十八話
「だから、なんだってんだよ一体っ‼︎」
駆け出した相良の目的が自分と同じであることなど、桜の身を按じての行動だろうことを分かっていながらも、弥代は吐き捨てずにはいられなかった。
先刻の会話同様、彼が自らするといった説明は、その回答は一つとして得られぬまま。状況が決してそれを許してくれる隙さえないのだとしても、せめて何か一言は言ってほしかったと考えてしまうのは果たして我儘だろうか。
文句の一つ垂らしたところで、誰も何も言いはしないだろうと高を括れば、足並みをわざわざ揃えて傍らから離れようとしない男から、こちらの顔色を窺うような気配を感じた
「…んだよっ⁉︎言いてぇことがあんなら言えよっ‼︎」
「……違う。相良は考えなしで動く奴ではない。」
「俺が考えなしだって言いてぇのかよっ⁉︎」
「……そうは、言っていない。」
「だったらなんだってんだよ⁉︎ハッキリ言えってのが分かんねぇのかお前は‼︎」
月明かりさえ差し込まない、生い茂った森の中では相手の表情など見えるわけもない。先を行く相良を追うに目を頼っていない、拾える枝木の折れる音が頼りの中足を止める、遅れを取ることなど見失いかねない為にあってはならないのは分かっていたが、弥代は春原の答えを優先した。
いくら夜目が効いていようとも見えるものにも限界がある。それでも感じる気配へ、春原がいるだろう位置へと体を向ける。
「言われねぇまんまでチラチラチラチラ見るんじゃねぇって言ってんだよっ‼︎」
「……言っていない。弥代はハッキリと言えと言っただけだ。」
「何度似たようなやりとりさせんだよ!汲めって言ってんだよ俺は‼︎出来ねぇってんなら俺に構うな‼︎鬱陶しいんだよいい加減っ‼︎」
桜のことを任せたのは自分であることを忘れたわけではない。自分の無力さが、詰めの甘さと判断の遅さで招いたといって過言ではない先の状況と、現状何一つ分からず仕舞いを前にして、弥代はその苛立ちを隠すことが出来なかった。八つ当たりに他ならない。
しかし相手はそのようなことで引き下がるような男ではなかった。光源の差し込まない暗がりの中。まるでしっかりと相手が見えているかのような迷いを知らない視線を弥代は注がれた。
「……言って、弥代は聞き入れてくれるか?」
それは暗にこれまでの弥代が、春原の言葉を聞き入れることがなかったから出てきた言葉かもしれない。
弥代は春原が自分の言葉であれば、自分が彼に強く何かを頼めば、彼が望んだ通りに動いてくれることを理解していた。些細な事も含めて彼の、自分へ向けられる正体不明の気持ちを利用することは少なくはなかった。だが弥代が彼の、春原の言葉に耳を傾けることはこれまでほとんど否、弥代の覚えている限り一度もありはしない。
ありは、しなかった。
鬼ノ目 六十八話
青白く、あまりにも長い胴が畝る。
どこまでを尾と呼ぶのかも分からない、長すぎる太い胴は先端までしっかりと連動していた。
ほんの少し前、春原が迫り来る胴体の一部を刀によって両断したのを相良は見ていたというのに、今や“その存在”にそれらしき切断面は一切見当たらない。
人の範疇を越えた、己が在り方さえを忘れた彷徨える存在を前に、通ずるのはあくまでも自身らの中にある、“蛇”に紐づく事柄のみ。
周囲の人間が抱いた、自身への心証へ在り方を求める、縋らねば姿さえも保つことが出来ず潰えて行くだけの弱き存在。
「蛇というものは元来、臭いを嗅ぐことに長けた、嗅覚に依存をする生き物です。眼は、それほど優れていません。耳はないものの、振動に対し非常に敏感です。そして、弱点と呼べる弱点がない、大変厄介な生き物です。」
未だ岩場を中心に塒を巻く以上の動きを見せることのない、敵意を抱かれているのかさえも分からない存在を見据えて相良は口を開いた。
相手の出方を伺いたい気持ちも山々ではあるが、悠長に身構えているだけなどあまりにも時間が惜しい。こちらからはその姿を認識することが出来ないが、恐らくは岩場の上にいるであろう彼女の、桜の安否を自身の目で確かめたかった。足を引っ張りかねないと言った手前、後ろに下がっていた方がいいことなど誰よりも自分が分かっているというのに、やや駆け足気味の説明を終えれば微かに腰を落とす。自分の刀は持っていなくとも、相手を欺く術には心当たりがあった。
愚かにもその昔、かの蛇神を相手に本当に一度だけ喧嘩を吹っかけたことがある。結果など言わずもがな。手当を施される際に、相手を知らずに突っ込む命知らずと呆れられつつも、度量を見込まれた褒美にと、蛇に感する話を多く教えられた。
知っておけば寝首の一つ掻くことなど容易いでしょうと言われてから五年以上が経つが、挑もうなどと考えたことはただの一度もない。
しかしそれが今この時役に立つ。
見据えた先の異形の存在を前にし、相良の言葉に耳を傾けた弥代と春原が“アレ”に抱く印象は紛れもなく相良が話した“蛇”として植え付けられたはずだ。より強固になった在り方に縋る他ない相手ともなれば、ここに来て多少の余裕が生まれる。
そして同時に、“蛇”は遮るものがあろうとも関係なく熱を感知する働きを持っているということを思い出す。
茂みの中から街道を彷徨うように動き回っていた相手に対し、こちらを見失ったと都合よく捉え、油断しかけた隙を突いてきたような攻撃は、捕食者のそれだったのではないかと思えてくる。それは、獲物の仕留め方を心得ていることを意味しかねない。
先のような先手を打たれないように、春原が抱えて持ってきた葛籠の中から始めのうちに取り出していた硝子瓶の蓋を開け、中に入っていた精油を広く撒き散らす。楠の原木から水蒸気を用いた蒸留法で抽出された樟脳だ。
冬を越す間、眠りにつく動物が多い時節では役に立つことはないが嗅覚に依存せざるをえない、視覚があまり発達していない“蛇”にはこれが効くことがある。
これは駿河の宿にて火の手の中、煙の臭いをまだ纏う二人を紛らわす意味も含んでいた。
懐から取り出した小瓶の封を開ける。彼が中味を前方へ撒き散らすのを視界に収めるや否や、自分よりも後方にいた筈の春原が一気に駆け出した。
場合によってなどという言葉は飾りだったのか。伝わっていないのではないかと不安を感じる暇もなく、遅れて弥代も駆け出す。
森の中で春原より手渡された、自ら抜くことを避け続けてきた刀の、鞘と鍔をしかと強く握りしめながら。
そして弥代も追って駆け出した途端、岩場を中心に塒を巻くだけであったその存在が、それまでの緩慢な動きからは想像しにくい動きを見せた。胴が唸る。その動きが全身へと伝わっていく姿はまるで次々と押し寄せる、岩をも呑み込む勢いの濁流かのよう。
地を打ち、跳ね上がった巨体の尾が振り下ろされる瞬間を弥代は見失うことなく、余力をあましながら避けてみせた。
距離がまだある為に即座に避ける動作へと移ることが出来たが、これまでこのような存在を相手にしたことのない弥代からすればどこか現実味が湧かない。だとしても身に危険が降りかかりそうになれば回避する。ごく当たり前の生存本能だ。これまでの経験が小さく囁く、抜かずともいけるのではないか、と。
だがその矢先、弥代は思わず振り返った。
「春原さんっ‼︎」
拓けた月明かりが全てを暴くこの場所は、遠目に見れば状況を見渡すのに都合がいいのだろう。相良の声に振り向いた時には、つい今しがた自分の近くへと振り下ろされた巨体の尾が、右手へと先に駆け出した、春原の向かった方の地面を抉るようにして深々と突き立てられていた。
攻撃を防ぐ術のない人間が喰らえばどうなってしまうかなど、突き立てられ抉られた地面を見てしまえは想像はあまりにも容易い。数歩、その場でたたらを踏み鳴らして、途端に弥代は焦りが滲みませた。
『相良の言葉は、信じていい。』
何をもってして信じるというのか。
森の中で向けられた言葉を、その言葉をこの一時、事が終わるまでの間だけで構わないからと言った彼の言葉を、その言葉を渋々ながらも信じてやろうと思った矢先の出来事だ。言葉を交わしてから、まだ半刻も経ってはいない。
茂みの中へと再び姿を眩まそうとしたのだろう、尾が突き立てらえた一点を見つめ弥代は考える。
刀を抜こうにも抜けない自分とでは、春原がいなくなった方が困るのは目に見えているというのに、どうしてそんな攻撃を喰らってしまったのか、と責任を押し付けるように小さく腹をたてる。
所詮弥代が得意としているのは喧嘩だ。刀を相手に向けて斬り伏せるなんて、彼のような芸当を弥代は行えない。自分の身を守るために最低限、最低限の術しか弥代は持っていない。そんなことが端から出来ていれば、それこそ救えたものはもっとあったのではないか、思えてしまう。
そうだ、結局のところ弥代は考えすぎていつもその足を、歩みを止めてしまう。余計なことなど考えなければいいなんて分かっているのにそれが出来ない。出来ないから後悔ばかりが増えて消えぬまま。
でも、
彼女を、桜を助けるために駆け出した筈の弥代は、進む向きを変えた。地面を抉った尾はそのまま動くことはない。
『いつまでも立ち止まって、前を向けずに蹲るだけの、何の力もない子どもではない。』
先刻、相良から向けられた言葉を思い出す。
運良く掠っただけ、酷い怪我をしていなくても頭を打って動けなくなっているだけであることを心の中で願いながら駆け出す。
『今だけでも構わない。今だけ、弥代が救いたいと望んだ、あの子どもを救える、その時までだけでいいから、』
弥代は、春原のことを信じていない。
未だ彼の得体の知れなさを、弥代のことを一方的に知り、どちらかといえば好意的に取ることが出来る形容し難い態度で接せられることを気味が悪くてたまらなかった。
相手が話たくないことを、弥代は無理に聞こうとしない。誰にだって誰にも話たくないことの一つや二つある。自分が知らない過去に関わる話だとして、話すにも口を中々割らない相手にそれを強請るようなことはしたくない。でも、だからこそせめて、せめて分かりやすい言葉が一つでいいから欲しい。
彼が、春原が言葉を紡ぐのが決して得意でないことなど理解している。今更だ。あの小仏の森で出会ってから一年以上が経ち、あれからずっと変わらぬ調子で付き纏われているのだから。
弥代は春原の言葉を聞き入れなかった。でもそれは彼がやはり言葉を、自分の意志をしっかりと口にしなかったからだ。大抵その後に弥代が強く出れば、そうか、と諦めを示す。他人の言葉で簡単に自分の言葉をなかったことにしてしまう。
一方的に彼の気持ちを利用しているような自分に、気づくのが弥代は嫌で嫌で仕方がなかった。
だから弥代は春原をなるべく避けてきたというのに、どうせ何を言ったところで意味がないと諦めていたというのに、それなのに、
『俺の、言葉を聞き入れてくれ。』
向き合えた試しのなかった彼に、彼がどのような表情をしてそう言ったのかさえも分からなかったというのに、あまりにも真っ直ぐなその言葉にやっと、やっと弥代は春原を見た。
向けられるばかりのその眼差しを、弥代は返した。
「春原っ‼︎」
駆け寄る。決して距離が離れすぎていたわけでもないのに数十歩があまりにも遠く感じれた。勢いあまって前につんのめるのを必死に堪えながら、地に埋まる尾の周囲を素早く見渡した。茂みの方へと目を向けても、抉れた地面を見遣ってもそこには探す、無事を祈った彼の姿はなく。彼がこちらへ向かったこと自体が自分の勘違いだったのかと少し前の記憶を疑いながら(だとすれば巨体は何故この地点へ明確な攻撃を仕掛けたというのだろうか)、相良へと体を向けた。
途端、鼓膜は強く揺さぶられた。
人に例えるのなら、それは絶叫。痛みに悶え苦しむように、大きくのたうち回る異形を、岩場に登り春原は静かに見渡す。
相良の一声が届いた瞬間、春原は迷いなく茂みへと転がり込んだ。しかし急激な動きに普段であれば飛び出ることの印籠が一緒に飛び出てしまった。
薬を持ち歩く為に用いられることの多いものだが、春原はこれに伽々里に調合を頼んだ七味が収められていた。
目の前に散らばった細かい粉を鷲掴み、地へと突き立てられた異形の尾に向けて、先の相良のように振り撒いたてから然程の時間は経っていない。
相良は蛇は嗅覚に頼りきりになる性質があると言った。それが全身ではなく頭部にあたる、舌から得る匂いによるものだと説明を受けたのを思い出しながら、しかし尾へ振り撒くだけでは意味がないと気付けば、自身の体へもそれを擦りつけた。
「これで、伽々里から叱られるのは逃れられそうだ。」
既に皺まみれ、泥まみれの仕立てのいい服に更に七味を擦り付ける。それは火の手が広がる中を駆け抜けたことで纏わりついた煙の匂いを誤魔化すためであり、相手が嗅覚より得る情報を増やし、撹乱を目的としたものであった。
限られたもの、身につけたもので窮地と呼べよう、本来であれば人間の力が及びはしない存在と対峙を繰り返し、妖怪討伐あるいは退治を生業としてきた彼にとってはそれはありふれたこと。随分と長く直接対峙する機会に恵まれなかったために、感覚が鈍ったように春原は思えたが、どうやら勘違いに他ならなかった。
またして春原は相良の言葉により攻撃を回避することが出来た。これも彼にとってはやはりこれまでと何一つ変わらない。くぐり抜けてきたこれまでの死線と何も、大差はなかった。
そして相良は“蛇”に弱点と呼べる弱点は存在しないと言っていたが、そればかりは直接斬り伏せてみせた春原にしか分からぬこと。同じように息衝く存在であるならば皆等しく首は弱点となりうる。
茂みの中から近づき、不意を狙った。
相良が予め撒いた樟脳に、春原が振り撒いた七味。そして元より纏っていた煙の臭いと、物を見る目を持たぬ、嗅ぐことで状況を判断することしか出来ない存在にとって、それ等は最悪の組み合わせであっただろう。
何よりも茂みの中で仕掛けられた攻撃に対し、その胴をあっさりと両断することが出来た春原にとって恐れることなど何一つなかった。斬れると分かった時点で、春原の太刀筋にやはり迷いはなかった。
登った岩場は想像よりも高さがあった。
自分がたどり着くよりも早く、気付いた時には地に臥せる巨体を尻目に、正面からよじ登れば探し求めていた少女が静かに横たわっている。
安堵するのも束の間。礼の一つでも述べねばと、怪我がないようで良かったとでも言ってやろうかと肩口に振り向くも、足元を見下ろす、微かに見える彼の横顔に弥代は動揺を覚える。
「……春原?」
その表情に釣られるように、弥代の声には不安が見え隠れしていた。
“蛇”を模したかのような巨体が震えあがり、悲鳴のような声を上げながらのたうち回り地に伏せるのを、恐らくは相良も一緒になって見ていた。
距離があった自分と彼から見ても、“アレ”は春原の与えた一撃をもってして倒されたように映ったに違いない。草を踏む、彼を呼び岩場へと駆け寄ろうとする相良を見て、どういうわけか今は足の遅い彼を追い越して弥代が先にここへ辿り着いたというだけ。
相良が春原を呼ぶその声にも安堵が滲んでいたように弥代は感じられていたから、それを信じただけだ。
だから弥代は、春原の見せるその姿勢に嫌な汗を掻いた。
相手が再び動き出すその瞬間を、決して見逃すことなく仕留めようと意識を向ける春原を見て、畏れを抱いた。
そして、春原が小さく口を開いた。
「逃げるぞ。」
「ぇ、」
その言葉を理解する間もなく、胴へと腕が回される。それがこの場を離れるという意味であったことを理解しかけた瞬間には足が岩場から浮いた。自分が桜を掴んでいないことに気付いた時には、どういうわけか弥代を抱える腕とは反対の腕の中に桜の姿があった。
肩口に手を掛けて、揺らぐ視界が安定するように弥代は試みるも、そんな余裕はやはり存在しなかった。




