三十三話
「おや、もうそんなに経つのかい?」
急な話ではない。以前より、前もって自分がそのような考えを持ち合わせていることを、氷室は目の前の相手に伝えていた。
故に言葉に迷いはなく、すんなりと此度は自分の意志を伝えることが出来たものだが、ほんの少しだけ、あんまりにも関心のなさそうな相手の言葉に、ピクリ、無意識に指先が震えた。
(私は何かを期待していたのか?)
相手がどのような顔をしているのか知らぬまま、首を晒し続けていたのだが、二度おもてを上げるよう声を掛けられれば、ゆっくりと自身の頭を持ち上げてみせる。暑さを一時だけでも忘れそうになれる、床板のひんやりとした冷たさが離れるのに、何故だか名残惜しさを感じてしまう。
「早いものじゃないかい。アンタがこの屋敷に居座るようになって、…………まぁ、居ない事もあったけど全部を足したら、丁度あの娘の歳ぐらいになるのかねぇ。
だというのに、あたしはこんな場所でずっとこうしているばかり。おんなじ屋敷の中で暮らしていたというのに、何もアンタの事を知ってやることは出来なかったんだよ、氷室。」
悪いことをしたね。
脇息に凭れかかっていた体を軽く起こしてからポツリ、零す相手に、何と返すべきが正しいのかが分からない。向けられた言葉の真意さえ理解出来ないまま、用件を話し終えた氷室はその場を後にすることしか出来なかった。
大山の斜面帯を切り拓いて建てられた扇堂家の屋敷は、屋敷の中心の御堂は大きく分けて三つの区画に分けられている。その三つは廊下で繋がってはいるものの、奥へ行くほど高さがあった。特に真ん中、元より天井が高い造りをしているそこに二階建てとなった、欄干のある広間は里より有権者が招かれての会合を行われる際に使われることが多く、下の廊下からは天井が邪魔をして目にすることもない。
先ほど自分へと向けられた言葉の中に含まれていた、全部を足しらたら、丁度あの娘の歳ぐらいになるのかね、という言葉が頭を過り、そう考えてしまえば意外にも自分がこの屋敷で過ごした時間は短かったのではないかと考えに至った。
会合に招かれた客人、里の有権者達と大主を中心とした血筋の者、もしくはそれに近しいものだけが立ち寄ることが許されている、その広間に自分が踏み入ったことがないのも。自分ではもっと長い間この屋敷に居座っていたつもりだが、恐らくは足を運んだことがない場所もあることだろうと今になって気付かされ、しかしそういうものだと自分に言い聞かせた。
所詮は、今は亡き彼女の気まぐれで拾われただけの命。
親に山に捨て置かれた、本能のままに生きることにしがみついただけの、その昔に掛けられた言葉を用いるのなら薄汚い浮浪児。偶々、運が良かった。いつ死んでいても可笑しくなかった命が偶然拾われたというだけの話。
屋敷に暮らすようになり、温かい食事に、清潔な衣服を与えられた頃から、たとえ扇の血筋の者に受け入れられたといっても事情を知らぬ者らから向けられる視線は、常人であればきっと耐えられぬものだったに違いない。
自分がそういったモノに耐えることが出来たのは、生まれ持っての鈍感さと、相手の真意を、心を読むのが得意ではなかったからだろう。向けられた言葉を言葉の通りにしか受け止めることが出来ぬ自分を毛嫌うように距離を取る者も少なくはなかったが、同時にその点を美点であると気に入り、何かと世話を焼いてくれる相手もいてくれたものだから、何事においてもきっとそういうものなのだと、言い聞かせる癖が随分と身に付いてしまっていた。
それでも二度ばかし、どうしても自分には譲れぬものがあった。
数段の段差を降りて御堂の廊下を進む。
屋敷と山の境界線のように設けられた塀が廊下と同じように続いている。昨年の春、この辺りで起きた出来事を氷室は今もよく覚えている。
扇堂家が祀りあげる神仏の怒りを買ったであろう“色持ち”の青年(今は扇堂家の名の下、榊扇の里で妖怪討伐の看板を掲げている討伐屋の主人だ)が、刀一本で自身に迫り来る水撃を弾き、人間離れした動きを見せていた。あれを小脇に、いくら自分よりも小さい相手とは言え、他者を抱え庇うようにやってのけたのから人間業には見えなかった。
二階の広間の床を貫通するように揃いも揃って落ちてきたのか、庭先と廊下の至る所に広がる瓦礫が、弾かれた水撃が他所へとぶつかり飛び散る。小さくなった破片が、木片が彼女に、雪那に降り掛かり怪我をさせぬようにと背に庇っていた。
神仏・水虎の水球を悠々と弾き、まるで霧散するように散り散りになる光景を前に、それが刀を振るう青年の力ではなく、青年の持つ刀そのものが齎した結果であることは明白に、そして同時に、彼が持つ刀によく似た刀を自分の為に打ってくれた老爺を思い出すきっかけともなった。
物覚えに関してのみ言えば他と比べ胸を張れる自信があったが、それでも同じ場に居合わせた相手の記憶と照らし合わせた時、自分の目に映るものには偏りがあるようで、それを自覚させられてからは自分の中に思い留めるだけにしてきた。
これもまた、氷室にとってはそういうもの、で片が付くものであった。
ここを離れるまであと二日。大主の他に直接それを伝えねばならない相手が二人ほど浮かびはするものの、明後日の祭事に一時のみとはいえ屋敷を、里を離れる神仏は伝えたところで噛みつかれることは想像に容易い。
昔はそうは思わなかったのに、どこか纏う空気が彼女に似たように今は映り、時折誤ってその姿を前にし、彼女の名前を口にしてしまう事を、彼女に長く肩入れをしていた神仏は、それだけに許せぬのだろう。その気持ちはわかる。
もう一人は最近は屋敷で過ごす時間が少なくなった為に、今どこにいるのかも分からない事が多い。自分以外の屋敷に身を置くもの、それこそ門番にでも行き先を尋ねれば、どれぐらいに帰ってくるかも予め聞かされているのなら知ることは出来るだろうが、氷室はそれをしない。昨年の秋口まで門番を務めていた男であったのなら、門番を夫に持っていた乳母の繋がりもあり面識がある程度あったが、今の歳若い彼らと接点はなく、どの様に言葉を交わすべきかも氷室には分からなかった。
与えられている部屋は彼女の、雪那が生活を送る東の離れに位置していた。
最悪まだ帰ってきて居らずとも、近付いてくる足音を聞き逃すような事もないのだから部屋に戻り戻ってくるのを待とうかと、普段ならそれほどゆったりと考えることもない事柄へ意識を傾け、そうして門が次第に見えてくる、中央の御堂より右手、今は左へと伸びる東の離れへと繋がる長廊下へと爪先を向けた時、ばったりと、目当ての彼女と鉢合わせた。
「せ」「氷室っ!」
自分がその名を口にするよりも早く、髪を大きく揺らして一歩二歩の距離を詰めただけで目尻を緩ませる彼女のその姿が、今は亡き、自身の脳裏にこびり付いたように消えない彼女と重なって見えた。
鬼ノ目 八十三話
息を吸おうと大きく口を開いた。それなのに吸えたものはこれぽっちもない。喉の奥がキュッと狭まってしまったように、さっきまでどうやって吸っていたのかも思い出せない。無意識に吸って吐いてを繰り返していたものが意識した途端に難しくなってしまうなんて知らなくって、胸の前で手を組む。
肩は大きく上下するのに、それまで当たり前にあったものがいきなりなくなってしまったような不安に襲われえて、首から上が一気に熱く、熱ったように感じて。絶え絶えの呼吸を繰り返して、潤んだ視界に気付いた時には、なんで…どうして、なんて言葉を繰り返していて。やっとそれから自分がひどく取り乱していることに雪那は気付かされた。
「雪那、」
と、閉めたはずの覚えのない(覚えていないだけでいつもの癖で閉めていたのかもしれない)襖の向こう側、廊下から少々くぐもった声が自分を呼んだ。
肩口越しに覗く、乱れた髪の隙間から覗く先の、距離のそれほどない光景は、狭まった視界ではまるで襖それそのものが喋ったような錯覚を覚える。
「申し訳ございません。言葉を選ぶべきでした。貴女がそのように取り乱してしまうなど、考えが至らず……、」
「いっ、いいえ………っ、いいえっ!なに…、何も私、と、取り乱してなど…っ‼︎」
それでも襖を開ける気にはなれず。襖越しにほんの少しだけ言葉を交わす。今しがた浮かんだ考えそのものを大きく払い除けるように、そんなことなかったとでも言うように声を振り絞った。
「中に、入ってもよろしいでしょうか。」
何か悪さをしたわけでもないのに肩を窄めながら、雪那は視線を氷室へと向けた。
先ほどの息の吸い方と同様に、これまで自分が彼をどの様に見てきたのかを思い出せずに、キョロキョロと姿を視界に収めては逸らしてを繰り返してしまう。
(さっきまではとても嬉しかったはず、なのに。)
胸の内は疑問だらけだ。
どこで、なんで自分は彼に対しあのような事を考えていたのかと、今の今までずっと勘違いをしていたのかと、考えれば考えるほど深みに嵌ってしまったように呼吸が苦しくなってくる。まだあれから一度も満足に息を吸えていない。これは何なのだろう?と首を傾げたくなって、それすら今は叶わない。膝の上で重ねた掌が花浅葱の生地に皺を寄せて、生まれた谷間がより色濃く雪那の目には映った。
部屋に差し込む西陽に、着物越しであろうとなかろうと鋭さを感じて、痛いわけでないのに思わず泣きそうになってしまうが涙を堪える。
「昔から私は感情の機微に疎く、傷付けてしまうような事を申してしまったようでしたら申し訳ないことを…、」
「です……から、どうか気になさらないでください。私が変に気にしてしまっただけでしょうし、貴方が気になさることでは……、」
こんな喋り方だったろうか。ぎこちなさに皺が深くなってしまう。
生まれた頃からずっと側にいてくれた、片時も離れずに身の回りの世話の殆どを見て、してくれていた乳母の葵を失った後、私が気を許せるのはこの人しかいなくなってしまった、と雪那は考えさせられた事を、当時の彼との小さなやり取りを思い返す。
この人しかいない、なんて言う相手は自分の倍近い歳をした、本来なら労わってあげなくてはならないような歳であることは分かっている。でも見た目の割に動きに衰えは見せず、些細な事でも雪那が頼めばキビキビと動いてくれる事が多かった。無茶かしら、なんて頼んでおいて気にしたような事だってお構いなしだ。それでも男性に頼めないことはいくらかあって自分で(たしか)こなして来た、はずだ。
屋敷から、たった一人の肉親である孫娘が待つという長屋へと運ばれていった後、倒れた彼女を目の当たりにして、腰を抜かしながらも人を呼ぶのに枯らしてしまった喉と、起きあがろうにも上手く起き上がれない体を支えながら氷室は雪那に、これからどうするべきかを尋ねてきて。
何も変わらないと思っていたものが変わってしまった。当たり前に続くと思っていた日々が、たった一人が欠けてしまったことで一気に暗く、足元が見えなくなってしまうような感覚に襲われたのだ。
(あの時、私はなんて彼に返したんだったっけ?)
伏せられた短い睫毛の奥で揺らぐ、夕日に染まる瞳が震えている。
(この人はこんなにも老けていたかしら)
何か、言葉を紡いでいるのは分かるのに、彼が何と話しているのかが雪那には分からない。否、分かりたくなかっただけなのかもしれない。理解したくないもの拒むのに、目の前にいる彼へとやっと目を向けられたというのに、遠く、距離があるように感じながらその姿を視界に収める。
収めて、それで、
「雪那ちゃん、」
どんどんと溢れて出てくるそれを止める手立てを雪那は知らない。もう随分と時間が経っていたようだ。日中の熱がまるで感じられず、涼やかな風が東の離れを、開け放たれた戸から入っては抜けていくの繰り返し。
縋る。きっと迷惑なんだろうと分かっていながらもその服に指先を立てて、立っていた相手をずるりと引き寄せた。そんなに力を込めていないから自ら寄ってくる相手の胸元に額を擦り付けて、暗い翳りの中で声を漏らす。今になって、さっきよりも思い通りに息を吸えた。
「わ……、私っ‼︎」
口から飛び出そうになった言葉を飲み込む。今までだってそうだったはずだ。別に苦しくなんかない。ずっと堪え続けてきた、誰にも話せない心内を押し留めてきた。言ってはいけない気がして、零してはならない気がして唇を噛むのに、でもそれは背中をぽんぽんと優しく摩られれば少しだけ、溢れ出てしまう。
「ずっと……彼の、事を……っ、」
何がきっかけでそう思うようになったのかは今は重要ではなく、自分がずっと彼に対し勘違いを続けてきていたことが雪那は許せなかった。
昨年の春、これが最後でいいからと言われ祖母が勝手に組んだ見合い話に、縁談相手の住まう野田尻の地を目指すことになった際、二人で(のはずだ)屋敷を、榊扇の里を発った一連の出来事。
毒を誤って口にした所を、自分を探しに近隣にいたという氷室に見つけられ、大事になる前に急ぎ早馬で一晩近く走り続け、屋敷に連れ戻されることがあった。毒があったからこそ、その解毒を目的にあくまで屋敷へと連れ戻すことにしたと当時話していた彼に、一ヶ月近くも行方が知れぬままだった孫娘を按じた祖母から呼ばれていると付き添われた時、本来なら自分が背負わねばならない責任の大きさに、これまで目を逸らし続けてきた事の大きさ気付き、雪那は彼に自分を逃してほしいと口にするのを悩んでいた。
悩みはする一方で、彼ならきっと自分の願いを、言うことを聞き届けてくれるという自信があったからおかしいのだ。今日交わした、些細な誘いの会話でやっとそれに気付かされた。彼はなにも、雪那の望みであればそれがどんなモノであっても聞き入れてくれる、なんてことがない事を。
よくよく考えればそんなのは当たり前だというのにどこかで本当に自信があったのだ。この人なら、この人だけは自分の、雪那の我儘を受け入れくれる、と。何があってもきっと頷いてくれる、そう、思っていたのだ。
彼は何一つ悪くない。自分に非があることなんて分かりきっている。裏切られたなんて感じるのはただの被害妄想でしかなくて、分かっている、分かっているのに。
「でもっ、わた…し、は!」
『友達に、なれないかな。』
積年の、伝える相手のいなかった思いを言葉にし、これまでの自分を知らない、友達になりたいと言ってくれた相手の手を取って、進み出せた気になっていた。
『昔みたいに、あざみちゃんって、呼んでくださいな。』
外へ出るばかりを変わったとは到底呼べないことを、以前は向き合えなかった問題へ、今からでも向き合わねばならないのではないかと、小さな覚悟を決めた気になっていた。
雪那は、
「私……は、」
少しでも自分は前に進めているつもりではいた。
でももしかしたら、と。もしかしたらそうではなかったのかもしれない、と気付いてしまった。
弥代と友達になるその前からずっと、自分は彼に対しそのように考える節があった。あれから一年と少しが経った今、今日の自分が彼からの返答にああまで取り乱してしまった、思わず気遣うのに伸ばされた手を払い駆け出してしまった理由が、そうでなくては雪那は自分の中で説明がつかない。納得が出来なかった。
(変われてなんかいない…、私、ずっと…ずっとあの時のままで、だから、じゃなきゃあんな…あんな、こと…っ‼︎)
『私はこの里を出ます。』
「私はこの里を出ます。」
どう伝えたものかと直前まで考えていたのが嘘のように、先ほどの大主を前にした時と同様に、率直にあるがままを言葉にした。
下手に話を長引かせてはまた自身が要らぬことを口にし、彼女を傷付けてしまう恐れがあったからだ。
だというのに、自身が口にした言葉を皮切りに、それまで薄くも浮かんでいたはずの彼女の表情が、色が抜け落ちたように氷室の目には映り込んだ。
それが拍車と、後押しになってしまった。
言い訳ではない。自分は決して彼女にその様な表情をさせたかったわけではないのだと、少しでもこれまでの、元のようになってほしく、慣れない話を始めた。
幼い頃から言葉が得意ではないことなど自分が一番分かっていた。話が長くなれば長くなるほど、お前は何を述べたいのかが分からなくなるからと注意を受けることが多く、無意識の内に短く言葉を切るようにしてきた。
そして、今になって自分が彼女を支えることは叶わないかもしれないと改めて理解する。
風の噂でそれが耳に入って直ぐに氷室は里へと、この屋敷へと舞い戻ってきた。自分が屋敷を離れてから十年近くの間に何があったかは、求めようと思えばいたる場所で根も葉もない話だがと片付けられ、知り得ることが出来た。知ろうとする意志があればもっと早く知ることが出来た話なのだ。
“色”を持たぬ、嘗ての彼女が気に掛けていた屋敷の遣いによって取り押さえられ、この地では初めて目にしたという風貌の妖に片目を抉り取られたのだと、自分に教えてくれたのは神仏だった。
“色”を持たぬ者を怖がり、遠ざけてしまうという、生まれた時から傍にいた乳母以外が離れへと近付くことすら難しくなってしまったと、自身も姿を見せては泣かせてしまうかもしれないからと距離を置くのだと漏らす姿を知れば、自らがその傍にいるように名乗り出る他、氷室には考えは浮かばなかった。
昨年の冬、他に居場所がないからと自分を頼りやってきたの乳母の実の孫娘で。十にも満たない幼い身で一体何が出来るのかと正論を述べる大主に対し、自らが手を貸し、下女の面倒を見ると進言をしたのは氷室だった。下女は“色”を持つことはなかったが幼い頃から祖母より彼女の“色”について、共に過ごした時間は限られたものであったろうが聞かされていたのだろう、特に気にした素振りも見せず、自然にそれを受け入れていた。
下女のうたを雪那の近くに置いたのは、自分がうたの祖母・葵にそうしてもらったことが過去にあったからだ。良かれと思い、それが彼女の、雪那の為になると信じて氷室はそうした。それ、なのに
『死にたい』
その小さき存在がどれほど、どれほど彼女にとって大きかったかを、その言葉を耳にして氷室は知った。そして同時に、自分が良かれと思いした行動が裏目に出てしまったのではないかと、己が取った行動を後悔した。
神仏が思わず彼女の首へと手を掛けるのを止めに入った際も後悔を重ねた。生きることに疲れ果て、死ぬことを望んだ彼女に、望んだものを与えてやるのなら止めに入るべきではなかったのかを考えながら、何事もなかったかのように布団に横たわらせた。
次に彼女が目覚めた時、どのような言葉が出てくるのかがひたすらに怖かった。
しかし彼女は、下女の、うたの事を忘れていた。
自分は、はたして本当に彼女の傍にいるべきかを考えた。傍に居れてこれまでに何をしてやることが出来たのというのか。彼女の傍に居ようとしたそれこそが間違いではなかったのだろうか。縋られる、その小さな背を抱き抱える事さえも躊躇い、自分が本当は何を望んでいたのかも分からなくなり、彼女との……扇堂春奈との出会いそのものが誤りであったのだと、言い聞かせた。
間違えだらけの人生が積み上がった天辺に自分は立っていると考え続けてきた氷室にとって、いま目の前にいる彼女・扇堂雪那は諦めさせてくれる。これからもその隣に並び、いつの日か罰せられればならないという思いを、考えに踏ん切りをつけさせてくれた。
迷いがなかったと言えば嘘になる。
『口ではどうとでも言えるのが人間やろが。本心で、ほんまに離れられる覚悟が、お前にあんのか?』
これ以上、彼女の傍に自分は居られない。
和馬がそれを聞かされたのは水無月の暮れのことであった。
相手に言わせたという方がきっと正しいのだろうが今はそんな事は関係のないこと。
今や屋敷の周辺、里の北区画においては薬師として広く知られる討伐屋の伽々里の手により弥代が髪を黒く染め上げられたその日の晩。
夕暮れ刻まで続いた雨によって泥濘んだ庭に降りて屋敷の西側へと戻るのを避け、雪那が寝入ったのを見届けてから自分の部屋へと戻ろうとした時だった。
離れと本堂を繋ぐ長廊下に浅く腰掛けた氷室を、その横顔を見た。
春先に交わした会話を思い出しながら、そっと近付き声を掛けた。道場では自分は竹刀の一つ振ったことがない身で、一から指導を頼む気も湧かず、ただ行われる手合わせを見ているだけだったものだから、直に言葉を交わすのは随分と久しぶりに感じた。
四月の中旬頃から月の半分は急な暇を貰い、いくら広い里でも暫くの間は直接その姿を見ないことも多く。和馬は心の底から、何も疑うこともなく声を掛けてみせた。
『雪那様、氷室はどこに行ったんでしょうってずっと零しておって。でも耳、入ってる思いますけど色々と彼女にもあったんです。』
彼は自分ではなく、和馬が雪那の傍にいれくれてよかったと返してきた。それが、和馬の中で確信へと繋がった。
『どこ、行かれるんですか?』
その名自体があまり語られる事がなくなったこの里において、名を直接口にすることはなくとも柔らかい声色で語る姿に、彼が余程彼女を、雪那の実母である扇堂春奈を愛していたかを察した。
初めの頃はその関係がどのようなものかをあまり知らなかったが為に勘違いをしていたものだが、会話を重ねていく内に妙に納得出来てしまう答えに和馬は至った。
これまでそうであったはずの距離が、自分が彼女の傍に並ぶようになってからというもの遠慮がちに、立場を譲るかのような姿勢に違和感を感じつつも、言葉は選ぶようにしてきた。
所詮は他人事。違っていればただただ失礼なだけだ。でも、今にもこの場からふと気が付いた時には消えていそうな相手を、考え直してほしいなんて独りよがりな思いを抱えつつ少しだけ強く、問い掛けた。
『自分がいなくなっても有事の際、動ける奴がいた方がいい思ったんですか?』
『すっかりワイに雪那…雪那様の事任せっきりにして、いつ居なくなっても大丈夫そうみたいな顔して、狡い言葉並べて……、逃げるんですか?』
『氷室様いなくなって、雪那ちゃんが悲しむ思わないんですか?』
泥濘みを避けた先でとんだ穴に嵌ってしまったものだと、揺れる、彼女によく似た瞳を真っ直ぐに見つめた。
『許しませんよ、そないなことワイは。』
『許してくれなくとも結構です。』
私は許されてはならない人間なのです、と呟いて氷室はその頭を和馬へと差し出した。
一切澱みのない動きだったというのに、その重みに思わず息を飲んだ。
『私は決して許されぬことを彼女だけではなく、彼女の母である嘗ての主人に対してもした身です。その罪は重く、私は裁かれる事を望みながら彼女の傍に在り続けました。彼女の為などというのはただの建前で、自分の望む夢のために彼女を利用した、和馬さん、貴方の仰るように私は狡い人間なのです。』
以前、氷室は自分は話すのがあまり得意ではないと言っていた。その割に話し始めれば芯のある、寄り道をしてしまうことはあっても着地点は見据えたような話し方が多く、得意ではないという人の話し方に和馬はどうにも思えなかったのだが、その時になって彼のその重たさに気付かされた。
頑なにその意志が曲がることはない。誰がどんな言葉を送ろうとも彼は自分は罰せられる、裁かれるべき立場の人間であるという考えを押し曲げることがない。
どれだけ長くそう在ればそのようになってしまうのかと、一周回って憐れみさえ感じそうになりながら、返すべき言葉を模索した。しかし自分では彼を救うことは出来ないことを知らされただけに終わった。
だから、こそ…………、
良かった、とその背中を摩る。全くもって良くなどないことは分かっていながらも泣き疲れたのだろう、腕の中で一定の感覚で呼吸を繰り返す、寝息を立てる姿を見下ろして眉を緩めた。
「これはね、仕方のないことなんよ。」
嘘を吐いて、彼を真似た。
それなのに、そんな簡単に片を付けられる話ではこれはなかった。




