二十八話
弥代が腹を括るのにそれほど時間は掛からなかった。腹を括るなんていっても、そんな大それたものではない。ただ自分から相手に声を掛ける、話し掛けるというだけの話。
腕の中の風呂敷包みを抱え直すと先ず初めの一歩を大きく踏み出す。歩幅は広く取るのに対して足取りはなるべく慎重に。常に相手の死角であるかどうかを気に掛けながら、徐々に徐々にその距離を詰める。昨日の討伐屋で相良より受けた、行き当たりばったりに話すよりも、着地点を見据えた上で話した方が彼の相手は楽だ、という言葉を思い出しながら。
一方で先ほど別れたばかりの館林の、彼を見つけることがあれば討伐屋まで連れてきてほしいという頼み事には蓋をする。一々そんな送り届けてやる義理は弥代にはない。
それならなぜ弥代は彼に対し、春原に対し声を掛けようと自ら距離を詰め、歩み寄っているのかというと、それは彼の手によって抱えられている一匹の老猫を救うためだ。
恐らく彼自身その猫の正体が、自分が身を挺し今日まで退け続けてきた、人ならざる存在であることに気付いてはいない。屋敷の許可がない限り、里内では無闇矢鱈に刀を抜いてはいけない決まりがあったはずだ。普段の巡回であれば刀を腰にぶら下げることもほとんどなかった。
案の定、彼の腰に刀が不在であることを、後四、五歩もあれば手を伸ばして届きそうな距離まで迫り確認すると安堵し、なるべくいつも通りに見えるように姿勢を正し、声を発する。
「よ……っ、よぉ?なっ、何してんだよこんなとこで?」
少しだけ声が上擦ったような気がしたのは、多分気のせいだ。
鬼ノ目 七十八話
「よ……っ、よぉ?なっ、何してんだよこんなとこで?」
自分が話し掛けられたということに気付くのに少しばかり時間を掛かった後、相手がこちらを振り向いた。
その装いが青を中心に揃えられたものだからだろうか、“色”を知らぬ筈の髪もどことなく青みを帯びたように映る。
しかしながらそれも、整えられた毛先の隙間から覗く、どこか仄暗さを見せる“色”を見てしまうとどれも霞んで見えた。
色の括りだけに目を向けるのなら自分や友人である彼女も、彼と同じ東の生まれにあたり、同じ青を有しているはずなのにまるで違う。陽の下でその“色”を直視するのは、直近でも共に過ごす機会があったというのに、随分と久方ぶりに感じる。気の所為ではない。
なんだったら自分から彼に、春原千方に対して声を掛けるのなんてきっと、弥代の覚えている限りこれが初めてかもしれない。その程度だ。
「……弥代か。」
現に話し掛けられた当人はそれ以上を口にすることはなく、ジ…ッとこちらのことを見つめるだけ。自分から声を掛けたものの、どう話を運ぶかの目星を予め立てていたにもかかわらず、想定していたよりもどこか気まずい空気を感じ、用意していた次の句を中々紡げない。
これまでは話しているつもりがなくともこちらの独り言や、他へ向けた言葉に対し勝手に口を挟まれることが多かった。毎回というわけではないが自分がそれに腹を立てて上手く噛み合わないことが続くだけ。
長居をする気はないのだと、あまりに真っ直ぐ向けられる眼差しから逃げるように、目線を泳がせる。と、彼の手の中の老猫と目が合う。途端、猫が突然暴れ出した。
――にゃぁぁあご…んごぁあぁぁあ…んご…にゃぁぁあぁあ……にぎゃぁぁああ……
前脚の付け根に差し込まれた手の、動ける範囲が限られた中で必死に体をくねらせる姿が何とも痛ましい。少々聞くに堪えない、嗄れた喉をこれまた必死に震わせて、降ろしてくれと言わんばかりに老猫は藻掻くのだが、
「……嫌がってんぞ、そいつ。」
「…………そう、なのか?」
「どっからどう見てもそうだろ?」
言われてやっと彼の目が、自分の手元へと向けられた。すると忘れていたものを思い出したような薄い反応を見せてからその場に屈む。
「何……、してんだ?」
「後ろ脚が地に着けば嫌がらないかと思った。」
「いや、そういうんじゃねぇだろ?」
分かっていない顔をする彼に弥代は近付く。本当は近付きたくもないのを我慢して、その手元から知った猫を抜き取り、二本腕で抱え上げる。
「あんな抱えられたがあるか。自分が脇に手差し込まれて持ち上げられてみろ。嫌だろ。」
「……だから、後ろ脚を地に着けた。」
「んな中途半端も止めろ。抱えるならこうやってしっかりケツも支えてやりゃ、よっぽど下手くそじゃなきゃ嫌がられねぇよ。」
「………そうなのか、」
何か言いたげだ。
下手に言葉を交わすよりも、成り行きでどうにか目的の猫を彼から救い出すことが出来た。このまま別れの挨拶一つして、踵を返せばそれでこれ以上関わらずにいられるのではないかと、向けられる視線からまたしても逃げの姿勢を見せ、弥代は小さく後ずさってみせた。しかし、
「……、」
「……何だ、この手は?」
「……弥代、」
「んだよ……言いてぇことがあんなら言えよ?」
「……俺は、その猫に用がある。連れて行かれては困る。」
掴まれたのは羽織の裾だ。まだ屈んだままでいる彼に下から見上げられる。置いていかないでくれとせがむ幼子のように掴まれては、その手を払い除けることも難しい。デカい図体のくせして相手へ伝える仕草の一つ一つが子どものようで対応に困る。何より払い除けたくても弥代の両腕は猫を抱えるのに塞がっている。突っ撥ねる術が何もない。
「………………ぁあ、」
情けない声を漏らした後、後ずさった足を元に戻し、その場に立ち直す。それから猫を抱え直して、ようやっと春原と目を合わせることにする。
「どっか……、移動しねぇか?」
四方から向けられる視線に我慢の限界だ。だってここは、道のど真ん中だなのだから。
「探し物がある。その猫が……、似た形をしたもの口に咥えて走っているのを見た。だから追いかけて、抱えた。」
先日の駿河の一件で、弥代は相良より春原の耳の良さを聞いていた。自分ですら微かに拾うことしか出来なかった離れた場所の悲鳴を聞き取り、正確な方角を指差すことが出来ていたのだから嘘ではないだろう。
となれば人っ子一人分だけしか離れていないこの距離で小声で話すのさえ不味い。何より猫の姿をしている相手が人の言葉で喋り始めでもしたら、それは自分から妖の類であると名乗り出るようなものだ。妖怪討伐を生業としている事を知らぬはずがない、辰味噌屋の亭主こと、化け猫の辰五郎は弥代の足にしがみ付きながらその首を大きく振る。
「……似た形、だろ?お前が探してる物だって決まったわけじゃなくね?今こいつが持ってるわけでもねぇんだし。」
「口に咥えていたから、そのまま飲んだのかと。」
「どれぐれぇの大きさだよそれ?」
「…………これ、ぐらいだ。」
言うて手を伸ばす。探し物の大きさを宙に描き首を傾げる春原に、弥代は辰五郎を抱えて差し出す。
「猫の大きさこんなだぞ?んな大きさが喉通るわきゃ無ぇだろ。」
「…………そうか。」
まただ、と弥代は唇を尖らせた。
弥代はやはり春原のその、そうか、という言葉が得意ではない。
先の駿河で一時とはいえ、向かい合おうとしない弥代に対し、自分の言葉を聞き入れてほしい、と。どんな顔をして言ったのかははっきりと分からなかったものの、向けてくれた言葉を、これまでとは違う意志をいくらか良い方向で受け取ることが出来たというのに、気付いた時には元のまんまだった。
『今だけでも構わない。
今だけ、弥代が救いたいと望んだ、あの子どもを救える、その時までだけでいいから、』
『俺の、言葉を聞き入れてくれ。』
今だけではなく、常にそうあってほしいものだと思わずにはいられない。そんなことを言ってられる余裕はないからものだから余計に困る。
『彼はただ、貴女と関わりたい。
きっと、それだけなんです。』
弥代が聞かされていた駿河というのはあくまでの一帯の名称に過ぎず。かの地の名を知ったのは隣の宿場町を通過する時。
海沿いの集落に至っては相良からその名を教えてもらえることはなく。吉原宿を抜けたあたりでその晩は野宿をすることとなった。
この先にある小田原宿では旅籠を利用し体を休めるべきだという相良の提案により、少なくともあと二日もあれば里に帰れるという見立てを受け、やっとこの生活から開放されるのかと弥代が肩の荷を下ろしたのは言うまでもなく。
一日中歩き回ることなんてこれまでなかっものだから道中、春原と弥代が変わるがわるおぶったり、おぶらなかったり。それでも眠たそうになっても寝るのを我慢していた桜も漸く寝ていいのだと分かるなり、誰よりも先に寝入ってしまった。疲れて当然だ。
前々日の晩、相良が起きているからと寝入ったはずの春原も桜に続き、早々に体を横たわらせて寝入っていた。痛む素振りを見ることはなかったものの、人間離れした交戦の中で怪我を負っているのは間違いなく。しかし相良の言う、休ませておけばそれで良くなるという言葉を信じて、弥代は気に掛けるのを止めた。
「俺はまだそんな疲れてねぇからさ。その……、相良さん休めば?」
最悪明日には旅籠を利用することが出来るのなら尚更、一晩ぐらいだったら寝ずとも自分は過ごすことが出来るのだからいいだろう、ぐらいの軽い気持ちで弥代は相良に話を持ち掛けた。
海沿いの集落を抜け江尻宿に着いても休むことは許されなかった。自分の上着を桜に被せ、人目のある場所では彼女の“色”が目につくことを避けるよう。たとえあの地の者が桜を思い出すことがなくとも気を抜くのはまだ早い、と。道中の彼は随分と気を張り詰めていたように弥代の目には映った。当たり前のことだろうが今この時ぐらい、人目のない野宿の、誰もが寝静まる夜ぐらいは休んでほしいというただの気遣い。自分では至らぬところが多いものだから多くを知る相良頼りになる日中は任せたいという、これは優しさとは別物だと言い聞かせながら。
「そうですね、もう少ししたら御言葉に甘えさせていただきましょうか。昨日の朝、貴女に蹴られた背もまだ痛むものですからね。」
これ見よがしに腰を摩り、痛い痛いと溢す態とらしさに辟易する。前日の朝に自分が蹴り飛ばしたのはそうだが、それほど強く蹴ったわけでもない。大袈裟に前のめりに転がっていはしたが、それはその前の、彼とのやりとりがあった上で変に繕うのは面倒だ、と接し方を変えただけで。そんな風に言われる筋合いはどこにもない。
が、日が登れば街道沿いで道に迷うようなことはなくとも、弁の立つ大人が先導してくれるに越したことはない。相良を追って駿河を目指すその際は、関所を抜けるのが面倒だと春原と二人関所破りをし、山の中を突っ切たものだが帰りはこれが許されない。行きにはいなかった桜の存在があるからだ。
『通行証に関しては、ある程度融通の効くものを扇堂家から前もって渡されています。伽々里が荷を用意したのでしたら渡さぬわけがないと思いますが、中の物は全て確認されましたか?』
『…………、』
相模国の大半を統治しているといっても決して過言ではない扇堂家の、その名は隣国へも広く知れ渡っている。周辺や名の知れた街道、そこに位置する宿場町であれば、扇が用意した手形一つでどうとでも出来ると相良は話していたが、いくらか口が達者でなくてはならない。弥代がするよりも相良が適任というだけだ。
二度と関所破りをしないことを約束させられ、それ以上咎められることはなかったものの、背中を蹴りつけたことはまだ根に持っている様子に嫌気が差す。
「謝らねぇからな、俺は。」
「誰も謝罪の言葉は求めていませんでしょうに。」
すっかり寝息を立てている二人へ彼の視線が向くのを、弥代は静かに追った。
「一旦は距離を取れて良かった。そういうことにしましょう。」
「小田原までまだ結構距離あんだろ。明日も一日中歩き通しになんだろうし、やっぱり少しでも休んどけアンタは。」
「もう少ししたら、と申したと思いますが?」
「何?何かやり損ねたことでも思い出したわけ?」
「えぇ、少々。
どうにか話してから帰り着きたいものだな、と考えておりまして。」
「?」
佇まいを改める、その迷いのない眼差しが弥代を射抜く。
「弥代さん、貴女は………」
「いつまで探す気だよぉ……」
「……もう少し、もう少しだけ…だ。」
「ったくよぉぉお……っ!」
離してくれ、と言っても縋られる。抱えていた猫姿の辰五郎を降ろしてから手を叩いてもまるで気にしない。赤くなる手の甲に嫌な気持ちをするのは弥代の方だ。
後で時間のある時に豆腐屋の件を聞きに行くからな!と傍から見れば誰に掛けたのかも分からない一声に、辰五郎の嗄れた返事だけが返る。
どうしても大切なものなのだ、と零す、春原の訴えにさっきのそうかは何だったんだ⁉︎と声を荒げながらも、裾を掴まれたままでは何も出来ない。
里のあまり足を運んだことがない場所で二人、羽織の裾を掴まれたまま移動を与儀なくされる弥代は踏んだり蹴ったりだ。もうどうとでもなってくれと言わんばかりに叱言を漏らしながら前を行く男に着いていく。静かにしてやるつもりは毛頭ない。
「大切なモンだってんならなぁ!しっかり紐で括り付けておけよ‼︎」
「括っていた。でも、紐そのものが切れてしまって……」
「普段から気に掛けておけよそんぐらい‼︎」
道の往来で裾を掴まれた時よりは視線も少なくなったものだが、それでもどうしても見られている感覚を味わう。
この辺りでは見慣れぬ二人。並ばずとも随分と背が違うのが見てわかる。片や一目でわかる目立つ“色持ち”。ぱっと見でもう片方は色を持っていないように映るやもしれない。以前も思ったことだが、彼のあの前髪は隠れ蓑になる。
「弥代、機嫌が悪いか?」
「そう見えんならそうなんだろうよっ‼︎一々確認してくんなっ‼︎」
「……そうか。だが、もう少しだけ一緒にいてくれ。」
「もう少しもう少しもう少しっ‼︎さっきからずーーっとそればっか‼︎いつになったらそのもう少しは終わるんだよ⁉︎」
「…………もう、少し……だ。」
「あーーーーーーーーっ‼︎もぅ‼︎」
言ったのは確かに弥代だ。
『それ…その、そうかっての止めろよ。言いてぇこと、してぇことあんなら言って、その……。ちゃんと口にしろよ。』
だから言ってしまうと今の弥代は春原のしたいと思っていることに付き合わされているだけで。ただそれは“今”の話ではなく、今後を含めたこれからのつもりであったというのに通じることはなかった。
「最後に見たのはいつなんだよ⁉︎」
「駿河のあの晩?」
「弥代…、弥代……、何を怒っている?」
「俺が怒ってるってのが分かんだな⁉︎じゃぁ何で俺が怒ってるかまで分かるか⁉︎分かんねぇだろっ‼︎分かんねぇ内は着いてくんなっ‼︎…って言ってる側から裾を掴もうとすんなっ‼︎離せっ‼︎」
「分からない。分からないが、離すと置いていかれる。それは嫌だ。」
「俺も嫌だーーーーーっ‼︎こんな見つかりっこ無ぇもん探すのに延々に付き合わされるのはごめんだぁああああ‼︎どーせっ!どうせ帰ってくる途中にでも落としたんじゃねぇのかよ⁈何でこんな場所ちんたら探してんだお前は⁈日が暮れるわっ‼︎」
「猫が…、咥えていたと思ったから追って。それでこの周りを見ていただけだ。」
「アテが外れたなっ‼︎飲んじゃいねぇし、本当にお前が探してる物かも、違うんじゃねぇのかって俺言わなかったか⁉︎」
「………言っていたかもしれない。」
「ほーーーーーら見ろっ‼︎」
だからもう掴むな!と今度こそしっかりと叩き落とす。
もう付き合ってられん、と背を向けて弥代は駆け出すのにもう躊躇はなくて。弥代が自分が持っていた風呂敷包みの存在を思い出したのは、自分の暮らす長屋に戻ってきてからだった。
「俺が、何だってんだよ?」
「いえいえ、これはその。ただの気持ちの整理として軽く聞き流して下さって構わないのですが、貴女こそもう身体は大丈夫なのかと思いまして。」
「身体?」
相良はゆったりとその口を開いた。
「春原さんが言うには随分と煙を吸っていた様子だったと。首後ろもベッタリと、固まっていましたが襟元が血で染まっていました。軽い怪我にはどうにも思えず。
意識を手放してしまう程の状態であったにも関わらず、一昨日は目を覚ますのも早かったですし。」
「“色持ち”、だからな。」
「“色”を持つから必ずしも怪我の治りが早いというのは言い切れませんがね。」
「………。」
弥代は言葉を詰まらせる。何となくだが目の前の相手が何を言わんとしているかを勘付いてしまったからだ。薄々ながらもどこかで、この男は自分の正体を分かっているのではないか、と考えていた。
出会ったばかりの、まだ関わり合いの少なかった頃と比べ対応の違いには気付いていたのだ。
「やはり聡い。ですが物を知らずどうにも幼い。ちぐはぐなまま未熟ですね、貴女は。」
逃げる気はない。でも返す言葉一つ未だに浮かばない。だというのにこちらが何も言わずとも綺麗に汲む眼前の男を畏怖する。
「怖がらせたいわけではありません。ただ、私は貴女と。弥代さんとお話がしたいだけで。」
「聞き流してもいいんじゃなかったのかよ…、」
「おや、真面目ですね、貴女。」
「ど…どこ、やったっけ俺?」
見知った顔が見えてくる頃、漸く弥代はその足取りを緩めた。春原の物探しに付き合っている内にお天道様は真上を通過したようで、右手に伸びた影を尻目に汗を拭う。そしてやっと二刻程前に日下呉服店で受け取った風呂敷包みがないことに気付き、声を上げた。
皺になってしまわぬように、汚れてしまわぬようにと大切に腕の中に抱えていたはずだ。強く握りしめたり、乱暴に扱ったりしないように、また暫く顔を見ていない彼女に贈る為に用意したものだ。どうしてしまったのかと焦る。駿河へ行くことになる数日前に顔を合わせた時、次に会う時には渡したいという旨を自分は彼女につたえていたというのに、だ。これで渡せなかったどうしてくれるのかと責任転嫁したくなるも相手が浮かばない。
しょうがないからと、これまで走ってきた道を戻って、そうして探そうと。陽が沈んでしまうまでもまだいくらか猶予はあるはずだからと、弥代は行動を始めたのだが……、
「無いっ‼︎」
盗人を疑っているわけではないが、元いた場所まで戻ってきて辺りを見渡し何もないそこで棒立ちになってしまう。春原を見つけた道の往来から、彼に引っ張られて付き合わされた失せ物探しの道。春原に会う前に館林と腰を落ち着かせた水路沿いだったり。
折り返してくるだけで日はぐぐぐっと一気に西の空へと傾いてしまった。気が早すぎる。
辺りが暗くなってしまっては物を探したくても灯りが少なくなってしまい難しくなる。探すのは明日にした方がいいのかと考え始める。今日にこだわっているわけではないが春に袖を通した時から、自分よりも彼女の方が似合うのではないかと思っていた羽織の仕上がりを一目見たかった気持ちもある。
これならその足で彼女を探したりなどせず、一度家に寄って置いてから外に出ればよかったと頭を抱えたくなる。いくら見渡しても無いものは無いのだから戻った方が良いと、家に着く頃にはどっぷりと陽も暮れることだろうと踵を返すしかなかった。
『そんな私の言葉一つ、拾わずともいいものを気に掛けて。やはり面倒臭い方に違いありません。』
『周り諄いのは無しにしてくれ。こっちだけ疲れてはいるんだ。言いてぇ事はっきりして、それで終わりにしてくれ。』
頭を下げることなんて絶対しない。それでも本心を告げる。思い返せば何も隠していたことではないし、ただ向き合えたかを問われれば未だにどうするべきなのか、自分の中に答えと呼べるものがないだけで。
今回の駿河での一連の出来事は彼の、相良の持ち得る知識がなければ無事には済まなかった。多くを知る彼が寧ろ自分の正体、弥代が人間ではないことに気付いていないというのも変な話だ。納得せざるを得ない。
『言われもしないことを当てるようなことは流石の私でも出来はしませんよ。知っていることをただ知っているだけ。貴女が人の身ではないというのは、貴女と同じく人ではない、彼女から聞かされていたという、それだけです。あまり評価されるのも好きではありませんので。』
言うて、相良は続けた。
『私はただですね、弥代さん。
貴女にもっと知ってほしいだけなのですよ。』
「知って、ほしい?」
「彼女が言ってはいませんでしたか??貴女はもっと人を知るべき、関わるべき、だと。」
言われて弥代は相良が彼女と口にする相手が、あの薬師であることに気付く。覚えのある、忘れようにも忘れられない言葉だ。
彼女が、薬師を自ら名乗り人間に寄り添おうとする人ならざる存在の彼女から先日、六月の半ば頃に掛けられた言葉に違いない。
薄々気付いてはいたことだが彼女と眼前の男は討伐屋においても何やら深い関係にあるのだろう。その言葉が、向けられる眼差しの奥にあるものが近しい時がある。何かあると言われた方が自然な程だ。
だからといってその答えを弥代が知るはずもなく。言われて、そういえばと思い出すだけだ。
「伽々里の考えを全てを鵜呑みにするというわけではありませんでしたが、今回巡り巡って貴女とこうして言葉を交わす内に、何故彼女が貴女に対しそのような考えを持つようになったのかが、まだ少しだけですが、見えてきました。」
「それが、なんだってんだよ?」
「貴女はきっと、これまで一つの場所に長く留まることはしなかったのでしょう。逃げるばかりの繰り返しで、そうしてどうにか自分を守ってきたのではないでしょうか。その自覚がなくとも、時に体は勝手に動いてしまうものです。何もそれは責められるようなことではなく、生きていれば誰でも当然のこと。」
弥代はその意味を汲めない。
「ですからもし、貴女が今の場所を惜しむような事があったとしても。今の貴女は惜しみつつもまた逃げてしまうだろうな、と。折角得たものを失ってでも生きる道を選んでしまう姿を思い浮かべて、残念に感じたまでです。」
「は?」
「何でお前……こんなところにいるんだよ?」
「弥代……、お前が帰ってくるのを、待っていた。」
「うぇ……っ、」
恩を感じているのは嘘ではない。
駿河で直面した出来事においては自分だけではなく、春原に相良の三人の内、一人でも欠けていたら無事に済みはしなかったことを弥代は理解している。
何よりもあの晩、あの宿の庭先にて先ず春原が自分を救ってくれねば怪我が治る猶予もないまま、最悪の場合死んでいた可能性だってある。命を救われたというのは大袈裟かもしれないが、それに近いだけのことを春原はしてくれたと思えば、恩の一つや二つ……、
(でもそうじゃなくてーーーっ‼︎)
苦い薬でも口にしたように顔を皺くちゃにして弥代は唸り声を上げた。
その恩を忘れたわけではないのだが、それ以上に目に余ることが多すぎる。これまで春原に対して抱いてきた不信感や、馴れ馴れしい距離の詰め方に感じた嫌悪がたった一度のあれそれで拭いきれるわけがなかった。これに関しては春原が悪いというよりも(それを弥代が抱く原因を作ったのは彼本人ではあるものの)、弥代の純粋な気持ちの問題であって。
だから、その
「猫を抱えた時も大切そうにしていた……ように、見えたから。失くせば困るかと、思ったんだ。」
「んぅぅぅうううっ‼︎」
違う違う違う違う違うっ‼︎と弥代は頭を抱えたくなる。分かってる、分かっている、分かっているんだ。返すべき言葉も、見せるべき態度も、向けるべき表情だってどんなものか分かっている。それなのに出来ない。どうしても出来ない。いっそのこと、相手が春原じゃなければ誰にだって出来る自信があるぐらいだ。それが出来ないのは先述の通り、これまでのあれそれがあって、それによるただの弥代の素直になれない気持ちの問題であって…。
「お前はっ‼︎」
やっとの想いで絞り出した声が早速詰まる。だってそうだろう?と天を仰ぎたくなる。
自分が先刻彼に対してした仕打ちは決して褒められたものではない。寧ろあんな風に突っぱねて失せ物探しを放棄され、一人置いて行かれた立場で彼はあるというのにも関わらず、何でそんな事を自分にした相手を気に掛けて、相手の持ってたそれを抱えてわざわざ長屋まで足を運び、相手が帰ってくるまで待っていたのか?と、問い正したくなる。(何故春原が自分が帰ってくるまで待っていたと分かるのかは帰ってくる道すがら、同じ長屋に暮らす住人から、お前さんの部屋の前で人がずっと待ってんぞと声を掛けられたからだ)
「弥代のではなかったか?」
「俺んだよ!探してたよっ!どーもなっ‼︎」
ありがとうの“あ”の字すら出てきやしない。なのに春原は一切気にした素振りは見せない。
最早奪うような勢いで春原から風呂敷包みを受け取る。「弥代ー、アンタそれはないよそれは?礼ぐらいちゃんと言いなっ!」
「うっせーなっ‼︎横から口挟んでくるの止めろよっ‼︎」
日中遊び回ったものだからもうおねむなのか、器用にまだ小さい五つ子を抱えた隣の長谷女房が横槍を指してくる。言われなくたって分かってるそんなもん‼︎と歯を剥き出しにして叫くも、礼を言われて然るべきの当人は、用が済んだと言わんばかりにその場を立ち去ろうとしていた。
「まっ‼︎」
反射的に掴んだのは彼の羽織だ。
いつぞや――、そう、あれは確か初めて会った時にも一度その羽織の裾を掴んで、彼に握らせるなんてことをしたような、しなかったような…。
「…………何かあるか?」
「いやっ、なにか……別に、ありはしねぇ…っ、けどよ、」
「あまり遅く帰ると伽々里に怒られる。それは嫌だ。」
「別にそんな時間は掛からね………そ、そうじゃなくってっ‼︎」
「……なんだ、分からない?」
「俺だってわっかんねぇよ‼︎」
変に意識しすぎなのだ。それだけは分かる。
気にしなきゃいいだけの話と割り切れればそれでいい。それで済むだけの話、なのに。
『手始めに、先ずは春原さんと距離を詰めてみられては如何ですか?』『だって貴女が言い出したんですよ?ですから私はただ頼んだだけだというのにそんな騙すだなんて人聞きの悪い…。同じことを態々二度も言う趣味はありませんからね。』『は?どう距離を詰めればいいか分からない、ですか?貴女……えぇ…?それはいくら何でも無理がありましょう?』『本当に知りませんね貴女は。そんなもの呼び方一つでかなり違くなりますよ。』『悪い大人だなんてそんな誉めたって何も出はしませんよ!大人に夢を見てはいけません馬鹿を見ますよ!あーっ、おかしな方ですねぇ貴女は。笑いすぎてお腹痛くなってきましたよ私…、』『それでは、』
『どうぞ頼みましたよ弥代さん。』
「だーーーーーーっ!くそっ‼︎」
手放した、帰っていいぞといったその背中を馬鹿みたいに必死に追いかける。離してからそんなに時間は経っていないし、彼の普段の歩幅を考えればそんな遠くまで移動していないのは分かりきったことなのに、それでも今度もまた勢い任せで、いっそどうにでもなれ!と言わんばかりに駆け出した。
そして、
「ありがとなっ!千方っ‼︎」
別に何も凄くはない。だって弥代は普段から雪那や和馬のことだって下の名前で呼んでいるのだから。彼等二人と幼馴染であるという春原に対してだけ今まで下の名前で呼ばなかった方が不自然だったのではないかと言い聞かせる。そうして正当化して、それで、
「じゃぁなっ‼︎」
返事を待たずして弥代が逃げ出すのと同時に、暮れ六つの鐘が榊扇の里に鳴り響いた。




