二十話
少しばかり気の早すぎるスズムシ達が泣き止むのを待って、男はゆっくりと口を開いた。
浮かべる言葉はあらかじめ用意でもしていたのかと思えるほどに流暢に。その薄い唇から奏でられるのは今よりも遥か昔、京の都がこの島国の中心であった時代の、三十六歌仙の一人に数えられた僧侶が詠んだ歌だ。
それは、声ばかりはいつ耳にしようとも昔のままの不如帰に対し、一方で移り変わる人の営みを、変わりゆく風物を憂うかのような無常さを感じさせるものであった。
「不如帰は夏の鳥として知られる。かの戦国時代に名を馳せた武将らもそれを用いられた句を詠んでいることからも、古くからこの島国においては馴染みの深い鳥であることに違いはないのだが、それももう長く姿を見なくなってしまったものだね。…そうさ、彼らはこの地に自らの巣をつくりはしない、鶯の巣に卵を産みつけるような変わった習性があってね。
冬になればこの島国よりも暖かい、南へと飛び去っていく渡鳥が彼らというわけさ。
また不如帰とは唐国の、不如帰去から来ているというが、その他にも冬が終われば田植えの時期に再びやってくることからこの国においては、田植えの時期の到来を告げる鳥、として知られ“時鳥”と記されることも多かったそうだよ。
名も在り方も。それを考え与えるのはいつの時代も人であり、人が過ぎ逝こうとも理の異なる、人ならざる長い生を生きる存在の多くも、変わらぬといくら思っていようとも変わるものだ。
何代も何代も時を重ね移り変わる、それをずっと見てきたこの僕には、この世に不変などというものは存在せず、変わりゆくからそれこそを“生”と呼ぶ。」
くるり、くるりと手のひらを捻る。時折挟まる間の取り方は、居もしない誰かへと語りかけるかのよう。他愛もない、意味のない言葉を男は淡々と並べるばかり。
「憂う必要などどこにもないさ。本当に憂うべきは、憂うことすら出来なくなってしまったその時……なんて、それすら気付けなくなってしまっては意味もないんだろうがね。」
遠目にも、男のその瞳にもかの白き巨体は映り込む。
「可哀想に。終わりを静かに待つことさえ出来やしなくなってしまったのだねお前という存在は。」
男の記憶が正しくば、それは異国の民がこの地に齎した祭神が起源であった筈だ。これを知る者は自分の他に存在することは恐らくなく、それが実際に存在したことを証明する術も何もない。しかし一度は手放した人の子を憂う、人間の創作物に他ならない存在が人の真似事のように子を守り抜こうとする姿は正しく、男の目には滑稽に映った。
「そう呼ばずして……、他に何かあるのなら教えてほしいぐらいさ。」
そうして目を伏せる。
身振り手振りを交えて語る内に、耳に掛けていた髪が僅かに乱れてしまったようだ。目に掛かる前髪を慣れた手つきで整えれば、一息吐いた後、閉じたばかりの瞼を持ち上げる。
「――時に、春原千方。」
見据えるのは恩恵を、祝福を賜って生まれながらも悲しいまでに力を持たない、無力な一人の人間の後ろ姿だ。
相手に声が届く距離でないなど分かっているが、それでも男は先ほどと同じように言葉を紡ぐ。
「お前という人間は、どこかあの女に似ている部分があると僕は常々考えていたのだがね。そうだ…とさっき気付いたのだよ。望まれるから在るのではなく、お前もまた、あの女と同じように自身に対しそう在れと言い聞かせているんじゃないか、とね。だからそう在れるのだろう?いや、これはあくまで僕の憶測に過ぎないんだけれどもね。」
はたして彼の答えに自分が辿りつく日は訪れるのだろうか、と男は考える。少なくとも彼という存在に構っている時ばかりは退屈を凌ぐことは出来た。有意義には程遠く、どちらかといえば答えを求めたところで帰ってくることがないのだから不愉快であることの方が多かったが、それも何もせず字を目で追うばかりの日々と比べれば意義はなくとも面白みは感じられていた。
「さぁ、座興はこれにて終いだ。
人間の都合によって生み出されし忘却の成れ果てを、お前はどのように終われせるのかを。この僕に見せておくれよ、春原千方?」
鬼ノ目 七十話
岩場はここで途切れている。宙を漂うその相手に対してどのように攻撃を仕掛けたものかと考えていた春原であったが、変貌と遂げた相手はかえって都合がいい。
踏み台となるかはやってみねば分からぬことだが、やれば結果が見えるのであればやるに越したことはない。それ以外に手がないのであれば尚のことだ。
数歩引いた後、一気に駆け出す。地を蹴る、勢いは一歩を踏み出す毎に増し、僅か四歩目にして彼は飛んだ。そうして息を一つも乱すことのなく最も容易く、上へとよじ登ってみせた。
飛んだ直後、背後から自分を呼ぶ声がしたが意識をそちらに向けることは出来なかった。少しでも後ろを振り向いてしまえば、届くと見越した勢いは殺され、一歩間違えてしまえば地面へと落ちてしまいかねなかったからだ。
足場として春原が選んだ場所は非常に不安定だ。直ぐさま躰の主は異物に、自身の体へと登ってみせた存在に気付いた様子を示してその巨体を捩り始めた。
落ちぬように駆け出す。大きく揺れた際には膝をつき、その腹を覆うかのような蛇腹の丁度隙間に手を触れたが、掴めるようなものではなかった。ならばやはり駆けずり回る以外に選択肢はない。
「尾から斬り落としていけば宙に浮くことも叶わなくなるだろうか?」
これもまた、やってみねば分からぬことだ。
「春原っ⁉︎」
また、声を張り上げる。
追うべきかと一歩を踏み出すも思い留まる。今この場においてもまたしても刀を抜けずにいた、いざという時に戦う術を持たぬ自分が追いついたところで何も意味を成さないことを弥代は嫌というほど分かっていたのだ。
腕を振るい、直ぐ後ろにいた相良と桜の方を見遣る。そして近付き膝を折る。
「桜は…ッ?」
「眠っている……いえ、夢を見ているのでしょうか。」
夢を見ている時に人の眼球は動くと相良が零すが、眼球どころか桜の眉間には深い皺が刻まれ、骨張った細い指先が宙を掻く。悪夢を、悪い夢を見て苦しんでいるかのような様子に起こした方がいいのではないかと、弥代が彼女の肩に手を添えようとしたがそれは小さく相良に拒まれた。
「なんで…、」
「彼女に、“アレ”を見せてはなりません。」
相良は重苦しげに口を開いた。
「確証があるわけではありません。ですがアレが、あの存在が桜さんと何かしら関わりがあることはここまで来てしまえば明白でしょう。彼女がもし目を覚ましたとして、アレが今よりもその脅威を増すようなことだけは何としても避けるべきです。」
「だったら―――」
直後、地面が揺れた。
浮かせた腰が落ちる。突然の感覚に体が追いつけずに後ろへ尻もちを付きそうになりながら、揺れの原因であろう存在の方へと弥代は目を向ける。
「ぁ、」
細かく千切られた雲が散りばめられたように夜空に広がっている。届くことのない雲までもその巨体は届いてしまう程までに大きく、改めてその強大さを目にする。胴体がそれを引き裂いたのだろう。月明かりの下で暴れ狂う姿に心臓が跳ね上がった。いつこちらへ落ちてくるかも分からぬ、いざ避けようにもあの巨体を前に逃げ切れるかも分からぬ恐怖が迫ってくる。目を見張り、ただその光景を見ていることしか弥代には出来なかった。
しかし次の瞬間、突如として月明かりが遮られたかのように夜空が黒く染め上げられる。藻掻き苦しむような動きを見せた巨体の、尾の先端と思われる部位が胴と分たれたのだ。
頭部に直結する方はそのまま。まるで刀によって斬りつけられた際に上がる血飛沫のように、それが空に広がり霧散していく。ハッキリと、遠目だというのにどこかその光景に弥代は覚えがあった。
(春原がやったのか…?)
今この場においてそんなことを成せるのは彼以外にいない。宙で暴れる巨体から決して落ちぬように抵抗をしながら、先ほどの森の中で見たように相手を両断してみせたに違いない。
半開きのまま乾いてしまっていた口内が唾液で微かに湿り気を思い出す。
相良が顔色を歪ませたままでいるのに対し、軽率に弥代が淡い期待を胸に抱き口角を緩ませた直後、目にも止まらぬ速さで何かが近くに落ちた。
「春原さんっ‼︎」
腕の中に抱えていた桜を、迷う間すらなく弥代の方へと明け渡せば相良が駆け出す。
何が起きたのか頭が理解出来ず、ただ駆け出す相良を、委ねられた桜を交互に見た後、弥代は空から落ちてきた、その正体が春原であると気付かされた。
落下の際に抉れたであろう地面の中で、力なく投げ出された足を見て背筋を弥代が凍らすも、相良の呼びかけと手を貸されたことで彼はあっさりとその身を起こしてみせる。想像のつかない衝撃を前に彼は意識を失ってすらいなかったのだ。とても普通では考えられない。
「少々、梃子摺った。」
「貴方はまたそうして無茶をっ‼︎」
「……問題ない。」
「大有りですっ‼︎」
怪我をしているだろうにその頭が場違いに叩かれる。自分が殴られたわけでもないのに一瞬呆気にとられ、まるで普段調子のような二人のどこか見覚えのあるようなやり取りを前に、釣られて痛むわけでもない頭を摩りそうになりながらも、腕の中から微かに聞こえてくる少女の、桜の唸り声に耳を傾けた。
今しがた相良が話していた内容は全てが全て弥代の納得できるものではなかった。しかし仮に相良の言った通り、“アレ”が今以上に力を得たとしてそれを自分たちが倒せる姿が浮かばない。
今だってどう倒すというのかと、刀一本を振るって敵に立ち向かっていった春原の行動に意味があったのかと疑問を抱くほどだ。
汗を滲ませる少女の、額に張り付く髪を払い除けて強く抱きしめる。
(俺が…、俺が連れ出したいなんて、望まなかったら。)
そう零しでもしたのなら、きっと相良はそんなことはないと言い返してきそうだ。相良の言葉を思い出す。
そういった意味合いで彼が言ったわけではないのは百も承知だが、これ以上を桜に背負わせるようなことだけは弥代はしたくなかった。
「単身、アレに突っ込むなんて命知らずにも程がございましょうにっ‼︎こちらの身が保ちません!」
「……だが、相良」
「だがもでもも聞き飽きています‼︎ですが言い分があるのでしたら聞きましょうともっ‼︎仰ってみなさいっ‼︎今直ぐに‼︎」
「…そうは言うが、俺と弥代に相手を願ったのはお前だ。」
「それは今のように大きくなる前の話です‼︎状況がまるで違うのが分からないのですか貴方はっ⁉︎」
「声が、大きい。」
力のまだ入りきらない背を支えながら相良は声を張る。今に始まった話ではないのは分かっているものの、あまりにも無鉄砲に手の内の分からない相手へと突っ込んでいくものだから我慢がならない。そんなことを言ってられる状況ではないと分かっていながらも、気持ちが抑えきれずに普段の調子で張ってしまう。本当に今更だ。
いい加減にどうにかしてほしいものだと願うも、それが叶った試しは一度もないまま。気付かぬ間にただ彼の口数が以前よりも増したというだけ。
“色持ち”故と一括りにするのもどうかと思われるが、やはり恩恵を賜り生まれた為に彼もまた少々怪我の治りが早い。
それが彼の、春原の無鉄砲さと己を顧みようとしない行動を助長させている、多少無理をしても治るのなら問題ないと思わせている節があることを相良は理解していた。その為都度こうして口を酸っぱくして言い聞かせてはいるが、どういうわけかこればかりは融通が利かず、分かったと渋々首を縦に振ることもない。
「だが、事実斬れた。」
「何度も同じ目に遭っては、いくら頑丈といえども限度がある。貴方は――」
「相良、」
春原が相良の言葉を遮る。
「あれはやはり、この地に所縁のある存在だ。」
そうして彼は、刀を相良に差し出した。
春原に限った話ではなく、自身や館林が持つ刀も。それら全ては相良自身が打ったものだ。先達の知恵により長い時を越えて編み出された技法の、全てを熟知しているわけでなくとも相良の仕上げる刀はそんじゃそこらの鍛冶屋が仕立て上げた代物とはわけが違う。
彼の刀はその目的は決して人を斬るものではなく、人ならざる存在を斬り伏せる為のもの。島国においてもその心得がある者は少ないとされる、“気”を用いた刀を生み出すのだ。
少ないといってもその才に恵まれた者の多くは、島国の統制と繁栄を目論むかの藤の一族が囲い、我が物としているだけに過ぎぬのだが、それらを掻い潜った上で彼はその才を脅威に晒される力を持たぬ人間の為に振るってきた。
それは幼少の頃より祖父にその手を強く引かれ、島国の方々を練り歩き、多くの地に触れ、そこに生きる数多の命に触れてきた相良だからこそ出来る芸当やもしれない。少なくとも藤の元に身を寄せていた際、自分と同じことが出来る者がいるなどとは聞いたこともなかった。
春原の言う、この地に所縁のある存在という言葉は、それを断ち斬ることで“アレ”を退くことが出来ることを意味する。
しかしこの地に所縁なくしてあのような変貌を遂げることはありえないのはそうだが、それをするのならもっと効果的なものを相良は知っていた。
それが最悪、彼女の身に何らかの影響を齎すことになることも。
初めはこれっぽちも痛くなかった。
……嘘、本当はすっごく痛かった。
痛かったけど、痛いからって泣いても何も変わらないからグッと我慢した。泣いちゃ駄目。泣いちゃ駄目って、ギュッと歯を噛み締めて。
足元に転がった石を見て、私もやりかえしてやってもいいんじゃないかな?って何度も考えた。握るだけ握って、投げることが出来なかったのは向こうも私が味わったのと、同じぐらい痛い思いをしちゃうんじゃないかって考えたから。膝を折って、体を小さく畳んで。少しでも柔らかくて当たると痛い場所を庇うように終わるのを待った。
どうしてかな。どうして、どうして私ばかり痛い目に遭わなくちゃいけないのかな。お父さんもお母さんもいない。気が付いたら知らない人に手を引かれて、今日からここがお前の家だよって言われたけど、それもどうしてかいつの間にか家から追い出されて蔵の中。冷たい土の上であってもなくても何も変わらない茣蓙を敷いて、冷えきった指先を赤くなるまで揉み込んで、数えきれないぐらい我慢を重ねてきた。
偶に、旦那さんがご飯を持ってきてくれる。
家の中に、温かいところにいさせてあげられなくてごめんな、って頭を撫でてくれる。女将さんはいつも怒鳴ってばっかりで怖いけど、旦那さんは優しくしてくれる時があるから本当は好き。誰も見てない時しかそうしてくれなのを知ってるから、私だけしか知らない旦那さんとの秘密。
髪を掴まれて引き摺られる。ブチブチと音がして痛いっていくら言っても止めてくれない。女将さんが何か喚いている、いつものこと。でも旦那さんが言ってた。もう少し前はあんなに怖くなかったんだ、って。どうして金は人を狂わせるんだろうなって顔を覆って泣いてた。私の知らない優しい女将さん。本当に優しかったなら絶対こんなことしないはずなのに。
“色”は、持ってちゃいけないんだって。
気味が悪いって蹴られるの。骨のない柔らかいところはね、とっても深く食い込むから本当に嫌なのにそんなのお構いなし。怪我だってね、治るのが早いなら何してもいいよなってひどいことされるけどね、痛いのは変わらないの。痛くて痛くて痛くて、痛くて…
私、何も悪いことしてないのに…
悪い子じゃ、ないのに、
いくら言っても聞いてくれない。
足が折れるのを見るのって、そんなに楽しいの?溺れないようにもがいてるのってそんなに笑える?犬にいっぱい追いかけ回されて、いっぱい噛まれて、ひどいと血が止まらなくて。それも、面白いの?
誰も助けてくれない。誰も助けてくれないの。どうしてかな?どうして、私には何もないんだろう。どうして“色”ばっかりあって、みんなが持ってる、みんな持ってて当たり前のものが何もないんだろう。お母さんや、お父さんが私にもいたら、何か違ったのかな?
どうして、私は一人なのかな?
「……、」
相手の顔は見えない。
それでも耳に届く、その声に弥代は聞き覚えがあった。
弱音を滅多に吐くことのない、どこか勝ち気な物言いが目立つ。何も自慢げに張られたってこれっぽっちも羨ましくもないのを、自信満々に言いのけてみせる。
強く、その色が焼き付いて消えない。消えてくれない、全てを諦めようとしていた弥代の心をすくった少女だ。
たった一度、少女は嬉しかったのだと、言葉を漏らした。
本当はずっと寂しくて。こんな場所でも自分といてくれるのが嬉しいのだ、と。
弥代はただ、彼女のその言葉をそのままでしか捉えることが出来なかった。
見ていたはずだ。傷は塞がろうとも、中々消えてくれない痛みに身を抱えるその背中を。
どれだけ暴力を振るわれようとも、自棄になってやり返さない、血で滲んだその拳を。
自分の他にもいた子どもが売られていく、後ろ姿をいつまでもどこか羨ましそうに見つめる、その眼差しを。
一緒に過ごした時間は少なかったが、それ以外に自分の関心が傾くことはなく、ずっと、ずっとその姿を、その泣きそうな顔をずっと、見ていたというのに。
「…………桜、」
自分にはたして、彼女に手を差し伸べる資格があるのかを考える。
すっかり暗い、灯りの差し込まない場所で膝を抱えて蹲る。こちらがいくら呼びかけようとも気付けることも叶わなそうな彼女を、自分は救えるのか、と。
「違う。」
弥代は肩を掴む。
「起きろ、桜。」
決して乱暴に接するわけではない。
「目ぇ、覚せよ。」
呼び掛ける。一向に目を覚ますことのないまま、啜り泣く彼女を起こそうと試みる。
相良が起こしてはいけないと、アレを彼女に見せてはならないと言った言葉を忘れたわけではない。弥代はしかと覚えている。
それなら何故、どうして弥代はその少女を、桜を起こそうとするのか。
それは単に、弥代がそうしたいからだ。
いくら抱きしめても、その背を摩り大丈夫だと言い聞かせても彼女は泣き止むことはない。夢の中で苦しんでいるのだ。相良はアレを見せてはならない、と言った。でも、それがなんだ。アレがどれだけ脅威を増そうとも、太刀打ち出来る術が浮かばないからと言って、それだけの為に泣いている彼女を、桜をそのまま見過ごすことが弥代には出来なかった。
だから呼び掛ける。
もうそんな場所にいなくていいんだ、と。
「いつまでもあんな寒い蔵の中で、膝を抱えなくていいんだ‼︎」
傷付かなくていい、痛いのを我慢しなくていい。
「二度となんて約束は出来ねぇ。でも、お前が傷つきそうになったら俺が、俺が守ってやる、」
誰も助けてくれないなんて泣かなくていい。
「俺がお前を、」
「お前を、守るってみせるから。」
「ですが…、そうですね迷っている暇は決してありません。春原さん、お願いします。」
何も特別なやり方はない。
差し出された刀身の、上身へと手を翳していく。脳裏に思い描くのはこのたった二日程の、少女のことだ。
不揃いで乱雑に切られた後の残る赤髪に、少々吊りあがった目尻と一目見たら忘れられない蜜色の瞳。
怪我の治りが早く、それでも痛みまでは消えてはくれないのだろう違和感を拭えず、怪我をした箇所を不安げに、擦る癖が見受けられた。人目を気にし、目を合わせることをどこか極端に嫌う。不安げに顰められた眉が、これまでの境遇を窺わせる。
たどたどしくもしっかり受け答えをしようとする姿勢に対して、紡がれる言葉はどこか幼いまま。十四の少女にしては不釣り合い。“色持ち”の、親を知らぬ心の弱い少女、だ。
「母に助けを求める、少女のその言葉に呼応する姿は宛ら、アレ自身が自らの事を彼女の、桜さんを自分の子であると捉えていることでしょう。
そして、私がそう考えに至ったということは、今のアレは“蛇”などではなく、ただの、子を守ろうとする“母”だ!」
刀に乗せるは、少女に纏わる記憶。相良の知る、限られた数少ない事柄。それをもってしってアレの撃退を相良は春原に望む。
「分かった。」
視界の隅で、預けた少女を起こそうと試みている弥代の姿を見た。
あんなことを言った相良であったが、どうしてか弥代ならそうすると確信があったのだ。だから桜を、彼女を弥代に託してしまえばこうなることはどこかで分かっていた。
一撃を与えることに成功するも、一際大きく暴れてみせた母なる存在によって地に落とされた春原の身を按じ、考えるよりも先に体が動いたのは違いないが、弥代に預けずに駆け寄ることだって出来たはずだ。
相良は弥代に対し、雁字搦めになってしまい動きたくとも動けなくなってしまう、と言葉を掛けたが、それは何も弥代だけではない。自分もそうなのだ。
自分もまたそうやって余計なものに捉われて、何度も何度も後悔を、過ちを重ねてきた。今は幾分かマシになりはしたが、酷い時は心に余裕すら持つことが出来ぬまま、息苦しさを抱えて朝を待つこともあったのだ。
でも弥代は違う。
いくら目に余る振る舞いをしようとも、その言動の多くが捻じ曲がっていようとも目の前で、目の前で膝をつく、本当に助けが必要な存在に対し手を差し伸べることが出来る。
もみくちゃになった糸を解いていけば、迷いなく相手の元へと辿りつける。人の裏を読むのに必死で、人の信じ方を中途半端に忘れてしまった自分とは大違いだ。
髪も目もどっちも“色”を持ってる人は少ないんだって旦那さんが教えてくれた。
『でもね、桜。その“色”はね、強く、産んでくれるお母さんが願ってくれないと持って生まれてくることはないんだよ。』
女将さんと話している時よりもずっと優しい声で、旦那さんは話してくれるの。
女将さんともそうやって話せばいいのにって言ったら、言うようになったなお前、なんて頭をいっぱい撫でられた。他に撫でてくれる人がいないから好き。もっといっぱいお話しがしたいけどあんまり長居してるとやっぱり女将さんが怒っちゃうみたい。蔵から出ていく時、いつも旦那さんはごめんなって謝るの。
……謝らなくていいからここから出してほしい。布団をね、寒いからってくれたことがあったの。すごくあったかったけどね、一人は寂しいままでね、泣いちゃった。誰か、誰かいてくれたらもっとあったかいのかなって考えたら泣いちゃったの。
ぐしょぐしょになった布団は、直ぐに女将さんに気付かれて取り上げられちゃったけど、きっとあっても泣いちゃうだけだから大丈夫だよ、って言ったら旦那さんにいっぱい抱きしめられた。
ごめんな、桜。こんな目に遭わせてごめん、ごめんなって言ってくれるけど私にとってはそれが普通。やっぱり、やっぱりね、謝らないでいいの。謝らなくて、いいから、
「……だから、だからね。他はいいの、いらない…他なんていらないから、だから、だから、私はね?」
その赤が嬉しかった。
あぁ、私と同じ赤を持っている子がいたんだって、すごく、すごく嬉しかったの。
「シロヤ、」
変なの、なんでそんな頭の悪そうな名前を名乗ったのかな?忘れられるわけがないのに。忘れたことなんてなかったはずなのに。ちょっとだけ思い出すのに時間が掛かっちゃっただけなの、に。
「ねぇ、アンタの名前教えてよ?」
少女は、桜は問うた。
さぁ、仕切り直しの時間だ。




