二十二話
「いつまでそうやってヘソ曲げて泣いてんのさ?早いところずらかりてぇんだけどよ俺らは。」
ぶっきらぼうな物言いは今に始まったことではないのだが、口を開いてから直ぐに、本当にこんなもので良かったのだろうかを弥代は考えてしまった。
たしかに彼女、桜は弥代にとって大切な、他とは違って特別であることに違いはない。弥代が心の底から守りたいと思わせるような、かけがえのない存在だ。
が、だからといって特別な扱いというものは出来ない。
生憎と、自分がそれほど器用ではないことを、弥代は嫌と言うほど理解している。
ただ、それでも――
「……ほら、鼻ぐらいかめよ。いつまでもんね汚ねぇ面でいられちゃ、こっちまで辛気臭くなっちまう。……背中、摩っててやるからさ。」
歩み寄る。
腰を折って目線は交えることなく、薄っぺらくて頼りない、小さな背中をやや乱雑に撫でた。
「仕方のねぇことなんだって、あいつも言ってただろう。」
慰めるつもりなんて毛頭ない。
慰めになるなんて思っていない弥代の行動は、かれこれ一刻以上は泣き止まずにいる桜を、ただ見過ごすことが出来なかったというだけのもの。
桜に、これ以上泣いてほしくなかった。
それだけなのだ。
何よりも、焼き跡が至る所に残る海沿いの町において彼らを待ち受けていた現実は、相良を除いた三人が一切予期していない、予期できるはずのないもの。居場所を求めて続けてきた桜にとってはとても、とても酷なものであった。
鬼ノ目 七十二話
来るまでの道中、前もって相良が提案をした通りに春原へ桜のことを任せ、近くの茂みへと隠せば弥代と相良は二人、昨晩火の手があがっていた町へと踏み入った。
晩の内に起きた事ではあるがまだ色濃く残る、家々が焼け落ちたような臭いに袖口で鼻を隠す。足元で音が鳴るのに視線を落とせば黒く煤けた、炭の塊が無造作に転がっている。
蔵の中に入り込んできた、充満した煙を吸いすぎたために火の手がここまで広がっていたことを弥代は知らなかったが、春原からの説明で酷い有様であったことを相良は知っていたと言う。
多少信じられない目で見ている自分とは裏腹に、驚く素振りさえ見せずに辺り一帯を、取り乱すことなく広く見つめる相良の背中を弥代は見ていた。
自分の目でしっかりと見たいと言ったのは弥代自身だが、焼け落ちた家々が物語る、昨晩の火の勢いを想起して知れず口元を抑えた。
『戻って、待っていられても構いませんよ、私は。』
『俺だけ先に戻るなんて出来るわけねぇだろ。』
『そうですか……、いえ、そうですね。貴女、割とかっこつけたがりなところがありますものね。』
『………、』
そんなわけあるか、と。これまでの弥代であったならここで噛みついていただろう。しかし今は彼の、相良志朗という男の、まるでなんでも知っているかのようあの物言いが、癪に障るような態度が、何か別の意図があって口にわざわざしているのだろうと事を、ここ数日のやりとりで薄々気付いてしまった弥代はそれ以上を何も言わなかった。こちらの気を紛らわすためにわざわざそんな軽口を叩いているかもしれないが、至って弥代は真剣だ。
それは今になって初日の、駿河で相良と合流を果たしたその日に彼が話していたのを思い出し、身売り証文なる物の所在を確認しなくてはならなかったからだ。本当にそんなものがあるのだとしたらそれを探し出し、桜の自由を確実なものにしたかった。彼女に降りかかる火の粉を可能な限り、弥代は取り払いたかった。一々それを彼女が知る必要はどこにもない。結局弥代のわがままに他ならないのだから。
『おや…?』
相良が歩みを早めた。
「もう…落ち着かれましたか?」
まだ火の安定していない焚き火から視線を逸らすことはないものの、向けられるその意識に弥代は言葉を返した。
「いい加減……陽も暮れりゃ夏でも夜は冷えちまうからな。放っておけるわけねぇだろ。」
「育ち盛りのお嬢さんが飲まず食わず一日を過ごすなど良くないのは確かですね。
春原さんが何か食べれそうなものを探しに行ってくれていますから、戻ってこられたら何かしら期待は出来るでしょう。先ずは休まれてください。」
自分へ向けられる姿勢とはまるで異なる、始終柔らかい物腰で相良は桜へと語りかけた。但し言葉を向けられた桜自身はそれが、その彼の言葉が自分へのものだとは気付けずに弥代の半歩後ろで、汚れきった服の裾を摘むばかり。
弥代がその背を前へと押し出すよう腕を回し、お前にだよ、と伝えればやっと理解したような反応を示す。
(これも、アレが齎した結果だっていうのかよ。)
朝方、陽が登ってから町を目指す道中にあった話だ。
可笑しなことに、桜は全く相良を知らないと言う。
野犬の群れに追われ、傷ついた桜を弥代が助けたあの日、目を覚ました心に傷を負っているだろう彼女誰よりも先に、優しく言葉を掛けたのは相良だ。
弥代が背負うこととなり町を目指す道中も、一切交流を持とうとしない自分に変わり彼女と、桜と言葉を交わしていたのは相良に違いない。
たった三日足らずの出来事だが昨晩、宿へ戻ってから漸くと向き合うことが出来た、彼女に思いの丈を告げることの出来た弥代と比べても、相良が交わした言葉の数は多すぎる程だというのに、桜はそのどれ一つも覚えていないのだと話した。
今になって思い返すと疑う余地もなく、桜の言葉を受けた今朝方の相良の足取りはやや早まっていたように弥代の目には映っていた。
「あの野郎に任せて本当に大丈夫かよ?前に森ん中で道に迷ったとか吐かしてたような男だぞ、あいつは?」
「それほど広くありませんし、ここ数日は辺りを見て回っている、全く知らぬ初めての場所というわけではありませんから大丈夫でしょう。」
「あっそ…、」
自分よりも相手のことをよく知っている相良がそう言うのならそうなのだろう。ただ食い物に関してだけは何の期待もしない。自分は最悪一日食わずとも堪えることが出来るが、相良が言った通り、育ち盛りの、あまり満足に飯を与えられずに育った桜が、飲まず食わずというのはいただけない。
座らせたばかりの、やっと落ち着いた彼女を立ち上がらせて付き合わせるのは気が引け、だからといってこの場に一人にさせるのも気掛かりではあったが、弥代は相良の襟首を掴み引き摺ることにした。
「ちょっ⁉︎あ、貴女…っ、随分と私に対して横暴といいますか、度ど……いくら何でも度が過ぎやしませんかっ⁉︎」
「アンタがそれでいいみてぇな事言ったからこうしてんだよ!今更あんなこと言ってきたアンタに取り繕う気なんか、俺ぁ更々無ぇからなっ‼︎」
「信じられませんね全くっ⁈」
そうはいうものの掴む手が振り解かれることはない。桜に声が届かないと思える程の距離を開けてから弥代は改めて相良に向かい合う。
「どこまで話すつもりだよ?」
「どこまでもなにも……。彼女だって薄々気付いていることでしょう。
ですが、それをどう呑み込めばいいのかがまだ分からずにいる。だからずっとああして泣いていたと考えれば、現状分かっていることは全て伝えるべきです。」
「どうせそんな事言って、言葉は選ぶんだろうアンタって奴は。」
「……理解が早いですね、やはり貴女という方は。」
この男を前に弥代の言葉は意味を持たない。賢いとは決して思いはせずとも、そこそこ自分は頭が回る、物を知っている方だと思っていても相良志朗という男の前ではそれは何も通じない。
ここ最近で行われた、彼と向かい合う会話のどれもは弥代の余裕を掻くばかり。弥代が優位に立てたことは一度もない。
だからその背を近くの木に押し付けた。
掴んだ合わせ目の上から、肺を圧迫するようにして腕で押し込むも、やはり背丈のまるで違う、自分よりも大柄な男にはこれもまた意味はなさそうだ。
それでもそんな行動に出るのは、一つの牽制のつもりであった。
「あの子の事、泣かせたらただじゃおかねぇぞ。」
「では先に謝っておきましょう。場合によっては泣かせてしまうかもしれません。」
拳を振るいそうになるのを堪える。
「恥ずかしがらずに本人にどう思っているかを言えばいいではありませんか?喜んで受け入れてくれることでしょうよ、とても優しいい子ですから貴女と違って。」
「わざと殴られようとするような言葉選んでんじゃねぇよ…、」
「学ぶものですね……若く、覚えが早い。」
何においても羨ましい限りです、と零す男の、その真意がやはり弥代には分からない。
こちらの調子は乱されるばかりだ。相手にしなければそれでいいのだろうがそうも言ってられない。釘を刺しておこうと思ったがやはり意味はなかった。
仮にここで一発殴ったとしても、彼は何事もなかったかのように振る舞い彼女に、桜に対して話をすることだろう。
直接巻き込まれてはいるものの、結局全体を見て終えば部外者、深く関わっているとは言えない自分ですら前もって聞かされた彼の見解というものは納得のできる、腹の内に収めきることの難しいものであったのだ。それを自分よりも幼い、聞かされる前から長時間泣き止まなかった桜に聞かせるというのはあまりにも…、
「ですが、知らねば進めるものも進めないことだってあるのですよ弥代さん。」
弥代にはそれが理解出来なかった。
弥代の想像通り、暫くして森の中から出てきた春原が持って帰ってきたものは何もなかった。いや、頭にいつから乗っているかも分からない葉を数枚乗せて、何も無かったと首を横に振ってみせればそれが落ちてきて、ひらひらりと焚き火の中に吸い込まれるように消えていったぐらいだ。
自分より春原の事を知っているだろう相良の言葉は、きっと今後も宛にならないようなこともあるだろうと胸に刻みながら、傍らで指を組みながら不安気な表情を浮かべている桜の肩に手を回す。
少しでもその不安を取り除きたいというのに、これから相良の口から語られる話の内容を思えば自分はあまりにも無力だ。歯痒さが襲ってくる。出来るのなら力づくであの男の口を閉じてやりたい。『どうしてくれんのよ…⁈あんなでも、あんな人達でも私、私にとっては、帰る場所だったのに…っ‼︎』
消えない、まだ消えるのには幾分か時間が掛かるだろうと相良が話していた、かの存在の亡骸を前に膝をついた、彼女のその悲痛な叫びが忘れられない。
「……弥代、」
呼ばれるその声に、弥代は伏せていた瞼をそっと持ち上げる。
「相良の言葉は、聞き入れるべきだ。」
「またそれかよ、お前は……。」
桜が泣き崩れた時、何も出来ずに立ち尽くすことしか出来なかった弥代とは違い、意外にも始めに言葉を発したのは春原だった。
彼は静かに、仕方のないことだ、と言った。
『それはきっと仕方のない事だ。“色”を持って産まれた時点で、死ぬ迄向き合わなくてはならない。仕方の無い事なんだ。』
はっきりと、彼はそう口にした。
弥代からすればその言葉はあまりにも的外れだ。これっぽちも掠めていやしない。だが何を思ってその言葉を投げかけたのだろうかと今になって考えれば、もしかして彼なりに桜を元気づけようとしていたのかもしれないと思い至る。
弥代は桜ではない。自分が的外れだと感じたその言葉も、もしかしたら向けられた彼女にとっては、少なからず救いになったのかもしれないと考える。そう、考えたかった。
「それでは――――、」
直後、相良が前置きもせずに口を開く。
「此度の一件について、少々私の考えを口にしましょう。」
相良は、ひどく落ち着いていた。
求められてもいない回答を話し出すというのはどのような気持ちだろうか。僅かばかり、指先に力がこもった。すれば肩を抱いていた、桜の目が揺れるのを弥代は見た。瞳に映り込む焚き火の緩やかな揺らぎとは異なる、不安を孕んでいる。
「…大丈夫、だよ。」
空いている反対の手で、組まれた指ごとを包みこみ。
やっと目を合わせることが出来た気がする。
そうして弥代は、相良へと意識を向けた。意を決したように真っ直ぐ、真っ直ぐに。
「これはあくまで私が、私自身が納得をするために立てた仮説に過ぎません。それを念頭においてどうぞお聞き下さい。
また途中、止めろと言われようとも止めるつもりはありません。もし気分を害すようでしたら耳を塞ぐなり、この場から離れるなり御自由に。殴って黙らせようとされても、私は最後まで話さずにはいられないことでしょうから。」
何かを思い出すようにその瞳が遠くを見つめる。
「まず初めに、アレの正体について、です。」
「間違いなくアレはこの地、駿河に何らかの所縁のある存在でしょう。春原さんが相手をした際、アレが南の恩恵……、火の性質を持ち合わせている事に気付き私に教えて下さいました。
桜さんの……瞳の色と髪の色はそれぞれこの国における土と、火の性質を持ち合わせていることになります。この駿河という地は産まれてくる者によっては賜る恩恵が、得られる“色”というものが異なる、非常に不安定な地です。知る者は少なく、やはり“色持ち”という存在そのもののが多く生まれてくるわけではないからというのもありますが、昔からそうであったと私は祖父から聞かされて育ちました。
かの存在は自身と同じ性質…“色”を持つ貴女と何らかの強い繋がりがあった、かつての姿や在り方そのものを失った、忘れ去られてしまった“神”と崇められた存在であったのではないか、と私は考えます。」
息を吐く。
「次に、桜さんとアレにどのような繋がりがあったか、です。」
「弥代さんによって起こされた桜さんもアレの姿を目にしているというのにも関わらず、アレを知らないと仰いました。今はまだ話ませんが、桜さんが何度か話したことのある、私とのやりとりを何一つ覚えていなかった…これとはまだ別と捉えてください。あくまでも今は桜さんとアレの関係…、それについてです。
………、覚えていないと桜さんは仰いましたが意識のない中、貴女は魘されるように、夢の中でかと思いますが助けを乞い、母を呼びました。アレは同時にその姿を始めの姿から変貌を遂げ、近しくもより強大な姿を得ました。これはおそらくはかつて、貴女とアレが出会い、その際に貴女がアレを目にした、その時の姿が呼び起こされたものと考えられます。桜さん、貴女は覚えていないだけでアレと出会っている。そしてその姿をその瞳で見ている。アレは、貴女が母と呼んだその存在は紛れもない、貴女が持って産まれたその恩恵によって力を得たに違いありません。」
相良は続ける。
「“色”を持って産まれる、それは生まれながらにしてその地に、この国そのものが始まったとされる頃から存在するとされる姿無き神々…、産土神から祝福を……、恩恵を授かったことを意味します。我々“色持ち”の…単に願い…この場では祈り、としましょう。我々の祈りというものは“色”を持たぬ者が一人で捧げるそれとはとても異なりあまりにも強い。
昨晩、私が弥代さんに言った、桜さんに見せてはいけないという言葉はそういう意味です。強い“色”を宿し生まれてしまった私たちは、軽率に何かを願ってはならない。時にそれはアレのように姿形だけではなく元ある在り方、そのものが歪められ異なる道を辿ってしまうことになる。……そういう、ものなのです。」
相良の話を聞きながら弥代は一人、南部の屋敷で聞かされた黒狐の青年の話を思い出す。
あの朝亡くなったであろう、友と呼ぶのはやはり違う気のする、自身と同じ“鬼”であった彼と幼馴染であったと話していた青年は、誰も踏み入ることのなくなった雪山へと一人消えていった、彼を殴ってでも引き摺ってでも連れて帰ってくると言った自分と、自分に付いてくることで巻き込まれただけの春原と館林に対して、“色”の祝福というものについて教えてくれた。
誰もが同じ説明を出来るとは思っていない。所々あの青年がはなしてくれたものとは異なる、弥代がこれまで知らなかった“色持ち”に関する内容を、相良は淡々と口にする。
それでも時折言葉を選ぶように一旦唇を噛み、要らぬ言葉を飲み込んだのを待つような間を挟んでから再び自身の考えを述べる。
先刻、まだ陽の明るい内に海沿いの町で一度聞かされている内容に違いはないのだが、自分がその時聞かされたものよりも多少分かりやすく、ただそれでもその後に待ち受ける、あの町を襲ったであろう話だけはやはり…、やはり桜には聞かせたくないと弥代は考える。
彼女が泣く羽目になることだけは、もう嫌なのだ。
「では改めて、今話した二つを踏まえた上であの町を襲った異変について話させていただきます。」
切り出して早々、相良は浮かぶ思考に小さく躓く。
弥代に対しあのような態度を取りはしたものの何も彼女を、桜を悲しませたいわけではない。
悪い癖だというのは分かっている。眼前に広がっていた、海沿いのあの町で暮らしていた彼等に齎された結末にやや興奮気味に舌が回った。一緒に町を訪れた弥代がそれを見た上で、同じように彼女に聞かせるなと言うのは、言われずとも分かっている。
弁明を、言い訳をする気は起きず。いっそのこと歯止めが自分が効かなくなった時に弥代が拳を振るってでも止めてくれないものかと保険を掛けた。弥代は自分を信用したわけではないと言った。大変有り難い話だ。
「実際に、桜さんもあの後目にした通り、彼らは貴女に纏わる……おそらくは貴女があの地で、あの宿屋に身を置くようになったその頃からの記憶をすっぽり、と。時間にしてしまえば十年近くの出来事をまるで覚えていませんでした。
自分達は今まで何をしてきたか、自分達がどうしてこの場所にいるのか、自分達が何者であったかを忘れた方もいらっしゃいましたね。忘れる……思い出せないというのはあまりにも酷だ。
この十年の間に産まれた幼子や、十年の間に他所からこの地へと移り住んできた者など、自身を産んだ親さえも、何を思いこの地へとやって来たかも居場所さえも思い出せずにいました。
数年前、私と春原さん……、今回は一緒ではありませんが伽々里と共にこの地にやってくるきっかけになった、人ならざるもの……、此度のアレと重なるわけです。
私共に手紙を送ってきた漁師の彼は、自身が目にしたかの存在の姿を蛇のような胴体に鷲のような鋭く尖った嘴を持つ、と記しました。類似しています。そしてそれは貴女……、桜さんがこの地に住まうようになった十年ほど前から起きるようになったと耳にしました。このような偶然がございますでしょうか?これらは全て繋がっていました。あの辺り一帯、町で十年ほど前から三度は少なくとも起きたとされる記憶の混乱及び喪失…それは貴女が、貴女がこの地に住まうようになった、この地で深い眠りについていたであろう、かつて神と崇められたその存在に何らかの形で接触したことで起こってしまった…奇跡に近しい、あまりにも珍しく、到底起こりうることのない…っ!いっそ珍妙にして滑稽と言わざるをえない……っ、そんな…、そんなっ、話なのですこれは……っ!」
顔を、覆う。
言ってしまった…、と隠しきれない口角を必死に押さえ込むながら後悔と悦に浸かる。これまで耳にしたこともないような前例のない出来事の、渦中のど真ん中に近いところで目の当たりにした結末は、齎された結果というものは相良が幼い頃から抱え続けた知的好奇心を余すところなく刺激してみせた。
本来は祖父が語る数々の知識を、それを覚えることを苦痛に感じぬ為に身につけた処世術の一種だったというのに、それがいつしか化けの皮を被ったかのように、忘れることはなくしっかりと覚えているというのに思い出す事を拒むように振る舞う。相良はそれを自身の悪癖として捉えていた。
普段は決して表に出さないものがホロリ、零れ落ちてしまった。
しかしここまで来てやはり止まることは出来ない。
せめて愉悦に満ちあふれた顔を隠すように俯きながら口を動かす。
「彼らが何故…、何故これまでの十年近くの記憶を失わねばならかった、のか。…………桜さん、貴女はかの存在に対し助けを乞うたた。助けを求める、母を呼ぶ声に呼応したアレは力尽きる直前、何を望んだことでしょう?…そうだ、紛れもない貴女だ。貴女と関わりを、その繋がりを得た事でアレは貴女の願いを、望む結末を叶えようとしたのではありませんか?では貴女があの時望んだ結末とは何だったのでしょうか?既に貴女の心は弥代さんの言葉でこの地より離れる方へと傾いていたのではないですか?でもそれには彼らの、あの町に暮らす自分の事を覚えている彼らがどうしても邪魔になる…安直すぎますでしょうか?ですがそう考えることが出来る、出来てしまうのです。もしそうであったというのなら一度は忘れ去られ、その在り方と名さえも失ってしまった、人間に忘れさられし神に残された力が彼らから、あの町そのものから貴女の記憶を、貴女に纏わるこれまでの全てを奪いさることで貴女の望んだ未来を、自由を与えることが出来た結果なのだとしたら……っ!人間の都合によって生み出された神が消え征く間際、最後の最後に一人の少女の為にその所業をしたのだとすれば、それは……っ‼︎」
「まぁ、多少の食い違いというものは起こりうるものだと私は考えているんだけどね。どうだい?義兄上はこれを見てどうお考えになられます?」
不愉快極まりない。分かりきったことを、自身の中では既にその答えが出ているであろうに、一々くだらないことを訊ねてくる義理の弟と呼ぶ立場に居座る存在を垂れ布越しに一瞥し、すぐさまその視線を眼前の巨体へと向ける。
ここに至るまでやはりかの里を跨ぐことは難しく、報告が届いてから四日程時間を有してしまった。水神の加護を得る里を突っ切ることが出来たとしても武蔵国からも五十里程ともなれば三日は掛かっていたことだろう。しかしながらここ十年近く、この地で妙な動きを見せているという存在の異変が観測されたとなっては一日どころか一刻の猶予もない。可能な限り移動に時間を割いたのも要因の一つではあろうが自身の気が普段よりも短く感じるのは気の所為ではない。
あの日を境にどこか以前の自分がどのように振る舞っていたかを思い出した彼にとっては、本来の自分の気質からすればそれは他愛もないことだが、如何せん今回の苛立ちを助長させる最もたる要因は相手にある。
中途半端な“色”が入り混じる神を緩く括った、兄弟に固執するような歳では決してない、本心から出ているとは到底思えない言葉をツラツラと並べてみせる、義理の、弟。
かつて実の兄のように慕っていた存在が、一族に対し謀反と取れる動きを見せた後、分家より変わりとして迎え入れられた弟もまた自分と同じ気質、その才覚を認められた存在だ。
「これほど時間が掛かったにもかかわらず、未だその存在の全てが消えることがなかったことばかりは、助かった、と。言わざるをえないかと。」
「あーーー、違う違う!そういうんじゃないよ、そういうんじゃないんだよな全く義兄上は本当に頭が硬いですなぁ?私が聞きたいのはね、これを一体誰がやったと思う?っていう、そういう考えなんですよ?
これほどの巨体を、ですよ?時間が経って既に消え掛かっている部分もそりゃあるにはありますけども、はたしてこれが自然に、勝手に倒れるような存在でありましょうか?と訊ねているのですよ、私は?もし仮に、これを成せる人間がいたとすれば、それははたして普通の人間でしょうか?余程の祝福を、産土神の恩恵を授かりこの世に生まれた存在……それも並大抵の“色持ち”のそれとは話にならない程の加護を、祈りを賜った存在……、」
「あの鬼の血を受け継いだ、“色持ち”と考えるのが妥当でしょうね?」
それ見たことか、と心の中で舌を打つ。
気取られぬように平常を保つ。
知っていて彼はわざとらしくその考えを口にする。
それが何よりも、初めて顔を合わせたあの日からずっと変わることなく男は嫌いだ。




