三十話
先ほどまで桜としていた会話で自分が何を言っていたかを忘れたわけではない。弥代は彼女の、詩良の事をそんなに好きではなく、同時に嫌いでも決してなかった。
未だに彼女の事を自分は、どちらかと言えば知らない事の方が多い。
古峰の兄妹と言葉を交えていた時だって、どうしてあの二人が彼女のを事を警戒しているかも、芳賀を除いた討伐屋の面々の前で彼女の名前を口にすると、それまで続いていた流れが滞ってしまうのかの理由も、双子の姉などと、肉親であることを騙るのかも。
知っていることと言えば、甘ったるい媚びた声が本当は作りものの芝居がかったもので。甘いものを贈り物なんて言われて渡されて礼を述べる一方で、実は甘いものなんかこれっぽっちも好きではないこと。
それから、
『おやすみ、弥代。』
詩良は、弥代が寝るのを待ってから眠りについて、弥代が起きるよりも早くに起きている。
弥代は彼女がどのようにして寝ているのか知らないし、その寝顔なんてものを見たことがない。
日が登るには随分ある夜中にいくら目を覚ましても、いつだって彼女は起きていて。だから何となく弥代は、彼女は眠ることが出来ていないんじゃないか、なんて勝手にそんなことを考えていて。
でも、それに弥代が気付いたのは三月前の暮れの後で。
それについてだって話したかったというのに、先日顔を合わせた時に出来た会話といえばしょうもないものだばかりだった。
(けど……それなら、)
もう一つだけ知っていることがあったと、弥代はおもいだす。彼女の両の掌にあった赤い、傷痕。
彼女は自分がその傷に触れることを甚く嫌がっていた。中途半端な治りかけのようにも見えるが、古傷のようにも見えてしまった“それ”が、自分の体にも、似た場所にあるものによく似て見えて。彼女が嫌がっているのが分かって尚も、その傷痕に弥代は指を這わせて、おそらくはやっと見つけることが出来た、彼女との類似、共通点に安堵を覚えたのだ。
それは弥代が望んだ、“鬼”だとか、“姉”だからとかではない。そんな見たこともない、目に見えない繋がりではなく、もっと、もっと分かりやすい、はっきりと目に見えるもの。
「……詩良っ!」
自ら距離を詰めようと、弥代は路地裏へと進んでいく。
好きでも嫌いでもないのなら本心がなんなのかも分からぬ儘。
鬼ノ目 八十話
此処の所、自分はどうにも調子が優れないことを自覚していたからこそ、自分の浅はかな行いが招いたであろう結果に、僅かな苛立ちを腹の内で持て余しながら、詩良は自分を囲う男達を見た。
「ゴメンね、覚えがないや?」
無意味だと分かっていて慣れた笑みを浮かべる。
非力さを前面に出して泣き落とすという手は使えそうにない相手に映る。下手に弱い部分を見せればつけ上がってくる相手もいたりするが、この場にいる三人は相応の証拠か理由を持った上で自分を疑っているのだろう。
「覚えがねぇだぁ?」
それ見たことか、と。言いながら胸ぐらを掴んで顔を近付けてくる相手に、首を反らし距離を取りながら心の中で悪態を吐く。端からこちらの言い分に耳を傾ける気などないのだからまともに相手をするだけ無駄だ。
開口一番、こちらの都合などお構いなしに話があるとだけ言って、人気の少なそうな長屋の路地へとやや乱暴に引き摺り込まれた時点から分かりきっていたこと。落胆するだけ意味がない。
「だからぁ、身に覚えが無いんだってば。誰がそもそもそれで亡くなったっていうのさ?ボクみたいなのがやったていうならボクよりも小さい相手じゃなきゃ変じゃない?こんなにか弱い女の子が誰を殺れるっていうのさ?難しくないかなぁ?」
「言いてぇ事はそれだけかよ?テメェがいくらんな風に出来っこねぇって言ったてなぁ、あの晩あの場所でテメェを見たっていう身内がこっちにはいんだよっ‼︎十人いたって足りはしねぇ…、そんぐらいあの女は店にとっちゃ稼ぎ頭だったってーのにテメェはよくも…っ!」
「夜の間にあったことでしょ?見間違いなんじゃないのその身内の人の?」
「馬鹿言うんじゃねぇ!親父さまが嘘ぉ吐く理由が無ぇだろっ‼︎」
「……、」
すっかり頭に血が昇っているのだろう相手に何も期待はしていなかったというのに、思いがけず自分を目撃したであろう相手の正体が分かってしまった。
あぁ……店の主人か、と曲がりかけた腰を摩っていた痘痕顔の楼主を思い出す。
女を売る商売で明日の飯が食える店でありながら、美しい女を多く抱えている店だというのに楼主の顔がそんなだったものだからよく覚えているし、花車に早くに先立たれたもので夜が寂しいのだ、と歳を重ねている割に色々と旺盛な方で、裾を引かれた数は思い出す方が手間な程。
自分が贔屓にしている、気に入りの夫婦が少しばかり裕福になればと軽い気持ちで店を紹介した時には、若くして店を一人で切り盛りする若旦那を大層気に入り、数刻後には反物を広げて商いの話を始めていた。
三月前に亡くなった、彼を死に追いやった薬の出所を探す内に関わりを持った相手の内の一人だ。
彼が話していた、知り合いに偶々連れていかれた茶屋というのは、春を売り買いする場所で。自分に手を出すまでそういう事とは無縁、どちらかというと避けてきたつもりでいたと言っていた事があったものだから、彼が女を買ったとはどうにも思えず。
一人一人、彼の交友関係を辿っていけば一緒に行ったらしい知り合いも、足を運んだという店も検討が着いた。動き始めて三日と経たずにそこまで辿り着くことが出来たのだからかなり良好であったといえよう。
ただ彼の言っていた、お喋り好きな女性がどの女であるかが分からず。
客、男相手に酒を注ぐだけでは飯は食えない。相手に少しでも気に入られるように店の女というものはある程度は教養を身に付けなければならないし、喋ることも商売の一つだ。
女である自分が店に赴いて態々女を買うというのも変な話。それに、付き添いで女が連れていかれるなんてこともあったと耳にしたことが、生憎とそんな都合のいい相手はいないし、面識のある男の大半と自分は体の関係があるというのに、そんな相手を女を買う店に口裏を合わせていたとしても連れていくのもやはり変だ。
別に他人を信用していないわけではない。自分一人で動いた方がただ楽というだけで。
詩良はそうして楼主に近付くことにした。
(店の男手か、何かかな?)
その顔を漸くマジマジと見つめる。
薄汚い、人が寝静まってからしか顔を出すことが出来ない世界に生きていると言って過言では無いだろうに、胸ぐらを掴んできた相手の目は随分と澄んでいた。ただ、その顔にある派手な傷痕の方が目につく。歳の頃は二十を越えてはいそうに見えて、何となくだが過去この里を襲ったと言われている大火災に巻き込まれた犠牲者の一人なのではないか?と憶測を立てる。答えに興味なんてないけれど。
「何?じゃぁご主人様にでも見てこーいって言われて来たワケ?残念お生憎様、的外れだよ?」
「違えっ‼︎んなセコい真似するわきゃねぇだろっ‼︎親父さまだけじゃねぇ!俺らだってあの晩見たんだ‼︎あの女を追い回してるテメェをなっ!」
それは話が変わってくる。
相手の気が済むまで、話が通じるとは思ってないから付き合うだけ付き合ってそれでお帰り願いたいものだと考えていたというのに、相手のその言葉でそれが難しいものとなってくる。
眼前の彼が連れてきたであろう連れの男二人が同じように、自分も見たんだ!と声を荒げれば追い討ちとなる。
恐らくはここいらの長屋が今の時刻だと働き盛りの独り身の男らが多く住んでいることから、声を多少張り上げても問題がない、誰にも止めに入らないことを見越して選ばれたのだろう。相手が考えなしで自分に今日こうして接触をしてきたとはどうにも思えない。
ここで仮に三人を始末出来たとしても、多く考えられる手としては自分たちがこれから接触する相手が誰であるかを伝えていて、自分たちの身に何かがあったら相手を怪しめ、疑えというものだ。そんなことがもしあるとするならば、ここで始末したとしても何も意味はない。
何よりこの時刻で人が少ないとしても長屋の部屋の数や、そこに暮らすであろう人の数を考えると、ここで軽率な発言をするのも、行動に移るのもあまり得策とは言えない。
頭に血が登ったと思っていた相手だが、それが今になって芝居だったのではないかと、自分から何らかの言葉を引き出すための手だったのではないかと思ってしまえばそれまでだ。
今はとりあえず成り行きに身を任せるのが一番賢いかもしれないと、女を武器にしても無駄であることは手を引かれた時から察していた為に、多少痛い目に遭ったとしても諦めてしまおうと力を抜いた、その時、
「詩良っ!」
一瞬、耳を疑った。
幻聴、聞き間違えかな?と閉じ掛けていた目を大きく開いて、パチパチと瞬きを数回。
でも詩良が振り返ると、そこにはよく見知った、あの子(違う)が居て、
「弥代?」
路地の入り口あたりにいたあの子が、こっちへとやって来て。その途端、思考が鈍った。
「なっ、」
何、来てるんだよ?とそう言いたかったのかもしれない言葉が呑まれる。胸ぐらを掴まれたまま、厚下駄でだって全面が地を踏めていないような状況で、無理な体勢のまま振り返っていたのがいけなかったんだろうか。言葉を紡ぐよりも早く男の方から舌打ちが聞こえて、強く、奥の方へと引き寄せられる。そして、
「あ……、」
考えるのが遅くなった頭でも理解出来る。これは地面にぶつかる、と。転んだように倒れ込んでしまいそうになるのなんていつぶりだろう、なんて考えながら衝撃を覚悟するのに、でもそれはいつまでも訪れることなく、前に倒れかけた体は忙しないったらありゃしない。変わりと言わんばかりに後ろへと強く引き寄せられた。
「っぶねーな?何やらかしたんだよお前は?」
前へと倒れ込む変わりに、小さく尻もちをついたように地べたに座り込んでしまう。
腰と、前へと肩を抑え込むように回された二本の腕が、少しだけ頭上から降ってきたぶっきらぼうな、まるで心配をしているというよりは悪いことをした子どもを叱りつけるような言い方をする、その声が鼓膜を揺らす。
「……何、してるの?」
「ぁ?…………いやっ、いやぁ?なんかその、面倒ごとに巻き込まれてるのかと思って、そのっ、」
「は?」
本当に何を言っているのかと頭を抱えそうになる。
いや、頭を抱えるよりも詩良は柄でもなく声を荒げた。
「あのねぇ!ボクが巻き込まれてたらそれで何⁉︎キミがそこに一々首を突っ込んでくる理由が一体全体どこにあるっていうのさ⁉︎ワケが分からないんだよ?キミのお陰でそれまで考えていたモノ全部が水の泡なんだよ⁉︎分かる?ボクがどんだけ頑張って物を考えてたかがキミに理解出来るかよ!出来ないだろ?オツムがどうせ弱いキミにはさぁっ‼︎」
「は?」
眉が大きく歪む。
「いやいや……は?俺、今怒られてるもしかして?助けてやった相手に、お前に意味もなく怒られてねぇ?え……っ?信じられねぇんだけど?手貸してやったってのにんな文句言われる謂れがどこにあるってんだよ?おかしくねぇか?なぁ?」
「要らない手を恩着せがましく語るんじゃないよ?空気の読めない子だねキミは?全くもって信じられないよ?信じられないし信じたくもない。」
「随分ないわれようだな、おい?」
崩された調子は戻らないまま。導火線に点いた火が一気に火薬まで辿り着いて爆発をしてしまったようなものだ。腹の内で持て余していた苛立ちがここにきて、これをいっそ好機と捉えたかのように勢いよく暴れ散らかす。どうのしようもない。
「じゃぁ手出さずに見て見ぬフリして立ち去っておけば良かったっていうのかよ俺はっ⁉︎」
「そんなの自分で考えろよっ!キミのそんなことまでボクが考えてやる義理はないし、なんだったら何だよお前っ!この間会った時にまた会いたいなんて言っておいて、ボクが会いに行ったら留守にしてるとか……居ろよ部屋にっ‼︎会いたいんじゃなかったのかよ⁉︎」
「は………、はーーーーーーーーっ⁉︎」
そうだ、と徐々に思い出していく怒りがある。こんな機会は滅多にない。ここぞと言わんばかりに、一度爆発をしてしまったそのいきおいが収まるまでついでに撒き散らかすように、やはり柄でもなく喚き散らかす。それこそ子どものように。
「おま…っ、は……っ、だ、だって仕方ねぇだろっ!こっちにだってこっちの都合っつーモンがあんだよ!連絡の取りようがねぇんだから仕方ねぇだろ!大体一緒に住んでたモンを暫く留守にするってーだけで出ていきやがってよっ‼︎こっちだってお前がいつ帰ってくるかなんか分かるわけねぇだろうがっ‼︎なんでんなこと言われなきゃならねぇんだよっ‼︎信じらねぇのはこっちの…こっちの台詞だ馬ーー鹿っ‼︎」
「ば、バカーーーっ?」
勢い任せにこのまま地べたに転がして掴み掛かり黙らせてやろうかと、これまで考えたこともなかった考えが浮かび出した頃、漸く詩良は自分が置かれている状況を思い出し立ち上がった。
「ごめんなさいね、恥ずかしいところ見せちゃった。」
今更取り繕っても何も意味はないだろうが、自分をこの路地裏に連れ込んだ三人へと少し振りに向かい合う。
詩良が立ち上がってもまだ地べたに座り込んだままの(転びそうになる自分を引き寄せた際に、その勢いを殺すのに座る形となってしまっただけだろうが)あの子が、何かしら喚いているような声がしたがお構いなしだ。
「邪魔が入っちゃったからさ、今日はこのまま帰った方が賢くないかな?鐘が鳴ったら皆んな帰ってきちゃうかもだし。優しいボクからの提案。」
「そう簡単に引きさがれるかってんだっ‼︎」
彼らはそこまで賢くはなかったと知る。こんな乱入があったものだから出直してくれた方が双方きっと得を出来るだろうにそれをしないで目先の目的を果たそうとして、予め用意でもしていたのか全体がやや小振りな、木刀のような物を構え出す。
「話にならないな。」
これ以上面倒ごとはゴメンだというのに、とボヤいていると後ろから、全くだ、なんて勝手な返事が帰ってくる。
「あのな、この女が何かしら問題を為出かすのは今に始まったことじゃねぇ、言うて俺だってそんな長くいるわけじゃねぇけど、いつもの事だけどよ。
身内に手ぇ出されて、口挟まねぇ奴はいねぇだろうよ。」
おかしな話だ、と指を噛む。
先ほどまであった怒りはすっかり身を潜めたというのに、苛立ちだけが明確に残り続けているし、それはどうにもそう簡単には鳴りを潜めてくれそうにない。
苛立ちの正体なんて分かりきっているのだ。誰の手も借りる気のなかった、自分が一人で成そうとしていたことに首を突っ込んできたり、“鬼”だとか、“姉”だとか関係なく、なんて何時ぞや言い出してきた存在が身勝手に自分を“身内”などという括りに含んでいること。いや、それだけじゃない。
「キミはさ、ボクのことを少々見誤ってると思うんだよ、弥代。」
きっと届かない、そんな声量で呟く。
「キミが“鬼”であるのならボクだって同じだ。だってボクはキミのお姉ちゃんで、キミとボクは家族…二人ぼっちなんだから、そうじゃなきゃおかしい。」
――繕い、
「あんな…あんな人間達に、惨めにもボクが屈するとでも思ったのかい?馬鹿にするなよ?ボクが、ボクがあの程度の人間にそんな……、」
――装う。
「分からない、分からないなぁ?なんでそんなことを言うんだい?馬鹿だね?まだ期待してるの?何で信じようとするの?意味がないよ。忘れたらそれでおしまいなのに。」
――――違う、よ。
「違わないよ。」
「何も違わないでしょ?ボクとあの子の話だ。そこに他は何も要らない。要らないはずなのに邪魔ばかりが入る。お前も一緒だよ。お前がいつまでもそんなだから、弥代はボクだけを見てくれないんだ。きっとそうだ。だから、だから、やっぱり、」
「お前は邪魔だよ、 。」




