二十七話
梅雨のジメッとした空気がいつの間にやら乾いたなと感じる頃には、暦の数も一つ増えて毎年夏がやってくる。
それでも大山を背にした屋敷には、山沿いに下ってくる、少しだけひんやりとした風が流れ込んでくるものだから、日差しを遮る物がない、広く平坦な土地が広がっている里の中心地に比べればいくらか過ごしやすいものなのだろうと雪那が気付かされた。
この季節ばかりは下ってきた冷気が心地よく、逆に他の季節は秋であろうが春であろうが関係なく、部屋の隅で火鉢を用意して過ごす程だった為、どちらかといえばあまり好きでなかった。
昨年に比べるとやはり屋敷を出る機会が徐々に増えており、足を運ぶ範囲も広くなった為に、東の空から降り注いでいたものが、気づけば西の空へと傾き始める頃まで外で過ごすようになっていた。
陽が沈む、それが合図のように里の方々から一斉に、まるで示し合わせたように鐘が鳴る。暮れ六つの報せが響けば、日中に開いていた店の多くは暖簾を下ろしてその日の商いを終わらせるのが殆どだ。夏の一刻は大変長く感じられるのだな、と春よりも長く姿を見せる夕焼け空を見上げながら、屋敷の夕餉に間に合うように帰らねばと、用意された牛車に手を貸されながら乗り込む。首筋に浮かんだ玉汗を軽く手の甲で拭いながら、皆がそうであるように自分も家へ、自分の帰りを待つあの屋敷へ早く戻りたいものだと、妙な恋しさと寂しさを感じて目を細める。
昨年の春先には思いもしなかったことだ。
「ということですので弥代ちゃん!七月二十日の晩は都合を空けていただきたいと思います!」
「何が、ということで…だ?脈絡がねぇな?テメェの都合で振り回してくれんなっていつも言って…………あっ、いや別に言ってはねぇな?そんな頻繁に言われは…………えぇ?でも俺いっつもお前に振り回されてね?だってこの間だっていきなり祭があるからって二人揃って牛車に……牛車ん中……んぐ、……中におれんほほ事、押し込んでほぉ……んぐえぇんが?」
「話しながら食うのも迷い箸すんのも先っちょで人ん事指すのも止めえやっ⁉︎」
ドンッ、と卓上が揺れる。
衝撃が来る前に、前持って自分の分の丼を両手に、持っていた箸は口で咥えてと弥代はまるで気にした素振りは見せずお構いなしに食事を続けた。
「自分に言われてる分かってて何も言わんで食い続ける意地汚さっ‼︎信じられんわホンマっ⁉︎」
「食事時に耳元でぎゃーぎゃー猿みてぇに喚き散らす方が俺ぁどうかと思うがな?」
「だから先で人ぉ指すな言うてんやろっ‼︎」
「………ふふッ、ふ……、」
「どこに笑えるところがあったんだよオメェは?」
迫ってくる形相を押し除けながら持ち上げた丼を卓の上にと戻し、大きめの平皿の上に盛られた天ぷらを一摘み、丼の米の上に乗せてから齧り付く。薄く切ってあっても歯を立てれば分かる歯応えと、ツユに浸さずとも衣の微かな塩っけと、ネタ本来の甘みが感じられて美味いったらありゃしない。
こんなに美味いもんがあるのならもっと早く知りたかったものと零せば、八月の暮れあたりにはどっしりと大きく立派な南瓜が里の商店に並ぶようになり、同時に旬の食材として夏の茄子同様にネタに含まれるのだと雪那が話すもので。
「そいつはもう次も来るしかねぇなっ‼︎」
翌月も是非来たいものだと、弥代はいつになくハッキリと自分の意見を口にしてみせた。
「なんつー意地汚さや。」
「一々うっせーんだよ!突っかりでもしなきゃ何も喋れねぇのかお前はっ⁉︎」
白髪と見違えてしまう、短くご機嫌そうな毛先が今日も一層揺れている。額が触れるか触れないかの至近距離で揃いも揃ってガンを飛ばし合っていれば、また控えめな笑い声が聞こえてきた。
「いや、だから何も別に面白かねぇだろ。
……じゃなくて、さっきの話。何だよ?二十日に何かあんのか?」
「あぁ…すっ、すみません、あまりにも見てて可笑しくって…ふふふっ、その…えっと、二十日……そうです二十日についてですよね?」
整えた箸を卓へと戻すと、雪那は小さく手を叩いて弥代を見た。
「七月二十日は海開きの日でもあるのですが、馬入川の先の地では昔から神輿を担がれて入水をされる…?少々風変わりな風習があるそうなのです。」
「…………は?入水?」
弥代は和馬に説明を求めた。
「弥代ちゃん、前にワイらが誘った比々多神社であった祭り覚えとる?」
「あー……アレだろ?男児の成長を祝う?端午の節句ってやつ。」
「そうそうそれそれ。足運んでみたら国府祭いう祭りの方がやってたね。
これが相模国の中でも古くから続く四つの社……あっ、呼び方一緒やけど君やなくてね?」
「いや今の要らなくね?一々挟まなくていいからそういうの?」
「その四つの内の社ん一つ。一ノ宮・寒川神社の神輿に纏わる話なんやけども……」
今は昔などという切り出しから始まるほど言うてそんな昔の話ではないのだが、なんてよく分からない前置きを挟んだ後、和馬は話し始めた。
先日の駿河での一件があった際、相良が一方的に話していた話にもチラホラ出てくると、どこか聞き覚えのある言葉を弥代の耳が拾っていくのだった。
天下人として今も語り継がれることが多いのだという将軍家が長きに渡り島国の政権、梶を切っていた時代の総称を江戸時代と呼ぶ。その統治は凡そ百五十年に及んだという。その中でも細かく分けられた時代の名前が多く存在しており、天保という時代の出来事が起源とされた祭りだろうだ。
「この前あった国府祭の渡御した帰り道で争いに巻き込まれてな、担がれてた神輿が相模川…馬入川の途中で落ちて見つからなくなってしまうことがあったんやと。川ぁ流されて海に行ってもうたら戻ってくるのなんか期待できない、海は広くて途方もないもんやろ。
でもな戻ってくるなんて思えんかったもんが数日後、南湖の海で網を引いていた人が、なんと海ん中に沈んどった、流されたはずの神輿を見つけて引き上げられて。
直ぐにその報せは神輿が納められていた寒川神社に届き、四日もせん内に無事に神輿は神社へと戻されたっていう謂れがあるんやって。」
「へ……、へー?」
「露骨に興味のなさそうな面すんなや、教えろ言うたんは君やろが。」
「……いや、その何だ?謂れは分かったけどよ。それがどうして神輿をわざわざまた入水?海に沈めてってのを毎年するわけに繋がるんだよ?」
弥代のそんな疑問を受け、和馬が確かに?と声を漏らす。説明を求めたのは自分だが、彼が知っているのはその祭りに関する謂れのみなのしれない。分かりやすく眉間に皺を寄せて腕を組み、何でかな?と大きく頭を傾ける木偶の坊のような男から視線を逸らし、この場に居合わせたもう一人を見遣る。
「……話したそうだな?」
「えぇ!はい!その先のお話でしたら直接美琴様に教えていただいたばかりですのでよく覚えていますっ!」
緩やかに目尻が下がった。
「弥代ちゃんは宿場町と宿場町の間にある村をなんと呼ぶか知っていますか?」
「知ってると思うかそんなもん?何か変わった呼び方でもあるのかよ?」
宿場町の間にある村は昔から“間の村”と呼ばれていたのだという。東海道の藤沢宿から平塚宿の間に位置する間の村・茅ヶ崎。
先ほど和馬の説明の中に出てきた南湖と呼ばれる地は、立場のある農村地帯であった。南側には大海原がどこまでも続いており、漁場が古くから盛んであったのだという。
同じ茅ヶ崎の地には鶴嶺八幡宮という神社が存在し、天保の頃よりも昔から浜辺への神輿渡御が行われていたとされている。
それらが合わさったものが今の時代、毎年七月二十日の夜更けと共に、神輿が南湖の浜へと運ばれていく。一年に一度この日の行事で神輿の禊ぎが行われていると、雪那は自信満々に話してみせた。
「……え?それだとその祭りって、神輿が海に入るのが二十日の朝なんじゃね?二十日の晩って言ってなかったか?」
「ふふふっ、それはですね!」
それは武蔵国で知られる両国川の川開きが源流とされており、相模国では時代の移り変わりと共に、元は六月・水無月に行われていた水神祭が七月二十日に行われることで落ち着いたらしい。
「そしてなんと!今年はその晩に花火が打ち上がるのですっ‼︎」
ガバっと卓を乗り越えんばかりの勢いで体を前に突き出してくる彼女に、弥代は驚いて素っ頓狂な声を漏らしてしまう。
「いっ、いきなり何だよビビらせんな⁉︎」
「大目に見たってよ弥代ちゃん。君が留守にするよりも前から雪那ちゃんずっとこれについて話したくて話したくて…君に話す機会窺っとたんやから。」
「何の話だよそれ?」
身振り手振りで卓の先で何やら楽しげに話す雪那に視線は送りながらも、小声で耳打ちをするように話しかけてきた和馬に耳だけを向ける。
「氷室様の稽古あったやろ、君が連れてかれた……伽々里さんに髪黒くされて落ち込んどった時。アレのちょっと前に美琴様の手伝いの延長で、面倒臭い花火職人の爺さんとこ行くことになったんやけど。雪那ちゃんが頼み込んで、ここ数年上がることがなかった花火が打ち上げられることになったんよ。
……それで自分の頑張りでどうにかなったもんを、まぁその…手柄言えば分かりやすいか君なら。一緒に見てくれる相手を今探しとってな?」
「――ということがございまして弥代ちゃん!打ち上げ花火を一緒に観ませんか⁉︎」
なるほど、話は分かった。
鬼ノ目 七十七話
「あぁ…そうだったな。」
明け六つの鐘が遠く聞こえる朝、部屋の戸口の横にある格子窓の隙間から熱く感じる陽射しが差し込んでいた。
寝相が普段から悪いなんてことはない筈なのに、今日に限ってどういう風に自分は寝たのかと頭を捻りたくなるような、そんな体勢で目を覚まし、直ぐに差し込む陽射しから逃れようとしたのではないかと思い至る。
昨日一昨日と、朝方は掛けていたはずの布団がないと、手探りで探していた気がするのだが、よくよく思い返してみればそれは昨日ではなく一昨日と、その前の…
「……一昨日の前ってなんて言うんだっけ?」
でんぐり返しが失敗したままのような恰好から元に戻り、まだはっきりと回りきらない頭を動かす。
覚束ない足で立ち上がり、草履を履くのではなく裸足で狭い土間に下りて、水回りの、台所に用意した桶の水を掬いそれで顔を濡らす。
「……何だっけ?」
沈んだ。
「やぁやぁこんにちは弥代さんじゃないですか?
日を改めてもらっちゃって本当にごめんなさいねぇ。でも随分と遅かったじゃないですか?二日もあればってお伝えし損ねていましたかね私ってば?それとも何処かへ行かれていたんですかい?」
今しがた客を見送ったばかりであろう。
前に傾けてお辞儀をしていた背が戻すと同時に、そのまま店先の暖簾を潜り中へ入っていこうとしていた。しかし、ふと視界の隅を過った珍しい“色”に気付いたのか、驚いた様子もなく目を細めてこちらの名前を口にし、慣れた様子でペコリと頭を下げてきた。
「ちょいと留守にしてたもんでね。受け取りにくるの遅くなっちまった悪いね清太さん?律さん何か言ってなかった?」
「悪く言っちゃいませんでしたけどね、怒らせちゃったかもしれないって布団に包まって、次の日は朝から晩まで出てこなかったんですよ!もぉそんなの一々気にしちゃって可愛い娘だねお前さんは…って話しかけたら叩かれちゃったんですけど、それがまた全く痛くないもんだから私もうどう返したらいいのか困っちゃいまして!でも痛がったフリしとかないとムスッとするの知ってるもんですから、ちょっと意地悪をしたら面白いぐらい慌てちゃって大変だったんですからね本当に?
……あ、お茶飲んでかれます?」
遠慮しとく、と弥代は首を横に振った。
ここで茶を頂くことになろうものなら待っているのが終わりの見えないうちの律が〜で始まる嫁可愛い自慢であることを弥代は何となく分かっていた。
以前、詩良がここの呉服屋の夫婦はおしどり夫婦として近所でそこそこ有名なのだと話していたことがあったが、既に何度か顔を合わせた仲だからこそ言える、仲睦まじいおしどり夫婦よりも、ここいら一帯では旦那である日下清太の嫁可愛い語りの方が有名だ。
ちょっと離れた場所でも呉服店の名前を小耳に挟むことがあった。聞こえてきた内容はどれも旦那の嫁への溺愛っぷり。一度二度ではなく、やしろの覚えている限りでも七回は耳にしている。ここで茶と一緒に出される茶菓子につられ奥に通されようものなら、この後がいくら暇であっても勘弁願いたいものだ。心底そう思う。
「あらぁ…そうですか?何かお急ぎですか?」
「いやほら、渡すつもりで丈整えてもらってるところあるからさ。本人探しとか?」
「あっ、……あぁ!いえいえそうでしたかそうでしたか!これは野暮なことをお聞きしてしまいました。すみませんね、まだまだ詰めが甘いものでございまして。」
「別にそんな気にしちゃいませんって。」
店先でそんな会話を軽くした後、中に一度戻っていった彼が、弥代のお目当てが包まったであろう風呂敷を両手に、崩れぬようにと丁寧に抱えて持って出てくる。
「きっと喜んでくれますよ。」
「そうだと良いだけどねぇ?」
お代は前もって渡していたものだから受けとるだけに終わった品を、風呂敷に包まれた中に皺が付いてしまわないように、弥代も彼を見倣った持ち方をする。
中に入っているものがもう少しばかり固く、形の崩れにくいものであったのならもっと楽なのだろうが、やはり見様見真似をそのまま真似るのは難しい。それでも適当に小脇に抱えるような、普段なら迷いなくしそうな持ち方だけはせず、両手で下から支えて道を行く。
話の延長で最近彼女を見てないか?とさり気なく聞くだけ聞いてみたものだが、結果は分かりきっていた。
長屋に暮らす他の住人に今朝方聞いて回ったが、ここのところ目を惹く風変わりな恰好の彼女は見ていないという返事しか聞くっことは出来なかった。
とは言っても弥代のいる今この場所、榊扇の里は半径二里という広さだ。未だに一度も足を運んだことがない場所などごまんとある。里の両端、屋敷から東海道を越えた先の海に、酒匂川から馬入川までの距離を徒歩で歩こうものなら、それだけで登った朝陽が緩やかに沈む準備を始めてしまうぐらいに時間が掛かってしまう。
友人がいつだったか言っていた、この里には一万近くの民が暮らしているという言葉を思い出す。榊扇の里で暮らし初めて一年と少し。せいぜい弥代が今まで関わってきた里の住人なんて百人にも満たない。すれ違う全員が知った相手なんてことは当然ないのだから。
「まだ陽が暮れるまで、時間はありそうだな?」
大通り沿いだけではなく少し細くなった道にも水路が続いている。
照りつけるこの季節特有の刺すような陽射しを浴びてバテてしまったのだろう。水路脇に立った木の下で涼むように過ごしている人影をちらほらと目にする。
太い脚を忙しなく動かして前へ前へと進む、頭に捻りハチマキを巻いた年若そうな青年ととすれ違えば、ついついその背中を目で追ってしまう。
右手に見えてくる長屋通りの奥からは暑さに負けず劣らず、威勢のいい心太売りが桶を肩に担いで一軒一軒を根気強く回っていた。
墨でふざけあったように頬を汚した子どもが二、三人大通りの方へと駆けていくのは寺子屋の帰りか、それとも悪戯をして親に叱られる前に逃げ出した姿か果たして…?
親に手を引かれる、母親の腰位置よりも背の低い幼子とふと目が合う。怯えさせる気はないという意思表示のつもりで軽く口角を上げるも、瞑っていた目を開いた時には自分の目と多分同じぐらい、顔を真っ赤な林檎のように腫らして泣き出してしまった。不服すぎる。
あまり足を運ぶことのない場所へとやって来たものだが、知らぬ生活が広がっていると思っていたのに実際は自分のよく知る光景に似たものが広がっていた。
ほんの少し、だけ。本当に少しだけ期待していたものとは違う、見知った光景を残念に思う。それでも知らないよりは知った方が勝手が分かっているのだから良かったじゃないかと前向きに考えようと息を吐いたその時、進行方向の先に、何となく見覚えのある後ろ姿を見た。
頭一つ…二つ分飛び抜けた、何とも上背のあるその後ろ姿と、若草が少々色褪せたような髪“色”をした彼は、
「何してんの館林さん?」
昨日も世話になった討伐屋に属する一人・館林二葉であった。
「散々な目に遭いやした。なんでしょう……こう、若いお嬢さんはどうにも苦手なもんでして。」
「前にさ、相良さんがモテないって嘆いてたことなかったけ?聞かせてやったら愚痴?」
「二度とそんな愚痴言うんじゃありませんと、叩かれたことがありやす。」
「あ、もうやったことあんだね?」
三、四人。遠巻きに視線を送る数を含めれば七、八人はいた。どこから集まってきたのかと思わずにはいられない、若い娘連中に館林はどういうわけか囲まれていた。
自分よりも随分と小さい背丈の娘らに執拗なぐらい囲まれて、裾を掴まれ、上目遣いに頬を染められ、挙句一目惚れだなんて言われて腕を絡められようとしていたものだから、どうしたらいいものかと困り果てていたのだと額を抑えながら項垂れる、水路沿いに腰を落ち着かせる大男が一人。
自分ばかりが立って見下ろすのも変な話だとその隣に座り込み、とりあえず弥代は意味もなく同情の眼差しを送った。
見て見ぬフリをして通り過ぎても良かったのだが、里の方々の巡回を扇堂家から日々依頼として請け負っている討伐屋の一人だ。
相良に春原が留守の、自分もこの里にいなかった間も毎日飽きもせず見回りをしていたかもしれない彼なら、もしかして何か探している彼女の足取りに繋がる何かを知っていない。
恩を売るついでだと態とらしく声を張り上げて知り合いを装い(装うも何もよく知った仲だ)、自分と大して背丈の変わらぬ娘連中を適当に散らしあしらいと、館林を連れ出すことに成功したものの、何やら随分と疲れた表情を見せている。
「何かあった?」
「へぇ…まぁ、その…手の掛かることが一気に増えたと言いやすか…仕方のねぇことでせぇ。」
「………あぁ、うん。」
思い当たる節がいくらかあった。
「何も弥代の嬢ちゃんを責めるつもりはありやせん。志朗に伽々里と。あの二人が面倒を見ると言うのでしたら、まぁ黒介の時おんなじですから。ただ、」
「ただ?」
『女の子だーーーーーーーっ!!!!!』
「近所迷惑を考えろと叱られた挙句、自分が寝ようとしたところを邪魔して幼い娘さんにどう接したらいいか分からないと泣きつかれやして。昨晩は寝れず終い。
志朗はあんな調子ですので動けないのは仕方のないことのは分かっていやすが、夏のこの暑さの中、坊の付き添いがてら里中を歩かされて……、正直限界を感じていやす。」
「随分喋るね?」
「人ってのは疲れてる時ほど、よく喋るもんなんでせぇ。」
「あっ、そういうね?」
長居していればまたいつ近所の町娘に絡まれるか分かったものじゃないと言って、館林は案外早くその腰を持ち上げた。
「そうです。弥代の嬢ちゃん、無いとは思いやすがもしその、坊を見つけることがありやしたら討伐屋まで送り届けてはくれやせんかい?」
「は?何で俺が?」
じっとりと、自分よりも頭一つ、二つ大きい相手に圧を掛けられ見下ろされるのは気分のいいものではない。
「頼まれは、くれやせんか?」
「目付け役が自分の仕事って話してじゃねぇかよ?」
そんな簡単に、よりによってあの男のお守りをしろなどと安請け合いはしたくないものだと突き返すのだがお構いなしだ。肩を落とし弥代に背を向けて歩き出す。
「見つけたら、で構いやせんので頼みますわ。」
「ぁあ!?ちょっ‼︎」
止める間も無く、その姿が離れていく。
折角助けてやった、恩を売ってやったと思ったのにこれでは構い損だ。風呂敷を両腕で抱えたまま、釣られて立ち上がったまんま。彼の姿が見えなくなる最後の最後まで、その場に立ち尽くすことしか出来なかった。
「いくつってんだアイツは!図体ばっかりデケェ赤ん坊じゃねぇだろうが!それを見つけたらで構いませんから頼みますだぁ?
こっちだってなぁ!似たようなモンだわ!!目的があってこんな処まで足運んでるんだっつーの‼︎自分の用事優先させてもらうからな俺はっ‼︎」
他の誰でもない、自分自身を言い聞かせるために放った声に、声に出して直ぐ述べた言葉の意味を噛み締めてから大きく舌を打つ。
見つける気などなかった。仮に見つけたとしても見過ごす、見なかったことにして通り過ぎるつもりでいた。さっき館林と別れた場所からさほど離れていない場所で、まさか彼が探しているその人物が分かりやすくいるなんて思っても見なかった。
もしかしたらまだ近くにいて、差し出せばそれで丸く収まりやしないかと考えるのだが、彼は当に反対方向、方角で言えば討伐屋のある里の北を向いて立ち去った後だ。期待するだけ無駄である。
「ふっざけんなよっ……!なんで、なんでよりによってアイツと一緒に居やがんだあの野郎っ‼︎」
腕の中の風呂敷、その中身を思えば丁重んい扱いたいのは山々なのだがそれでも多少力が籠ってしまう。不可抗力だと言い聞かせる。
建物の縁から僅かに覗く道の先、道のど真ん中で人波の邪魔になろうとも微動だにしない見慣れた男が一人。
先ほど言葉を交わした男よりも、単純に一緒に過ごす(相手が一方的に近づいてくることがこれまでは多かっただけだが)時間だけがなら、関わったてきた時間へだけ目を向けるのなら長い付き合いにはなるのだが、何ともそれを認めたくない気持ちに襲われる。
否、そんな悠長なことを言ってられる状況ではないから弥代はひどく取り乱すことしか出来ないのだが、それもまた認めたくないものだ。
弥代のその視線の先の彼・春原千方の手元へと意識を集中させる。
「なんで…そんなところにマジで居やがんだあの野郎はっ‼︎」
ガッシリと両手が前脚の脇下を掴む。
ブラブラと力なく揺れる後脚が何とも見ている側を不安にさせる。
多少距離はあるというのに、体毛に覆われている為に人間のように顔色を窺えるわけでもないのに助けを求めているのが何となく分かる。
震える自慢の長い髭を目にしてしまえば、ここまで来ておいてやっぱり何も見てなかったとやり過ごすのだけはどうにもきっと目覚めが悪い。
『それでは、どうぞ頼みましたよ弥代さん。』
昨日話した時に、直接あの男から頼まれた約束を思い出してしまう。
『私に罪滅ぼしがしたい?面白いことを仰るのですね。いえいえ、そうですか?えぇ…あぁ、それでしたら一つ頼まれてはくれませんでしょうか?』
「なんで…どうして……っ!」
そろそろ良い加減、しっかりと向き合う頃合いなのやもしれぬ。




