三十四話
ゴロリと寝返りを打つ。
天井から吊るされた笊が、空気を入れ換える為に開けられた寝台横の窓から流れ込んでくる風によって、時折、小さく揺れているのを、他にすることがないからとついつい目で追って過ごすだけ。
独特な匂いが充満した部屋で過ごすのが戸鞠には久しぶりに感じれた。
扇堂家の屋敷へ、他に行く場所がないからと引き取られ住まわせてもらうようになって、かれこれ十年は経つだろうか。初めの二、三年の内は自分の限界を知らずに無茶を重ね、季節の変わり目がやって来る度に体を壊しては、今過ごしている部屋の主に看病をしてもらった過ごしたものだ。
食べ物の、特に苦いものが一等苦手であって自分は中々素直に用意された、苦味の強い薬混じりの粥を嫌がり上女中の手を患われていた。そのせいで手間が掛かり仕事が回らなくなってしまうからという理由で、病人や怪我人の扱いに心得のある、屋敷の医者へと委ねられることが多かったのだ。
自分の他にも屋敷で住み込みで働いている、歳の頃が近い、屋敷以外にも里に帰る場所がある、ただ奉公に来ているだけの女中仲間が、風邪を引いてしまった時は小さい頃から両親が一等優しく接してくれる、いくつになっても(今でも、という意味なのだろう)世話を焼いてくれる、甘やかしてくれるものだから好きなのだ、なんて事を漏らしていたのを聞いたことがある。聞いた直後は十五を過ぎているのに未だに実家に帰ることがあるのか?と驚いたこともあるが、何よりもその歳で親に甘えることが信じられなかった。だが普段時であれば理解出来ないことでも、数年ぶりに体調を崩し、苦いのが苦手だったのは幼い頃の話であるというのに昔の癖で、四六時中は流石に言い過ぎだろうが傍にいてくれる相手に世話を焼いてもらえる状況は、少しばかり魅力的な物に見えてしまうのだから、多分、と全て風邪のせいにする。
聞くところによると自分はどうやら彼の、限られた者しか立ち入りを禁じられている薬品庫で倒れていたそうで、取りに行かせたはずの物を持っていつまでも戻ってこない事に気付いた彼が一番初めに戸鞠を発見したという。戸鞠の様子を心配して、彼の目を盗んで部屋に忍び込んできた巴月が教えてくれた話だ。
更に更に、噂話や要らない話にまで聞き耳を立てるのが大好きな彼女曰く、彼は数年前まで自分の世話を焼いていた時の癖が抜けきらないのか、時折体調を崩す女中がいれば(幼い子供を中心に)、この部屋に運んできては元の調子に戻るまで看病をしていたそうだ。
先の冬口から春先までの間、深傷によって自分一人では満足に薬を調合することが出来なくなってしまったからと、部屋に呼ばれ手伝いを行うことがあったのだが、看病されていた以外でここへ訪れた事はこれ迄にはなく。
常日頃、大主様のご容態を気に掛けたり、美琴様の様子を窺ったりとする以外に、自分から誰かの看病を引き受けるようなことをしていたのだなぁと、長く見てきた割に今まで知ることのなかった、知らなかった事実を知って、
「優しい、人だなぁ。」
なんて、戸鞠は改めて思わされる。
だってそうなのだ。“色”を持つからというだけで生まれた時から、自分を生んだ母親にすら気味悪がられ、ろくに面倒も見てもらえずに見離されて育った。挙げ句の果てには金と引き換えに人買いに売られ、同じ人間とは思えない扱いを日々受ける、見世物として曝されてきた、救いようのない自分のような“色持ち”の子供達を、ただそれが里の、大主様の意向に沿わない、見過ごすことが出来ないからという理由だけで、面倒事だと分かっていながら手を差し伸べる、優しい人。
屋敷に住まう人の大半(特に年配の方々や、料理場を任されている長く屋敷に仕えている人達)は、大主様の傍らに居続けようとする彼の姿をあまり良い目で見てはいないことを戸鞠は知っていたし、単に長話が鬱陶しいからという理由で忙しい身の、部屋毎に振られている姉さん方を中心に下の子達からも煙たがれることが多かったが、それでも戸鞠からすれば佐脇三一は悪い人ではなかった。
棘のある言い方をされている姿も、遠巻きに陰口を叩かれている姿だって目にするが、特別それを叱ることもなく(だからツケ上がって止めない人もいるとは思うのだが)、自分が相手にどう思われているのかを、ジッと口を閉ざして受け止める、そんな人なのだ。
でも、それでも
(氷室様にだけ《、、、》は、違うんだよなぁ?)
やはり体調がよくないのだろう。普段は気にしないように意識を逸らしている小さな事柄に、どうしても偏っていってしまう。
木を削って造られたのだろう固い寝台の上に敷かれた布団の上で、変わり映えしない、あまり人の寄り付かない暗がりの部屋で、ただ天井から吊るされた笊が時折、風でくるくると回ったり揺れたりするのを目で追うだけの時間を過ごすのは、本当は暇で暇で仕方がない。
今の、この有り余った時間の内に、それを少しでも有効に使おうとでもするかのように、向けないようにしていた事柄を解決してしまおうとしているよう。無意識の内に考えないように、気に留めないようにしていただけなのかもしれない。
戸鞠が体調を崩し倒れたその日、近頃屋敷の外にある建て直しが終わったばかりの道場で行われていた打ち稽古に佐脇が足を運んだそうだ。(これも巴月から聞かされた話だ。美琴様の元へとその日の報告にやって来た和馬から、直接聞かされた話だった為に詳細まで事細かに聞かされていた。)
『それでね、和馬くんが言うには私も全然知らなかったんだけど、佐脇さまってとっても強いんですって?討伐屋さんだけじゃなくて、門番の、えっと…………吉野?さんだっけ?弟くん達も連れてきたりで賑やかだったのもそうなんだけど?誰も氷室さまから一本も取れなかったのに、佐脇さまは氷室さま相手に負けず劣らずで……兎に角とっても強かったんだって!』
「…………、」
知らなかったなぁ、そんなこと、と素直な気持ちが湧き上がってくるのに、この歳になってやっぱり風邪を引くのは嫌なものだと考えをコロコロと変える。ついさっきまでは魅力的なものだ、あの女中の言ってた事も今ばかりは頷けるかもしれない、なんて考えていたのが嘘みたいだ。
「いやいや違う違う、そうじゃないんだよ私。」
誰もいないことをいい事に、変な独り言をポツリ漏らす。
「そうじゃなく、って…………、」
『佐脇さまは氷室さま相手に負けず劣らずで……』
「気に、なっちゃうよなぁ、」
戸鞠の目からして、否、これまで佐脇の傍に自ら近付いていた戸鞠の目だからこそやもしれぬが、佐脇が氷室……現在戸鞠が直接仕えている、扇堂雪那の従者に対して向ける眼差しは他所ではお目に掛かるものではなかった。
誰にどれだけ叱言を言われようとも、陰口をどんない叩かれて煙たがれようとも押し黙って受け入れているだけの彼だが、恐らくはその視野に相手の姿が少しでも入り込んだだけで纏う空気が変わる。
短めな眉の間、眉間に薄く皺が寄るだけじゃなくて、横顔だと一層分かりやすく、固く結んだ口元の、その陰影が少々濃くなるのだ。
相手の方から彼に声を掛けてくる事なんてこれ迄はあまりなかったが、丁度戸鞠が雪那の元で仕事を任されるようになった辺りから、氷室が佐脇に声を掛ける姿を見るようになった。
雪那様付きの、前々任者(前任者は幼く、仕事に耐えられずに早々に屋敷を出ていってしまったと聞いたことがあるが、どれぐらい幼いかは知らないがそのような日の浅いどころか経験のない幼子に、何故いきなり雪那様の身の回りの世話を任せたのか?という疑問を感じたことは少なくない)は同時に雪那様の乳母でもあり、上所中の姉さん方曰く、大主様の母君が存命の頃より扇堂家にお仕えしていたという、とてつもなく凄い御方だそうだ。彼女が生前に残したとされる、雪那様のお世話の注意点や、味の選り好みから始まり、日々の細部にまで至る手順書は立派なもので、全てに目を通すのに半月は時間を有した。
それをもってしても、見た目や実際の年齢よりも幼い言動が時折出てくる主人に対し手を焼くことは少なくはなかったのだが、今は亡き彼女が残した書き置きの中には、仕えるわけでもないのに何故か氷室に関する記述も、数えるのが億劫になるだけはあった。
(佐脇様と氷室様は、仲がよろしくない…らしい。)
直接言葉を交えない頃だって、傍から見ていてもそんなの何となくでも分かっていた話だ。詳細には書かれていなかったものの、氷室は今の雪那の傍にいるがそれよりもずっと昔、それこそ今の戸鞠と歳が同じぐらいの頃をこの屋敷で過ごしていた時期があったようで、その頃から佐脇も同様に扇堂家の屋敷に居座っていたようだ。
(氷室様関係の部分には佐脇様の事も書かれてるのが多かったけど、雪那様のに比べると何処となく二人とも書かれた言葉がキツかったから、きっと前任の葵様はお二人の事があまり好きではなかったのかもね。)
「でも、」
仲が良くなかった、という感じはあまりしなかったのが本音だ。どちらかというと佐脇は彼を、氷室を見て、
「苦しそう、だったなぁ。」
思い出したくないことを、思い出してしまう。そんな感じ。多分これは長く本当に戸鞠が佐脇を見てきたから分かるだけで、他の人に言ったところで何のこっちゃと適当な返事が返ってきそうなものだ。
何があったかを詮索する、知りたいと思ったことは一度もないのだが、やっぱりこんな時は普段なら起こらない気も少しだけ頭角を表してきてしまう。
「怒られ、ちゃうかなぁ……、」
触れていい話題でないことは分かっていながらも、それでも戸鞠はちょっとだけ、部屋の主が帰ってきたら聞いてみようかなぁ、なんて。そんなことを考えていた。
これは体調が悪い時にだけ許される、熱に魘されてポロっと零れてしまっただけの、特に深い意味はない、独り言で。
そんな通じないと分かっている言い訳まで用意するだけして、戸鞠は佐脇が戻ってくるのを静かに待った。水無月の、暮れの出来事。
「雪那のヤツ来てねぇの?何で?」
昨年の夏、何やら夜通し外が騒々しく寝るに寝れない夜を過ごしたことがあったことを弥代は覚えている。一年越しに昨晩…、正しくは今日の夜中か。同じように一晩どころか明け方まで、近所だけではなくどこか遠くからも太鼓やら笛の音だけでなく威勢のいい掛け声が聞こえてきて、ろくに寝れたもじゃなかった。
陽が登ってから外が徐々に静かになってきて、やっと寝付くことが出来たものだkら昼夜が中途半端に逆転したような、今の気分が丁度昼頃といった感じか。都合よく腹も減ってきた頃。本当は里の門がある通り(特に東門周辺には)出店や屋台が立ち並ぶと聞いていたので、
朝早くから桜と待ち合わせをしてぶらぶらと、お呼ばれしている夕刻まで時間を潰すつもりでいたのだが叶わなかった。
陽が気持ち西の空へ傾き出した頃にやっと目を覚まし、適当に寝癖を整えて顔を洗ってとしたぐらいで外へ出た、眠気まなこの弥代を見て、子供達の面倒を見ている隣部屋の長谷女房から、昼前まで桜が弥代の部屋の前でずっと膝を抱えて起きるのを待っていたと聞かされた。約束を持ち出したのは自分で、なのに朝っぱらから夏とはいえども外で待たせた挙句帰らせたのだとしたら謝らねばならない。懐事情はそこまで今はゆとりがあるわけではないが(つい先日、二人分の銭湯代に夕飯朝飯を二人分と一気に少なくなってしまった)、それでも出店の団子でも詫びに買って迎えにいけば許してもらえるんじゃないかな?なんて考えながら家を出たのが一刻ほど前のこと。
『そんなもので機嫌を取ろうとしないでよ!一緒に見て回りたかったのにどうして一人で先に行って買ってきちゃうのよ馬鹿っ‼︎』
如何にもご尤もそうな言い分を垂れて(文句ではなく、至極全うな言い分だ)、背中をポカピカと叩かれたものだが、買ってきた団子を口に食べさせてやればキラキラと目を輝かせて、縁側に腰掛ける足をパタパタと揺らしていた。
いくら口約束とはいえども、約束をしておいてすっぽかすなんて事を、よりによって身近な者にするなどと信用をいつか失い掛けないですよ、という叱言が飛んでくるのに以降は気を付けることを誓いつつ、元の約束通り桜を連れて祭りに弥代が向かったのが半刻前の事で。
予め店の場所が書かれた紙切れは、読めないだろうからその場合は近くの人にコレを見せて道を尋ねてくださいと、中々に用意周到なものだ。一緒に誘われている芳賀は現地での待ち合わせになるが、里の北区画なら隅々まで一応足は運んでいるようで(顔が相変わらず広いものだ)、どこの店であるかも、何なら店の息子とはよく話す仲だというので迷うことも、遅れることもないと話して討伐屋で別れた。
和馬曰く、春原も含めた雪那と和馬は三人が幼なじみで一緒に過ごした時期があったそうだが、春原には一切声が掛からなかったことを知って、少しだけ笑ったのは秘密だ。
東門通りは屋敷から伸びる大通り沿いのように、真ん中に太い水路が流れており、対岸の行き来には等間隔で架けられた橋を使わねばならない。右も左も似通ったよな、少々値段が疎らだったり、店独自の工夫が少々見られる屋台が立ち並ぶばかり。
やれ団子の中に細かく砕いた胡桃が入っていてきな粉と相性が良い上に食べ応えがあって美味いだとか、やれ蜜に上等な醤油を使っているものだから炙りたての玉にいっぱい絡ませれば味だけでなく香りも上等なものがするだとか、やれ玉数は少ないが大玉が売りで、なんなら餡子によく合う茶まで奥の店で淹れてくれるというオマケ付きだとか……。
『迷うな?』
『弥代さっきからお団子ばっかり見てるぅうっ‼︎』
先に桜には食べさせていたからいいものの、自分の食べる分となると懐具合も見つつで頭を悩ましたものだ。結局一串を選んで買うのに四半刻ぐらいの時間をどっぷりと費やし、呆れた様子の桜は桜で気になる店を見つけては弥代の腕を引き、とそんな風に時間を過ごしていた。
陽が暮れ始める夕七つの鐘が里中に響き渡るそれを合図に、雪那に誘われた店へと二人肩を並べて目指したのだが、店の女中に案内された部屋へと入ろうとした手前で弥代は和馬に声を掛けられた。
桜に座敷に先に入っているように、自分たちが着くよりも少し前にやって来ていたのだろう芳賀に桜の事を任せてから、弥代は廊下の隅で壁に凭れ掛かる和馬へと向き合った。
掻い摘んで話すにしても前後が分かってないと誤解させてしまいかねないという前置きを挟んでから始まる和馬の話に、二日前に自分の友人に何があったのかを弥代は聞かされると、当たり前のように眉間に皺を寄せてみせた。
「……何だよソレ?氷室さんの言葉がどっからどう考えても悪ぃだろ?」
「それは弥代ちゃんが雪那ちゃんの肩持つから出てくる言葉やよ。誤解の無いように伝えたかったんやけど、難しいな、やっぱり。」
雪那と氷室の関係が長い事ぐらい、弥代であってもそれぐらいは分かっている。かれこれ十年程の付き合いになる、扇堂家へかつての恩返しに、大主の孫娘にあたる雪那が過去の出来事から、色を持たぬ人間が近くに寄るのを怖がるが為に、自らを御側に置かせてください、と。そんな感じで今もまだ近くにいてくれるのだとか。
小仏の川沿いで野宿をしていた頃から、もう何度も聞いたわその話、といくら返そうとも、他に話せる人がいないのです、なんて。長年大切にしている宝物をひっそり見せびらかす子どもみたいに嬉しそうに微笑むものだから邪険に扱えないことが多かった。
知り合って、友達と言える仲の自分だが、それ以上に長い付き合いのある二人の、その間に起きた事に余計な口出しも、首を突っ込むのも間違っているというのは重々承知の上だが、それでも和馬の言った言葉通り、弥代はどうしても雪那は悪くないのではないか、と彼女を擁護する言葉を選んでしまった。
しかし、弥代はそんなことよりも一点気になることがあった。
「じゃあアイツ、今日来ねぇのかよ?」
五日ほど前だったか、少々値の張る個室のある飯屋で今日の事を誘ってきた雪那はとても目を輝かせていた。
言う機会がないだけで、雪那が笑っているとそれが自分の事のように弥代は嬉しくなることがあった。それは多分あの日、夜更けに交わした言葉の数々が、彼女のこれまでの境遇が忘れられぬからだ。
知り合って日の浅い、あくまでまだ他人であった自分に対して助けを求めるように、積年の思いを、誰にも明かすことが出来なかった本音を吐き出したその姿が今でも忘れられない。そんな彼女が今は誰がどう見たって楽しそうに表情を明るくさせる姿は、アレを知っているからこそ余計に、あの時自分が彼女に送った言葉が間違ってはいなかったんだ、と思えて。
「うん、私の分も楽しんできてください、言うてたわ。んなの言われたらワイらはその通りにするしか出来んやろ。」
「…………そっか、」
『一緒に花火を見ましょうね、弥代ちゃん!』
交わした小指をついつい弥代は摩った。
「雪子…?お前、雪子じゃねぇか?なんだなんだ二、三年見ねぇ内に随分とまぁいい女になりやがったなぁ?何だ?俺の代わりにイイ男でも見つけやがったのか?芋っぽさが垢抜けやがってケツもデカくなって」
「誰かその男を黙らせてーーーーーーーーーーっ‼︎」
知った顔だけなんて事は当然ない。見覚えがありそうで、でも直接話したことのない顔ぶれがそこら中にちらほらちらほら。屋敷に身を置く下女連中に囲われてる目当ての人物を見つければ、裾を踏むのは止む無しと言わんばかりに、遠慮なしに弥代は座敷の奥へと進んだ。
「何してんの戸鞠さんと巴月さんに……えっと?お友達さん方は?」
「芳賀さんにこんな幼気な子を任せられると思いますか?こちらで面倒を見ようかと。」
「顔拭けよ黒、すんげぇ事になってんぞ?それ何?鼻水?」
「入り混じった何かじゃないですかねっ‼︎」
「ヤケクソかよ?近寄んなよ、汚ねぇから。」
「じゃぁ話し掛けないでそっとしておいて下さいよ‼︎」
「………何か、ごめん。」
「うわぁああああああああああああっ‼︎」
目もあてられないとは正しくこういうことを言うのだろう。余程ひどい言葉を浴びさせられたのか涙なのか鼻水なのか冷や汗なのか(冷や汗は違う気もするが)、なんか本当によく分からない体液塗れでズビズビと鼻を啜る姿に同情の念を送ってしまう。こんな事になると分かっていたのならお前に桜のことは任せなかったよ、なんて謝罪未満の言葉を並べて、戸鞠らに頭を撫でられている桜へと向き直る。
「桜ちゃんって言うのねぇ?どこから来たの?京より西かしら?」
「そうやって色で勝手に判断しちゃダメって言われてるでしょう!ごめんねぇ桜ちゃん気悪くしちゃってなあい?凛ちゃん遠慮がない、ちょっとおつむが足りてないからぁ!」
「えへへー見て見て桜ちゃん?巴月お姉ちゃんと色お揃いだよぉ?」
「ちゃんと食べてる?十四の割に細くないかしら?」
「ねぇ、そんな風に構われたこと俺ないんだけど?」
「は…っ、はぅぁ……っ‼︎」
戸鞠や巴月の他、二人同様に屋敷の他に帰る場所がなく住み込みで働いているという下女二人とは弥代も何度か面識があった。庭掃除にお洗濯物。屋敷のやったらと長い廊下を日々掃除をするばかりでつまらないのだと愚痴を溢しながら、雪那の身の回りの世話を焼く戸鞠に一方的にくっついていた。
屋敷に拾われるよりも前から四人は同じ境遇で育ち、生まれながらに“色”を持つ為に互いがどのような気持ちで過ごしてきたかが分かるのだとか、つまるところ仲の良いお友達だ。
弥代が和馬と廊下で話をしている間に、芳賀から桜の軽い生い立ちについて(先日会った際に相良が軽い作り話にはなるが用意すると言っていた)話したそうだ。同じ“色持ち”に生まれ、これまで決していいと言える環境で育ってこなかったであろう桜は早々に四人に囲われ、一方で色を持たぬ、その場に限ってはたった一人の男という事で散々言われたい放題、女共の心ない言葉にどんどんと芳賀は傷ついていき…
「この手の気の強い女相手に一人で挑むのがお門違いなんじゃね?」
「弥代さんの裏切り者ーーーーーっ‼︎」
極めて頭の悪いやり取りをした後、やっと一息吐く。
自分に擦り寄って助けを求めるような、小動物みたいを小さく震える桜は、その背を敢えて押して、人慣れをさせようと後ろから腕組みをして見守るのみ。
卓上に慣れべられた皿の枚数は長机の上に全部数えれば十六枚。自分以外に、和馬、桜、芳賀に戸鞠、巴月、凛、若葉、長兵衛と鶴見の青年。長兵衛の弟達が確か全員で四人だが、五人だか。
部屋の隅で今しがた背負い投げをキメられた長兵衛が伸びているが、屋敷の門番を易々に易々とワザを決めた彼女は見たところ今日呼ばれた面子ではなく、この料亭の女中だろう。詳しくは知らないが。
「これで全員揃ってんの?」
「いやいやどうだろう?声掛けとったのは雪那ちゃんで、店に人数伝えたのはワイやなくて美琴様やから?」
「え?何で美琴さん?」
店の手配から料理選びまで全て雪那ではなく、彼女の親類の扇堂美琴が手回ししたものだと和馬は話す。
「雪那様ではそういった店のあては無いでしょうって、美琴様が気ぃ利かせてくれてな。」
「あー、なるほどね?確かにアイツに任せるよか美琴さんの方が知ってんだろ色々と。」
「そうそ、色々ね色々。」
氷が浮かんでいるわけでもないのによく冷えた茶を煽りながら話す。ひんやりとしているのは何も茶だけではなく湯呑みも同じで。屋内に入ったものの、夜空に打ち上がる花火がよく見えるように、と。馬入川の方が障子のある、南向きの窓辺は西陽はまだまだ強く肌が焼かれてしまいそうだ。
熱さを感じる時は脇周りを冷やすと良いと教えてくれたのは討伐屋の薬師で。水滴が浮かぶ、中身がなくなっても冷たさの残るそれを脇にでも挟めばさぞ気持ちの良いことだろうが、知った相手が用意をしてくれた場でそんなことをするのは相手の顔に泥を塗ってしまいかねないと考えて止める。
いつまでも持ったままでいた湯呑みを弥代が卓上に戻せば、音も立てずに腰を折った女(先ほど長兵衛を背負い投げしてみせた女中だ)が、すかさず湯呑みに茶を注いだ。
「あまり冷えたものを飲まれすぎても逆に体が冷えてしまいます。温かいものの御用意もありますので、いつでも仰ってくださいませ。」
「ど…、どぉーも?」
薄い笑みを浮かべた女中が去っていった。
花火が打ち上がるのは宵五つになってからだそうだ。
店に上がってから半刻ぐらいは経つだろうかという頃、やっと豪勢な料理が運ばれてくる。屋敷の下女連中に気に入られてたまま、抜け出したくても出来ない状態で、それでも本気で嫌がっているようには見えない桜の様子を尻目に、自分の前にある取り皿に卵膾をよそる。
あれは何?と興味津々に訊ねる桜に、屋敷の調理場に立たされることも少なくはない凛が、大根を擦りおろしたものと卵焼きを混ぜたようなものだよーと分かりやすそうに答えていた。
「屋敷で出された時によ、薬味のあのやったら辛ぇやつ。アレはどうかと思ったぜ俺は、よ。」
「薬味と言われるだけあり、薬味一つ一つにはそれぞれ齎す効能に意味があり、ただ食べ合わせ組み合わせるだけではないというのに、さては弥代さんご存知ないですね?学んでからそういうのは言ってください。」
「やっぱり俺にだけ当たり強くね戸鞠さんってさぁ‼︎」
今年の四月の暮れに行われた花見の時のような会話が並ぶ。六月の暮れに風邪で戸鞠が倒れたと聞いていたのだが、あれから一月近く経つわけだからかそんな気配は全くない。見覚えのある程度だった連中ともそこそこに言葉を交わして、適当に軽い自己紹介を交えて、何がきっかけで誘われて今日は来たなんて話をして、それで
(それなのになぁ……)
誘った本人がやっぱりいない。
気にしないようにと心掛けていたのだが、花火が打ち上がるという時間が次第に近づいてくると妙にソワソワとしてくる。交差しただらしのない持ち方になる箸を、何を摘むでもないのに手にとってカチカチと音を鳴らしたり。いつもなら机を濡らす湯呑みの水滴なんて気になりもしないのに目につくなり指先で掬って、親指と擦り合わせたり。階段を登る音が微かでも聞こえてくれば廊下の方を思わず見て見たり、やっぱり遅くなっても来るんじゃないか、なんて期待をしてみたり。
「いつまでそれしとるん?」
「分かってんだよ。だから一々言うな。」
和馬と二人で話すのなんて滅多にない上、あまり弥代にはいい思い出がない。思い出すのは当然春先の一件で。間に雪那が入ることで、何も喧嘩をしていたわけではないのに無理やり手を握らされて、はい仲直り!なんて言われたのは腹が立ったものだ。
そんなことがあった仲だというのに、意外にも雪那を挟まずとも会話はある程度は進む。寧ろ滞りなく、お互いに少ない言葉で相手が何を言わんとしているのかが何となくでも分かってしまう。
『うん、私の分も楽しんできてください、言うてたわ。んなの言われたらワイらはその通りにするしか出来んやろ。』
「…………お前、性格悪いな?」
「えぇ…今更?君に対していい顔する理由ないやろ?」
「ったくよぉ……、」
言って、弥代は立ち上がる。
「俺はただの、アイツの友達だからな。」
「うん、そうそう。君はただの雪那ちゃんのお友達。だから、」
お願いね、と零す男の顔は見ないことにした。
(何か手土産とか必要だったか?)
大通り沿いは人でごった返している。
早いところ、ただっぴろい部屋で一人、落ち込んでいるという友達のところに向かいたい為に裏路地へ抜け、入り組んでいるがよく知った道を進む。
東門周辺を抜けてしまえば後は出歩いている人の数も疎らになっていく。といっても暮れ六つの鐘が鳴った後の夜に、これだけの人が外を出回っているのが少々異常で。祭りごとが嫌いな奴なんてあんまりいないのだろうな、と自分を納得させる。
足取りを徐々に早くなり、水路沿いの提灯の数が少なくなってくる、屋敷周辺まで辿り着くのにそれほど時間は掛からない。花火が打ち上がる前に余裕を持って、縁側へ腕を引いて連れ出してやらねばならない。落ち込んでいると和馬は言っていたが、落ち込みすぎると彼女は意固地になってヘソを曲げることもある手間の掛かるような奴なのだから。
「よっ、と。」
和馬の言う通り、屋敷に踏み入るも以前のように水で弾かれることはなかった。昨晩行われた神輿が海に入水するという祭事には、毎年榊扇の里が祀る、神仏・水虎がその地へと赴くようになっているのだという。扇堂家の屋敷へと戻ってくるのは明朝、七月二十一日の明け方となるそうだ。
門番に話し掛けて中へ通してもらうのには時間が掛かる。こちとら花火を一緒に見に来たんだと言わんばかりに、行儀が悪いと分かっていながらも屋根へと登り、いつぞやみたいに屋敷の庭へと降り立つ。
「こう見えて屋敷の勝手はそこそこ頭にもう入っちまってんだよ俺はなぁ!」
調子よく歩みを進める。屋敷の中心にある本堂と、雪那が暮らす東の離れを繋ぐ廊下を横目に、そのまま抜けた方が楽だと言わんばかりに、
「あいつ、喜んでくれっかなぁ……」




