十九話
人間の手により都合よく生み出されたそれは【名】を与えられ、【在り方】を授かった。
どれほど神と讃えられ、崇め祀られようとも、所詮は人間が創り出した存在に変わりはなく。【名】を、その【在り方】を忘れられてしまえば、途端にそれは意味を持たなくなる。
幾ら姿を保とうとも、それを知る者がいなくなってしまえば象は崩れていくのみ。
その姿というものは次第に、時が経てば経つ程に歪んでいき、元の象を忘れていった。
己が何を望まれ生まれたのかも、何を望まれ在り続けようとしたのかも。
人間の祈り、さえも。
己に残された時間は限られていることを分かっていながらも、自身がただ消え征く存在であることを、それは認めることが出来なかった。
決して人間のように死ぬわけではないというのに、忘れ去られ元からなかったとなるだけだというのに、それが人間の願いによって生み出された存在であるからかは定かではないが、少なからず人間の、生への執着と呼べようものがそれには薄ら芽生えていた。
生まれた地を離れ、起源とも呼べよう所縁を求めてそれは彷徨い続けた。
己を、己が在り方を知る者が一人で良い、一人で構わぬから居てはくれぬものかと僅かな期待を胸に、長い、長い時間を掛けてそれが辿り着いたのは、東照神君の御霊が眠るとされる久能の地であった。
しかし、己の存在が弱まる原因となった、葵の威光が徐々に失われた時代においては所縁はあれども、誰一人としてそれを知る者はいなかった。
人の棲まう場所から離れ、それは静かな終わりを待つことにした。
消え征く現実を認めたくなかったのは事実ではあるが、本心から消えたくないと願ったわけではないと自身に言い聞かせる。そうしてありもしない目を閉じる。人の子が眠りにつく、それを真似ながら身を縮める。
いつしか人の目に触れ、地を這いずる蛇のようと喩えられた己が身は、人間に抱かれたその心象へと縋り擬えるように変貌を遂げた。
崩れ征くことなくこの地へと辿り着くことが叶ったのは、彼等がいたからこそなのだと分かっていながらも、このような姿では決してなかったのだと、それは小さく嘆いてみせた。
終わりを待つ。
消え征くその日を、ただ静かに待ち続けた。
春になると芽吹きに合わせて目覚めた動物が、多く野山を駆けずり回った。
わざわざ近くへと寄ってくる、興味深そうな足音に気付きながらもそれは躰を起こすことはしなかった。
夏になれば喉の渇きを潤すために、離れた位置にある水辺へと集まった。
春程ではなくとも、自身に注がれる視線に気付きはしたがやはり気に掛けることではなかった。
秋が訪れば熟した実りが、冬を前に身を軽くするかのように落としていく音が森中の至る所でした。
反対に、これから冬の間眠りに付く彼等は忙しなく食糧を求め野山を駆けずり回る。予め用意をしていればそうなることもないというのに。
そうして冬がやって来れば、世界は静寂に包まれる。それまで溢れかえっていた大小様々な息遣いが、足音が、鼓動が静まり返る。
自ら活動を止め、冬の間は眠りにつくのだ。
身を縮め、他者との関わりを拒み動こうとしないそれだが、その間も意識が消えることなかった。眠りにつきたいのに、消え征くだけの現実を受け入れる覚悟を決めたというのに、いつまでも、いつまで経っても中々終わりはやって来てくれない。
それよりも早く、やがては季節が巡った。
一巡をするよりも早く子が生まれ、数が増えただろう覚えのある足音が。池の辺りで育まれてゆく、小さな命と、子の成長を望む息遣いが。生き抜くために実りを求め続ける、生に必死にしがみつこうとするその鼓動が。
人間の手によって生み出された。人間の都合によって【名】を、【在り方】を得た自身には縁のない、営みの一片を肌に感じ続けながら、それは孤独の中で待ち続けることしか出来なかった。
かつては水辺へと立ち寄る人間もいたのだろうか。人の手を持ってして出来た道が草木に埋もれ、すっかり動物達が自由に行き来をするだけと化す頃になっても、それはまだ姿を、存在を保ち続けていた。
人間の手によって生み出されたその存在は、それを目にした者の心象に縋り、擬えようと姿を変える。自身さえもその変化を知覚することもないまま徐々に、徐々にその姿形は、その在り方は変化を続けた。
強き願いを持つのは、それを祈る術を持つのは何も人間に限った話ではない。その地に棲まう、息付く小さな数多の命が、新たにそれに【神】としての【在り方】を与えたのだ。
決して何をするわけでもない。ただその場から一歩たりとも動くことはなく鎮座し、静かに自分達を見守る存在、として。
長い、長い時間を経てそれは偶然にも、新しい居場所を獲得したのだ。
しかし、寿命を持つ彼等もまた人間と等しく、時が経つにつれてそれを忘れていく。寿命が尽きるという感覚を知らぬそれにとっては、数えきれぬ程目の当たりにしてきたというのに縁のないことであった。
自身が消え征くかもしれないという際は、わざわざ生まれた地を棄ててまで消えたくないと心の底から願った故の今だというのに、だ。
理不尽な憤りを覚えた頃、既に躰は実体を忘れてしまった。一際強い風が吹こうものなら、忽ちに飛ばされてしまいかねないのではないか、と言う程。自らの意志でこの場に留まることも最早叶わないのではないかと気付いた頃にはこれまでの己の傲慢としか思えぬ、身勝手な振る舞いへと意識を傾け恥を知った。
が、人間に崇められていた頃よりも強く、強く。余計なことに捉われず、ただ生きるという本能に忠実な動物らに囲まれて過ごす内に、あの頃とまるで同じように、消えたくないという思いだけがそれには色濃く刻まれてしまった。
縋る。
(消えてなるものか…)
縋る。
(何が、あろうとも…)
縋り、続ける。
人間の手によって都合よく生み出された、偶像という名の【神】は、長い時間を過ごす内にその【在り方】を、自身すら気付くもなく歪めてしまう。その想いは強く、ひたすらに強く、色濃く刻まれて征く。
どれだけ願おうとも、どれほど望もうとも叶わぬ明日を夢見るかのように、自身を生んだ人間の真似事のように祈りを捧げる。
夢を、見るのだ。
実体を忘れながらもそれは在り続けた。
自身のその強い願いによるものか、はたまた何かしらの理由があるのかは知れないが、所縁あるこの地においては、覚える者は誰一人として居らずとも目には見えぬ繋がりと呼べるものがあるのやもしれない。
池の中で長くその姿を見てきた鯉さえも、その姿を見なくなってしまう程に時間が過ぎた、宙を漂う以外に何をすることもなくなってしまった頃、それは久方ぶりに人間の匂いに気付いた。
鬱蒼と生い茂る森の中を、痩せ細った、どうにも心許ない、覚束ない足取りで歩む女を見た。
見た、と言ってもそれに目と呼べるものはなく。優れた嗅覚を持ってしてその状況を浮かべたのだ。
ぐるり、ぐるり、と。すっかり身に染みついてしまった蛇が塒を巻くかのような動きで、長い胴を意のままに操る。そうして、女の腕の中に納められた幼き命を、ややこを見下ろした。
水辺が近いためにそれでも昔は人が多少寄り付くことがあったやもしれぬが、それがその場に居着くようになってからは、もうずっと人間が踏み入ることのない。
草木は掻き分けねば満足に進むことも叶わぬような、その様な場所に幼いややこを抱きかかえて訪れるとは何用だ?と胸の内を騒つかせた。
だが、それは女の取った行動を前に思考を曇らせた。
その知る限り、人の子とは皆一様にややこを可愛がり愛情を注ぐものだ。少なくともそれがこれまで見てきた、人の子…人間は皆そうであった。だというのに、だ。あろうことかその女は、子をその場に捨て置くように、やや拓けた池の辺の岩場の上へと、ややこを包んでいた布ごと下ろすと笑みを浮かべ、満足気に笑いながら立ち去っていった。
女は、非常に満ち足りた表情をしていた。
(…………、)
立ち去った女を追ったところで、実体を持たぬ己では止める手立てなどありはしない。
同時に、捨て置かれたややこに対しても、己は何も干渉する術を持たぬことを、それは理解していた。
まだ歯の一本も生えていない、喋り、自らの意志を伝える術すら満足に持たない、斯様な弱き存在を、何故一人このような場所に置き去りにする理由がそれには分からなかった。
抵抗を、自らの命が早々に死に曝されていることにすら気付くこともなく。ややこが他を生かす糧となる姿は容易に想像がついてしまう。
それがジッと見下ろしたその存在は、悲しいまでに無力だ。
暫くして、それまで側にあった筈の温もりが、自身を守ってくれる存在がいなくなった事に気付いたのだろうか。母の腕の中を求めるように、丸められていた小さな手が花開く。顔を皺くちゃにして口を大きく、大きくひらく。そして喚き始める。
そんなものは腹を空かせた、空腹に耐え忍ぶ彼等に、餌が自らここにいると合図を出していることと何ら代わりないというのに、まだ生まれて間もないややこにとって分かる筈がないのだ。
関心を、寄せてしまったこれはきっと罰に違いない、と。せめても、この生まれて間もない命が彼等の牙によって、貪られ散らされるのを見届けることが己への戒めなのだと、覚悟を胸の内に決めた、その時だった。
“目”が、合ったのだ。
それにあるはずのない、元は在った覚えがあるのにいつの間にか忘れ去られてしまった、“目”が、それを捉えた。
ぎゅっと、強く瞑られていた、皺まみれの瞼が開くと覗くのは、眩いばかりの“黄”。
疎らに色付く、生え揃わぬ頭の“赤”と相まれば涼風の候を連想させる、秋の訪れを纏ったかのような稚児。
長く、手を伸ばすことを諦めていた【神】は、生にしがみつこうとする稚児の、幼いながらも死に争う術も求むような“色”に魅入られ、愚かにもその手を伸ばした。
鬼ノ目 六十九話
「逃げるぞ。」
言葉の意味を理解するよりも早く、足裏が岩場から浮いた。瞬きをする暇さえもない、刹那の出来事。
伸ばそうとした手は何も掴めまま、焦りを覚えたのも束の間。気付いた時には自分を抱える反対の腕の中に、少女の姿を見た弥代は春原の肩口に手を掛けた。
力なく揺れるのみの自分の下半身が視界に入る度、何よりも今何が起きているのかを把握したいと考えるのに、それがどうしても難しい。満足に踏ん張りが利かないだけで、自分の意志で動けないというだけで不安が過った。焦りはまだ拭いきれない。
「春原さんっ!」
歯を食いしばりながら弥代が指先に力を入れた時、背後から聞き慣れた男の声が聞こえた。と、その瞬間、体が微かに浮いた。
「止まるな、」
少女が春原の腕から離れた。
後ろに並んだ相良の腕の中へと、いつの間にやら移されたのだろう。はっきりとしない、物をまともに捉えることも出来ずに今も上下左右に揺れる視界の中、月明かりしか頼れる光源がなくともそこに知った相手の顔が見えるだけでも、一時でも安心感を抱いた。
そして、今この時訊ねるのもどうかと思えども、弥代は相良に噛みついた。
「そろそろっ!説明があったって!良いだろうがっ‼︎」
「状況が分かってないのですか⁉︎よりによって今、今求める必要がどこにあると…⁉︎」
「分かってねぇから訊いてんだよこっちはっ‼︎」
せめてもと安定を求めて、春原の背中に片腕でしがみ付くようにして吠える。だったら尚更今何が起きているのかを弥代は教えてほしいものだと続ける。
目の前からいなくなった桜を追って、脇目も振らず駆け出した相良に続くように森の奥へと駆け出した弥代と春原であったが、遅れて森から出た時にはそこに既にあの“蛇”であると説明を受けた、到底ただの“蛇”には見えぬ存在と相見えた。
光の差し込まない森の中、これまで向かい合うことのなかった春原から渡された言葉の通り、今この時は彼の、相良のいう言葉に耳を傾け信じはしたが、正直なところやはり弥代は何がなんだかさっぱり分からず仕舞いだ。
焚き火を前に暖を取っていた時から、あまり相良の軽装さに驚きはしたが、やはり刀の類は持ち合わせていなかったらしい。
少女を、桜を人買いから買い取る算段でいた時から暴力に物を言わすつもりはなかったのだろうか。しかし持ち合わせが足らず、身柄を引き取ることは叶わなかった。
薬師である伽々里から提案を持ち掛けられたことで相良を連れ戻す為、彼と同じようにこの地へと赴いたから次なる策を講じることが出来ただけで。彼一人では何も出来ず、一人で帰ってきていたのではないか、と思えてしまうほど。
そんな彼から先ほどのように、アレの相手を願います、などと言われてしまえば、たとえ得体の知れない相手と対峙しようとも、桜を救う為に駆け出した彼がそう言うのであれば、それが桜を助けることに繋がると考えた。あの場では肯定的な返事と、突如駆け出した春原につられるように自身も走り出し、どうにかその場を切り抜けようと努めたつもりだが、自分に出来たことが何一つないことを弥代は自覚していた。
そして更に追い討ちを掛けるように現状を一人、桜を除いた三人の内、把握出来ていないのは自分のみであろうことも弥代は知っていた。
「弥代、」
また一つ、弥代が吠えようとしたその時、
「舌を噛む。」
空いた手で口を覆われる。春原だ。耳元で名前をいきなり呼ばれたのもそうだが、あまりの大きさに鼻先まで一緒に塞がれてしまう。そして、体に襲いかかってくる勢いが一瞬増す。
「怪我はないか?」
「飛ぶなら飛ぶって始めに言えっ‼︎」
「……相良と話していたから、邪魔になるか、と。」
「話してた内に入るかっ⁉︎あんなもんっ‼︎」
人を一人抱えた状態で岩壁を登ったというのに、その横顔には汗ひとつ浮かんでいやしない。
遅れて息をやや切らしながら相良が岩場を登ってくるのを尻目に、漸く春原の腕の中から解放された弥代が手を貸し、桜を抱える彼の手を引く。
それから眼下の、異形を目にした。
「………なんだよ、アレ、」
「“在り方”を忘れてしまった、恐らくは、かつて“神”と呼ばれた存在とお見受けします。」
「……“神”?」
今になってやっと返ってきた先の答えのような返事に理解が及ばず、ただ一言、それを弥代が繰り返せば春原が前へと出る。
まだ崖の淵にいる二人(と、未だ抱えられたまま目を覚ますことのない桜)を奥へと押し退けるようにして、いつの間にか鞘の中へと納めていた刀の塚へと、再び手を掛ける。
「……来る。」
風圧。一気に襲いかかってくる風の、その圧力に体が後ろへと吹き飛ばされてしまいそうになる。足裏で地面を掻き抱くようにして、やっと堪えることが出来るものだった。
桜を抱えながら膝を付き、苦悶の表情を浮かべる相良と、微動だにせずに宙を見据えている春原の背を交互に見遣る。
旗めき激しく裏返る羽織が、後ろから目にする彼の動きそのものを隠すかのよう。そして、夜空にその長駆を軽々と持ち上げる、異形の存在。
「名を……考えてはなりません。」
後ろから声がする。
「アレは“蛇”。そうとだけ、お考え下さい。恐怖を、我々のそれはアレをただ増長させるだけです。その姿を視界に納め、“蛇”以外を思い浮かべてはなりません。」
「なんだ……それっ、」
混乱の上塗り。分からぬことが増えていく一方で、それでも相良のそのあまりにもハッキリとした言葉は弥代の脳裏に響いた。
先刻の強い切り出され方がまだ残っているのやもしれない。思わず身が竦むほどの、声量を思い出す。
「一度姿を、名を忘れられし存在へと、その在り方さえもを失った存在に再び【名】を与えてはなりません。“色”を持つ、恩恵を得た我々は尚のこと。」
長い胴体が宙に漂い、渦を巻くかのように広がる。
夜空に広がるその胴体は、尾がどこにあるのかを探すのも一苦労な程。長く、長く、これまで相手にしてきた存在と同じであるかを疑いそうになるほどまでに巨大だ。いっそ別の存在であると言われた方が納得が出来そうな程。
春原に言われた通り、今しがた相良からも直接言われたように自分は、否、この場に居合わせる存在は皆、彼の言葉通りにあれを、あの存在を“蛇”として見ようとしている筈なのに、様子が好転することはないまま、浮かんだ汗がただ肌を伝うばかり。
彼の、相良の言葉を信じることにはたして意味があるのか疑い始めた時、それが弥代の耳に微かに届いた。
「……、」
それは聞き間違えるはずのない、自分が今この場で誰よりも救いたいと願う彼女の、桜の声に他ならなかった。
「桜…?」
相良は、弥代のその呼び掛けにやっと腕の中の存在へと意識を向けた。離すものかと抱えていた一方で、彼の意識はずっと宙に姿を浮かべる、人ならざる存在へ、それと対峙をする自分たちへとばかり向けられていた。
時間にしてしまえばほんの僅か。それでも意識のないまま激しく体を揺すぶられ、抱えられ運ばれとして一向に目を覚ますことのなかった彼女に、もっと気を向けられていれば気付けたはずではないのか、と弥代は焦る。
「…ゃだ…、いやだ、やだ…やめ、て」
小言、だ。小さな、小さな口を微かに震わせて紡がれる、それ、は、
「たす…けて、おかあ、さん…っ」
――――、反転。
轟く、咆哮に耳を塞ぐ。
腕の中の少女は、今も強くその瞳を瞑っているというのに関わらず、譫言を漏らすかのような口は怯えた子どものそれ、そのものであった。
そして相良は理解をする。
今この場で気付いた、それ自体が遅すぎたかもしれないが、一つ知識として蓄えられてしまう。
どうやらあの存在は、何も視界に収めた相手に限らず、周囲が抱く像へと在り方そのものを沿わせることも叶ってしまうのだろう。
状況が状況でなければ知れた喜びを、それでも噛み殺したように手放しで浮かれたいものだがそちらは叶いそうにない。
慌てた様子でこちらへと駆け寄ろうとした弥代の、アレから目を離せなくなった後ろ姿を視界に収めながら、同様に未だ変貌を続けているやもしれぬ異形の存在から自分も目を外せぬまま口角をいびつに歪ませた。
「到底……私の知る母親の像からはかけ離れています、ね。」
頭を覆っていた傘のような部分が細く、先を尖らせて伸びる様は、神々しい仏像の背に飾られた、光明を目にみえる形として表現したか光背の如し。うねる胴はそれまでよりも繊細に、長く一本の胴から“蛇”の胴を模して生まれた蛇腹を連想させる。まるで弱い部分を隠す為の鎧の繋ぎ目かの様。
あの姿が、母に救いを求めた少女が思い描いた母の像であるとは俄には信じ難い。しかし今はそんなことも気にしている余裕はない。
“色”を持つ、恩恵を賜り生まれてしまった自分達のような存在が、名と在り方を失った存在に新たな“名”を“在り方”を与えるということは即ち、
「神の、目覚め……」
いつまでもこのままでは居ていいわけがないことを、それは理解していた。
母親に捨て置かれた稚児はまだ何も知らぬというのにも関わらず、生きようと藻がく、生命の本能だろうか。やはりそういったものは目に見えずとも存在し、それに近しいものが人の手によって無責任にも生み出された自身は、それによって突き動かされあの地を離れ、今があるのだと思わされる。
触れる、伸ばせる器用な四肢を持ってはいなかったものの、泣き喚いた一瞬を見逃さすことはないまま、自身の柔い胴の腹で、稚児の頬を数回撫で上げた。
たったそれ一つでそれまで自分が泣き喚いたことをすっかり忘れたように頬を綻ばせる、丸く、小さな生き物。
本来、姿と実体を失った自身は決して他者に二度と認識されることはないと思っていたのに、その稚児と目があったと感じたその直後から、それは失った筈の実体を獲得していた。
だからこそその頬を撫で上げ、子をあやす人の親のようにその傍に寄り添い、泣き出せば泣き止むまで、いくら飽きても柔い腹で摩りあげ、空腹に耐えきれず食糧を探し求める獣が近寄ってくることがあれば、長い胴で元来た道へと帰し続けた。
池の辺りにやって来る、無害な生き物たちが好奇に満ちた目を向けてくるのを、止めることなく見守った。視界に映る自分とはまるで異なる存在がいくら顔を覗き込んでこようとも、稚児はあの時目にした綻んだ顔を崩すことはなく。手を伸ばし、時にあまりのその強さに相手の毛を毟ってしまうこともあったが、目を丸くするだけ。変わらぬ、損なわれることのない眩いばかりの笑顔を浮かべていた。
季節が巡る。
春が雪を温かく溶かし、夏が思い出した色を青く覆い隠し、秋に実りと終わりを迎える準備をし、冬が静かに世界を包み込んで行く。
一巡、一巡の中で次第に大きくなっていく、言葉も知らず、目に映る獣の動きを、作りの違う小さな体で真似をして、駆け回る、稚児の成長をそれはただずっと見守っていた。
近くにある集落から布を拝借し、身に纏うことすら知らない幼すぎる体を押さえつけて、自身のよく知る人間の姿へと、稚児を近付ける。
伸び切った赤髪は寧ろ目立ち、遠くにいようともその姿を見過ごしてしまうことだけは避けられようから剃り上げる必要は感じられなかった。
それは、自身が存在しえる、姿を保つ為には稚児の存在が欠かせないことを分かっていながらも敢えて、敢えて人間の暮らしの中へと、本来あるべき場所へと大切な娘を送りだしたのだった。
それが全ての始まりであり、それが冒した罪であるなど知る由もなかったのだ。
「耳障りだ。」
こうも立て続けに刀を抜く日などこれまでなかったろう春原だが、さして気に留めることもなく眈々と目先の相手を捉えた。
姿が多少変化しようとも一度斬れた相手に変わりはない。斬れたという実績が春原の中には既にあるのだから、やはり迷うことはない。
「正直なところ、俺はあの子どもがどうなろうが関心がない。」
「ただ、弥代と相良が救いたい、と。そう、望むから刀を構える。……それだけ、だ。」
咆哮が鳴り止まぬ中、春原は変わらぬ姿勢を見せる。が、一瞥。自分が背後に追いやった、守るべき二人の顔色を窺う。
「“蛇”でないのなら何だ。俺にとっては、斬れるか斬れないものか。その二択が分かればいい。」
焦りを滲ませた表情の二人。片や膝を付き、片や抜こうと抜けもしない腰にぶら下げた刀の塚に震える指を引っ掛けている。
春原は決して臆することはなく、また眼前へと視線を戻す。
刀を構える。抜いたばかりの鋒を相手に合わせる。
「……少なくとも、」
手のひらの皺に馴染んだ柄巻は、今は戦う術を持たぬ男が丹精を込めて自分の為に誂えてくれた、この世に二つと存在しえぬ大切なものだ。
塚はそのまま使い回すように、津軽の屋敷にて刃毀れが酷く使い物にならなくなってしまった刀身を引き抜き、差し替えられたものだ。春原にとって刀とは握りしめる細部に至るまで、自分のよく知っている、体が覚えているものでなくては意味を成さない。それは動作一つ、構えから全ての所作が含まれて初めて意味を成す。
「一度斬っている。俺は、それを忘れていない。」
痛い、痛い。痛くて痛くて、痛くて痛くてもうイヤだ、全部、全部嫌だ。どうして、どうしてそんな目をするの?どうして私は違うの?何も違わない、何も違わないのに、なんで?
私はどこから来て、どこへ行けばいいの?ここは、私がいていい場所じゃないの?なんでいつも痛い目に遭わなきゃいけないの?いつまで我慢したらいいの?なんで、誰も助けてくれないの?イヤだイヤだイヤだイヤだっ‼︎誰か助けてよっ‼︎どうして目を逸らすの?どうして離れていくの?みんな、そう…そうやって気が付いた時には誰も、誰もいなくなってる。なんで?私が何か悪いことをしたの?何もしてないでしょ?なのに、なんでそうやって…そうやって痛いことばかりするの?どうして笑うの?私が、私が泣いてるのがそんなに面白いの?やだ、やだ…やだ、たすけて、助けてよ…!おかあさん……っ‼︎




