二十五話
以前から心当たりはあったのだ。
『弥代さんは普段からこういった物を口にされることが多かったんでしょうか?』
小仏の川沿いで野宿をする間、差し出した川魚の丸焼きを前に雪那が口元を引き攣らせていた。
食わねぇなら食っちまうぞ、と弥代が返せば、苦い表情を浮かべながらチビチビと食べ始めていたが、前の晩に食べ終えてから暫く経ってから腹痛を訴えていた。慣れない食事や、これまで送ったことのない生活にまだ馴染めてないんだろうな、と一人納得。
翌日から取れた魚を焼こうとする時には、よく知りもしないだろうに、そのまま焼く以外に何か手を加えたりしないのですか?と訊ねてくるもので、弥代はとりあえず血抜きを挟むようにした。
『時に弥代様はこうしてお台所に立たれることが多いのでしょうか?……いえ、自ら手伝いを名乗り出ていただけるのは大変嬉しいのですが、出来ることと出来ないことを前もって知れたほうがこちらとしましても安心……お願いできる事が増えるかと思いまして。』
古峯神社の境内では、飯支度の手伝いを名乗り出た弥代に対し、神鳴の妹にあたる鶫は質問を投げかけてきた。
いまいち質問の意図を汲み取ることが出来なかったが、とりあえずは弥代は自身が出来る台所仕事だろうことを幾つかあげれば、念のため手順までお聞かせ下さいと言われ言葉に詰まらせた。
だってそうだろう。他人がやってることを見様見真似でやっているだけの、なんとなくの動きの手順なんてそんな……。
その後、弥代がさせてもらったことと言えば、仕上げの盛り付けや、薬味を添える程度。洗い終えた皿拭きに、棚から皿を出すぐらいのもので。盛り付けも薬味も最後の最後には彼女の手直しが必ずといっていい程あった。
『家庭には、それぞれのやり方、馴染んだ味というものがあります。手伝いたいという、その心意気は嬉しいのですが、先ずは私がどのように何を作っているか、その過程を見ていただき、その上で覚えていただけたのでしたらとても嬉しゅうございます。』
今になって思い返してみれば、あれはかなり遠回しに直接何かをするのは止めてくれという意思表示だったのかもしれない、と弥代はそんな気がしてきた。
『手伝い、ですか?ただ味見がしたいだけではありませんこと?』
討伐屋への出入りが前よりも格段に増えたこの頃、自分はどうしても立たせてもらえないのだという芳賀の言葉を受けて、弥代は伽々里に軽い気持ちで声を掛けた。
勿論味見狙いだったのもそうだが、決して上下関係があるわけではないが字が汚いと芳賀に馬鹿にされたことが癪だった。お前が入れてもらえなかった場所に俺は入れてもらって手伝いが出来るんだぞ!凄いだろ!なんて見返したかった。
白状させられた弥代を前に、呆れかえった様子を隠しもせず伽々里がため息をこぼしてからまだ一月と経ってない。その後の会話を含めて彼女の中の自分の評価というものが下がったことを弥代は忘れていない。
他にも、あれもそうだったのではないか?と浮かぶものがちらほら…ちらほら。
腕を組みながら貧乏揺すりをして弥代は頻りに後ろを気にする。
「だっ、……大丈夫かぁ、桜?」
十中八九、言い逃れが出来ないぐらい弥代は原因が自分であるという自覚があった。だからこそ相手を按じる声にも不安が宿る。まるで覇気のない自分の呼び掛けに返ってくるのは、苦痛に塗れた少女の、桜の唸り声だ。
どうしてこうなってしまったのだろうか、と自分の無力さを弥代は噛み締めた。もっと早く、もっと早い内に気づいてやることは出来なかったものかと指先に力が籠る。
(あぁ……、ほんと……、どうして……っ!)
そんなもの、腐った食材を食べていれば誰でもそうなる。
伽々里の提案で駿河へ向かい、往復して十日未満。
討伐屋に顔を出した後、元から相良と話していた通り弥代が桜を引き取る流れであったものは、討伐屋に辿り着く前に突然、相良が倒れたことによって流れてしまった。
意識はあるものの体がピクリとも動かなくなってしまった相良を、弥代は桜と二人して見下ろし心配をしたものの、起きあがらせようと手を貸そうとしたところを一緒にいた春原に制され、自分とそんなに背丈の変わらぬ男を背負い、明かりが微かに灯る討伐屋へと帰っていった。春原の意図を汲み取った相良が、声を張り上げて弥代に声を掛けねば暫くは、どうすればいいのか分からなくて弥代も桜もその場で立ち尽くしていたことになっていたことだろう。
夏の夕暮れ刻は長く、これが過ぎてしまえば一気に夜を迎える。まだ若干、西に見える山間の低い谷間が夕暮れの名残りを感じさせていたが、時間が遅いことに違いはなく。討伐屋に顔を出すのがなくなっただけだと、弥代は桜を自分が暮らす長屋へと招き入れた。
隣に暮らす長谷一家が五つ子に両親を合わせて七人暮らしなのだし、暫くの間は同居人である詩良が帰ってきていないのだからきっと大丈夫だろうと迎えるも、飯になりそうなものがあまりなかった。
最近は少々懐に余裕があった。というのも里に棲まう、水神の加護下で生活を送っている妖の、猫の辰五郎が率いる辰味噌屋の手伝いに駄賃を貰うことが多かったからだ。
討伐屋で日銭を稼ぐのに顔を出していた頃でも時折、顔馴染みになった飯屋に持ち合わせが足りないからツケておいてくれと頼むこともあったが、最近はそれも減っていたのだが、ここの所あったゆとりと貯蓄は全てあることに費やしてしまい一気に底をついてしまっていた。
外に飯を食いに行くにしても、まだ桜の装いは駿河にいた頃のままだ。帰りの道中、宿場町が近くにあるのに野宿をするのは…と渋った相良によって、彼が四人分を払うことで旅籠に泊まり、湯を浴び夜の内に汚れた服を洗い、絞り乾かしとしたもので、これまでに比べれば多少綺麗になりはしたが、どちらかといえば裕福な暮らしを送っている者の多いこの榊扇の里では、そんな桜の格好は見窄らしく、視線を集めてしまった。
里の門を潜り抜けてからその視線に晒されることが多かった桜は、それまで以上に弥代にくっつくように距離をつめ、やっぱり出てけって言われちゃうのかな…なんて不安を漏らしていた。
考えすぎだ、と額を小突きながら自分の羽織っていた薄手の羽織を弥代は桜に掛けてやった。
里の中を歩くのに、好奇の目線はそれで少なからず減りはしたものの、羽織があったとしても今の格好のまま飯屋に桜を連れていくのは気が引けた。
そして弥代は、七日近く留守にしていた家に残されていた選べるだけの量もない食材を適当に鍋に入れて混ぜ込んだのだ。
味噌蔵の数が多い榊扇の里の家々には、どれだけ貧乏であっても味噌壺の一つや二つあるものだ。昨年の討伐屋には一時それさえもない時期があったと芳賀が言っていたが、ツケ払いを申し出る弥代の家ですらあの時期も味噌ぐらいはあったものだ。
古峯から津軽を目指す道中も、討伐屋の館林が持たされたという小壺の中には榊扇から持ってきたであろう味噌があった。自分がどこの味噌蔵の味噌を使っているのかまでは興味のない弥代だが(なぜなら弥代の家の味噌は雪那が屋敷の厨房から無理を言って分けてもらっているものだから)、まぁ味噌で煮込めばなんであっても大抵のものは美味くなる、食えないことはないのだから大丈夫だと、それで……
(あん時からだって絶対にさぁ……っ!)
『悪ぃな桜…、こんぐらいしか用意出来なくって。』
『そんな…っ、いいのよ弥代!上がらせてもらってるのは私なんだから!全然、これっぽっちも気になんてならないわっ!……ほら、折角作ってくれたのが冷めちゃったら勿体無いわ、一緒に食べましょう?』
弥代が適当に味噌で煮込んだ、十日には至らずとも日中その熱さが強くなる夏場に、七日八日近く放置された食材は、少々青褪めた顔をしつつも笑顔を浮かべる桜の、その口の中へと収められた。
勢い余って飲み下してしまいそうになったのか、体が一度大きく揺れたように弥代の目には映ったが、美味しい!と元気よく感想を述べるもので、ついつい弥代は嬉しくなって、表情には出しはしないものの持ってきた鍋の、まだ残っている分を椀に掬い桜の方に出してやった。『いっぱいあっからな。腹一杯になるまで食っていいからな。』
『…………ぅ、うんっ‼︎』
膝を抱えて弥代は蹲る。
(俺は…、俺はなんてことを……ッ‼︎)
「や………やしっ、ろぉ………ぉ、」
「桜っ⁉︎」
戸を開けるわけにはいかず、振り返った先にある厠の戸板に手を添える。
「ごめ……ごめんなさいっ、私…我慢っ、出来なくって……、」
「違うんだ桜……ごめん、ごめんな俺が、俺がお前にあんなもん食わしちまったばっかりにこんな……こんなっ‼︎」
長屋横丁の奥まった位置にある共同厠の前で繰り広げられる、ここいらでは問題ばかり起こしている、悪ガキとして知られている弥代がちょっと大きな声を上げれば、同じ横丁のどこからか怒号が飛んでくる。
「うるせーぞ坊主っ‼︎みんな寝てんのが分かんねぇのかっ⁉︎いつまでそんなところで騒いでやがるっ⁉︎」
「うっせぇな首突っ込んでくんじゃねぇよっ‼︎こっちにはこっちの事情があんだよっ‼︎いつまでだぁ⁉︎桜ちゃんが出てくるまでだわっ‼︎」
「弥代……、止めて……っ、」
「同じ長屋に住んでるんだ時間を考えろっ‼︎おめぇの事情なんか知ったこっちゃねぇんだわ!やっと寝た餓鬼ども起きたらどうしてくれんだ‼︎長谷んとこの坊主らなんて五人いんだぞ‼︎どう責任とんだテメェっ‼︎」
「肩ぁ押す必要がどこにあるってんだよ⁉︎んなもん知るかっ‼︎餓鬼の夜泣きなんて今に始まったもんじゃねぇだろ⁉︎それを俺が一回二回騒いだ程度で突っかかってきやがってよ……、何様のつもりだアンタっ⁉︎」
「お願い弥代……っ、やめ…」
「ゲンコツじゃねぇだけ感謝しやがれ弥代っ‼︎一回二回で済んでりゃんなことでこっちだってこんなに怒りゃしねぇんだよっ‼︎何様だぁ?林家一門の若ぇ者まとめ上げてるのが誰だか思い出せやっ‼︎」
「若ぇ奴にしか相手されてねぇだけなのを胸張ってんじゃねぇぞ、とっとと帰って寝ろよ大工の朝は早ぇんだろうが!いつまでも起きてんじゃねぇぞ‼︎」
「誰のせいで寝れてねぇかもっぺん考えろ餓鬼っ‼︎」
「………ふぇ、」
遂に我慢ならず、桜は泣いた。
鬼ノ目 七十五話
「だからさ…俺なりに本当に色々とさ考えたんだよ。俺としてはそりゃああの子とさ、桜といたいよ。でもただ一緒にいたいだけじゃいれない事もあるんだなって分からせられたんだよなぁ……こんな、こんな…、」
弥代が相談を持ち掛けてきた昨日の今日。やっと今朝になって縁側の軒下に出すことが出来た風鈴の音が、まだ柔い夏風に揺すられて心地よい音色を奏でているというのに、伽々里には空気が澱んで見えた。
今朝方、日が登りきる前にドンドンと討伐屋の戸は叩かれた。こんな夜更けに何事か?と戸を開けてみればそこには今も澱んだ空気を纏う弥代がすっかり青褪めた表情でそこにいた。
赤髪の“色持ち”の、背丈の近い少女を背負って。
「いつまでもそのような調子で居られても迷惑です。貴女がしっかりしなくてどうするおつもりですか?」
「いやだからさ本当……任されてくれないかなぁ?」
「ご自身で守ると口にした相手を、他人に委ねるのですか?笑えぬ冗談は止してください。」
「んなの冗談で言えるわけねぇじゃんかよ。」
重い。前のめりに項垂れるような、中途半端な姿勢のまま表情も暗いままの、このような弥代を見るのは伽々里は初めてであった。
「一体何があったというのですか?包み隠さず全て話しなさい。」
だから伽々里は、そう、弥代に訊ねた。
聞いているだけで頭を抱えたくなる話なんてそうそうあるものではないのだが、頭を抱えざるをえない状況に、次第に頭が痛くなってくる。
水回りの手伝いを弥代が意気揚々と申し込んできた時、させることを制限しておいて良かったものだと伽々里は自分の勘を褒めたくなった。古峯の神仏の妹の手伝いを任されていたんだから出来るさ、などと息巻いていた、その言葉を信じず良かった。
そして同時に、今は奥に敷いた布団に包まる“色持ち”の少女に同情の念を送りたくなる。もっと早い内にそうだと気付いていれたのならこのような事になるのを防げていたかもしれないだろう、と伽々里は思うのだった。
駿河へ一人発った相良の口ぶりは、件の少女を確実に連れ帰ってくるというもので。だから伽々里は予め人数が一人増えて帰ってくるだろうことを見越して、用意した葛籠に四人分の食糧に必要になるだろう品を見繕い詰めて持たせたのだが、まさかそれも水の泡になるになるとは。
そして弥代に料理の腕がないと最初から分かっていたのなら、春原に対し理解せずとも連れて帰ってくる子どもは討伐屋へ何があっても連れてくるように、と耳打ちをすることも出来た筈だ。
長く生きているが為に、自分の詰めの甘さが招いてしまった、少女に降り掛かった不幸に憐れみを伽々里は抱いた。本当に申し訳ない。
「だからさ……その、最悪、俺と一緒にいたら桜……あの子死んじゃわないかなって考えちまってさ。そんなの…俺、」
「……えぇ。…えぇ、そうでしょうね。そんな腐ったものを何日もよく我慢して食べられたのですね彼女は。腐ったものを食べ続けて徐々にそれが体に馴染んでくる、適応していく事もあるにはありますが、大抵身体を壊しますね。食あたりで亡くなることも少なくはありません。」
ガクリ、とその首が完全に落ちる。
結果として伽々里の告げた言葉は弥代に更なる追い討ちを掛けたこととなるも、起きてしまったことは仕方のないこと。
いつまでも落ち込んだままの弥代に構っている気にもなれず、すっかり冷めてしまった中身の残る湯呑みを下げ、伽々里は居間に敷いた布団の方へと意識を向ける。
掛け布団を強く掻き集めて蹲るように腹を抱える赤髪の少女に意識はなさそうだ。痛みで意識を失ったのか、疲労によって途絶えてしまったのか。
容態をしっかり診たいものだが、今は用のなくなった茶を下げなくてはならない。縁側を静かに進む。
今朝はまだ、彼の様子を診れていない。
いつの間に寝ちゃってたのかな、と桜は目を覚ます。
見慣れない陽の差し込み方に、アレ?おかしいな?ここはどこなんだろう?とキョロキョロと目を動かした気になるも、寝起きにそんなしっかりと動くわけもなく、視界に入ったのは広い畳の部屋と、壁際にある茶箪笥と、それから……それから、
「お目覚めですか?」
パチっ、とその瞳が大きく開く。
瞬きを数回。それまでのゆっくりとした動きはどこへやら。蜜色の瞳が際限なく揺れてみせる。
はらり、落ちてきた黒髪があまりに綺麗で目を惹き、息を呑む。上質な服は上質な絹糸で作られているって教えてくれたのは旦那さんで。その絹糸はどんなものを言うの?と訊ねたことがある。難しいことを聞くなぁ、なんて首を傾げていた。たとえばと言って教えてくれたのが、
(さらさらの、真っ直ぐな髪?)
「目元を触れます。失礼します。」
声を掛けられて直ぐ、目の下を撫でられる。それが変にくすぐったくて、声が漏れて。嘘、くすっぐたいのは後からやって来た。目の近くを触られる時は顔を殴られることばかりだったからギュッと目をつむっちゃったけど、でも優しく指先で目元を撫でられて、痛くないんだ、と分かれば桜は身を小さく捩って喉奥をクツクツと鳴らした。
「しっかり寝れていますか?血色が……、顔色があまり優れませんね。」
頬に沿って下へゆく指は、若干カサついた桜の唇を撫でた。
「満足に食べれる機会も少なかったのでしょう。ですがここまで立派に貴女が育つことが出来たのは、貴女が強く、母親のお腹の中で強く望み、この世に産まれてくることが出来たから。“色”を持ち産まれてくることが出来たからなのです。“色”を、望まれた“生”をどうか、恨んでしまわぬように。」
桜は目を覚ます。
いつ寝てしまったのか分からない。まだ慣れないのに一丁前に足が出ない掛け布団があることが嬉しくって、弥代の分まで奪うようにして寝ていれば朝になって文句を言われた。ぐちゃぐちゃに掻き集めた腕の中の掛け布団を見て、またやっちゃったと起きて早々に冷や汗を掻いて、慌てて起き上がるとそこには桜の知らない、弥代以外の人が座っていて。
「……?」
「おはようございます、桜さん。」
知らない人なのにどうして私の名前知ってるんだろう、と思いながらも声を絞り出す。
とても、綺麗な女性がそこにいた。
体を支えられながら起こされる。背中に添えられた手と、支えにどうぞと差し出された手がひんやりしていて冷たい。ずっと触っていたくなるような手触りが気持ちよくて、思わずそれだけの理由で触れた手をジッと桜が見つめていると、相手の女性が笑った。
「一つずつ、順に済ますとしましょう。先ずは、体を綺麗にしましょうか。」
着いてきてくださいと声を掛けられ、桜は離れていく彼女のその後ろ姿から目が離せぬまま素直に後を追った。
廊下を行く。歩幅は大して変わらないのに、相手の足取りはとてもしっかりしていて、床板に擦れて上がる音は静かなものだ。
それに比べ、自分の足は床を踏み締める度にギシ…ギシ、と格好のつかない音を立てている。どうしてかそれが少しだけ恥ずかしく感じた。
体を綺麗にしましょうと言った彼女の後ろを追いかけた、桜が連れてこられたのは湯気が立ち込める空間だった。
「入り方はご存知ですか?」
桜は大きく首を横に振った。湯を浴びる場所に間違いはないのだろうが桜の知る湯浴みは主に川水や、井戸で汲んできた桶水で行っていたからよく分からない。
弥代達と一緒に駿河を抜けてから数日。一回だけ旅籠と呼ばれる宿屋に泊まり湯に浸かることはあったが、満足に体を洗う方法も知らない桜は、弥代に教えてもらうことで何とか体を洗うことが出来ただけだ。
榊扇の里、と呼ばれるこの地に着いてから、弥代が暮らす長屋に上がらせてもらっている間は日に一度、日が暮れてから近所にある、沢山の人がやって来る銭湯という場所に連れていかれたが、やはりこの時も自分一人で上手く体を洗うことが出来ず、横で弥代が体を洗うのを見ながら真似ただけ。まだ自分だけで洗える自信はないし、ここが湯浴みをする場所だと分かっても、見たこともない大きな樽を前にどうしたらいいのか桜には分からなかった。
「そうですか。」
言って、伽々里は袂に予め用意していた紐を取り出し、慣れたように紐の端を口にくわえ、背中で紐が交差させる。余った端を右脇の、肩に近い位置で結べば手を貸す邪魔にはならない。
二つ結びの髪も首後ろで一つに括り、膝の高さまで着物の裾を持ち上げ帯に両端を挟んだ。
「では、やり方をお教えします。」
「何も心配する必要などありませんよ。」
そんなに顔に出ていただろうかと、弥代は口を尖らせる。薄暗い、あまり陽が差しこまない部屋の主は布団の上で上半身を起こした状態で何やら書物に目を通している。こちらになど目をくれることもなく、一方的に見透かしたかのような事を言われたもので少しだけ腹が立つが、相手の今の状況を伽々里から聞かされた後である弥代は多少の罪悪感を覚えながら、小さく謝罪を述べた。
「……柄にもないことを。貴女が私に謝罪を、述べる理由がまるで検討がつきませんね。」
「いや…、だから…っ、」
昨日のことだ。伽々里に桜のことで相談を持ち掛けた際、相良の容態も気掛かりだった為に弥代は彼女にそれを訊ねた。暫くはまだ部屋で安静にしておく必要があると説明を受けたが、そんなに調子が悪かったようには見えなかったと口にした。
そして、
「肋……ずっと折れたままだったんだってな。」
相良が駿河に出立した数日前に行われた、屋敷の氷室による打ち稽古の際、珍しく相良が足を運んでいるのを目にしたが怪我をしているので見学だけだと自ら申し出ていたのを思い出した。その日、弥代は直接彼と言葉を交わすことはなかったが、芳賀が何度か怪我の具合を心配するように遠目に相良のことを見ていた。
怪我をしているという割に誰の手を借りることもなく、身の回りのことは一人で熟してしまうもので、本当に怪我なんかしてるのか?稽古をしたくない言い訳じゃないのか?と首を傾げたが、彼を気にかける芳賀を前にそのようなことは思っても言えなかった。
伽々里曰く、打ち稽古に顔を出す二、三日前に負った傷が治るのを待つことなく、相良は駿河を目指したそうだ。
「そうでしたか。伽々里が話したのですね。」
「言ってくれりゃ、もっと手っ取り早くどうにかなったんじゃねぇのかよ。」
「ふふ……それでは貴女、私に謝りたいのか私に腹を立てているのか分かったものじゃありませんね。」
「どっちもだよっ!」
絞っていた声を、弥代は多少張り上げた。
そして、漸くこちらを、弥代へと赤い瞳が向けられる。自分よりも若干濃い、暗いその“色”は光があまり差しこまない、薄暗い部屋の中では目立つことはなく、“色”を持たぬように見えた。
「では、もし仮に…、」
目を通していた書物を閉じて、相良は一息を挟んだ後言葉を続けた。
「仮の話をします。私が怪我をしていたと聞かされて貴女は、貴女はあの場で私に協力的になったでしょうか?私が怪我を抱えて、その上で彼女を、桜さんをあの地から連れ出したい、助けてあげたいと伝えていたとして。私はどうにも、貴女がその程度で快く手を貸してくださるようには思えないのです。」
「………は?」
字を追うのに掛けていたのだろう、四角い小窓のような硝子板を敷布団の脇に置くと、彼は痛むだろう脇腹に軽く手を添えながら、弥代の方に体ごと向けた。
「あの時点で、私はまだ貴女と桜さんの間に何らかの繋がりがあるのではないか、と憶測を立てることしか出来ませんでした。
貴女を宿に置き、彼女のことを任せたことで一度貴女は彼女から逃げて戻ってきました。……私はですね弥代さん、あれがなければ貴女は桜さんを助けることは叶わなかったと、そう思っています。」
重なる。
駿河から帰ってくる道中、野宿をした晩に彼と交わしたやりとりが蘇ってくる。
「貴女は自分が思っているよりもずっと面倒臭い方ですよ弥代さん。そんな貴女が、ただ私が怪我をしているから手を貸すなんてことを、するわけがありません。」
そうだ、と弥代は自分に言い聞かせた。
この男は知っているのだ。彼の具合を訊ねた、彼女・伽々里から同じように彼も聞かされているのだとはなしていた。あの晩、あの森の中で交わした、その言葉を、弥代は忘れていない。
『弥代さん、貴女は…、』
相良志朗は、弥代が人間ではないことを知っていた。
生い茂った蘿が行く手を阻む中、見据えたその先に男は古びた門を見た。
門に掲げられたままでいる立派な看板に刻まれた字は、かつての名残りはあれどもなんと読むのか分からなくなる程までに風化を、忘れ去られた時間の長さを男に感じさせた。
ここに至るまでの道中を振り返ってみても、随分と長いこと人の手が加えられる、及ぶことがなかったことが窺える。
『貴方は、どこまで行かれるおつもりなのですか?』
その“色”故、生家において彼がどのような扱いを受けてきたかを知る男にとって、それは些細な疑問であった。
ひと昔前と比べれば多少なりともまともな、人として最低限の扱いを享受することが出来るようになった、その生活を捨ててまでどこに行くのか、と。
それは本当に些細な疑問、否、男にとってそれは好奇心の一種と呼べようものだ。
陽の差し込まない水底のように深く、重たい“色”を見る。
その“色”があったからこそ彼はあの晩、あの場所で命拾いをした。どこまで知るかはさておき、彼が今生きていられるのは自分がその“色”に気付くことが出来たからに他ならない。感謝こそされど間違っても恨まれるのは筋違いだと、身勝手な独り言を吐きこぼしながらも、男はただ彼の返事を待った。
『……分からない。』
『それは答えになっていません。一時のその行動で貴方は彼等の反感を買いかねない。
元々弱い立場を更に弱くしてしまい、どうあの場で生きていかれるつもりですか?自ずと立場が危ぶまれることぐらい、流石にお分かりいただけるはずです。
戻りましょう千方様、今ならまだ、遅くはありません。』
揺らぐ、その青を男は追った。




