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筆録・鬼ノ目  作者: pixivにて~187話まで掲載中
五節・梅子黄、破られし縁
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二十四話

 隙間なく敷き詰められた硝子瓶の、(ふち)が微かに(こす)れ合うことで生じる小さな音に、昨年(さくねん)は何かと忙しく出してやることの出来なかった風鈴の存在を彼女は思い出した。

 ここのところもまた慌ただしい日々が続き、元より足りていない人手も足らぬまま、またしても季節を跨いでしまった。余裕などと呼べるものがあるわけもない。

「いやぁ……、それにしても早いもんでこの一年、伽々里(かがり)先生には御贔屓にしていただけて(うち)も繁盛しています。硝子なんてもんは割れたらそれで(しめ)ぇっちゃ、みんな言いはしますが、先生みてぇに丁寧に扱ってくれる人が使ってくれるもんだから長く愛される。

 最近じゃ先生の名前と一緒になって、品を見たいなんて足を運んでくれる商人もいるもんで。おかげさまで満足に食わせてもらってます。ありがとうございます、伽々里先生。」

 荷が降ろされた大八車(だいはちぐるま)が一つ。

 東海道を跨いだその先の、海沿いに工房を構える硝子職人の腕はとても太い。

 割れたら終いという職人の彼の言葉通り、硝子というものは扱いが難しい一方、それを造る工程というものは緻密で、繊細なものだと耳にする。経る工程は同じであっても、全く同じものを生み出すことは不可能と言われているにも関わらず、それでもその工房が作り出してくれる品は彼女・伽々里の満足のいく仕上がりを見せてくれた。

 薬師として(やまい)を患う一人一人に寄り添い、その病状に向き合い、症状の緩和、鎮静を目的とした調合を自ら知識と経験を踏まえ、その目で行うのが彼女が生業とするそれだ。工程はまるで異なるというのに、その取り扱い方は硝子以上に繊細で、彼女の手によって造られた薬の多くは、空気に触れることをひどく拒んだ。

 薬の材料にしても手を加えられたものは大抵そうだ。しっかりと乾燥が済んだものであれば、わざわざ抜いた水気を取り戻せないようにしなくてはならない。それは空気に触れさせないことを意味する。

 古く江戸の頃であれば百味箪笥(ひゃくみだんす)と呼ばれる箪笥の引き出しに一つ一つ異なる生薬(しょうやく)を納め保管し、これを薬匙(やくさじ)で掬い、薬師の目をもってして病人の症状に合わせ調合を行っていたそうだが、彼女はあまりそれを好いていなかったのだ。

 扇堂家の誘いを受け相模国(さがみのくに)の大半を占めているとしっても過言ではない、榊扇(さかきおうぎ)の里に移り住むよりも以前。武蔵国(むさしのくに)で敢えて藤原の膝下でかの一族の目を(くら)まし身を潜めていた頃より、東海道の海沿いに工房を構える御手洗(みたらい)屋に伽々里は目を付けていた。

 しかし品を注文するにしても硝子というものは割れやすいというのに陶器で出来た食器具よりも重さがある。半径二里程の榊扇の里の、南に位置する工房から屋敷に近い北に位置する討伐屋までの移動だけでも、大八車をもってしても半日を有する今の移動を考えてしまえば、武蔵国にいた頃に声を掛けず良かったと思えるものであった。

 千両箱よりも一回り二回り大きい、しっかりと固定された蓋のない木枠の箱には一段だけでも十五、六ばかり。それが二十段分ともなればやはり中々の量になる。

 これを二月に一度、硝子工房(御手洗屋)に作ってもらうようになり一年が経つが、それでもまだまだ付き合いは長くなりそうだ。一万にも及ぶ民草の日々が紡がれているこの里には、日を増す毎に腕のある薬師の名は人の数だけ広く知れ渡る。

 薬を求める者であれば誰であろうと渡すというわけではないが、だとしても病に侵され床に臥せる姿を、苦しむ姿を見たくないというのは彼女のただの我儘だ。

 人の生きる姿を長く見守り続けてきた自分が、その生に寄り添い、身を苦しめる原因を取り除き、自分が手を加え生きながらえるように仕向けることを、ただ生きてほしいという理由で差し出すことは身勝手としか言いようがないことを伽々里は理解してた。

 ただ、それでも

「ありがとうございます。ですが、それは長く。それに向き合い、直向(ひたむ)きに重ねてきた貴方様の、これまで費やした時間と努力に見合った報酬にございましょう。きっかけがただ私であったというだけの話。私のおかげ(、、、)なとど謙遜し、頭を下げられる必要はありませんわ。顔をあげて、胸を張ってくださいな。」 

 自身では到底浮かせることも出来そうにない重さを持つ、木箱を屈強な腕で持ち上げてみせた彼は、日が登ってまだ間もないというのに肌に玉汗を滲ませながら口角を緩ませる。

 彼一人ではない。硝子瓶が収まる木箱一つにしても彼以外の別の者が用意したものだ。たった一つの薬が病人の手に渡るだけで、多くの手が必要()る。

 今の彼女は、伽々里はその中に自分が組み込まれてりうことをどこか嬉しく思う。たとえ生きる時間がつり合わずとも、多くの人間の繋がりの中、営みの一部に自身が組み込まれていることが、まるで、そう

(いえ、やはり言葉にするのは違いますね。)

 目を細めてしまう。浮かびそうになった言葉を小さく噛み下して自分の心にだけ留めて紐で結ぶ。出てくる必要のないものだ。


 庭先の蔵の前まで荷を運んでもらえば、気持ちと称して上乗せした金子(きんす)の入った巾着を差し出す。

 ここまで運んでくるのにあった荷がない分、帰りは重みがないから楽かと思い話しを振れば、育ち盛りの息子と嫁。それからまだまだ工房に立つことを止めない両親に土産の一つでも買って帰らねばどやされてしまうと返ってくる。冗談だと分かっているからこそ笑ってみせれば彼も同じように笑った。

 まだ表に出ている人も(まば)らな、低い朝陽に照らされる通りにカラカラと、大八車の車輪が立てる音が響いている。次第に小さくなっていく背を見送った後、伽々里は振る手を止め、(たもと)に寄った皺を直しながらこれから自分がすべき事を思い浮かべる。

(先ずはやはり、彼を起こすことでしょうね。)



 (くりや)を出て直ぐ左。突き当たりまで廊下を進み右に曲がれば、こちらの足音に気付き目を覚ましたのか、慌ただしい音と一緒に潰れた蛙のような声が左手の襖の奥から聞こえてくる。

 普段であるならば自分よりも早く起きて、明け六つ(あけむつ)の鐘が鳴る頃には近所を走り回り、逃げ回る鶏を捕まえるの手伝いをしたり、夜の内に運ばれてきた問屋の荷解きに手を貸したりとする彼だが。昨晩久しぶりに顔を見せた相手に対し、怪我人などお構いなしにここのところ吐き出すことが出来ずにいた鬱憤をぶちまけた挙句、一人じゃ滅多に呑みもしない酒に手を出しとやりたい放題。

 酔っ払い相手に何を言っても意味がなく、ほんの少し目を離していた間にはとっくに出来上がっていた芳賀に対し呆れて目を瞑った伽々里であったが、当の本人にはしかとその時の記憶が残っているのだろう。

 伽々里が部屋の、四枚目の襖の前を通り過ぎようとしたその時、いつも以上に乱れた寝癖だらけの頭に、ぐちゃぐちゃになった夜着の前を取り合えず合わせただけの芳賀(よしか)黒介(くろすけ)がすっかり青褪めた顔で襖を開け放ち廊下の床に額を(こす)りつけ謝罪の言葉を述べた。

「昨日の夜はすみませんでしたーーーーっ‼︎」

「………えぇ。……えぇ、そのように謝るようでしたら二度とないようにどうぞ努めて下さいませ、芳賀さん。」

「はいっ!!!!」

 返事だけを見れば一丁前だ。

 それでも師として敬っている、手本が直そうとしない姿ばかりを見てはまたその内やりかねないと目を瞑った。

 止めた足取りを再開させて直ぐ、今度は少し先の右手の襖が静かに開く。

「揃いも揃って、それはワザとでしょうか?」

「黒介のそれは狙ったもんじゃないとは思いやすが、自分のは……まあ、そんなところ、かと思いやす。」

「それでは私が先へ進めぬよう動いてみてくださいな。」

「……へぇ。」

 腕を組み、息を吐きそうになるのを堪える。

 そそくさと廊下の隅に上背のある体を寄せた館林(たてばやし)二葉(によう)は、未だ床に(ひたい)を擦り付けたままの芳賀の首根っこを掴み、伽々里の来た廊下を戻っていく。

 ガラリ、と戸の木戸の開く音がすればそれは中庭に降り、顔を洗う用に置いている水瓶(みずがめ)(よう)を足そうとしているのが分かる。

 (つめた)っ!なんて情けない声が聞こえてくれば寝起きの芳賀の顔に向かって、おおかた館林が水を引っ掛けでもしたのだろう。一人になった廊下でやっと伽々里が一息を吐く。そして、

「春原さんも起きていらっしゃるのでしたら顔を洗って来てください。朝餉の支度をします。冷めてもよろしいのでしたらゆっくりで構いませんので。」

 館林の部屋から一つ更に挟んだその先の、開かぬ襖に対し声を絞り投げ掛ければ、トントンと小さく畳の(へり)を叩く音が返ってきた。

 それを確認し、伽々里はくるりと(きびす)をかえす。

 朝一番に様子を見たかった彼の顔を見ることは出来なかった。



「本日ですが、二人が留守にしている間に大主様より屋敷に赴いてほしい旨を預かっています。彼は今はあの状態ですので代わりに…館林さんとご一緒に屋敷まで行っていただけますか春原さん?」

「…………、」

「……坊、聞こえてやすか?」

「……聞いていなかった?」

「……館林さんと二人、今日は扇堂家まで行ってください春原さん。」

「……分かった。」

「ありがとうございます。」

 箸を揃えて置く。

 人数がまだ少ない朝は一つ机を囲んで食事を取るのが討伐屋では常だ。

 先の春のように人数が多い時は居間に広げ、以前この家が道場であった名残か、弟子達に振る舞う時に使われていたと思われる膳を並べてと、手の込んだ事をしていたが今は要らない。

 机上の茶碗が空になっているのを見てから、脇に用意していた湯呑みに、中味の入った急須を傾けてた。

 淡く色付いた茶は熱かろうに、見下ろす色は涼やかに映る。

 コトリ、湯呑みをそれぞれ三人の前に置くだけで、ビクリとその肩をビクつかせる、芳賀の失礼な態度に今回ばかりは目を瞑る。

 自分が腹を立てていることなど、伽々里自身が一番知っていることだから、だ。

 先の春原へ向けた自分の発言が芳賀の焦りを助長させてしまっているなんて百も承知。ピリピリとした空気を放っているのは自分だけではなく芳賀も館林も同じこと。

 自分が春原に同行し扇堂家へ赴くとなれば、伽々里が彼の部屋へ足を運ぶのは分かりきっている。今はまだ、と先延ばしにすることは出来たが、怪我の具合が分からぬ自分ではなく、そちらに明るい彼女に任せた方がいいのだろうという考えを持っているのか、彼は滅多に見ない苦悶の表情を浮かべている。余裕があるのなら心内で笑っていたことだろう。

 春原は変わらず黙々と、小鉢によそられていた漬物を口に含む。食感が好きなのか味が好きなのかは分からないが、漬物を口にしている時の春原は無言になり、噛むことに集中していることが多い。目配せが足らず、そんな彼に話しを振ってしまった自身に非がある。だというのに空気を更に悪くしてしまった。どうにもしようがない。

 堪えた息と一緒にまだ湯気の浮かぶ湯呑みに口をつける。飲み口を指先でなぞれば、そこにはいつも付着するはずの紅がないことに気付く。

 これでは、彼に合わせる顔には程遠い。



「えっと……じゃぁ、これごと持って家を回って、札を見せたらそれでどれかって分かってもらえる、ってことで良いんですかね?」

「はい。その為に一つずつ札を引っ掛けていますので、それが混ざることがなければどれが自分の分であるかお分かりになられるかと。但しくれぐれ瓶が割れてしまわぬように、走ったり急いだりというのは止めて下さいませ。」

「わっ、分かりましたーっ‼︎そんじゃぁ!行ってきますっ‼︎」

 決して割らぬようにと釘を差したにも関わらず、その足取りは軽い。硝子瓶が渡した箱の中で微かに高い音を奏でているのは不安を煽るが、だからといっていい加減いつまで経っても、今日になってまだ一度もその顔を見ていない彼の容態を診るのが遅くなるのも不安でしかない。

 日に数えて十日余り。

 以前より扇堂家から内密にと振られていた依頼の内で、彼が酷い暴力を受けて帰ってきた。

 鶴見亭からの援助の元、大主に代わり扇堂家の人間である扇堂美琴が目星をつけた揚げ屋の、そこに出入りする遊女と一緒にいる際に起きたという騒動で、店の人間から振るわれたものであると、伽々里は聞かされている。

 自分も手を施したをがそれは軽いものでしかなく、鶴見亭に運ばれた際にあらかた手当てをしてもらえたものだからそこまで気に掛けないでほしいという彼の意を汲んだものであったが、あの時点でしっかりと尽くせていたのなら、こうはならなかったのではないか、と思えてしまう。後悔は後にしか立たぬもの、致し方ない話でしかない。

 芳賀を見送った後、薬品庫に足を運び、必要となるであろうものを一通り籠に並べる。部屋に寄り、古い手鏡を前に朝の内に引き忘れた紅の形が崩れていないことを見てから廊下を行く。

 大して距離が長いわけでもないのに、気持ちは逸る一方で足取りだけがどうしても重く。二分された自身の気持ちが入り混じって、どうするべきが正しいのかはっきりとしないまま、それでも彼女・伽々里は彼の部屋を前で膝をつく。

「開けますよ。」

 引き手に指を掛ける。

 横にスッと引けば、薄暗い部屋の中で半身を起こし、自分がやってくるのを待っていたかのような様子を見せる男・相良志朗の姿を、伽々里は見た。



 何を考えてあんなことをしたのか。自分がどのような状況であるかを分かっていないのか。関わって酷い目にあった女の言葉に耳を傾け、どうして無鉄砲なことをしようとしたのか。何故、私を頼ろうとしなかったのか。私がどれだけ、どれだけ心配をしたと思っているの、か。

 挙げれば全くキリを知らないそれらを全て飲み込む。

 襖を開けるのに脇に控えていた籠を抱え、ほんの数歩の距離を詰めるためにだけに腰を浮かせた。

 そうしてまたすぐに腰を下ろし、上半身を起こし自分から一向に目を逸らすことのない男の、その顔を伽々里もまた見てやった。

「いつから目を覚ましておいでで?」

「芳賀さんの、あんな音が聞こえては誰であっても目を覚ましますでしょう。」

「今まで何をされていたのです?」

「折角の一人でしたので、考え事を少々。」

「一刻は待たされたものを貴方は少々と仰るのですか?随分と気が長いのですね。」

「おや…、もうそんなに経っていましたか?では、随分と私は深く考え事をしていたに専念してしまっていたようですね。申し訳ございません。」

 軽い頭だ。まるで重さを感じぬ彼の謝罪に、これまで飲み下し堪えていたものが一気に吹き出てしまいそうな、強烈な波を感じた。憤りと呼んでいいだろうものが身の内を駆けずり回る不快感を前にして、彼女は奥歯を静かに噛み締める。

「痛みますか?」

 人よりどれだけ長く生きていようとも、沸き上がってきたものを収めるのにはどうにも時間を有する。

 自分を俯瞰するように見ようにも、ここまで長い間中々消えることなく残り続けている(しこり)を見て見ぬフリが伽々里には出来ない。

 怪我人に無理を強いることは己の理に反するが、分かっていて態とらしくそのような態度を示す、叱られたくて仕方のない相手にはこれは通じない。

 十日余り前、肌を掠めただけだというのに過敏な反応を見せた部位に触れる。

 分かりきったことなだけに驚くことはないものの、薄手の布越しであっても熱を持つ部位は、やはり内側の骨が折れていそうだ。

 自身もまた暴力を、怒りを抑えきれず自分の為に拳を相手へ振るってしまった後めたさから目を逸らそうと、誰かに触れられることを拒むような。それこそ手負いの獣のような素振りを見せていたために、そのとき伽々里が出来たことは限られていた。

 はっきりと目に見える、変色した部位には薬を塗った後、上から患部へと薬が少しでも早く浸透するように布を()てがい固定し、皮膚表面が擦れ血の滲む箇所は汚れを払った。

 今、自身が彼に触れるその箇所以外にも、似たように骨の折れている部分がきっとあることだろう。全てを数えたことがあるわけではないが、人体の骨とは細かいものまで含めればそれだけで二百以上あったはずだ。たった一箇所が折れてしまっただけ、というのは考えにくい。

 苦痛に歪むその表情を見下ろすように、伽々里は相良の肩に手を掛け、ゆっくりと体重を傾けていく。

「貴方は確かに、他の人と比べれば多くの武器となりうる知恵をお持ちです。ですがそれは、……それは時に過信へと繋がり、油断をし、隙を生んでしまう。」

「物分かりの悪い子どもではないでしょうに、何故無理をなさるのですか?貴方の生きる上で、それは本当に必要なものでしょうか?仮にもし本当に必要だと、そう思うのでしたらどうか、どうか貴方のその言葉で私を説き伏せてみなさいな、志朗。」

「私の、貴方。」






 鬼ノ目 七十三話







 相良が一人語ることで終わったといって過言でない晩を()て、翌朝、出立の準備(といっても一昨日の一連の出来事の間に、伽々里がわざわざ持たせてくれた葛籠はどこかへ消えてしまった)に取り掛かっていると、珍しく春原が自分から口を開いた、

 また山を抜けるのか?、と。

 弥代が春原と二人、榊扇から駿河を目指すに費やした時間を考えるのなら、相良の所持金も心許ない中時間が掛かりすぎるのは気掛かりだ。途中、夏の嵐があの一帯に降りかかったのも時間が掛かった要因だろうがそれでも時間が掛かってしまうことが予想できた。

 どうしても獣道や山道の移動の方が弥代は慣れていたとしても、ある程度は商人が行き来するために整えられた道の方が進みやすいだろうと相良が口を挟んだが春原の突然の切り出し方にすぐさま違和感を感じたのだろう。おうむ返しとまではいかないが困惑の色を滲ませ、山?と口にした。

 嵐に巻き込まれ替えのない服をびしょ濡れにされた自分が暖を取るために作った焚き火で、冷えきった体を温めている時に二人がやって来たのが街道沿いではなく、後ろに山々が広がっていただけのことを思い出したのと同時に、ある嫌な予感が過ったのだろう相良が弥代の耳を引っ張ったのは一瞬の出来事であった。

『弥代さんっ‼︎あっ貴女、……もしやっ⁉︎』

 閑話休題――、

「いやぁ……たしかにまぁ、さ?俺も悪かったと思うよ?でもさ、そういうもんじゃん“色持ち”ってか、俺らみてぇなのって。関所なんて面倒臭いもんじゃん?ジロジロさ、んな一々手形なんて持ってねぇの分かりきってるだろうに声掛けてきて突っかかってくるの。良くねぇと思うんだけどな。

 そんならどうしろ、つー話じゃん?門、無視するしかなくね?」

「馬鹿を言わないでください。」

 盆の上に乗せられた饅頭を求めて伸ばした手は、討伐屋の薬師として知られる伽々里によって叩き落とされた。

 それほど早いものではなかったというのに一瞬で腫れ上がった手の甲を抑えながら、声にならない声をあげながら縁側に腰掛けたまま弥代は地団駄を踏んだ。

「ちゃんと届いてますか、それ?」

(みじか)かねぇよ…っ⁈」

 普段聞きもしない言われように反論を述べる。

 それで何も不自由をしているわけではないが、並んで歩く時には時たま(主にはここのところを考えると芳賀ぐらいだろうが)、自分の歩幅の狭さを痛感することがあった。恐らくは些細な世間話か何かでそれが芳賀から伽々里の耳に入ったのだろう。

 手の甲だけでなく、痛いところを突かれてしまった。これ以上何を言っても自分に不利な言葉が返ってきそうで弥代は唇を噛み締める。手強い。

 伽々里を相手に冗談であってもそんなことがあったと言わねばこうはならなかったかもしれないと思いながら、二つ用意されたはずの自分の近くにあった饅頭の片方が彼女に掬われて、そのまま口の中へと消えていくのを恨めしそうに見遣る。

「くれるんじゃねぇのかよ…、」

「真面目に話しをしようとしない貴女に、食べさせるものなど一つもありません。」

 朱塗(しゅぬ)りの施された銘々皿の上、まだ一個だけ残る饅頭が皿ごと離れていく。

話せ、と口にすることはないが雄弁(ゆうべん)に語る眼差しに対し、どこまで話したものかと迷いながら弥代は意を決したように漸く真面目に話し始めた。






 伽々里の提案、(もとい)、誘いを受けた弥代は、彼女が予め用意していた荷を、連れて行くようにと言われた春原に担がせ、里にいくつか点在するという乗合場から寝ながらの移動を強いられた。

 城下町として知られる小田原宿においては、伽々里の用意した地図を頼りに、字の読めぬ弥代に変わり春原が地図を読み上げ道を示したが、そこで弥代は先に述べた理由から関所の経由を拒み、嫌な顔一つ見せない春原を引き連れて、山を突っ切るようにして相模国(さがみのくに)駿河国(するがのくに)国境(くにざかい)を超えた。

 道中、やはり目立ってしまうという理由から、伽々里が持たせた荷の中にあった練り粉で弥代は黒髪へと扮すことにしたという。

「そうですか、役に立ったようで何よりです。」

「もし里の外に行くような用事があるなら世話になりてぇぐれい心持ちは楽だったよ。」

 その翌日ぐらいから天候が悪くなり始めた。山の天気は変わりやすいから仕方がないと言いはするも、木々の間から見た遠く南の方角の空が暗く荒れているように見えた。夏の嵐がやって来ていた。

「水神様の加護っつーんだっけ。水虎様の加護によって護られるこの土地は、ああいった嵐だ何だ、が来ようが雨が降るのと変われねぇとか長さんが話してたな。」

「そうですね、水虎様の恩恵でこの里は守られていますもの。」

 二年前までであれば忘れることもなかったものを、一年にも満たなかったものの、嵐が起こりやすい時期を榊扇の里で過ごしていた弥代はすっかりそれをすっかり忘れてしまっていた。

 引き返して嵐から身を隠すことの出来る場所を探すべきかを悩んだが、早いところ帰りたい意志のあった弥代は強行。当然、春原も後ろを付いてきた。


 嵐の去った翌朝、無事に伽々里から渡されていた地図の近く、目的地付近まで辿り付くことが出来た。

 しかし辿り着いてそれで終わりではない。弥代が伽々里に課せられたのは、一人で駿河に行った相良という男を連れ戻すこと。これから探すことになるのか、と途方もなさを感じた直後、偶然にも抜け出た茂みのその先に捜索相手を見つけた。

「では以外にも早い段階で彼を見つけることは叶ったわけですね。」

「あぁー、そうそ。そんな感じで。でもそっからが本当に厄介だったんだよ。」

 やはりここから先が肝となってくる。

 夜遅い時間になりはしたが榊扇の里に戻ってきたその晩、それまでの張り詰めていた緊張が一気に解れたのか、音もなく静かに相良が倒れた。

 目と鼻の先に討伐屋があるというのに倒れたキリ、自力で立ち上がることが出来なくなった相良を背負ったのは春原だった。意識はあるのだろうがそれまであった覇気がまるでなかった。

 あれから四日が経つ。そろそろ相良も調子が戻ったのではないか思い討伐屋に顔を出したのだが、今もまだ床に臥せったまま。手当てをしたという伽々里が言うにはまだ暫く安静にさせるべきだという。

 そんな伽々里が自分に対して何があったかを問うといのは、恐らくだが相良からまだ聞かされていない、聞こうにも聞けない状況でないかを考える。

 間違えのないように起こったそれらの事を思い出し、弥代は話していく。

 何のために相良がわざわざ一人であの地へ赴くに至ったのかの理由。野犬の群れから逃げ惑う少女がいたこと。その少女を救わずにはいられないと言った彼の言葉。自分と、桜の関係。

 桜が暮らしているという海沿いの駿河の町、その一角に位置する宿屋での出来事。翌晩に起こった、相良曰く本来起こり得ない、奇妙な体験の一つ一つ、を。


「――そう、でしたか。」

 彼女は落ち着いていた。

 特に驚いた様子もなければ、どこか妙に納得をした素振りを見せていたように弥代の目には映った。

 そして思い出す。あの地で自分が相見(あいまみ)えたあの存在を、相良は人ならざる存在(モノ)、人の道理から外れてしまった存在である、と呼んでいたことを。

 駿河での一連の出来事を話して尚、取り乱すこともなければ平素の真意の分からぬ、読むことの出来ない彼女に近い何かを、どうしてか嫌な方へと捉えてしまう自分がいる。

 それがどうしてか、まるで、そう…、人ではない自分と彼女も一歩を間違えてしまえば弥代達があの晩対峙した、あの存在になってしまうのではないか?という考えに繋がってしまった。

 何故そんな風に考えたのかを、弥代は分からない。分からないまま。目を逸らす。

「そういや……さ、今日討伐屋(ここ)に来たのはさ相良さんの様子もそうなんだけど、折り入ってってのも変だろうけど、伽々里さんに頼みたい、お願いしたい事があってさ。」

 自分は今、どのような顔をしていることだろう。いつも通り笑えているだろうか。感じた不安を表に出さずにいれているだろうか。逸る心臓を落ち着かせるように手を添える。普段は気にもならないのにこんな時ばかり気にしてしまう。まるで心臓が二つあるかのように激しく脈打つその鼓動が、やけに五月蝿く感じた。



 鬼ノ目 五節・梅子黄、破られし縁 ―夏陰に消えゆく虫― 開幕

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