三十二話
大山の斜面帯に建てられた、榊扇の里を統治する扇堂家の御屋敷は夜更け頃になりますと、深い霧が立ち込めることが多くございました。
屋敷に住まわせていただく、奉公に来たばかりの女中の多くはあまりの霧の深さに、慣れるまでの間は同室の上女中の手を借りなくては満足に厠へは足を運べぬほど…というのは、少々誇張された冗談の類にございます。
少なくとも私……、私がこの屋敷に居させていただくようになりました頃は、それ程までに霧が濃く、屋敷の造りを頭に入れておかねばならないという事はなく。日によっては壁に手を付けばどうとでもなる程度のものでした。
ですが雨の降った明朝に限っては、冗談の類であると片付けていたものがそうではなくなってしまう。一寸先、自分の伸ばした指先一つさえも濃霧へと呑まれてしまう、隣をすれ違う事でやっと近くに誰かがいたことに気付ける程。
長年御屋敷に仕える者であろうとも、その濃霧を前にしては何をすることも出来ませぬ。その為、雨が降った明朝は、東の空が霧に覆われていようとも微かに白み始めるその頃、屋敷の門番は少々の仮眠に入るのが常であったのです。
雨が、降っておりました。
手元の水に晒したばかりの手拭いは絞っては、それで布団の上に横たわる幼い彼女の額を拭う。怪我を負われた直後は傷口の化膿が続き、医者の手を四六時中煩わせながら発熱は治まることを知らぬ儘。
しとしと…しとしと、と。
秋口に起きたその日からもうずっと…、雨が止むことはなく。たった一人の少女を守ることが出来なかった己の無力さを、その事実に、榊扇の里で祀られる水神様は涙を溢れさせ続けているのではないか、と大主様は申しておられましたが、私どもはただ耳を傾けることしか出来ず。一時、雲間より覗き込む、燦々と降り注ぐ陽光一つに一喜一憂を繰り返しながら、そうして彼女の傷が一日でも早く塞がることを、良くなってくれることを願い続けました。
その日も雨が止むことはなく、それでも以前に比べるとその勢いも徐々に収まり始めた頃。
秋口に起きてしまったあの日から、数えて一、二、三、四。それから指をまた折って七つ。それだけの時間が過ぎようとしているのに彼女の傷は塞がることを忘れてしまったかのように。小さな体に留めるにはあまりにも酷な、熱に蝕まれ続け、これ以上衰弱状態が続いてしまうことがあれば幼い体は保たないと、医者である男が弱音を漏らし始めたのはその頃で。
熱に魘されながら、不安そうに布団を握りしめてか細く喘ぐ、雨の勢いは落ち着きだしたというのにまるで一向に良くならないその姿があまりにも痛ましく私の目には映り、出来ることなら彼女に身に降り掛かるその全てを我が身に…などと。願ったところで何の意味もない事ばかりを考え出すようになったのも同じ頃でございました。
そしてその日も、雨は降っておりました。
薄暗い部屋の中、羽織を上に重ねた掛け布団を小さく払いながら、私は目を覚ましました。庇からぽたり、ぽたりと音を立てて滴り落ちる、最近は聴き慣れてしまった音がしなかったのです。
いくら状態が芳しくない彼女を、幼い怪我人に付きっきりでいようともそれには限度があり。歳の若くない私では二日、傍に居続けるのがやっとで。せめて体を休めるようにという杷勿の言葉で眠りに付く日々でした。
『―――、――――――、』
声が、聞こえました。
久方ぶりに耳にする、彼女の私を呼ぶ声です。聞き間違えを疑うことなく、私は彼女が床に伏せる部屋へと慌てて向かいました。
『あお…い、』
襖を開けて、駆け寄りその傍らに膝を着きました。
薄く開いた、今にも瞳が埋もれてしまいそうな程に分厚い涙がふるふると震えるのです。私の代役を勤めていた女中は慣れない夜半、眠気に耐えられず意識を落としてしまったのでしょう。彼女の傍らで身を小さく丸めて、寝息を微かに漏らす姿を目にしました。責める理由が私では見つけられませんでした。
女中の掌から手拭いを手に取り、近くに置かれた水の張った桶で布を冷やし、林檎のように真っ赤に腫れた顔にそっとそれを当てて、涙を、浮かぶ玉汗を拭いました。
『やだぁ……、いやだよぉ…、ここにいて、ひとりにしないで……あおいぃ…、』
…………我が子を、思い出しました。
貴女様が巡り合わせてくれましたあの方との間に授かった子は、幼い頃からとても頭がよく、手の掛からない子であり、夫婦揃って屋敷に長くお仕えする身としては、長屋の近所の方々に託すのも不安ではなく。それでも子どもの流行り病に罹った時ばかりは手を焼きました。
それまで一度も手の掛からなかった、とても一緒に過ごす事の少なかった我が子に対し、どの様に接するのが正しいのかを、お恥ずかしいことに私ども夫婦は知らず。慌てる私たちを見て、息子が言った言葉を思い出したのです。
『こんな時はなぁ、手ぇにぎって、近くにいてくれりゃぁそれで良いんだよ!』
大人なのにそんなことも知らねぇのか?なんて口を大きく開き、笑いながら言うものですから、返す言葉も浮かばずに言われた通りに手を握り、病が去るまで近くに居続けることしか出来ませんでした。
子が居ながらも私は、子へどのやって接するべきかを知りませんでした。ですがその時の彼女、雪那様を前に私はそれ以外をすることが出来ず。
自分が腹を痛めて産んだ子に構ってやれない事実から目を逸らすように、彼女の傍にいることを改めて誓ったのです。
それから暫くの間はご存知の通り、私は片時も彼女の傍から離れることはありませんでした。
……と言っても、それは彼がやって来るまでの短い期間のみの話にございます。
三つ指をついて、深々と頭を垂れる。
屋根より高い木々の植えられていないこの屋敷においては空を遮るものは在らず。雲間から覗く月明かりはその明るさの割に、直に照らすとなると意外にも柔い光となる。晒された頸の、浮き彫りになった骨の形をジッと見下ろしながら、女は手に持つ煙管の吸い口を遠ざけた。
「突然、話がしたいなんて言い出すもんだから、何があったんじゃないかと気にしていたというのに何だい?そんな話の為だけにここまで来たんじゃないだろう、お前さんは?」
「えぇ、仰る通りにございます。
貴女様の耳に入れていただきたい、これはただの、私の我儘にございます。」
屋敷に奉公に来て間もない頃、今まで礼儀の一つも教わってこなかったというものだから、よく上の者に虐められている姿を見ていた。生まれてから満足に飯を食わせてもらえなかったのと、自分を産んだ母も体が小さかったから自分はそれを運悪く継いで生まれてきてしまったのだと、歳の割に随分と諦めたような口振りで言うものだから目を掛けてきた。
歳の近い娘を近くに置きたいと、当時既に床に臥せることの多かった母に対し堂々と進言をすれば、確かに大人ばかりで囲ってしまって子どもらしからぬように育ってしまったものだねお前さんは、なんて言われてあっさりと彼女を傍に置くことを許可された。
数年と経たぬ間に七代目の当主に就いてしまえば屋敷から出る自由は失ったが、ある程度は融通の効く我儘が罷り通るようになった。屋敷の外に限らず里の外からも日々多く訪れる客人を前に、一番目に掛けていた彼女は次第に礼儀作法を、当主の横に身を置く立場でありながら恥を掻くわけにはいかないと身につけていった。
二十年程一緒に過ごした後、阿夫利の宮司であった男と夫婦になり間もなく子を授かった。
産婆によって腹から取り上げられた子を見た時、一瞬迷いを抱いたが、まるで息を吹き返したかのように大きな声で泣き喚く、自身が腹を痛めてまで産んだ我が子を手に掛けることだけは出来なかった。
思い返してみれば自分の幼い頃も、直に母に世話を焼かれたことはあまりなく。生まれてきた我が子が目を患っていると分かった時には尚更、この娘の将来の為にも少しでも過ごしやすい場所を与えてやらねばと、それまで以上に里の発展に時間を費やすようになっていた。自分が生んだ子であるにも関わらず満足に腕の中で抱く事も儘ならない状況が続いたが、誰よりも信頼に置ける彼女を自分の傍より離れさせ、乳母として我が子を托した。他に我が子を委ねられる者は浮かばなかったのだ。
あれから三十年と少し。
自分が腹を痛めて生んだ娘が亡くなってから早いもので十四年の歳月が経とうとしている。
亡くなった年の初め、二月の一日に娘の生んだ孫も、来年には十五を迎える。自分が当主の座を母より譲り受けたのと同い年だ。
数年前に降り掛かった悲劇により、ここ暫くの間は東に構える離れより出てくることはほとんど無くなってしまったものだが、多少無理を強いてでも外へと連れ出さねばならぬと、彼女はここのところ考えていた。
「やはりその様にお考えでしたか。いえ、決してそれを否定するつもりはないのですが、それに関しまして私の言葉に少々耳を傾けていただきたい、と。先もお伝えしましたように、あくまで私の我儘に過ぎない話なのです。」
やんわりと自信の意見を述べる。こちらの考えを否定する気はないなどと言っておきながら述べられるそれは、今一度考え直し、離れに引き篭もる孫に時間を与えてはやれないか、というものだった。
「雪那様の、為にも……、」
「自分の子どもに何もしてやれなかった相手から出てくる言葉とは思えないね。」
遠目に見た、離れの縁側に腰掛けて本を読む、孫娘の目元が重なって見えた。
「実の娘も同然に、私は見て参りました。」
彼が再びこの屋敷に姿を見せたのは、あの日から拝むことの出来なかった晴天が姿を見せるようになった頃。
今宵はきっと雨が降る、と。そうなれば明朝は深い霧が立ち込めることだから早い内に休むことが出来そうだ、などと門番の話しを耳にした。いつ雨が降り始めようとも何ら可笑しくなんてない、水無月のあくる日の事。
門番らの話していた通り夜の内に雨が降ったのでしょう。暦の上では夏になるというのに、雨の降った翌朝の朝方は布団に潜っていようとも寒くてなりません。同じ布団の中で感じる、まだ幼い体で暖を取るように抱き寄せ、小さく寝息を立てるその姿を見て安堵したものです。発熱は当に治り、当時の出来事を思い出し夢に見て魘されることも少なくなってきたものの、一人で広い部屋で寝るのは怖い、と甘えられ断る理由が見当たらずに、身分が、立場が違うと分かっていながらも私は弱々しく縋りつく、歳の割に幼さを色濃く残す彼女の抱きしめてやることしか出来ませんでした。
彼女が寝入るのを見てから眠りに付く。そして彼女が目を覚ます前に体を起こし、私にはせねばならぬ事が多くありました。少しでも彼女の不安を、寂しさを取り除けるように、と。起きてしまう前にすべきことを全てこなし、目が覚めるその時には横にいてやり、片時もこの子を一人にしてしまわぬように努めておりました。(一人にさせてしまった、見てやれない時間があったが為にに道を踏み外してしまった、彼女とは違う道を歩めるように。)
この頃になると木戸や障子を一緒に開けて、離れに光を入れても大丈夫なようになりました。布団の中で身を縮こまらせ、広く開け放たれた場所を拒み、私以外の誰かが自分へと近付いてくるだけで怯えていた時期もあった為に、少しずつでも前に進めている、以前のように過ごせる日々がそう遠くない未来、やって来るのではないかと前向きに捉えながら私は過ごしていたのでございます。
雨水で少々滑りのよくなった戸を開け、朝方の外気に身をぶるり、と震わせながらも庇から覗く空を見ようとしました。
案の定濃い霧が屋敷には立ち込めていましたが、いくらか陽射しはそれでも霧越しであっても見つけることは出来ます。日中はそれなりに陽が照ることになりそうだと、暑さで体調を崩されてしまわぬように冷えた水を予め井戸より汲み、足桶に使えそうなものを用意した方が良さそうだ、などと考えながら離れより少しの間離れようと廊下へ出た時でした。
躓いてしまうその時まで気付くことはありませんでした。着替えを済ませ、先ほどまで着ていた夜着を新しいものに替えようと抱えていたのを、躓いた拍子に落としてしまい、もう若くない私の体はそのまま前へと転がり、そうしてやっと、自分が何かにぶつかって転んだことを自覚しました。
『葵……、あの人は、いつまであそこにいるの?』
十数年ぶりに目にする大人の彼は間違っていなければまだ三十も半ばである筈なのに随分と老け込んだように見えました。以前の、あの御方のお側に仕えておりました頃は日々身なりを整えられ、一日三食しっかりと屋敷が用意した同じ食事に手を付けていたものですから痩せこけるなどという事もなく。どれだけ長い間まともな食事を、生活を送っていなかったのかと屋敷の医者が、今に始まったことではありませんが普段以上に声を張り上げて喚き散らかしていました。屋敷の西側にある療養室の寝台で体を起こし目が合った彼に、私は掛ける言葉が見つからず、彼女でずっと見慣れた筈の、残酷なまでに似たその“色”を前に、一度話すべきだと胸の内に決めた覚悟をその場で挫いてしまい、今しも来た道を戻ることしか出来ませんでした。
だというのに、十日と経たずして彼は再び私の前に姿を見せました。
大主様より許しを得たものの、当人から受け入れられぬ限り彼が彼女、雪那様に近付くことは認められないらしく、砂利の敷き詰められた東の離れの広い庭の真ん中に、彼はずっと頭を垂れて居座るようになったのです。
そのようなものを抱く資格が私にないことは分かっています。それでもそんな彼の姿を見て、私が先ず初めに抱いたのはいい知れぬ怒りでした。向ける矛先が違っているというのは分かっていました。それでも許されることなら詰め寄り、気が済むまで彼の、痩けた頬に平手を打ち付けてやりたいと考えが過ったのです。ですが日が経つと次第にその怒りも治っていきました。
一日、二日で引き下がることはありません。
三日四日が過ぎようとも微動だにしません。
五日が経ってもその場から動くことなく。
六日目になると一向に動こうとしない彼を見兼ねた門番の一人が近寄り、その肩を叩き揺らしましたが倒れることはありませんでした。
七日、医者がこんな所で死なれては困ると叱言を漏らしながら食事をわざわざ用意し、抵抗を示す彼の口に無理やり流し込んでいました。
八日目には前もって食事が日に一度用意されましたが、少なくとも彼は以降三日に一度しか手を付けることはなく、それなら三日に一度用意すればいいのではないかということで話は付きました。
九日目ともなれば季節が夏でもあることから少々異臭がするようになり、雪那様が休まれている間に女中らに水だけでも掛けてやればいくらかマシになるだろうと指示を出し、そうしてやり過ごすことが出来ました。
そして十日目、縁側の方へは近寄らないようにと言付けていた雪那様が痺れを切らしたように我慢ならず、庭先の彼の様子を遠目に見ていた私への元へと駆け寄ってきました。
初めは気にした素振りを見せていましたが、片目になってしまった目を覆い隠し、雪那様は知らぬともいいことです、と伝えればそれ以上視界に納めようにしてくれました。しかしそれも水無月が終わりを迎え、葉月を迎え、その暮れに差し掛かる頃まで続くと、一時は気にしなかったものに興味を示し出し、私が庭へ目を向けると決まって側に駆け寄ってきては、彼について尋ねるようになったのです。
『いつまで……でしょうね。』
曖昧に、返すことしか出来ませんでした。私は彼ではない。十数年前に彼とあの御方の間に何が起きたのかさえ、その全容を何一つ知らない。但し憶測を立てることばかりは出来た。あの御方が亡くなられて以降、忘れ形見として屋敷の皆に大切に扱われ育てられた雪那様は、時に私の手元から離れたりすることもありました。遠目に見るその横顔は幼い頃のあの御方にそっくりで、時折垣間見える活発さが、その昔屋敷の世話になり始めたばかりの少年に少しばかし似ていて。晴天を想起させるその、青い瞳はまんま、私のよく知る、彼、そのもの、で
……
『何を、お考えでしょうか?』
言葉を掛けるつもりはなかった。
スズムシが盛んに合唱を始める時節になろうとも、彼は庭から一歩も動くことなく居座り続けた。
『雪那様の、傍に居させていただきたいのです。』
『そのような事が許されると本気で御思いなのですか?』
私は、彼が幼い頃より本心では彼の事が嫌いでした。
あくまで私は……私は大主としてこの里で多くの民の暮らしを支える、扇の血筋の方にお仕えすることを誇りに生きてきました。それはあの日、杷勿が私を傍に置いてくれるようになったその時からずっと変わらぬものです。この御方の顔に泥を塗るようなことをしてはならぬ、この御方の役に立てるように努力を怠ってはならぬと寝る間も惜しむ、学のない何も持たずにそれまで育った自分を隠すことに躍起になっていたのです。
杷勿、貴女はそれに気付いていましたが止めることはしませんでしたね。私はそれが嬉しかった。私に機会を与えてくれる、都合よく信じてくださっているのだと受け止め、そうして貴女に少しでも答えられる、恥じぬ人間になろうとしました。
ですから貴女が時雨様と夫婦になられ、あの御方がお産まれになった時、貴女の手を煩わせぬようにと、私は自ら乳母に名乗り出ました。貴女からの信頼が他の誰よりもあった私にしかこの御役目は全うできないと、過信ではなく思ったのです。
私のような卑しい身分の者に貴重な機会を与えてくださり、隣に置いてくださった貴女の為になれる、私がここにいることを許してくださる扇の血筋に死ぬまで一生御仕えしようと、私はそう誓ったのです。
「それなのに、」
それもまた、扇の血筋に仕えることだと、自分に言い聞かせました。あの御方がどこからともなく腕を引き連れてきた薄汚れた浮浪児。聞くところによれば屋敷の西に位置するという、かつては罪人を留置するのに使われていた地下牢に棲みつき、屋敷の食糧に手を出し数年生き永らえたというではありませんか。
溢れ出そうになったものを必死に堪え、あの御方の望むがまま、並ぶ彼の世話を続けました。
自分を律せねばならぬと、常に正しさと愚かさを秤に掛けて、決して表に出さぬように心内にしまい込み、並ぶその姿をずっと見て参りました。
丁度その頃です。私の様子に気付いたのか貴女が私と夫を巡り合わせてくださったのは。そして、藤原の者が見合い相手としてやって来たのも同じ頃でしたね。
思えばそう、彼は昔から人一倍我慢強い子どもでした。
『私は彼女に、決して許されない言葉を浴びせました。』
屋敷に腕のある薬師として迎え入れられた方の弟子が、偶然にも歳が近かったことから共に過ごす時間が増え、どうにも相性が悪いのか取っ組み合いを始めることは少なくなく。その度にお弟子さんの方が痛みに耐えかねて泣き喚いてしまうのに対し、彼は弱音の一つも漏らさずに、気付いた時には一人で怪我の手当を済ませていました。
『許されていいわけがない、』
藤原の方が屋敷に居座るようになられた頃も、あの御方の思いつきで十も歳の離れた大人を相手に組み手をするようになった際も、相手が加減を間違えて腕の骨を折ってしまった時も、歯を食いしばるばかりで涙の一つ零さずに、折れた腕を庇いながらも勝てる算段がないと分かっているだろうに、それでも相手から一本でも取ってやろうと挑んでいました。
『それ、でも……っ』
悪ふざけが過ぎるとお弟子さんと一緒になって薬師様に叱られていた時も、罰として食事を抜きにされ夜半庭に放り出された時だって文句の一つ零すことなく、薬師様がお許しを出すまで大人しくされていました。
『今、この時ばかりは彼女の傍にいて差し上げたい、それだけなのです…っ!』
決して、嘘はつかぬ子ではありましたが、同時に人を庇おうとする癖のある子でもありました。
本堂に飾られている花瓶を割った時、自分は割っていないというのにやった本人だけがこの場に残れ、という言葉にやらかした当人だけでなく彼もその場から動くことなく叱られる羽目になりました。とうの昔に親に見捨てられた子で、少しそういった考え方が他と違うだけかと、陽が暮れて漸く説教から解放された後、ずっと正座をさせられていて痺れた足じゃ立ち上がれないと申すもので、背中におぶりとそれほど離れているわけでもない東の離れを目指しました。ふと、夕陽と小さな重みを背中に感じながら、どうしてしてもないことで一緒に叱られてやったのか?と尋ねますと彼は、一人じゃ怖いかなって思って、と己の考えを口にしました。
叱られる側からすれば確かに叱られること、そのものは怖いものでしょう。ですが一人で済むと分かっているものが二人に増えては、叱る側は余計に怒ってしまうことだってあるかもしれない。現に半刻もあればきっと済んだであろう説教は陽が暮れるまで続きました。
不器用な子なのです、彼は。
それは今も昔も何一つ変わらない。
体ばかりが大きくなっただけで、中身は未だに子どものまま。大人になれる貴重な機会を彼はただ、ただ運悪く得られなかった、それだけなのです。
「ですが、杷勿……、私は今がその時だと思うのです。」
雨が、降っておりました。
長いようで短い、あっという間のこれまでの人生、私の記憶に深く刻まれている日の多くは雨の日です。
彼は自分の罪は決して許されることのないもの、と。許されていいはずがないものだと、漏らすのです。
弱音とは無縁の、食いしばり続けてきた歯をまるで失ってしまったかのように。堪え方を忘れた、まだ、覚えていない幼子のように泣き漏らすのです。
その、ぎこちのない腕が。不器用で、誰かを自分の意志で抱きしめたことすらない腕が、自分へ縋る幼い命を抱きしめようとする。私の目には彼が、抱きしめ方すら未だに知らない、ただの子どもに映りました。
「ですから、これからなのです。」
いつか、いつの日か。
あの二人が手を取り合える事を、取り合える日が訪れることを、私は夢見ていたのです。
鬼ノ目 八十二話
どたどたと、忙しない音を立てながら雪那は廊下を走っていた。走っていたといってもそれほど長い距離ではない。
本堂と、自分が住まう東の離れを繋ぐ長廊下を、最近はあまり顔を見合わせる機会が少なくなってしまったかつての付き人(今だってそうだ)である氷室と肩を並べて歩いていたのだ。
今日はつい先刻まで、屋敷を出て前日に弥代が話していた、新しく春原討伐屋に加わった一員の、桜という自分と同じぐらい目立った“色”を持つ、“色持ち”の少女と初めましてなんて挨拶を交わし、二三刻ぐらい他愛もない話をしたり、里に来て日も浅いというから討伐屋の近所周りを案内したり、茶屋で氷の使われた甘味を前に舌鼓を打ったりとして過ごしていた。
朝の内は弥代も一緒にいたのだが、途中ふらふらとどこかへ消えてしまった姉を探すように、当の本人も姿を消した。別れ際の言葉だったのかもしれない、と思い出すのは明後日楽しみにしてるから、なんて普段なら絶対言いそうにない発言で。
弥代とその姉がいなくなった途端、それまで距離を保って遠くから自分の様子を見守っていた和馬が寄ってきたり、気付けば討伐屋から離れて屋敷の近くまで来ていたり。目と鼻の先に屋敷があるものだから自分は大丈夫です、と雪那が提案をし、和馬に桜を討伐屋まで送り届けてあげてほしいと言ったのはついさっきの事だった。
本堂の階段を登り、迷いなく右手の廊下へと歩みを進めると、角を曲がったその先で氷室と偶然にも鉢合わせを果たした。
最近はもうずっと和馬と過ごすことが多かったが、数年間見慣れたその姿が自分の横に並んでくれるのは、和馬には少なからず悪い気もするが落ち着く。
でも久しぶりにこうして言葉を交わせるのが嬉しんです私、と雪那は声を弾ませて、長い廊下を意図してゆっくりと進んだ。離れについてしまえば、すっかり体調のよくなった戸鞠がアレコレと世話を焼いてきて、ゆっくり二人でお話をすることが出来ないかもしれない。それを少しだけ残念で。歩幅を小さく、小さく狭める。
左手に広がる、相変わらず屋根よりも高い木々はない、季節の花々が植えられた中庭に目を向けながら。そういえば紫陽花がついこの間まではとても色鮮やかに咲いていて、なんて見頃を過ぎてしまったものさえも思い浮かべて、それ、で……、
「――違うのっ‼︎」
襖を開けて部屋に勢いよく転がりこんでしまう。畳についた掌が直ぐに熱を持ったような気がして、熱を振り払うように途端、声を挙げた。
「違うの……、何で、どうして私、あんなこと、を」
少しだけ、心の整理に時間を有することだろう。
だが、雪那は気付いてしまう。今までそうであろうと思っていただけで、実際は一度もそんなことがなかったことを誰よりも自分が一番分かっていたから。
だから、今になってやっと気付いた。
気付いて、しまった、のだ。
(それは彼なりの優しさで、私はずっとそれに甘え続けていただけなんだと、いう事に。)
雪那は、顔を覆った。




