目を迎える度に、一つ一つの成り立ちについて語ってくれ、寝付きが悪い晩はこちらの眠気が訪れるまで飽きもせず話してくれたものだ。
「いや、違うね。」
浮かんだものを先ほど同様にバッサリと切り捨てる。
要らないと判断をしたものはただ捨てる、それだけ。それだけを、そればかりを今までもしてきた、はずなのに、
調子が優れないのは今に始まったことではなく、此処の処はずっとそうなのだ。今まで要らないと捨ててきたはずのものがそこら中に転がっているから彼女は吃驚したものだ。躓いてしまわないように見ないようにを繰り返すして、そうして自分を保とうとした。吐き気は納まらない。
「とんだ横槍が入ったね。あのまま上手くいけば潔く死んでくれそうだったのに。そしたら全部終わって、あの女もこれ以上苦しまずに済んだものを。
………ね、どうして邪魔したの?」
標的を変える。
膝を折り、両手を頬に添えて、皺塗れの老いを感じさせる顔を覗き込む。薄らその顔立ちに覚えはあるが、そんなに昔に見たような気はしない。二十年やそこいらだった筈なのに、人は二十年でここまで老けるものかを考えながら、今しがた自分が与えた一撃を、その痕跡をなぞるように視線を動かした後、また目線を交えて、本来の目的であった、さっきまでここにいたはずの女とよく似た、“色”を目にする。
「ね、なんで?」
納得のいく理由が欲しい。どうせまだ息絶えてないのなら尚更、一方的に余計なことを、邪魔をされておしまいなんてのはどうしても許せない。許してなんかやれない。
「……貴様が、」
「おっ、喋る気に」
こらちの言葉を遮るように砂利が撒かれた。それほど大きくないが当たれば痛いものは痛い。退けようと彼女が体を傾ければ、前へ出た肩口を掴まれた。誰に、など分かりきったこと。自分の目の前にいる瀕死寸前の男以外ありえない。引き寄せられるのと、視界の端に鋭い牙のようなものが見えたのは一瞬の出来事だったが、襟を掴む手を払い除けて距離を取る、後ろへと逃げることは叶った。
「……野蛮だね、獣じゃあるまいし。」
傷はない。
でも微かに首元を覆う服に切れ目があるのを指で触れて確かめる。掠った感覚は確かにあったからだ。
食いしばった相手の歯が心底悔しそうに映る。
「育ちが悪かったのかな?野犬でももっと上品に牙を立てると思うよ?」




