十四話
“色持ち”と呼ばれる彼等はどうにもやはり肩身が狭いものだ、と。そう感じさせられるのは決まってこちらから声を掛けた時だ。
どんな風に今迄生きてきたかも、どうやってここまで至ったか、経緯が全く同じなんてことはないはずなのに、不思議なことに揃いも揃って多少の似通った、近しい反応を示されるのだ。
色を持たず生まれた自分達が彼等に向けるそれと比べると、よくよく目を凝らしていないと見逃してしまいそうな程のそれは小さな変化。ありもしない、何も抱いちゃいない裏を読もうとするような疑いの眼差しを向けられれば、かつて自分が彼等に向けていたものと比較すれば随分と可愛いものだと勝手に思えてしまう。
そうして毎度のように、芳賀は一歩大きく踏み込む。
自分が一方的にそうされて、多少なりとも救われたのと同じように。いくそっぽを向かれ、しつこいと突き放されて相手にされなくたって、諦め悪く向かい合う姿勢を見せる。だって人は誰しも一人でなんて生きていけやしないと知ってしまったから。生きている限り誰かを求めずにはいられないことを覚えてしまったから。
感化されてしまったのだけなのだ、彼の物事の考え方に。だから、
「初めまして、空畑くん…ですよね。もし良かったら、俺とお話ししませんか?」
独り善がりのどうしようもない話。
きっと、彼もそうだったに違いない。勿論今日話すのはそんなどうしようもない彼のことだ。
鬼ノ目 六十四話
「しっかたないわねっ!そこまで言うなら教えてあげるわよ私の名前っ‼︎」
「誰もんな何度も聞いちゃいねぇもんをよくもまぁそんなデケェ態度で胸張れるもんだな人の話聞けよおいっ⁉︎」
「ふふっ、私の名前はね桜!桜っていうのよっ‼︎春に咲く、あの桜とおんなじ名前なのっ!素敵でしょ‼︎」
「んなこたぁ聞いちゃいねぇ、これっぽっちも関係ねぇよ‼︎俺は!人の耳を!摘んでおいてその態度はねぇだろってんだよ‼︎」
「ごちゃごちゃ細かい事を五月蝿いやつね?アンタ、絶対友だち少ないでしょ?」
「いるわ友だちぐらいっ‼︎」
最早何も頭が回っちゃいない、回す余裕もない少女とのやりとりを前に弥代はほとほと疲れ果て始めていた。
榊扇の里を出た夜を含めて数えて四度目となる今晩。春原を連れての道中も数えきれないぐらい声を張り上げることがあったがそれよりも今の方が酷い。何故なら向かい合う相手が自分と同じぐらいの声量で声を張ってくるものだから、別にそんな気はないのに負けじとこちらも更に声を張らざるをえない。あまり張り上げ続けるといつぞやみたいに咳き込んでしまいかねない。
何よりも頭に血が昇った自分とは裏腹に、鼻を鳴らしながらどこか自慢げに腕を組む赤髪の少女・桜は、やはり先刻までの少女と同一人物には見えない。どうにも気掛かりだ。
歯止めを知らない勢いから逃げるように顔を背ける。そしてそれだと断言をすることは出来ないながらも一つの心当たりを思い出す。
目に見える分かりやすい違いを持つ、特異な“色”を身に宿す“色持ち”とは異なるが、“色持ち”同様に古くからこの島国で煙たがられてきた存在。
(狐憑き…、ってやつか?)
ある日、突然人が変わったような奇怪な行動を、到底知り得ない、周囲の者も覚えがないようなことを話し出すそれは、狐に憑かれたと書いて、言葉の通り“狐憑き”と呼ばれ気味悪がられてきた存在だ。
しかし同時に狐という存在自体は不幸を招くものではなく、昔から神の遣いとされているらしい。噂程度だがこの“狐憑き”と呼ばれる者を正に遣いとして扱う土地もあるようだ。
先の冬、島国の北端から南下する際、自身が狐の妖の中でも特に珍しい黒狐と呼ばれるのだと改めて名乗ってみせた瑠璃が話していたのを、所々覚えているだけでやはり分からない部分の方が多いのだが。
(まぁ、俺の知ってる神と言やぁ、碌な奴しかいねぇがな。)
たとえばこの場にかの古峯に住まう妹の方がいればすかさず、聞き捨てなりません!と異論を唱えただろうが、声に出していない上にいないからこそ以前から薄々感じていたのを、冷静になるついでに思い出す。
榊扇の里を守護する神仏・水虎にしたってあれは詳しい関係を聞いたわけじゃないが遠目からも一人の人間にどこか固執しすぎていた印象だ。神とは多くの民を、崇めるその弱き者に等しく手を差し伸べるものなのだといつだったか誰かが言っていた。
狐にしても神の遣いとされてきたとしても、弥代の知る限りの狐といえば今は古峯の地で暮らす瑠璃に、里で色々あって知り合ってしまった生意気で憎らしいあの狐坊主だ。神にしても狐にしてもやはりどちらも碌な奴がいないと考えに区切りをつけた。
「いつまでもそっぽ向いてんじゃないわよっ‼︎」
「ッたぁぁあ‼︎」
傍から勢いよく伸びてきた少女の細い腕が、その指が今度は弥代の左耳を摘みあげる。
流石にもう摘まれることはないだろうと油断していた。気の緩んだところに見事入ってきた一撃は、今迄の比じゃなく痛い。耳たぶではなく耳の付け根の部分に尖った爪が食い込んだのか本当に痛い。なんなら泣きそうなぐらいだ。
両の耳をこんな日に何度も(と言っても三度だけだが)つねられたことなんてこれまで一度もない。
何度言っても学ばないからという理由で、討伐屋で庭を汚す度に石臼や重たい立派な漬物石を膝の上に乗せられ、縛り上げられて反省をさせられるといったことがあったがそれよりも酷い。
どれを引き合いに出してもこれ迄出会ってきた中で最悪といえよう相手を前に、少女とは違う意味で弥代は我慢ならず鼻を鳴らした。
「なっ⁉︎何…よ?わっ、私が泣かせたみたいじゃないのっ⁉︎なっ、なんで泣いてんのよアンタっ‼︎」
「んな事で誰が泣くかバーーカっ‼︎」
昔はそんなことなかった。数年前一人だった自分に話しかけてきてくれた彼女はとても優しかった。間違っても人の耳を何度も(二度も)摘んで、耳元で大声で喚き散らすようなそんな子ではなかったはずだ。
「わ……、悪かった、わよ。…………えっと、そ、そうね?…うん、えっと、だからその?そ……、そうだわっ!名前っ!名前よ‼︎アンタの名前教えなさいよ!じゃないと私、いつまでもアンタの事、アンタとしか呼べないわっ‼︎な!ま!え!なんていうのよ、ほら?」
「……勝手に話進めんな。」
恨めしそうに彼女を見遣るも、桜はそんなことじゃへこたれることなく一人話題を無理やり逸らそうと、お構いなしの提案をしてきた。
今の彼女が先程の彼女と違うのはもう分かりきっているだろう。芝居だとすれば出来過ぎ。でも彼女が一々芝居をする理由が全く検討がつかない。
鼻を小さく啜りながら自分は断じて泣いたわけではないと言い聞かせる。そしてここで一つ、自分が名前を彼女の要求通り名乗れば、もしかしたら少しは腰を据えて落ち着いた状態で、今のはっきりと話すことが出来る少女・桜と言葉を交わせるのではないかと考えた。
「俺の名前は、」
が、いざ名乗ろうとしたその瞬間、弥代の中で待ったが掛かった。
「……、」
「どっ、どうかしたの?お腹痛いの?凄い顔してるわよ?」
「え…、あっ、いや……いやぁ…うん?」
少女に名乗ろうとしたその時、弥代はふと余計なことを考えてしまった。こういう時の余計なことは本当に余計で。大抵考えすぎで何もそんな考えた通りに何も起きやしないというにもかかわらず考えてしまう。
(もし、弥代って名乗ってこの子が覚えてたら、思い出して俺だって気付かれたらどうしよう…?)
いっそ別人と捉えて接した方がいいにしても、思い返してみれば先程までの彼女にすら弥代はまだ名乗ってもいなかった。ここにきて目の前の、仮に昔会った事がある桜の様な気の強さを感じる(それでも昔は手を上げられることはなかった)方に名乗ったとして。その名乗った名前に覚えがあり髪色は違えど瞳の色は誤魔化すことが出来ない、数が決して多くはない“色持ち”の、あの時会った自分だと思い出されでもしてしまったら。
(いや…いやいや、そんな都合の良いのかわ悪いのかどっちにもつかねぇ話。いや、俺かからすれば都合は悪いんだけどよ…。)
何故気弱そうな彼女にまともな返事を一つも返さなかったと思っている。どうして正面から向き合おうとしなかったのか思い出せと自分に繰り返させる。ただ…、
(このままじゃ埒があかないって、感じたのも嘘じゃねぇんだ。)
泣き始めてすぐ意識を手放してしまった、抱きとめた腕の中の少女を見下ろして、何をしているんだと自分を責めた。
覚えのある過去だ。あの男が自分に持ち出してくる弥代が知らない過去の繋がりではない。弥代は桜との出会いをしっかり覚えていた。
(忘れられるわけが……ねぇだろ。)
目をなるべく合わせずにいたのは、数年前のあの日の彼女から向けられた眼差しを思い出してしまいそうだったから、だ。
彼女を置いて一人逃げ出した、縋るその手を払い捨てた自分を、思い出したく、なかったからだ。
「大丈夫?」
思い出したくない、はずなのに。若干戸惑いながらも伸ばされたその骨張った細い腕が、その薄っぺらい小さな掌が弥代の頭を撫でる。
「“色持ち”でしょ。アンタも一人前に苦労してきたんでしょうから、これはちょっとした私の気まぐれ。」
「な…、なんだよそれ?」
とんだ上から目線だ。並べばそこまで変わらない目線の高さだというのに、まるで自分の方が上かのような、下の子をあやす、慰めるような優しい物言い。それはやはりどことなくあの頃の彼女を思い出す。
「教えたくなかったら別に良いんだからね。」
「別に、そういうわけじゃねぇよ。」
弥代、と名乗る気はどうにも起きない。
そういえば例の店に出入りする際、相良は屋敷から予め用意された名を、偽りの名を名乗っていたなんて話していた気がする。そういった手もなるほど有るやもしれない。
「名前……名前か……名前なぁ……、」
「え?何その反応は?まさか覚えてないとか?」
「いや、そんなわけじゃないんだけどよ。あー、えっとぉ…し、しろ、ヤ⁇」
「ろうや?」
「あぁ違う違う、えっと……しろや、シロヤ……だったかなぁ⁇」
名前を聞かれてから随分と経ったように感じたがそんなことはないのだろう。しかしこの間も自分を見つめる、少女・桜の表情はコロコロと忙しなく様々な面を弥代に見せていた。
「しろや…、シロヤ…?ふふっ、変なの!全然白っぽくなんかないのにねアンタ!」
「……そう、だね。」
しかしそのどれよりも、弥代がその場で適当に考えた名前を前に綻んだその顔が、一番輝いて見えた。胸が痛んだそれは、紛れもない罪悪感だろうが直ぐ様それから目を逸らす。
(違う…そうだ、俺はこの子から話を聞いて、それで。その後はどうなったって知りはしねぇ。関わることはきっと、ないんだから。)
いつまでも一緒になど、本心から望んでいない。
改めて向かい合おうとした途端、ふと何かを思い出したと言わんばかりの勢いで桜は弥代に背を向けた。
蔵の隅、月明かりの届かない奥の方へと軽く駆けていくと、程なくして腕の中に何やら風呂敷に包まれた物を持ってくる。
「女将さんと旦那さんは奥の方まで見ることがないからね、あまり多くはないんだけど残しておいた食べ物があるの!お腹空いてない?一緒に食べましょシロヤ‼︎」
「……あぁ、いいよ。」
断る理由は見つからなかった。
昨日、この海沿いの集落に至るまでの道中。少女を背負うことで相良との会話が常に入ってくる状況ではあったものの、やはりはっきりとした物言いではなかった為に真後ろだというのに聞き取りづらい、分かりづらい部分もあったのがそれがまるで嘘のように感じる。身振り手振りで今の彼女は弥代の質問に素直に答えてみせた。
どうやら彼女は親に売られてここにいる、というわけではようだ。気付いたらいつの頃からか当たり前のようにこの宿屋で暮らし、“色持ち”の子どもは金になるからと誰かに買い取られるのを待っているだけなのだと言う。
「でもでも、タダ飯食らいは許さない!ってね?女将さんったらいっつも怖い顔してそんな風に怒ってくるものだからしっかたなく宿屋のお手伝いをしてるんだけどこれがもぅ疲れるのよ本当に!こんなせっまい場所なんだけどね、二階にも部屋があるもんだからお客さんが帰った後の片付けったら面倒ったらありゃしないわ!覚えが悪いってよく叱られるんだけど、だってちゃんと教えてもらったこともないものを完璧にやれ!っていう方が無理な話よね⁉︎そう思わない?」
「……あっ、ゴメン。聞いてなかったなんの話?」
「なんでよっ⁉︎」
「いやいや、冗談に決まってるだろ。こんな真横にいて聞いてなかったは変だって思わないわけ?」
「ん?……、そ、そうね?」
かれこれ十年近くこの宿屋で世話になっているという少女・桜は、何もこれまで一度も買われたことがないわけではないのだと話していた。でもいつも同じように気に入られずに買い戻されてしまうという。これまで何人も、何十人も“色持ち”の子に限らず親に金で売られて居場所を失った幼い子たちがここで過ごすのを見てきたという。
「買われたその先でね、幸せかどうかなんて分からないけどね。でも居ていい場所があるってすごく、凄く私にとっては羨ましいことなの。あー、私も早く誰にでも良いから買われてここから出ていけたらいいのになぁ…。」
また自分だけ残ってしまい、後からやって来た子の方が早くいなくなってしまうのだと分かりやすい肩を落とす。言葉の割に少しばかり元気そうではないか、と。何もここの暮らしが苦であるようには弥代の目には映らなかった。自分はそれが嫌になって逃げ出したというのにも関わらず。
(どうしたいんだろうな俺は……、)
細い月明かりが差し込むばかりの蔵の中、ほんの僅かな明かりの中でも眩しさを覚える、その表情はまるで陰りを知らない。夜空に散らばる星は白く瞬いて見せるものだが、人によってはそれを黄色と呼ぶ事もあるそうだ。
昔の弥代の目には髪色を含め秋の色に映ったが、今の弥代にはそれは光を損なうことのない星のように映る。どれだけ少女の口から日頃の、これまで溜まってきたであろう鬱憤が吐き出されようとも、その瞳が爛々と輝く。瞳の奥に、星が本当にあるかのように。
この地へ赴くこととなった原因である、相良はこの少女をここから連れ出したい、救いたいと述べた。しかし人買いを生業とする相手の元から、少女を勝手に連れ出そうとするそれは重罪になりかねない、最悪の場合榊扇の里へなんらかの影響が及びかねないとこれを弥代は危惧し考え直すようにと返した。
相良との対面の最中、弥代は一時だが頭に血が昇ってしまい、彼に掴み掛かろうとしたがそれはその場に居合わせた春原によって阻まれ。そうしてこちらの分が悪くなったところを見逃さず、あの男は提案を持ち出し、それを弥代は渋々受け入れてしまった。
少女を救うか救わないかの決断を、相良は弥代に託した。少女の置かれている現状を見て、言葉を交わして。それで救いたいと感じるか、見捨てても構わないかの選択を、少女を助けたいからとこの地に訪れた張本人が人にその決断を委ねたのだ。
弥代は、彼女を
(……俺は、この子の事を、)
(どうしたいんだろう…………。)
「本当ぉにきったないわね!臭いったらありゃしないわっ‼︎どんだけ何もしていなかったのよアンタっ⁉︎……あっ、でも迷子になっちゃダメね?手繋ぐ?それとも裾…じゃぁ、ほらここ握って?ゆっくり歩いてあげるから置いていったりしないわよ!だからギュッて強く摘んで!……よしっ!じゃぁ行くわよ!話たくなったらいつでも話しかけてくれて良いんだからね!よろしくね弥代?」
「…ぁ、うん。」
名前を訊ねられた直後はやたらとハッキリと出たはずの声は、喉の奥に何かが詰まってしまったみたいに発声がし辛くて俯く。
前の冬が明けて夏が終わる頃を皮切りに、もうずっと誰とも話していなかったためか、誰かと話すと行動そのものが久しぶりすぎてなんと返したらいいのか、その応答すら曖昧だ。
言われた通りに差し出された服の裾を強く握り締め、弾むように前へ前へと歩みを止めない少女をせめて追おうと、その赤い不揃いな後ろ髪に視線だけを送った。
「冬のね!枝木って湿気が酷いとね、中々火が灯り辛いんですって!女将さんったら自分の部屋の火鉢じゃ我慢ならなくなったのか薪になりそうなのを持ってこーーいっ!ってね?こっわい顔して言うものだから…。あっ、でも別に言われたのは私だけじゃないのよ?役立たずでいっつも後ろをついてまわるだけの生意気坊主達もね、二人も言われてたんだけどまぁやっぱりそうなるわよね、ってことなのよ!それで私だけこんなことをして、近場じゃ全然使えなそうなものばっかりだったからちょっと遠くまで来たんだけど……、まさかまさかよねあんな場所に一人でいるなんて?あそこらへんはね、山の動物なんかの栖も多いし、街道…?からも離れてるから寄っちゃ危ないって言われてたんだけど、でももうすっかり寒いから冬眠でもしてるんじゃないかなって思ったのよ!結果は、えっとなんだっけ?言わずもがな…って言うんだったかな?たしかそんな感じの……んぅ、だったような気がするわ?間違ってる気がしなくもなくもないんだけどそんな感じよ!」
彼女・桜はとてもお喋りな女の子だった。その表情は声と相まって非常に明るく、空が灰をぶち撒けたようにどこか薄暗いというのに、彼女のその周りだけが明るく、あまりにも鮮明に弥代の目には映りこんだ。
一歩的にただ耳を立てる。聞く姿勢を示していれば時折こちらの様子を窺うように、桜はパッと振り向いては目が合わされば溢れんばかりの笑顔を浮かべた。
弥代からすれば何故そんな事で彼女が笑うのかが分からなかったが、何度かそんな事を桜が繰り返す内に釣られて、弥代もぎこちないながらも小さな笑みを浮かんでいた。
「弥代、弥代はどこから来たの?もうどれぐらいあそこにいたの?家族はいないの?帰る場所は?“色持ち”だからって棄てられちゃったの?これかれどこに行くとか考えてるの?ねぇ弥代、弥代、」
「私と、ずっとここにいて?」
藁を編む手元に、血の気が失せた色白い指が絡む。風邪なんて今まで一度も引いたことがないのだと胸を張る、解れた草履を直しもせずに裸足で春先の土の上を走る姿を見た二日後の事だった。
「私、私ね、嬉しかったの。……そう、みんな、みんな直ぐにいなくなっちゃうから。でもやっぱりそうなのかな?そういうものなのかな?弥代、アンタはいなくならないのね。やっぱり親が直接売ったわけじゃないから?私が、ここに勝手に連れて来たりしたから?……それならごめんなさい。ごめんね。でも、でもね嬉しかった、嬉しかったの。いなくならないでいてくれて、置いていかないでくれて、私……。ずっと、ずっと一人だったから。こんな場所でも、誰かと、アンタと過ごすことが出来て私楽しかったの。だって、他に私達が過ごせる場所なんてきっとどこにもない、から……」
啜り泣きながらぽつり、ぽつりと零す少女を、弥代は静かに見守ることしか出来なかった。
普段なら絶対に言いもしない、弱音としか捉えられない彼女の言葉に、なんと返すべきかを弥代は分からなかった。
ただ、泣かないでほしいと身を寄せるので精一杯。自分の草履から藁を拝借し、彼女の使い物にならなくなったそれに継ぎ足していたのすら手を止めて寄り添った。
「そんなこと、言わないくれよ。」
「おや…、随分早く戻って来られましたね。」
口振りはどこか驚いた様子を滲ませるのに、その男の顔は至って穏やかだ。
焚き火の見張り番をしていた彼の表情は薄ら赤を灯したように映る。特になんともない光景だ。
「少々、私は貴女の事を買い被りすぎていたのやもしれませんね。無理を、させてしまいましたね。すみません。」
「なんでアンタが俺に謝るんだよ。」
こちらが必死に堪えているのを分かりきったかのような、まるで対照的な落ち着きを見せるその姿はひどく不快で。たったそれだけで腹を立てて拳を振るっても仕方がないぐらい憤りはそのまま。収まる気配はなかった。
「俺は…っ!」
引き金は些細なもの。そしてあの晩の出来事が最も容易く蘇ると、それまで必死に抑えていたものが溢れ出した。
『――違うっ‼︎』
振り払った手はすぐに熱を持つ。不揃いな長ったらしい前髪の、その隙間から姿を覗かせる眩い輝きが、可哀想なぐらいに揺らいだ。
『どうして…っ、どうしてそんな事が言えるんだ⁉︎こんな場所、いつまでもいちゃ駄目だって、どうして、どうして分からないんだよっ‼︎誰かが買ってくれるのを待つ?どこにそんなの待つ必要があるっていうんだよ‼︎いい加減目を覚ませっ‼︎』
それを、少女は幸せと呼んだ。
新しい居場所を、自分なんかが居てもいい、許される場所を得ることが出来るのは、幸せなのだと。
共に過ごした時間はきっと少ない。季節が一巡するどころか、堀の中に植えられた木が淡く色づく頃には、弥代はそれは間違いであると気付いていた。
居場所が欲しくないわけではない。居ていいと許される場所なんてそんなもの欲しいに決まっている。いくら望んでもあの冬から手に入らなかった、得ることができなかったものだ。我儘は言わない。ただ、居ることを許してもらいたい。それさえ叶わない、叶わなかったのだから。
けど、
『ここから出よう、桜!』
「幸せだろうよ。当人が言ってんだ、まだ望みは捨てきれないって。まだ諦めてないんだとよ、誰かが買ってくれる、あの場所から連れ出してくれることを、よ。」
それだけだ。本当に、それだけ。
関わりたくなどなかった。
我が身可愛さに置いていったのだ。一人にしないでと泣きながら縋りつこうとする彼女を振り払って。一人で眠る夜を、本当は誰よりも怖がっていたのを知っていながら見捨てた。
忘れられない、忘れられるわけがないあの時の決断が今も弥代の中に残っている。
(だから、本当は嫌だったんだ…、)
傷だらけになって横たわる、あの頃よりもまた少しだけ成長したであろう彼女の姿を見て、ほれ見たことかと心の奥底で指を差して笑った。
何がこんな場所でも幸せ、だ?いつかきっと買ってもらえる日が来るのを信じている、だ?あれから三年近い月日が経つというのに、お前はまだこんな場所で、一人惨めに身を縮めて泣いているのを誤魔化して、それで……っ‼︎
「ひどい顔ですね。そんな顔で言われてもな何の説得力も有りはしませんよ。」
男の視線が、緩やかに逸れた。
「すっかり寝ているようですので気にしないでください。まだ当分は起きられませんでしょうから、これぐらいの距離でしたら離していても問題はありませんよ。」
「弥代さん、」
「私と、お話しをしませんか?」




