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筆録・鬼ノ目  作者: pixivにて~187話まで掲載中
五節・梅子黄、破られし縁
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二十一話

 想像していたよりもしっかりと立つことが叶いそうな足場であることが分かるなり春原は立ち上がる。

 街道沿いの茂みで最初に襲撃を受けた際、自分の振り下ろした刀によってその躰の一部が(わか)たれた、暗闇の中へと逃げるよう去っていく一方(いっぽう)、残された部位が彼にとっては見慣れた霧状となり消えゆくのを彼は見ていた。

 先ほどの池の(ほと)りでは自分の不意打ちを受け、一時(いっとき)(あいだ)だがアレは藻掻き苦しむような反応を示しながら地に伏せていた。

 おそらくはあの場に居合わせた相良もそれに気付いていたことだろう。相手の躰のどこにも春原が与えたであろう痕跡は見られない。

(傷の治りが早いのか?……違う、初めに見た時よりも元の姿そのものが大きくなっている。)

 春原が最初にその姿を捉えたのは火の手が上がる、(くだん)の宿屋と思しき敷地の庭だった。

 身近にいたのが偶々その男だったからだろうか。春原の到底知ることのない男の背後に纏わりつく浮遊する、実体を、影を持たぬ時はもっと小さかった筈だ。

 子どもの(えり)を掴んだまま意識なく立ち尽くす男の腹を打ち、弥代が望んだ通り子どもを助け出した直後、アレは実体を得た。

 それまで浮いていた躰が、その()が途端、地を思い出したように地面を(こす)り降り立つ。

 長い腹で体勢を保ち、尾は鞭が(しな)るような動きをみせた。しかしその姿も後の、池の辺りで見たものより小さかった。

(時間が経つにつれ、大きくなっている?

 ……そうではない。あの子どもがはっきりとその名を口にした、あれが引き金になっているのは確かだ。)

 それは春原自身の考えではなく、どちらかといえば共に過ごす時間が長かった相良のものだ。乗り移るよりも前、響き渡る咆哮に対し後ろを向いた際に目にした、見知った相手である男の方が浮かべていた(ゆが)んだ、隠しようのない口元がそれを物語っているように春原には写ったのだ。

 ともあれ、春原が成すべきことはどんなことよりもはっきりとしていた。

 地面が遠く感じられるほど高い場所において、変わらずに彼は刀を構える。

 多少の不安定さはあれども刀を、その(きっさき)で相手を捉え、刀身を振るい落とすのに問題は生じない。但しそれは、自分が立つこの場所がこのまま動かないのであれば、の話だ。

 目が、合った気がした。

 先ほどまで視線らしきものは感じていたというのに目と思しき部位の見当たらなかった相手に、今は分かりやすいぐらいの“目”がある。

 間違いなく相手はこちらを見ている、という確信が今の春原にはあった。

 

 

 自分の背と腹とも区別がつかなそうな程長い胴の上で、強風にその身を晒されようとも、振り落とされる恐怖を微塵も滲ませることなく、刀を静かに構える男がいる。

 その光景をそれは理解することが出来なかった。大きく…、随分と大きくなってしまった頭部を重く傾ける。そもそも、そもそもの話。男が立つそれは本当に自身の躰の一部であるのかを疑う。疑った目で、見てしまう。

 否、視たのだ。

 それは実に不思議な感覚だ。覚えがある、これはいつ以来だろうか。覚えがある…そう、忘れられない匂いをそれはあの日辿ったのだ。

 自ら手放すを選んだ、己が存在しえる理由とも言える大切な、大切な、娘の匂い、を。

 掻き消されることのない、知った匂いのすぐ側で嫌な匂いを嗅ぎつけた。血の、匂いだった。人が駆けつけるように、その場へと身を滑らせた。誰の目にも映ることのない細長い身で人垣を掻い潜る。髪を掴まれ持ち上げられていた小さな体が地に落ちる。

 

 その泣き声が、私の体を震わせた。

 泣いている。

 泣いている。

 助けを、求めている。

 何が違うというのだろう、何を間違えたというのだろうかが私には、私には分からない。

 在るべき場所へ、居るべき場所へとただ、ただ戻したその選択が、消えうると分かっていながらも託したその結果が、全てが誤りだったと、いうのか。

 何故誰一人として助けてやらないのか。止めてと喚くその声が、その叫びが聞こえていないのか?私にはない手を、差し伸べることが叶う手を持っていながら何故、何故救ってはやらぬのか?分からない、私にはやはり分からない。所詮は人間の手により都合よく生み出されただけの、望まれた在り方を、願いそのものを忘れられてしまった私には理解が及ばぬからいけないのだろうか。

 この子が、この子(わたしの娘)が何か悪いことをしたというのなら私がそれを償おう。私がその罪を背負おう。だからどうか、どうか今は、今は身を縮こまらせて、泣き止むことのないこの子に、これ以上ひどい事はしないでおくれ。どうか、どうか……どうか……………、


 何もしていないといえば嘘になる。自分は既に勝手に相手の体の上に立っているのだから。

 それはたとえば地を這う蟻が、勝手に地面と面していた手を伝い登ってくる、それを無視出来るか?という話になってくる。春原はそんなことを気にすることはなく気付くことすらないが、中には肌を這うその感覚を毛嫌い潰したり、振るい落としたりという者も存在するのだ。要するに春原は今、何時(いつ)相手に邪魔だと払われようともおかしくない立場にいた。

 こちらが動くよりも早くその躰が大きく(うな)る。波打つ衝動によって一気に不安定になる場所で膝を曲げる。

「これは少々…梃子摺りそうだ。」

 地に縛られることなく、この巨体が(ちゅう)を自由自在に動き回るその(さま)はふと、離れた地面に浮かぶ大きな影に気付き見れば、まるでそれは水中を泳ぐ魚のように彼の目には映った。

 だとするのならば今の大きさはあまりにも大きすぎる。池の大きさを思い出せば十等分にしてもはみ出てしまうことだろう。

「やはり斬り落とすのが手っ取り早いと思えてくる。」

 春原は駆け出した。






 鬼ノ目 七十一話






 夜空で大きく蠢いてみせる、暴れるその巨体の上において迷いなく、一太刀が振るい落とされ、それをもってして頭部よりも離れた部位が(わか)たれるのに時間は然程掛からなかった。(ちゅう)に自在に浮いてみせる相手とは違って春原の体はどうしても地面へと向かう力が働いてしまう。相良曰く、これは“重力”という力の働きかけによるものだという。

 ひと昔前、まだこの島国が外界の他なる国々と多少の交流があった時代。貿易関係を(きず)いていた国より伝わったとされる概念、物の考え方やその法則というものが存在するそうだ。

 翼を持つ、あるいは世の(ことわり)から外れた、実体を持たぬ彼等の他にそれに(あらが)える術は存在しない。どうしたって地に足を付いていなければ生きることが出来ない、相手のように自在に宙を動き回る術が、ただの人間である春原にありはしない。

 視界に到底収まりきることのない全身を動かすというのはやはり難しいのだろう。巨体であることに変わりはないがある程度の相手の取るであろう動きが、目を凝らし意識を集中していれば予測が立つ避けることが叶う。

 既にその体表面が掴むことは難しいことは分かっているが、それは他に手がないわけではない。(せわ)しなく春原はその目で捉えられる限りの相手の姿を目にし喰らいついていく。

 そうしてどうにかやっと、彼は相手に対しその一太刀を浴びれることが叶ったのだが、それまでの緩慢な目で追い避けることが出来る動きとは一変した、悶え苦しむ相手の迫ってくる胴の一部に体ごとかっ攫われるかのように、元いた地へと叩きつけられてしまった。

 やはり世界そのものの法則と呼ばれる、目に見えぬ力には抗うことは難しい。普段であれば踏ん張ることが出来る安定した足場がないこともそうだが、避けることは出来ても動き続ける相手では思うがまま、普段通り満足に刀を振るうことが出来そうにない。

 梃子摺ると分かっていた為にそれほど余裕はないというのに、地面に叩きつけられた自分の元へと駆け寄ってきた相良という男はどこまでも普段調子だ。

 これまで相手にしたことがないような敵を前にしているのだからもう少々の焦りがあるものかと思っていたのが裏切られる。だがしかし相良が、このよく知った男がいつも通りということは、自分のよく知る様子を見せるのに安心感を抱く。

 ほんの少し前まで覇気のない、腹から出てない弱々しい声の方が春原は得意ではなかった。

 だから春原はこれまで通り、彼へと自身の握る刀を差し出してみせた。

 それは昨年、春原が扇堂家の屋敷にて、榊扇の里が崇め奉る神仏・水虎という人ならざる、人の道理から外れた存在を前にし、かの存在が放つ水を打ち消してみせたあの力を付与してもらう為であった。


 巡る頭部より(わか)たれた先が地に落ちることないまま、黒い血飛沫のようなものを上げたのち霧状になって夜空へと溶けるゆく(さま)を春原は見ていた。そしてそこから漏れ出るように感じたそれは紛れもない火の気配。

 ゆらり…ゆらりと揺れる陽炎のその奥に、火を纏う、初めて春原がその存在を認識した際に目にした光景と、どこか近い姿が脳裏を過ったのだ。

 この島国おいて“色持ち”という目に見える差異は生まれたその地によってそれぞれ異なるものであることはそれなりに多くの者が知っている話。東の恩恵を受け生まれたのであれば“青”を宿し、南の恩恵ならば“赤”、西であるならば“白”、北においては目に見える差異とはならぬ“黒”を得る。但しそれは目に見える形というだけだ。

 生まれたその土地によって、その存在が本質的に身に宿す、あるいは生きていく内に身に宿す、我が物とする気質、性質というものは目に見ることは出来ない。

 それを感じることが出来るのは相手とその本質が似通った、あるいは何かしらの共通点とも呼べる、辿ったその先に微かでも(えにし)が在る者に限られた。

 尾を斬り落として見せた春原が間近で感じた、彼の脳裏をそれが過ぎ去ったのは彼と相手との間に(えにし)が存在し得た、からだ。

 揺らめく焔のその奥に、静かなる怒りと憎悪が決して消えることなく種火を抱えるそれは正しく、

「あれはやはり、この地に所縁のある存在だ。」





 直接その表面に触れれねば、相手へ届かねば何も意味を成さない刀を握り、再び春原はそれと相見(あいまみ)える。

 相手をこの地、否、この世に繋ぎ止めるその(えにし)を断つことを目的とした刀を、しかと構えてみせる。

 討伐という言葉は、抵抗を示す従わぬ敵を攻めうってみせるという意味を持つそうだが、人ならざる存在を、人の営みを脅かすその存在を退くのみであれば退治の方が適切であろうに、何故“討伐屋”を名乗ろうとするのか、を訊ねられたことがある。

 春原は静かに答えた。

 これは抵抗を示し従わぬ相手を攻めうつための意味ではなく、相手を知った上でその存在そのものを断ち切るための、意味のある言葉、だと。

 根底よりその存在そのものの(えにし)を叩き斬る。

 それが、春原討伐屋の在り方だ。 


 表面上の綻びは何一つ見せぬというのに時間が経つにつれてその姿が春原の目には弱っていくように映った。

 思い返してみれば相手はそこまで必死に自分たちを攻撃してくることはなかった筈だ。

 自分たちを倒すことが目的であるならば手っ取り早く、その巨体で押し潰そうとでもすれば早々に決着が着いたに違いない。

 それをするだけの余力が、それを考えるだけの頭がなかったとはどうにも思えない。

 例の“色持ち”の子どもを守るように抱える素振りをみせてからは、その矛先がそちらへ向かうこともなかった。

 刀に“気”を込める、アレを断つべく深い(えにし)があるであろう少女に纏わる事柄を込められた相良が気付くことはなかったが、改めて断つための刀を構えて春原は思い出す。


 この世に一つとして同じものは存在しえない。

 産道を(くだ)る、息吐(いきづ)いた瞬間から息絶えるその時まで、平等なもの在りはしないのだ。

 だというのにその始まりと終わりだけは何よりも等しく。その終わりを憂うことが出来ることそのものを誰かが、“生きる”ということだと、言っていた。

 考えすぎだと分かっていても、終わりを迎え入れるように真っ直ぐに自分を見つめる存在に春原は小さく頷いた。

「……そうか、分かった。」


 夜の(いろど)りが、静かに覆い隠された。











「何だ…、アレ?」

 星々が(またた)きを続ける夜空に、大きな飛沫があがる。落ちていくことなくその場に留まってみせる光景はどう見ても異様だ。

 目を覚ました少女・桜を抱えながら相良同様に一部始終を見ていたであろう弥代が困惑に声を上げるの耳にしながら、嫌な予感ばかりが相良の全身を駆け巡る。

 絶命を示す、ピクリとも動かなくなった頭部を前に慣れた動作で刀を振るい、鞘の中へと刀身を納める春原も、頭で理解出来ないながらも異変を勘づいたようだ。背を向けることなく擦り足で後退を始めた。

「相良、アレは何だ?」

「……分かりません。ですが決して良いものではないのは間違いないか、と。」

「斬れるか?」

「神仏の水と同じと考えるのを止めなさいとあれほど……、」

 寸でのところでそれを避けた。一房にも満たない髪が僅かに持っていかれたのは仕方のないこと。目を見張りながらすぐさま立ち上がる。春原の腕に縋るように立ち上がれば慌てて振り返る。

「逃げっ――――、」

 言葉が、掻き消された。



「相良さん、春原…ッ⁉︎」

 何が起きたのかが弥代は理解出来なかった。

 先ほど霧散してみせた飛沫がまるで意思を持ったかのように降り注ぎ、二手に分断された。

 腕の中の桜が小さく悲鳴をあげるのを、落ち着かせるように弥代は優しく肩を抱く。

「大丈夫…だ、」

 何が大丈夫なものかと自分に噛み付く。この手のことを何も知らぬ自分が訳も分かんらない相手を前にして、何か手の打ちようがあるわけでもないのに彼女を安心させようと弥代は必死だ。

 空を見つめる。

 今も夜空に漂う、飛び散った時と同じ形を保つそれは本当に何だというのだろうか。

 弥代は桜に呼びかけた。

「このままじゃ逃げ辛いから、おぶらせてくれねぇかな……、」

「…わ、分かった。」

 本当ならゆっくりと話したいのにそれが出来ない。やっとその手を掴むことが出来たというのに言葉を交わすことが叶わないのがこんなにも歯痒いことを弥代は知りながら、大人しく弥代の後ろに周り、跨るように身を寄せてくる桜の足に腕を引っ掛ける。

 以前自分よりも背丈のある雪那を相手に抱えた際は、格好からしてもおぶるよりは肩に担いだ方が簡単だったためにそちらを選んだが、対して背丈の変わらない桜なら肩に担ぐよりも背負った方が動きやすい。

 ついさっき春原がしていたように、地面から足裏をピタリとくっつけて弥代は後退を始める。

 息を整えて、意識を集中させる。僅かな異変にも気付けるように、何があろうとも背おう彼女を、桜を守ろうと目を鋭くさせた。

 

「早くそこから逃げてください!

 それに、触れてはいけないっ‼︎」

 声が届いたのと、視界に収めていた黒い物体が動きを見せたのはほぼ同時のことであった。

 相良の言葉に迷うことなく弥代は後ろへと跳ぶと、それまで自分がいた場所が黒い何かが広がっている。

 足裏が地に触くりなりそれを軸に後ろへと、声がした方へと駆け出す。

「何だっていうんだよ…、一体アレは?」

 考えている間はない。考えるよりも早くその足を動かす。余裕が徐々に、徐々に削ぎ落とされていけば滲んだ焦りは拭うことさえ難しい。

 それでもどうにかそれが表に出ないように気を配る。声を漏らせば前に回された桜の腕に、ぎゅっと力が籠るのだ。

 弥代は駆ける。止まることなく駆ける。そうしてやっと視界の先に見失っていた二人の姿を見る。

「相良さんっ‼︎」

 脇腹を抑えて表情を曇らせている相良に、ふと弥代は疑問を抱くも今は余計なことを気にしている時間はない。

 後ろ手にあった茂みの中へと逃げ込む。背後では地面が抉れるような硬い音が響いている。振り向くことさえ許されない。

「道のある街道へ抜けるべきだ。森の中を進むのは闇雲に走るのは危ない。」

「拓けた道に出て標的になりやすくなったらどうしますかっ⁈暫く様子を…」

「ほっ、洞穴があるわっ‼︎」

 桜が声をあげた。

「池の近く…この上の岩場のっ、森の奥には洞穴があるわ!広くないけど、奥まで続いてるの!隠れるだけならきっと出来るわっ‼︎」

「……桜?」

 月明かりがまだ忘れられない、光の差し込まない森の中であるのに相良がしっかりと頷く気配を感じた。

 三人は桜の案内に従うようにして、森の奥にあるという洞穴を目指す事とした。











 夏の朝陽は登るが早く、差し込む光は他の季節の柔いものとはまるで違う。

 洞穴の岩肌が光に照らされ始めたのを確認して、相良は誰よりも早くその身を外へと出した。

 まだ(しら)んでいる空には、嵐が過ぎ去った後のように雲一つ浮いていない。

 昨晩の、夜の間に巻き起こった事そのものが嵐のように感じられたからかもしれれないが、それなら何もない空はあの出来事それそのものが終わったことを意味するのではないか、と都合のいいことを考えながら、一人その光景を見下ろした。

「………、」

 桜の案内により洞穴に辿り着いてから相良は、その細まった奥に道が続いていることに気付いた。進めるのあれば奥まで進み、身を隠そうという気持ちだけで進んだのだが、それは徐々に高さが生まれ、月明かりが差し込む出口と思しき場所に辿り着くと、そこは先ほどいた場所の裏手に聳え立っていた岩場の、天辺に近い高さとなっていた。

 時間にして一刻ほど、相良はその高い場所から外の様子を観察していた。

 あの黒い物体の正体は何なのかが気掛かりで休むに休めなかったのだ。

 普段であれば三日に一回寝ることが出来ればそれで十分な春原でさえ、相良が起きているからと言えば間も無くして寝息を立てたのだ。一晩中方々を駆け回っていた弥代は勿論のこと、腕の中に抱えられたままの桜も早々に眠りについた。

 居合わせた中で誰よりも生きている大人の自分がやはり眠ることは出来なかった。

 行き場を失ったかのようにアレは宙を彷徨い続け、そして夜が明け始める直前、方角にすれば南の方へと少しずつ移動を初め、大きく()ぜたのを皮切りにその姿を消した。

 日がしっかりと登り、眠っていた三人が目を覚ますのを待ってから相良は口を開いた。

「様子を、見に行きましょう。」



 切り立った岩場、崖にほぼ近い場所なんてものは登るのも一苦労だが、降りるのもまた難しいものだ。もたついて足を踏み出す度胸のない相手の手と、腰に手を添えて降りるのを手伝う。

「たっ!助けてもらったら絶対にお礼を言わなきゃいけないなんて、そんな決まりはないんだからねっ!」

「……いや、今のはどう考えても礼は言うもんだろうよ?んだそれ?そういう風に教わったの?とんだ教わり方だな、おい?」

 ドスドスと向けた背中に拳を立てられる。

 全くこれっぽっちも痛くないものだから止める気も沸かずさせたいようにだけさせているが、今になって妙な気恥ずかしさがぶり上がってくる弥代は中々どうしても桜と目を合わせられずにいた。

(いやぁ…、だってそうだろうよ?昨日の俺は、その…どうか……そうだ、どうかしてたんだ。んだあのこっ()ずかしい台詞は?守るだぁ?馬鹿言っちゃいけねぇよ…。

 いや、だから、その…?アレは、アレは相良さんが変なこと言うからその勢いのままただ突っ走っちまっただけで…だから、その……その、)


「俺の本心じゃねえよ。」

「何か仰いましたか弥代さん?」

「あ、いや別に?」

「こっちを向きなさいっ!目を合わせて言いたいことがあるなら言いなさいよっ⁉︎」

「いや…だからさぁ、何もねぇって言ってんだろ?あんまりうるせぇと置いてくぞ?」

「どうしてそういう事言うのよ意地悪っ‼︎」

「意地悪かねぇよ!普通だわ⁉︎」

「……何て頭の悪そうな言い合いをしているんですかお二人は?」

「……。」

 くつくつとと相良が喉を鳴らして笑うのに距離を詰めて、弥代はその背中に蹴りを喰らわせた。

「ったぁあああ⁉︎なっ、何をするんですかいきなり貴女は⁉︎」

「すっっっげぇムカついたら体が勝手に動いた。」

「誰が信じますかそんな話ぃいいっ‼︎」

 いつもの相良だ。

 弥代のよく知る、すぐに大声で喚き散らかす普段から常に情けない姿を晒す討伐屋の相良だ。

 ここのところ芳賀(よしか)は声の小さい、でかい態度を滅多に見せなくなった相良を見てみっともないだの、情けないだのと愚痴を漏らすことがあったが、弥代からすれば普段からこの男は情けない姿をよく晒していた。

 今のようにぶつかるように絡むことはなかったのだが、対して怒るでもなく普段通りの、弥代の知った反応で返されてしまうと、どうしてかそれが許されたような気になってしまう。

 そんな頻繁にすることはないだろうが昨晩の一連のやりとりを踏まえて考えてみれば、弥代の弱みを無理くり引き摺り出すようなことをした相手に、これまで通りに接するのは少々(しゃく)に感じれたのだ。

「照れ隠しなんてガラにもないことをするのは止めたらどうですか?善意で言わせていただきますが気色悪いですよ、貴方それ。」

「口悪いなおいっ⁉︎そんな言い方今までしもしなかったのだろうがアンタっ⁉︎」

「おや、私はただ弥代さんに合わせて差し上げただけですよ?私がそういったものを読むのに長けていて良かったですね?」

「腹立つーーーーーーーっ‼︎」  

 思わずその胸ぐらを掴みたくのを(こら)えながら、弥代は後ろへと意識を逸らす。

 ほんの少しだが置いてきてしまった桜が気になったのだ。さっきまであれだけ無駄に突っかかってきていたというのに彼女は随分と静かにしているのが何故なのかと、気になって振り向けば、

「……何、してんの?」

 春原のボロボロになってしまった羽織の裾を掴み、頬を膨らませて不機嫌を隠しもしない桜がいた。

「だって…だって弥代が本当に置いていく…からっ、」

「いや……え?置いてくって…別にそんな離れてないじゃん?は?なんなの?訳わかんないんだけど?」

「本当に置いて行かれちゃうと思ったからぁあああっ‼︎」

「いやそれで春原の裾掴むのは違くないっ⁉︎つーかお前も何普通に掴ませてんだよ⁉︎断れよっ‼︎」

「…………おかしな事を言う。弥代は俺にこの子どもを助けたいと言った。俺が突き放す理由がない?……だから好きにさせた。」

「なんなんだよ本当にお前はっ⁉︎」

「ほらほら…いつまでもそんな喚かないでくくださいな弥代さん?街道沿いに出てしまえばいつ誰とすれ違うかも分かりませんよ?気が抜けすぎです。

 今はまだあちらの集落の、町の様子を観に行くだけなのですから、どうぞお静かに。」

「俺にだけ言うの違うだろうっ⁉︎」

「今一番声が大きいのは貴女ですよ。」

 そう言われてしまばぐうの音も出ない。

 相良曰く、脅威は去ったという。

 今はそれを確かめるために一度、件の町へと赴きたいのだと彼は言った。

 当然、桜は町の手前で待たせる手筈となっていた。宿屋の主人が桜の首に手を掛けていた、そのことを弥代が相良に伝えたからだろうか。問えば相良は小さく首を横に振った。

「いいえ、いっそのこと彼女の事は昨晩の、火の手に巻き込まれ亡骸すら見つからなかったということにでもしてしまうのが都合がいいでしょう。

 一々こちらから桜さんの話を振る必要もどこにもありませんし、騒ぎで貴女が宿を抜け出し、私の元へ帰ってきたとしてもそれをわざわざご主人にお伝えする必要もありません。

 あくまでも私達…いえ、これは私のただの我儘になってしまうのですが、アレがどうなったのかをこの目で見たいというだけの話です。

 …………ですので弥代さんも無理はせず、なんでしたらここいらで春原さんや桜さんと一緒に待っていてくださっても」

「行くよ。」

 相良の言葉を遮り、弥代は強く言い切る。

「アレが消えたっていう瞬間を俺は見ちゃいねぇのに、自分の目で見てもねぇもんを信じて安心なんか出来るわけねぇだろ。

 別に俺は、アンタの言葉全部信用してるわけでもねぇからな。」

「……手厳しい方ですね、貴女は。」

「そりゃ、どぉーも。」

 人目を気にするべきだろうに、それでもその道中は話が絶えることはなかった。相良の事を一切知らないという桜の言葉に、改めて彼と、ついでに春原についてを話したり。

 桜を連れ帰るにしても“色持ち”の髪色では目立ってしまいやはり遅かれ早かれ気付かれてしまうのではないか?と弥代は懸念を抱いたが、相良は今は黒い弥代の髪を指差して、それを使わない手はない、と提案をしたり。

 ただそれよりも心配するべきは四人分の食料が一切ない中、心持たない持ち合わせでどうにか榊扇の里まで戻るのに足りるだろうか、とか。

 そんな昨晩とは打って変わった話題を広げながら(春原が口を開くことはあまりなかったが)、彼等四人は海沿いの町を目指した。

 七月四日の事である。

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