十六話
『なんだ……思ったよりも近くにいたんだな、探したんだぞ?』
戸を開けてみると、そこには見知らぬ男が雨に濡れながら立っていた。
こちらを見るなり、あたかも知った顔と言わんばかりの物言いをするもので、不躾にならない程度に相手の顔を彼は窺うも、やはり少なくともこの地に身を置くようになってからは覚えのない顔を男はしていた。
ともなれば十年以上昔のことか。
それほど前ともなれば覚えていないのも致しかたのない話。自らの意思で過去を断ち、既にこの地で骨を埋める心持ちでいた彼にとっては無縁の、関わりあいを今になって持ちたくない話に他ならない。ここまで上手くやっていたものを、今更帳消しにされてしまうことだけは、今ある安寧を保つ以上のことを彼は望んでいない。
男の言葉の真偽などお構いなしに、必要以上に波風を立てることは得策ではないと、話を穏便に済ませようと彼は人違いを装おってみせた。
何はともあれ夜分遅く、客足はもう見込めないと店の灯りを落としていたにも関わらず男は店の戸を叩いてきたのだ。気配りぐらいしか取り柄のない女房が、客であったならこの雨風の中、外でまたせてしまっては他にこの土地には宿などないのだから行く宛もなくかわいそうだと言って戸に向かおうと腰を浮かせるのを、わざわざ止めてまで彼は代わりに玄関まできたのだ。
たとえ人違いを装おうとも、宿屋の主人としては男に泊まるのかどうかを訊ねねばならないのだが、しかし帰ってきた返事は彼がまるで考えもしていなかった違うであった。
『壇二郎、』
それは、とうの昔に捨てた自分の名前だった。
立ち寄ったそれ自体がそもそも珍しいことだった。
普段からなるべく人の寄り付く場所を避けて過ごすことが多かったのを、わざわざ宿場町なんて往来の多い場所に足を運んで過ごすことにしたのは、最近そこいら一帯が何やら物騒と、山道には賊だ狼だが姿を現し襲われるのが増えているなんていう噂を耳にしたからだった。
流石に深く寝入っているところを襲われて、それで無事でいれる自信はなかった。相手は一人一匹の話ではなく徒党と組んでいるなんて耳に入ってしまえば尚更に。
人気のある宿場町の外れあたりの、林か茂みにでも転がりこんで夜を明かす算段でいた。夕暮れ刻であろうとも一際目を惹く、その“色”を見てしまう、あの時までは…。
まるで何かが抜け落ちたかのように少女は目を覚ます。
目を覚まして覚えのない場所にいるなんてことは、少女にとってはよくあることで。あぁ…まただ、なんて一々気にしてられないのですんなりと体を起こす。
身の回りには何かを食べていたのだう、やはり覚えのない食べかすが散らかっている。指で唇を軽く擦り、舌で舐めればしょっぱさがじわりと口の中に広がる。
(あの子は…どこにいるんだろう?)
覚えている限りの記憶を少しずつ手繰りよせながら、あの怒りっぽい黒髪の少年のことを思い出す。自分はついさっきまで一緒に庭で掃除をしていたと思うのに、見渡すまでもなくこの場所はいつも夜になったら押し込まれている蔵の中だ。天井が高くて、年中土床はひんやりと冷たい。冬じゃなければ気持ちよくて好きだ。
「……どれぐらい、経ったのかな?」
少女には幼い頃から幾度か、数えるのも、その数を正しく覚えるのも面倒なぐらい何も覚えていない時間が多くあった。それがどうして起こるのかも分からなければ、それの間に自分が何をしていたのかも一切分からない。
「ううん変なの、今は少しだけ…覚えてる。」
ぽつり、言葉を落とす。
外が怖くて怖くて本当はたまらない。居ていいと言われた場所にずっと居てもいいのだと、どうしても思えない。買われてもしばらく経てばまた売り戻されてしまう。
いつか、いつか捨てられちゃうという考えが、またここに一人で戻って来させられちゃうと、そんなことばかり考えて。
外に行こうと、ここから出ようと言ってくれたはずのあの子の手を、自分じゃない自分が突き放した、そんな朧げな何かが、今の彼女・桜にはあった。
それは今までに感じたこのない、分かりやすく言葉にするのなら、身に覚えのない恐怖。
もう見離される、捨てられるのが嫌ならそれならここにこのままずっといたって、居れる間だけでもここにいたっていいじゃないか、とそんなことを口走っていた。きっとそれは自分も思っていること。
早くここから出たい、抜け出したい。でもまた戻されて、受け入れてもらえなかった、捨てられた現実だけがいくつもいくつも積み重なって。
小さく蹲る。感情が波のように大きく押し寄せてくる。とめどなく押し寄せてきたものに体が、それを思ったであろう心さえも追いつけない。分からない、分からないことばかりでどうすればいいのか、何をしたらいいのか分かるはずがない。泣いて、それでどうにかなるとも思えないのにぽろぽろ、ぽろぽろと涙は止まってくれない。考えれば考えるほどに頭の中はぐちゃぐちゃになって、どうして、どうして自分ばかりがこんな目に、こんな事で苦しまなくちゃいけないのかと、せめて踏みとどまれる場所を求めるように爪を立てる。
次第に熱った熱を冷ますように、心地いい土床に頬を擦りつけるもあまり意味のないこと。奪われたそこにまたしても熱はともり続ける。止む術を知らない、それは一人では止むことを知らない。
「やだ…ッ、もぅ、いや…、嫌だよ…っ‼︎」
終わりにしたい。何もかも全部、全部…。これ以上痛いのも、怖いのも、辛い思いをするのも、その全てがもう嫌だ。いつまで続くかも分からない、誰も助けてくれない、どこにも行く場所がない。だったら、だったらいっそ、の…こと―――
「いつまで、泣いてんだよ。」
来た道をただひたすらに走り続けた。
あの場所へ戻る際に走りすぎたと、熱を持っていた足をほんの少し前まで休ませていたのを忘れてしまう程、弥代はただがむしゃらに走り続けた。その結果体感にして半刻足らずで宿屋へと戻ってきた。
逸る気持ちで胸がいっぱいいっぱいだというのを隠し冷静を装う。先ほど宿屋の敷地を飛び出した時とは逆の手順で、静まりかえった堀の内側へと滑り込む。
昔もここを同じように飛び出したわけで、なるほど自分がここの勝手をよく知っているのを今になって弥代はうなづけた。
高さのある蔵の前に立てば、踏み入るよりも前。既に弥代には派手に泣き喚いている彼女・桜の声が届いた。届いて、しまった。
歩み寄ってみればいつぞやの晩に見た、背を丸めて泣きじゃくっていた友人の姿を思い起こさせる格好に、やっぱり気のせいなんかじゃないと弥代は自分に言い聞かせる。
この場所へと戻ってくるきっかけとなった相良の言葉に駆け出したというのに、それでもまだ最後の後押しが弥代には足りていなかった。
(だから、俺は……)
ひ弱そうな女が止めてくれと声をあげるのを、嘲笑うように見下すおとこたちを見過ごすことができなかったのもそうだが、自身と同じ“色持ち”の女が虐げられる、その光景を放っておけなかったのもそう。でもきっとそれだけじゃなかったはずだと、強く自分に言い聞かせた。
そもそも自分は、なるべく面倒ごとをこれまで避けてきたはずなのだ。扇堂雪那と友人になったことで、彼女が暮らす榊扇のさとでの生活の中で、どうしても関わる、言葉を交わす相手が増えてしまっただけ。ここのところは特に日々賑やかしい生活を、決して穏やかとは程遠い騒がしい日々を送っていはいたが元は違った。
それは桜に会うよりも前に、既に弥代の心は限界を迎えていたからだ。必要以上に何にも期待しないように心を殺した。関わりを持つことで後になって傷つくことを恐れた。得られないともう分かっている居場所を、しつこく求めて虚しい気持ちになるのが嫌だった。
それが強くなったのは彼女と別れてから。
一人、宛てもなく彷徨い歩く、拠り所のない、不安のなくなることのない日々は弥代の心を余計にすり減らしていった。でも、その奥底にはずっとずっとあの日々の後悔が残っていた。
『それでも死ぬまでそれらを背負い続ける覚悟がおありなのですか?』
背負い続ける、そんな覚悟は端から弥代にはない。けれどもその後悔が今の弥代をきっと作っている。
呼べる名前が知りたいがために、どこか態とらしくガラでもなく自分から名乗ってみせたことがあった。
狼の群れに襲われ絶命した両替商に対して手を合わせたのも、皆殺しにしてしまったあの地をそのままにしてきてしまった気持ちが少なからずあったからだ。
そして“色持ち”の女を助けようと、自ら歩み寄ったのはあの日、彼女を救えなかったその後悔が弥代の中にのこっていたからに違いなくて。突き動かされた、手の伸ばさずにはいられなかった日々の積み重ねが今の弥代なのだと。だから、弥代は……
けれでもなんと声を掛けようものかと、ここまで来ておいて考えてしまうのだからそんな寸前で築き上げた決意も台無しだ。考えなしにも、勢いだけでここまで来てしまったにも程がある。が、悩んでいる暇はない。弥代は早く彼女を、桜の手を取りたかった。その手を取って掛けたい言葉がある。救えなかった彼を重ねて自分の気持ちが救われたいのもそうだが、やはりそれ以上に彼女をここから引き摺り出したい。
居場所がないなんて言い訳にだってもう耳を傾けない。ここにいたいと言われたところで弥代にとっては関係のないこと。居場所がないのなら自分がなってやる、自分が彼女の居場所になる、そんな風に弥代は考えていた。
一々格好がつかない、それでも紡ぐ言葉は頼りないのに揺るがない芯があって。
だから、だから弥代は、
「俺は君を……、君を、助けたいんだ。」
鬼ノ目 六十六話
おかしいという覚えは幼い頃からあった。
どうにも自分には下の兄妹に限らず、上の兄妹も多くいたのだ。でもそれはいつも同じ数ではなく、日によっては自分を含めて多くて二十人弱。少なければ四、五人程度。あくまでも自分達が過ごすことを許されていたのは家の中のみで。外などというものは木枠の嵌め込まれた窓辺の、僅かな隙間から覗くぐらい。それもまだ幼い下の子達が群がるようにその場所に集まるので、そうまでして滅多に見ようという気が彼には沸かなかった。
布団だなんて贅沢なものは人数分あるはずがなくて毎度毎度取り合い。譲り合いなんてものは最初からなかった。けれども肌寒い夜は争わずに子供達で身を寄せ合い、その温もりを本能的に分け合ってどうにか朝を迎える日々を送っていた。ごく稀に、体の丈夫でない子は朝を迎えられずに冷たくなってしまうこともあったが、やはり彼が気にする程のことでもそれはなかった。
同じ家の中、一度名前を呼ばれて外へ出て行ってしまえば、それっきり帰ってこない子なんて普通で。狭いあの格子の隙間からしか外を知らない彼にとってはややそれは羨ましく。呼ばれて帰ってくる子のほとんどは痣だらけで泣きながら帰ってきたというのに、それでも外に行ったキリの子を羨む彼の気持ちは揺らぐことはどうにもなかった。だって泣いて帰ってくる子達の方が少なくて、もし外が酷い世界だというのなら皆も同じように泣きながら帰ってくるに違いないから。
そんな彼が初めて名前を呼ばれた、家の中から出ていいと言われたのは数えにして十四、五の頃。彼が数えていたわけではなく連れ出した彼に、父を名乗る男が聞かせた言葉にあった。
あいも変わらず外に出たいという関心、その興味ばかりを抱いて大人しく、周りの子達に紛れることなく戯れることなく静かに膝を抱え過ごした。何か特別なことがあったかと聞かれればあまり覚えはなかった。
『紹介しよう檀次郎。ここが、新しいお前の家だよ。』
そこには数年前にあの場所を出ていったきり、すっかり見ることのなくなった覚えのある顔がいくつかあった。そしてその歳になってやっと彼は、自分がどうしてあの場所でずっと過ごさねばならなかったのかを、歳と同じように父を名乗る男の口から聞かされた。
『お前には出来損ないの兄に変わって、仕事を叩き込んでやろう。何……、なにも難しいことはないさ。金が成る木を育ててるとでも、思えばいいんだ。』
どういうわけか自分には歳の近い、血の繋がった兄がいたという。その兄が何やら粗相を仕出かして、運悪く帰らぬ人になってしまったそうだ。兄に変わり自分の跡目にと、父は彼をあの場所から出すことに決めたのだという。
『兄弟なんていたら、稼ぎが少なくなってしまうだろう。?身内で争うよりも醜いもんがあるか。だから、な。ずっと黙っていたのさ。』
それがはたして嘘か誠かなんて、彼には当然関係なかった。
彼はついに念願の、“外”へ出ることが出来たのだから。あの狭いだけの陽の当たらない、暗い、暗い家の中ではなく、明るく陽の差し込む、どこまでも広がる、外の、世界に…。
『ここから、出してほしいの。』
自分とそこまで歳が変わらなそうな少女が一人、丸々と大きく膨らんだ腹を抱えて座敷の奥に鎖で繋がれていた。
ひどい目に遭ったのだという彼女は、どうしても“外”に出たいのだと、外に出してくれなくても構わないからせめて鎖を解いて、自由にしてほしいのだと彼を呼び止めた。
父から仕事を教わる片手間に、彼はその少女の話し相手も任されていた。余計なことをしないようにと後ろ手に細く、力を込めたら直ぐに音を立てて折れてしまいそうな腕を縛り上げられていたが、指先が器用なのだと独り言を零す彼女は、年相応の愛らしい表情を浮かべて、縄をいとも容易く、大人の目を盗んでは解いて見せた。
『でもコレはどうにも駄目。私じゃ外せないの。……だから、ねぇ、貴方。貴方に、外してほしいの。』
女をまだ知らなかった幼い頃の彼でもそれは異様なものであった。触れられてもいないのに肌を撫で上げるようなその色香は毒だった。表面的に浮かべた無邪気さとはまるで真逆な、その奥に潜む蠱惑的眼差しが、ただただ彼を狂わせた。おそらくは自分よりも幾つか幼い、少女と呼べようその化物は、彼を誘惑してみせたのだ。
『檀次郎…、お前はなんて事をしてくれたんだ?』
そんなもの起きてから言われてところでどうもしようがない。珍しく彼は普段は鳴りを潜めている表情を表に出し、父に掴みかかった。
そして男に訊ねた、あの女は何者なのか、と。
鈍く、痛みが広がる。
じわりじわりと広がっていくその痛みの出どころははたしてどこか。よく知った感覚はそのまま熱を持ち思考が歪まされていく。回らなくなった頭の奥隅で、小さな糸を必死に掻き集めて、それを束にでもしてしがみつき抗う。それ以外に耐え凌ぐ、乗り越える術が分からないから、ぐるりぐるりと振り回され途切れそうになる意識を、繋ぎ揺すぶる。
「……ぅ、」
口から吐き出されたものが皮膚を、喉を伝い落ちていく感触を確かめてからそっと目を開く。いきなり明るい場所に出たわけでもないのに、知った薄暗さの中でさえその焦点は中々定まらない。
(なんで……俺、ここに…?)
持ち上がりきらない、広がらない視界をそれでも精一杯動かして辺りを見渡す。一方怪我をしているのは見ずとも分かるのに、鼻がきいてないのかおかしなことに血の匂いは何もしない。
(たしか…、さくら…あの子を、俺は……、)
投げ出された足のその先、次第に暗がりに目が慣れ初めてきたのだろう、輪郭が僅かに浮かび上がる。まるで靄が掛かったようにはっきりとしない意識の中で、それでも一番痛みを覚える後頭部に触れれば、べっとりと血が掌に纏わりつく感覚に、まだ目が覚めて良かったと弥代が安堵した。その矢先、ゴツンと何か硬いもの同士がぶつかったような、そんな音が聞こえてきた。
音のした方へと意識を、目を凝らす。自分が凭れかかっていたのが壁であったことを理解しながら、背を反らし上半身を前に倒し、地面に爪を立てて体を起こした。気のせいか、土が温かく感じた。
「―――さくら、」
先ほどまで彼女が蹲っていた場所よりも暗いこの場所は、広い蔵の壁際、月明かりが差し込まない位置だったのだろう。湿っぽい土は少し爪を立てただけで抉れる。背が壁であるのならこれ以上後ろに何があるはずもない。それなら音のした方、前へと進む以外に選択はない。
一歩、一歩。まるで自分のものじゃないかのような足で前へ、前へと歩みだす。五歩、六歩と歩んだだけで何かにぶつかったわけでもないのに転倒してしまう。痛みは、薄い。
「――くら……、さくら…ッ!」
舌が縺れる。それでもはっきりと彼女の名前を口にする。彼女はどうしたのか。さっきまで傍にいたはずなのに、その手を取って一緒に外へ行こうと話していた筈なのにどこへ、どこへ行ってしまったというのか。しっかりした返事なんて求めていない。どれだけ拙くても返事を一つ返してくれればそれで構わないのに、一向に欲しい返しは返ってこない。
「桜っ‼︎」
声を、張り上げた。
反動で沈みかけた顔を持ち上げる。すると同じ闇の中、前方に何やら蠢く影を弥代は見た。
「……桜?」
返事はない。目はすっかり、先ほどよりもよく見えるようになっていた。それでもやはりまだ靄のようなものはいつまでも消えてくれない。
影を目指し倒れた体を起こす。一歩、また一歩、と。然程距離が離れているわけでもないのに、今になって忘れかけていた痛みがくっきりと浮かび上がりそれが行手を阻むように邪魔をするが、その程度で弥代はもう止まることはなかった。そして十歩と満たずし、弥代は先ほど蠢いていた影の前に立ち、その正体を、投げ出された枝のように細い腕を、その姿を、少女の首に指をかける男の姿を、目の当たりにした。
「ぁ、」
大きく踏み込んだ一歩と共に腕を伸ばす。指先が何かを掠める感覚に、自分が何を掴んだのかさえも分からぬまま、ただ分かりやすく力を込めて、その場から引き剥がすように引っ張ってみせた。自分よりも大きい相手が地面に転がる姿になど目もくれず、膝を付き、立ち替わるように弥代は少女を、桜を見下ろしその肩を揺さぶる。
「――桜っ‼︎」
一気に靄が晴れたような感覚。首を絞められていたのだろうか、締め痕まではっきりと見えるわけではないが、少女に馬乗りになっていたあの男が、その首に手を掛けていたのは間違いない。いくら暗かろうとも見間違えなどではなかった。息を吸う、その小さな体が大きく跳ね上がり、口元が微かに動いているのが分かるというのに、弥代には彼女が何を言っているのかが分からなかった。目が合う、暗い場所においても目を惹く秋の瞳が弥代を見てどこか不安げに揺れる。
「立てるかっ⁉︎逃げ……るぞ…?」
さっきまであんなに求めていたはずの返答に耳を傾ける暇さえもない。自分勝手な都合で彼女の、自分よりも少しばかり上背ばかりある薄っぺらい体を抱きかかえ立ち上がる。思い出した痛みも、何も分からないままの現状さえからも目を逸らして退路を求めながら四方を見渡した。
「出口は…っ‼︎」
入ってきた場所を探すも、月明かりが差し込む場所はどうしてだかやはり靄がかかった様子。しかし後方には何もないことを知っている弥代は前へと大きく一歩を踏み出した。
その間も少女は弥代の腕の中で何かを呟いていたが、やはりそれも弥代に届くことはなく。この場から逃げようとする弥代を制するかのように弱々しい指先を立てるばかり。そんなの構ってられる余裕なんて今の弥代にはなかった。今は一刻も早くこの場所から桜を連れ出さなくてはならない。
穏便に、何も大事にせずになんて最早無理な話だ。
それよりも今は早いところここを抜け出して、相良と春原が待つあの場所まで戻り、多少強引になろうとも事なきを得るまで大人しく身を潜めたって構わない。弥代は桜をこの場所から救い出し、彼女の居ていい場所を作ってやれるのだったらそれで、それでもう充分だった。
後でいくらでも文句があるなら怒られてやる。気が済んでそのまま寝てしまうまでだって話に付き合ってやる。好きでもない、したくもないような事だってやりたいことがあるなら一緒になって遊んでやるから、そっとその目を覆う。弥代は彼女のその目にひどく弱い。そんな不安気な目を向けられてはやっと決めた筈の覚悟も、頑張って築いた理由もそれらが全て台無しになってしまう。格好がつかないのなんて今に始まった話ではない。でも、どうか今だけは…今だけはどうか、どうか……
「外にっ‼︎」
風が、頬を撫でる。
四方を分厚い壁に囲われている蔵の中で、風を感じるなど。それは風の吹く先に扉がある他に理由があるだろうか?迷うことなく弥代はそちらへと体を向ける。
外にさえ出てしまえば今よりも幾らか落ち着くことはできる。夜に紛れて姿を誤魔化してしまうことだって出来るに違いない。彼女の髪はきっと暗い夜の世界でも少なからず目立ってしまうだろうが隠す手立てなど、さっき考えたことと同じでいくらでも、いくらでもあるはずなんだ。
大丈夫だと自分に強く言い聞かせながら抱えたままの肩を抱き、絶対に離すものかと歯を食いしばりながら、弥代は扉を潜り抜けた。
弥代は、その色が嫌いだ。
途端、視界いっぱいに広がった光景を前に、場違いにも納得を覚えてしまう。
熱くなりすぎていた頭に一気に水を引っかけられたような感覚。一箇所で躓いていた全ての理由が明かされたかのような強い、違和感の、正体。
今もふらつくその足は、後頭部を強く打たれたのだろう、その際に負った怪我で血を流しすぎたせいだとしても未だに鼻は何の匂いも拾わない。
月明かりが照らす場所へ出ても靄は消えることはなかった。それどころか一時影の中で払った時だけ靄が薄れたように感じた。そしてその靄は、桜を抱え弥代が目指した蔵の出口の、外から入り込んできているような、生暖かさすら感じさせるその正体は、弥代が何よりも恐れていたものだった。
肌を掠めるその熱に、瞳に映り込んだ揺らぐ輪郭が、自ら蓋をしたはずの、奥底に眠ったなにかが、音を立てて駆けずり上がっていくかのような、それ、それは……
「――シロヤッ‼︎」
悲鳴が聞こえる。やっと届いた彼女のその声は、それでもまるで分厚い膜越しに声を直接張り上げられたように、音が、広がって聞こえる。その声に気づいた時には弥代の体は地面に転がされていた。何が起きたというのか?分からぬまま、形振りなど構ってられず転がった体を立て直すが、また理解する前に体は地面を擦った。
意識を失っていた間も無意識の内にずっと吸い続けていたのであればそれは思考だけでなく判断力も、体の自由さえも無慈悲に奪っていったことだろう。ぼやけた視界も、思い通りに中々動かない体も、舌が縺れていたのだって今となればそうなのかもしれないと理解してしまった。理解をしてしまえばその瞬間から徐々にその速度は増したかのようにさえ感じた。同時に、痛みさえも静かに薄れていく。
敵、と見定められでもしたのだろうか。自分を見下ろす男の顔は、この二日程で数回しか見た覚えがない、この宿屋の主人だった。
直接弥代が言葉を交わすことはなかったものの、昨日相良に一方的に話を持ちかけられている間の様子だけは弥代は見ていた。しかしそれだけでは相手がどのような人物かも分からず終い。この宿に成り行きで一時身をおくことになりはしたが長くなることはないだろうし、偽りの身分がバレたところで端から逃げる魂胆でいたものだから、進んで関わることもないだろう、と。
過去にこの宿に身を置いていた期間ですら桜越しに話をするだけで、弥代が関わることは本当に一度としてなかったものだから。だから、自ら関わることは避けていた。
その口元が歪む。何かを訴えるように何度も、何度も同じ動きを見せるのだが何一つ弥代には届かない。桜の悲鳴は届いたというのに何故か。
ゆっくりと持ち上がった足が、地面を這いつくばることしか、もう立ちあがることが出来ない弥代に向けられる。ひどく緩慢な動きに弥代の目には映るというのに、それさえも弥代は避けることが出来ずに自分の体に沈むのを抵抗も出来ずに見た。
痛みは、感じない。
(俺………は、)
少女が男の足元に縋りつき、泣きじゃくりながら何かを喚いている。悲痛な声ばかりがまた聞こえてくる。
何も出来ない。何も出来ずただ手を伸ばすばかり。弥代は彼女の、その頬を滑り落ちる涙すら拭うことが出来ない。
(……桜、)
視界が狭まっていく。
それでも最後の最後まで、視界が閉じかかるその瞬間まで届きもしないと分かっていても弥代は、手を伸ばすことだけは止められなかった。
「そうか、分かった。」
何かに、強く体を引き寄せられた。
そうして肌に感じるそれは人肌と呼べるものだろうが、自身の体よりもそれは若干冷たく感じる。しかし長時間熱に晒されていたであろう身にはとても心地のいいものであった。
こんな風に誰か抱えられた記憶はないというのに、包まれた温もりを懐かしいなどと感じてしまうのは何故か。
火の手が回りにくい風上らしき場所に降ろされたのか、
まるで先ほどの彼女のように体を大きく揺らしながら息を肺いっぱいに吸い込む。
月を後ろに背負った、知った男が平素と変わらぬ様子で膝を折り、弥代と目を合わせた。その口元が、血色の悪そうな唇が小さく動くのを目で追う。
「弥代は、何を望む。」
弥代は、その肩に手を伸ばす。
まだ自分の力で立ち上がれるだけの余力が弥代にはなかった。今の自分では少女を、桜をここから連れ出せないことが嫌というほど分かっていた。弥代は形振りなど構ってられない。そう、そんなものは一切関係がないのだ。だから、
「あの子を、助けたい…っ!」
やはり自身の声さえも今は届かない。それでも弥代は強く、強くそう自分の望む答えを口にした。
決して揺らぐこと知らぬ彼の瞳が、奥底で小さく震えたような気がした。
「……分かった。」
「弥代は、あの子どもを助けたい。分かりやすく、助かる。」
聞かずとも分かりきっていたことを春原は訊ねた。
見下ろすその姿は、今はやはり髪色が普段と異なるのも含めてどことなく違和感は拭いきれないが、それでもその赤い真っ直ぐな眼差しだけは変わらないことが、どこか春原は嬉しかった。
(……嬉しい?そうか、これは嬉しい、ことか。俺は今、喜んでいるのかもしれない。)
高く燃え上がる炎がその輪郭を照らすも、陽の下とは見え方が異なり土汚れなの怪我による出血なのかは分からなかったが、弥代のその答えに春原は小さくその口角を持ちあげた。
「弥代…、お前がそう望むなら。」




